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北の果て。
白の世界に静かに建ち続ける古びたこの大城の存在を知っている人が、世の中に何人いるんだろう。
ちょっと目眩がするくらいに長い長い廊下の一角に佇み、モップを片手に僕は窓から外を見詰めてそんなことを思った。
建てられたのはもうずっと前らしい。
露西亜さんが子供の頃、大嫌いな人に強制されて建てたって言ってたから…本当にずっと前。
上司さんたちの寿命はとっても短いし、建築家や関係者が亡くなっているとしたら、もしかしたらその人数は冗談抜きで三人だけで、その三人の中に自分が入っているとしたら、僕は数奇な運命を辿っていることになる。

「…」

小さくため息を吐いて、視線を足下に下ろした。
人のいないこのお城は温かさを保つ能力に欠けてるから、城の外壁は殆ど氷が張り付いている。
門は凍り付いて当然開かないし、玄関ももう無理だろう。
特殊な加工はしてあるけど、窓ガラスだってこの階以外は寒さで割れないようにするのが精一杯だ。
だからたぶん、外から見ると冗談抜きで氷の城に見えるんだろう。
…今日も吹雪が強くて気が沈む。
ここ数日、いつもと比べものにならないくらい強いのは、冬将軍が露西亜さんに着いてきているからだろう。
この季節の彼の訪問は、要するに、寒波と吹雪を意味する。

「ねえ。立陶宛~」
「…! は、はい…!!」

不意に廊下全体に露西亜さんの声が響き渡って、反射的に背筋がぴんと伸びた。
ぼーっとしてたから内心かなり焦って、慌てて振り返る。
反響している廊下では声がどこからかかったのかぱっと判断するのは難しいかもしれないけど、この広いお城で実質的に使っているのはたったの数部屋。
しかも露西亜さんが入り浸っている部屋といえばその中でも更に絞られるから、僕の目線はその大柄な人影を迷うことなく視線に捕らえた。
両開きの特別大きなドアの前で、にぱっと露西亜さんが微笑んでいた。
片手にクリスマスカラーを纏った小さな小箱を持っていて、それが妙に目を惹いた。

「お、おはようございます…。露西亜さん」
「うん、おはよう。今日はとっても寒いね~。熱い紅茶持ってきてくれる?」
「あ、はい…」
「君もこっち来て飲む?」
「…え? あ、いえ。…僕はいいです」
「そう? 折角誘ってあげてるのに。たまには誰かと喋らないと言葉忘れちゃうんじゃない? …ふふ。じゃあ、お願いね~♪」

もう一度笑顔だけなら無邪気に見える笑顔を向けて、露西亜さんは両開きのドアのうち鼻歌歌いながら片方のノブへと手を掛け、室内に向かっておはようと言いながら部屋の中へ入って行った。
それはここ数日の日常で、それでいて毎年のことだけど…。
やっぱり、何十年経っても慣れないや…。
何だか寒いものを覚えて、僕はまた俯いた。

誰も知らない北の果て。
吹雪に守られた白い世界の氷のお城に、まるで童話の様に眠り続けている国がある。
けどそれは違法ではなくて、殆どの承諾を得ている状態で露西亜さんが管理してるんだけど…。
実質管理人をやっている僕も、もうずっと彼の姿を見ていない。
童話のようなお姫様ではなくて、確か綺麗な男の子だったはず。
名前は“氷島さん”っていうんだけど…そもそもあまり接点がなかったし、どんな子だったかうる覚えだ。
ぼんやりは印象にあるけど、明確な彼を思い出せない。
…他のみんなはどうなのかな。
ちゃんと今も覚えているんだろうか。
眠り続けている、彼のことを…。


