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「…あの。実に申し上げにくいのですが…」

日本が口を開いたのは、デスク端にある湯気立つコーヒーのカップを片手に持ったタイミングだった。

Bitter kus



珍しい切り出しに、俺は読んでいた書類から顔を上げて窓際にいた日本を一瞥する。
出島の洋館。
場所は書斎や。
日本が建ててくれたこの別宅は有難いんじゃが、今まであまり長居をしたことはない。
家から出ん引き籠もり爺さんに会う為には、彼の家にこっちから出向かなければならない。
そんなもんで、今まで会う場所と言ったら彼の家のみだったが、最近、漸くこの辺りにも出歩けるようになってきたようだ。
もっとも、家の庭から駕籠に乗って途中寄り道もせんと、洋館の前で下りるの繰り返しらしく、相変わらず進歩は薄い。
窓のカーテン越しに出島の景色を眺めていた日本は、指先をカーテンに引っかけたままちらりと控えめに俺の方を見ていた。
カップを口元に運びながら、それとなく尋ねる。
何かしら要求を求める切り口だ。
強請るんが上手かったら、聞いてやってもいい。

「何や」
「あの…。その飲み物、あまりお飲みにならない方が、宜しいかと思いまして」
「…」

その飲み物、と言われて、今当に唇を着けかけたカップの中身を見下ろす。
コーヒーだ。
何の変哲もない。
もっと地図がほしいだとか砂糖が欲しいだとか、そういうものを予想していた俺は虚を突かれた。
飲まずに、カップを下ろしてみる。

「…何でじゃ」
「…」

尋ねてみても、日本は僅かに俯くだけだった。
消極的な態度に半眼でため息ついて、もう一度カップを持ち上げる。
黙りんぼの言うことなんぞ誰が聞くかい。
理由くらい添えろやと内心舌打ちしながら飲もうとしたところで、ぱっと日本が顔を上げた。

「に、苦いんです…!」
「あ…?」

またカップを下げる。
苦い…?

「何が苦いん。…おめえコーヒー飲まんじゃろが」

最初に進めてやったが、咳き込むばかりで、焦げ臭いだの黒いだの何だのと文句つけ、日本は金輪際飲まないと宣言した。
別に飲まないなら飲まないでいいが、何で俺まで制限されなきゃならんのや。

「俺が飲むんは別に構へんやろ。おめえに何ぞ迷惑かけるわけでもねえで」
「かかります!」
「あ?」
「今日は飲まないでください。…あんまり」
「…」

ぽつぽつと消え入りそうな声に苛っときて睨み付けようと眼光を鋭くしたが、その顔に朱が走っているのに気付いて、睨むのを止めた。
気まずそうな萎縮するような、この態度はよくよく見覚えがある。
日本の苦手なジャンルの話題を振ると、大概この反応だ。
言ってしまえば、夜の顔だ。
今から寝ようという時とよく似たこの表情にてんで弱いのには自覚がある。
苛立つのをさっさと止め、少し考えることにした。
やがて気付いて、ぽんっと膝を打つ。

「ああ…。何や。キスけ」

言い当てると、ぼっと日本の顔から湯気が出た。
赤い顔のまま、きっと俺を睨む。

「そうです、苦いんです…!焦げ臭いし舌がぴりぴりする気もしますし…。できれば止めていただきたいんです」
「おめえと寝る日はけ」
「そ、そうですよ…!」

おお。肯定した。
珍し。
爺さんとは思えん幼い態度を鼻で笑って、カップを持ち上げる。
社交性がてんで足りん。幼児並みや。
あんまし好みではなく、且つ上手い強請り方ではないので、却下する。

「ほんなん知らんわ」
「…!」

一蹴してコーヒーを流し込む。
何事もなかったかのように書類に目を戻す俺を、日本がむっとした顔で見ているのが、視界の端に映っていた。
気にせずに仕事を進め、数枚を黙読してサインし終わったところで再度窓際へ一瞥くれると、いつの間にかぶーたれ顔は沈んだ顔に変わっていた。
頬杖着いて、ため息をつく。
面倒臭いやっちゃのー…。

