完全にお喋りの途中だったけど、何となく口元に目が行ったから、そういえば彼に挨拶したことないな…って思って、身を屈めて唇に軽い音を立ててキスをした。
それまで飲んでいたジュースのせいか、妙に甘くて美味しい。
キスしてすぐに離れると、それまでああだこうだうるさかった氷島君の声がぴたりと止まった。
…続き喋るかな?と思って数秒待ってみたけど、やっぱり続かなかったので、屈めていた背を戻して身を引いてみる。
スタンディングバーの窓際の席からは、外がよく見える。
もうすっかり空は暗くなって、ちらちらと星が輝いているのが見えた。
「…。……何?」
「え?」
「何でいきなりキス?」
言いながら、近くにあった紙ナプキンを一枚取ると、自然な動作で思いっきり口を拭いながら、氷島君がこれ見よがしにため息を吐いた。
…何でとか言われちゃうと困るかも。
何でだろう?
「えーっとね…。キスしてないなと思って?」
「…何であんたとキスするのが日常化してないといけないわけ? 意味分かんない」
「でも僕、君とキスするの好きだよ。よくお菓子食べてるからかな。甘くて美味しいよ」
「面倒臭い」
ずぱっと言い放って、氷島君が僕の肩を押した。
たぶん彼なりに力は入れてるんだろうけど、僕からしてみれば些細すぎるから全然押されてない感じだけど、距離を取りたいのなら一歩下がってあげようかな。
後ろにお客さんもいなかったし、一歩…下がろうとして、止めて半歩にする。
…面倒臭いって言われちゃった。
「するなら額とか頬にしてくれる」
「何で? 意識しちゃうから?」
「酒臭いから」
「えー? ウォッカは癖無いのにな~。君も飲めばいいのに」
「いらない。…っていうか、いくらあんたのとこの挨拶っていっても、旧式でしょそれ。フィンだって止めたんだから、もういい加減止めたら?」
「ん~…」
投げやりに言う氷島君の言葉に、僕は顎に人差し指を添えて暫く考えてみた。
確かに、口キスは旧式の挨拶だ。
昔はこれが普通だったのに、何だかみんなに「変だー!」って言われちゃって……というか、仏蘭西君なんかは涙ながらに止めてくれって訴えてきたし。
協力してた時に、正式な場で会う度会う度キスしてたのが嫌だったみたい。
そんなに変かなぁ…?
確かに挨拶の一つだけど、頬や額にするキスも勿論あるし…。
誰彼構わずって訳じゃないんだけどな。
…頭の中で色々考えていた僕を、隣から、氷島君が頬杖付きながら半眼で眺めていた。
「…ま、あんたの場合別に今すぐに止めなくてもいいけどさ」
「あ、そう?」
「だって、恋人なんかいないでしょ。…フィンの場合は、スヴィーがひたすら焦ってちょっと強引に直させたらしいから。そりゃ自分の恋人があちこちに口キスしてちゃ誰だって焦るし、怒るでしょ。恋人ができて、どかんと怒られたり拗ねられたりされれば、あんただって自然に止めるんじゃないの?」
「…」
投げやりに吐き捨てて、氷島君がマドラーで混ぜる必要のない目の前のジュースをぐるぐるとかき混ぜる。
…。
…あれ?
何か、胸の中がもやもやするけど…何だろう。
間を置いて、つつつとまた引いた半歩分プラス少し隣へ詰めてみた。
「ねえねえ」
「何。気安く近寄らないでよ」
「君は、僕があちこちでこの挨拶してたら怒る?」
「何で僕が。好きにしてればいいじゃん」
でも僕には止めてね…と付け足す彼の言葉に、尚更もやもやする。
…変なの。
"止めて"と言って欲しいような、でも言われたら困っちゃうような…。
うーん…。
小首を傾げてから、グラスを取って一口ウォッカで喉を潤す。
苦みが胃に落ちたところで、グラスを置いて横を見た。
「じゃ、君が怒ったら止めようかな」
「…は? 何で?」
「よく分からないけど、それがいいかなって」
「別に…あんたが誰と馬鹿みたいな挨拶してようが関係無いんだけど」
「じゃ、今はいいから、もうちょっとしたら怒ってほしいかな」
「……。何。M? でかい図体して馬鹿じゃな……って!触らないでよ…!」
ストロー持ってた手を何となく取って見ると、思いっきり腕を振られた。
…けど、やっぱりそれも大した抵抗じゃなかったから、僕の手は振り払われることなくそのまま彼の手首を握っておく。
折れちゃいそうなくらい細い。
だから、柔らかく握ってあげないとね。
「ね。もう一回キスしたいな」
「やだ」
「んー」
「ヤダ!!ちょ…何なの!寄るなキス魔!!」
じたばた逃げ出す氷島君の両手をまとめて取って、もう片方の手でちょっと顎を取って、最初と同じく軽い音を立ててキスをした。
触れて音立てるだけですぐに唇を浮かせたけど…。
「…」
「うぐ…!?」
視界に入った赤い彼の口内が目に付いて、もう一回角度変えて追加しちゃった。
…少し強引な挨拶になっちゃったかな?
平気かなと思って舌を少し舐めてあげて、さっきとは違う、舌を吸って短い音を立てた。
二回目と追加の一回がよっぽど嫌だったのか、次の瞬間、パァン…!!とほっぺた張り飛ばされちゃった。
ちょっとびっくり。
でも、全然痛くないから、まあいいけどね。
音が派手だっただけだから、怒ってないよ。
「待ってよ、氷島君~!」
「うるっさい!来るな変態!!」
飛びだした彼を追って店を出る。
外はすっかり寒くて、店や街灯の灯りに照らされる道を足早に歩く背中はちょっとだけ幻想的だった。
…さて。どうしようか。
何をしたら許してくれるかな。
お菓子とか、お花とか?
許してくれたら、また仲直りのキスができるかも。
そう思うと、ちょっと楽しくなっちゃうね。
不思議の国の王子様を追って、街灯に照らされる夜の街道を、彼の誘うままに歩き出した。