"Miegancioji grazuole" i siaures salyje



どれくらい昔のことだっけ。
正確な年代は年表表を見ないと分からないけど、僕や愛沙尼亞とかが露西亜さんから独立してた頃だから…それなりに過去の出来事だ。
北の海にぽつんと、氷島さんという国がいた。
北欧四国の皆さんの弟分で、可愛がられてたって聞いてたけど実際に話したことはあまりなく、いつも遠巻きに姿形だけは認識していた。
隣人の英国さんともお兄さんの諾威さんとも少し距離があるから難しいのかもしれないけど、元来経済が落ち着かなくてよく熱を出しては誰かに助けてもらっていた病弱君なんだよって、露西亜さんがよく言ってたっけ。
でも資源は豊富で、景色も海も空気も綺麗だし、温泉の湖なんかがあったりして。
口が悪いけど争いごとが嫌いで内向的な子だったらしいけど…。
そんな彼の庭にある火山が大噴火した瞬間、欧羅巴の面々は真っ青になって各々の家の窓に飛びついた。
勿論僕も。
…本当、吃驚するくらいの大音量と震動で、地震慣れしてない僕たちには冗談抜きで世界の終わりに見えた。
すぐに行動を起こせなくて唖然と見詰めていけど、結構長い間噴火は続いて…。
一番に家から飛び出して氷島さんの家へ駆け出した英国さんを先頭に、諾威さんや丁抹さんも慌てて行動を始め、僕たちはやっぱり少し遠巻きにはらはらしながら事の成り行きを見守っていた。
露西亜さんだけがのんびりしてて、丁度その頃現場に来たんだっけ。
粉塵が視界を覆う空は飛べないから、マグマと灼熱を持つ灰が街を襲わないうちに大型の船を持ってる皆さんが急遽船を出して氷島さん家の人たちを運び出したから、災害規模の割りに人的被害は少なかった。

「アイス!!」
「…今は大声止めて」

最後に、煤で汚れた諾威さんと英国さんに連れられて、丁抹さんがその三人を先頭で出迎えて…。
みんなが見守る中、それぞれと軽く抱き合った後で、やっぱり煤で汚れた氷島さんが諾威さんのお家のソファに落ちるように腰掛けた。

「はあ…。…ああもう。最悪」
「最悪じゃねえだろ! 愚痴ってる暇あったら自分のとこの火山動向くらいしっかり管理しとけよ!!」
「だからうるさい声止めてってば…」

びしっと人差し指突き付けて大声で怒鳴る英国さん。
ちょっと見ない真顔は真剣に心配してたからなんだろうけど、それを氷島君は分かってたのかな。
面倒臭そうに突き付けられた指を払って、両腕組むとため息を吐いた。

「疲れた…。シャワー浴びたい」
「…火傷とか、してねんけ?」
「…。平気」

座ってる氷島君の正面に膝を着いて諾威さんがざっと外傷を見たけど、擦り傷切り傷ちょっとの火傷くらいはあったけどそこまで酷いものはなかった。
お兄さんに触れられてる間は大人しくしてた氷島君だけど、丁抹さんがシャワーの前に軽く診察すっからって着いて行こうとしたら殴られてた。

「シャワー浴びてからにして!」
「んだってもし怪我があっちゃーなんねえべな。取り敢えずX線だけでも…」
「うるさい」

ぴしゃっとリビングのドアを閉める彼は普通で、明日から後処理が色々大変だろうけど取り敢えずは…って、僕らはほっとして解散することにした。

その帰り道。
ずっと露西亜さんが上機嫌で鼻歌歌ってたから、不謹慎だなって思って、流石に少し訝しげな声で尋ねてみた。
何でそんなに機嫌がいいんですか? って。
てっきりにっこり笑って「だって面白かったから」とかいう返事がくるかと思ったけど、露西亜さんは人差し指を口元に添えて両肩を少し上げ、擽ったそうな…何だか、いつもよりちょっとだけ違う笑顔が返ってきて、すぐに分かるよと言った。
…そして本当に、すぐに分かった。
具体的に言うと、事件発生から一週間後。