「…おう。日本」
「…何ですか」

声をかけた瞬間、また仏頂面に戻り、ぷいとそっぽを向いた。
ペンを投げ捨てて、イスの背もたれに体を預ける。
肘立てに肘付き、指の先でとんとんとリズムを取った。

「ほんなん言うんやったら、おめえで片付けたらええじゃろ」
「え…」
「代わりにおめんとこの茶ぁでも置きゃええんじゃ。…茶にすんなら薄口で淹れねま」

素っ気なく言い放つ。
コーヒーを引っ込めていいという許可はそれほど彼の中で重要なのか、さっきまでの仏頂面は消える。
カーテンから指を離すと、そそくさとデスクへ近寄ってきた。

「あ…。ありがとうございます…」
「別にええで、礼なんぞ言わんでも。ウソやからの」
「へ? ……ひっ!!」

タイミングを測って、デスクからカップを取ろうと両手を伸ばしていた日本の後ろ首を、がっしと猫の子掴むようにして鷲掴みにする。
反射的に両肩上げて萎縮する彼の手首も掴んでぐいと手前に引っ張り、勢いづいて倒れ込んできたとこに、後ろ首掴んでた手で顎を掴み上げた。
そのままキスする。

「…!!」

強張る体を感じながら、唇に割って入り、舌を押しつけてやる。
その頃になると舌と動揺に体の方も逃げようと腰を入れ始めたんで、もう一度後ろ首掴んで大人しくさせた。
逃げれば逃げるだけ長引くのが分かったのか、苦しげに顔を顰めながらも、おずおずと舌が絡み始める。
向こうから軽く吸ったの合格ラインにして、顔を離した。

「っげほ…!がほ…っ」
「無駄に抵抗しとっからや、ボケ」

唾液が気管に入ったのか、日本が俺の膝とデスクに手を着いて涙目で咳き込む。

「で すから…っ。苦いんですよ…!」
「ほんなら慣れな」
「うわ…!」

目の前の黒髪を軽く梳いて宥めてから、脇の下に手を入れて膝の上に横向き乗せた。
即座に拒否しようとするが、ああだこうだ言う前にもう一度口を塞いで黙らせることにする。
こっちを押し返そうと持ち上げた手を、上げる前に上から押さえつけて肘置きに縫いつけた。
少し強く長めのキスを終えて爺さんの頭がのぼせた頃に唇を離し、そのまま首筋に鼻を寄せる。

「ちょ…っと…。和蘭さ…」

赤い顔から細い声が流れ出て、肘置きについた掌の下で小さな手が動く。
人差し指を選んで取って、抓んであやした。
小さく細く、愛らしい。

「何や」
「止めてください…!こんな日も落ちぬうちから何…」
「阿呆か。別にやるっちゅーとらんやろ。何期待しとんじゃ」
「ぅ…」
「悪いが、コーヒーは数少ない好物や。止める気ぃないで」

日本を抱き上げたまま、また新しい書類を取って目を通し始める。
これでも控えている方だ。
極東へ遠路遙々来るには持てる荷物を制限されるんで、大した量が持ってこられない。
家にいるうちはこの3倍くらいの杯数を飲む。
煙草や煙管の臭いと相まってきついのは分かるが、制限はなかなか難しいのが正直なところだ。
旅先は結構ストレスも溜まる。
ちょいちょい好き勝手にしとかんと保たないということもある。
…とは言え、こーゆー不安定な体勢しとる中で、うっかり溢しでもしたら書類に被害が及ぶ。
片手を伸ばして、まだ半分ほど入ったコーヒーカップをデスクの奥の方へ移動させた。
その腕に、す…と小さな手が添えられ、腕の中を見下ろす。
さっきより赤い顔で、しどろもどろの爺さんが強気で口火を切る。