大噴火した氷島という北の土地は、死の土地になっていた。
周囲の国々を巻き込んで空は灰の膜で覆われ、建物も山々も呑み込まれ、生き物が住めない土地になってしまった。
残念なのは、未だ火山活動が活発で、油断できないということ。
避難した人々は戻ることが出来ず、割り振って各国で受け入れることになった。
その頃かららしい。
諾威さんの家に避難していた氷島さんの睡眠時間が爆発的に増えたのは。
一日中の殆どを眠り続け、希に起きても一時間もしないうちにまた眠ってしまう。
その症状は、誰もがよく分からなかった。
…“氷島”という国家が揺るぎなく存在していることを、今も変わらず誰もが認めている。
その国が所有している土地も変わらず北の海に存在している。
けど、その土地に人々が誰一人いなくなったことによって、氷島さんは外形だけ保っている状態に陥っているのかもしれない。
今まで真剣に自分たちの存在を考えたことがなかったけど…。
僕らはやっぱり“国”で、人々がいないことには成り立たない。
国を形成しているのが国民であるとするならば、僕らにとって彼らは、細胞一つ一つということになるんじゃないだろうか。
それらが欠けている状態では、例え僕らだって生きていけないのかもしれない。
国が存在し、土地も存在しているがその中に今は誰もいない。
かといって死の土地へ無理矢理国民を放り戻すこともできない。
あんな所では生活なんてできないし。
…だが戻さなければ、氷島さんはこのまま衰弱していく一方だろう。
他の国の人々の“氷島”という国に対する印象が薄らいでしまえば、もしかしてもしかしたらこのまま…ってこともある。
一体どうしたらいいのか誰一人分からず、欧羅巴だけでなく世界中が常に張りつめていた。
そんな中、のんびり挙手したのが露西亜さんだった。

「ねえ、あのね。良ければ、僕が彼の時間を止めといてあげるよ☆」

露西亜さんの提案はこうだった。
一度自分の家の属国として含ませ、今散っている国民たちも受け入れた上で“氷島”という国が属国として存在し続けていることを明確に覚え続けていく。
その一方で、自分の家には人体を細胞蘇生システム…所謂、コールドスリープさせる技術があるから、それを応用して氷島さんも体力の衰えを避ける為にずっと眠っていてもらえばいいよという話だった。
当分火山は収まりそうにないし、収まったとしても人が住めるようになるまでどれくらいかかるか分からないけど、もしまた人が暮らせるように彼の家がなったら、その時にまた起こせばいい…って。
…保護者的立場にあるみなさんが露西亜さんの提案をどう思ってどう話し合ったのか、僕は知らないけど…。

結果的に、今この北の果てにある氷のお城の地下。
最新設備を凝縮した白い靄とカプセルの中で、王子様は眠っている。







コンコン…って。
いつものように二回ノックしてから、返事を待った。

「どうぞ~」
「失礼します」

間延びした許可を得て部屋に入ると、中央のソファセットに座った露西亜さんがのんびりと膝の上の本から顔を上げた。
厚手の絨毯。赤々と燃える薪ストーブ。
窓際のシックなカーテン。棚の上の枯れない造花。
少し埃を被った本棚…の隣の、地下へ繋がる太い太いパイプ。
落ち着いた色彩の部屋に、それだけが異様に目立つ。
留め具を外して蓋を開けると、梯子の降り口になっているんだ。
…いつもの癖で横目でちらりとそれを見ると、蓋の上に小さな七人のサンタクロースがてんてんと、円を描いて置かれていた。

「…」
「可愛いでしょ?」

斜め後ろから声を掛けられ、ソファに座る露西亜さんを振り返る。
閉じた本を膝に、にこにこ無邪気に微笑む笑顔と目があった。

「家から持ってきちゃった。…ふふ。クリスマスってよく分からないんだけど、ちょっとくらいイベント気分があってもいいよね」
「…そうですね」
「本当はね、おもちゃよりケーキとかお菓子の方が好きなんだよ。でも今は食べられないもんね。その代わり、起きたらたくさん作ってあげればいいよね」

我に返って、紅茶を淹れる支度を始める。
カートの上でカップを温めて湯を捨ててポットと一緒にテーブルの上に置くと、露西亜さんは膝の上にあった本をソファの少し離れた場所にそっと置いた。
ここ百年ちょっとで随分穏やかになったっていうのが、世界中の彼に対する評価だ。
勿論、庭に勝手に入ろうとする相手には今も昔も容赦ないけど、ずっと波蘭が可哀想だった分割の趣味も最近は興味がなくなったみたいで、今はどっちかっていうと自己啓発モノに向いている気がする。
…具体的に聞いた訳じゃないけど、ここまで露骨だと流石に鈍い僕でも分かるもので、露西亜さんは氷島さんが目覚めるのをとっても愉しみにしているみたいだった。
飽きもせずに、百年以上。
でも彼が目覚めるにはまず氷島本土に人が住める環境が整わないとならないから、そっちの環境調査なんかも、船を使って度々行っていたりする熱心ぶりは俄には信じがたいけど…でも本当にやってるんだから、きっと本当に本気で起きて欲しがっているんだと思う。
いつも怖い怖いって思ってたけど、露西亜さんでもこんなに人に優しくできるんだ~……って。
…思っていたのは、何十年前までだったっけ。

「氷島さんのお家の方はどうですか?」
「うん。結構火山は落ち着いてきたみたいだよ。あそこたくさんあるから、全部が落ち着くまではなかなか時間がかかったね。…でも空気がね~。人が住めるくらいまでになるにはもうちょっとかかるかな」
「…それで。露西亜さんの家で預かっている氷島人の方々は…」
「ああ、そっちはもう大丈夫だよ~。僕ん家の文化も生活も馴染んできたみたいだし、もう自分たちが氷島人だってことは忘れ始めてる感じかな」
「…」
「ふふ。みんな頭悪くて大好きだな。…本気で蘇生させても性格そのままだと思ってるのかな? 僕ら国なのにね♪」

カップを片手に、ちょっとした悪戯を白状するみたいに露西亜さんが無邪気に笑う。
僕はトレイを抱えたまま、ぼんやりとソファの傍に佇んでその小さな笑い声を聞いていた。
…百年も別の国で過ごしていれば、人はやっぱりその国に慣れてしまうのかな。
異常な好待遇での引き受けだし、反発なんてことは今までなかったから、その分浸み込んでいるんだろう。
僕らだって、ちょっと他の方と友達になるだけですごく影響されるから…。
だとしたら、順調に露西亜さんの計画通りだ。
露西亜さんに自宅で預かっている氷島人の人たちをこのまま吸収したり拘束したりするつもりは全くないらしく、氷島さんの自宅にまた人が住めるようになったら、何の見返りもなしに本土へ帰してあげるつもりらしい。
そうしたら、国民という細胞を得て、また氷島さんは動けるようになるだろう。
長い長い目覚めから、漸く目覚めることができる。
…でも、目覚めた後の彼を構成する細胞は、以前のものとは別物だ。
細胞一つ一つに露西亜さんの家の文化や言動が浸みついているとしたら、考え方も生活も…感情も性格も、何もかもが一変して蘇生するに違いない。
だから、そうなったら、ずっと机上の空論だと思ってたけど、本当の本当に冗談抜きで…。

「もうすぐ、僕の弟の出来上がり☆ …だよ!」
「…」
「優しくしてあげないと殴っちゃうから」

ウインクで飛んできた小さな雪だるまが、くるりと可愛らしく躍って空気に消える。
にこにこしながら紅茶を飲む横顔は一切の悪気がなくて、だからその分怖くて、僕は少しだけ目線を下げるくらいしか反論ができなかった。




数十年後。
過去と比べると穏やかになった北の帝国の目の届く範囲に、常に属国にして盟友にして庇護国にして弟である小さな島国がついて回る光景が一般的になる。
我が儘で甘い物と紅茶が大好きで少し口が悪くて歌が上手くて喧嘩が嫌いででもどこか良くも悪くも真っ直ぐな子で…。
似ている気がして、最初感じていた違和感はどんどん薄れ、僕も今では嘗て彼の本当のお兄さんが誰だったのか…そもそも兄弟ではなかったこととかも、今では忘れそうになっている。
…目覚めさせてくれる王子様を選べないお姫様。
一体誰がどうやって選んでその王子様が相手になったんだろう。
キスして抱き合ってそのまま結婚するんだったっけ…。
今更になって『眠り姫』という童話が、少しだけ…悲劇に思えてきた。
…でも、本人たちが悲劇だと自覚していないのなら、本質がどうであれ、それはやっぱり紛う事なき喜劇なのかもしれない。

楽しそうに話をしている北の帝王と氷の王子の間に紅茶を置く時は、いつもそんなことを思う。



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国にとっては百年なんてあっという間でしょうから…。
目覚めて性格が親露になっていたら数日で人が変わったみたいな感じなんでしょう、きっと。
2012.1.16





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