「で、では…その。…私、もう接吻しませんよ!」
「…あ?」

後半はきっぱり力一杯断言され、思わず眉を寄せる。
阿呆か。するしないに関わらず爺さんから奪うことなんぞ容易いわ。
何勘違いしてるんだと一発ひっぱたいで説教でもしようかと右手を浮かせた所で、日本がぱしっと振り下げた俺の手首を掴んだ。

「…」
「…っ」

ぐぐぐぐ…とそのまま振り下げようと力を入れると、その分日本の押し戻す力も入った。
ぶるぶる震える腕を間に挟み、漆黒のじと目で見上げられる。

「冗談だと思ってますか…?」
「…ほんなん思っとらんが、ムカツクやっちゃなーとは思っとる」
「本当に苦手なんですよ!」
「ほーけ。ほんならやっぱ一発叩いとかななあ。おめ最近生意気やで」
「…! ぁ、合わせまで嫌いになりたくないんです…!」
「あ…?」

恐らく本音であろう言葉が出たところで、ぴたりと腕の力を引いた。
なるほど。
噛み砕いて言ってしまえば、キスは嫌いではないんで、多少不愉快な要素が減ればその分回数増やせると、そーゆー話か。
手解きしてやらんと他人にキスもできない爺さんがそういう理由で自分から動かないでいたのなら、晩に寝るつもりの日だけでも好物控えるっちゅーのは、なかなか悪い条件ではない。
悪い条件ではないが、つらいっちゃつらい。
昔、一回禁煙した時も初日でギブアップした。
日常的に接種しとるもんと日本の積極性を天秤にかけて、どっちが重いかっつー話やな。
生活の一部を乱すのはかなりのリスクだが、このドンガメ爺さんからのキスは魅力的ではある。

「…ほおん」

空いている方の手を顎に添えて思案する。
俺が発言の奥にある真意に気付いたことを察したのか、俺の手首を握ったまま、また日本がぶぼっと赤い顔で湯気を出した。

「あ…。や、別に今以上にキスしたいってわけじゃなくてですね…」
「コーヒー断ちすりゃええんやな」
「…え?」
「飲まへんかったらもちっとキスできんのにっちゅー話じゃろ? おめえから」
「ち、違いますよ!何聞い……!」

音を立てて日本の手首を払い取り、その手の指の背で、顎を持ち上げた。
あっさり言葉を呑み込み、爺さんが息を呑む。

「ま、考えたるわ。…取り敢えず、今日は無理やな」

ちっこい子供の頭をぐりぐりして弄るような優越感を片手に、改めて手を握りながら顔を寄せ、焦げ臭いらしいキスをもう一度放ってやった。



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鎖国期の和蘭さんの飼い慣らしっぷりは堪りません。
珈琲に煙草。萌え。
2012.10.22

余談:コーヒー

和蘭語「koffie」。
コーヒーノキの種子を炒って粉にしたもの。
また、それを熱湯で煮出した褐色で香気と苦みのある嗜好飲料。
嘗ては、紅茶よりも飲まれていた飲み物であり、英国、仏蘭西とは商業戦を繰り広げていた。
やがて、二国を抜きん出る勢いで和蘭が植民地を広げ、蘭印のジャワ島でのコーヒーの大量栽培に成功した和蘭が、コーヒー貿易を独占する。
競争に敗れた英国ではコーヒー価格が高騰し、当時安く質の悪い飲み物であった紅茶に乗り換え、浸透していった。
鎖国後、和蘭商館が平戸から出島に移された後に和蘭人によって日本へと持ち込まれた。
和蘭商館長と幕府関係者の対話をまとめた『和蘭問答』の中に、“唐茶”という表記で書かれている。
茶と同様にカフェインを含有し、興奮・覚醒剤の作用がある。
その為、興奮剤、精強剤、痛み止め、長寿の薬として信じられていた。
実際、当時の日本人はあらゆる異物に対して免疫が無かったらしく、コーヒー、チョコレート、タマネギ等は興奮剤、精強剤としても使われていた。






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