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灰色の空。
降り注ぐ雨。

「…はあ。最悪」

学校からほど近いカフェの軒先で、しみじみと吐き捨てる。
学校帰りに降られるなんて、本当についてない。
午後の授業終わった時も晴れていたのに、帰る頃になって急に振るとか。
しかも今日は傘持ってないし。
僕、家遠いんですけど。
誰とも無しに主張して、カバンからミニタオルを取りだし、ぱたぱたと濡れた毛先を拭く。

「ああもう…。髪とか濡れたし」
『シャツも濡れてんぞー』
「嘘でしょ…」

肩にちょこんと乗ってるパフィンに言われて自分の襟を見下ろすと、確かにシャツの襟元が濡れて、襟は折り返してあるからそうでもなかったけど、袖とか胸元が少し透けている。
ニットベスト着てるから、まだいいけど。
自然と眉間に皺が寄った。
目を伏せて、ため息を一つ吐く。
…いい加減にして欲しい。
明日は祝日だ。
人が気分良く帰ろうとしているのに、何だって帰宅の時間にピンポイントで雨なわけ。
冬の雪男とか言われてしまえば否定しきれないところもあるけど、少なくとも雨男ではない自覚がある。
大体、僕の近所の雨男といえば、和蘭とか白耳義とか、それに高等部で生徒会長なんてナルシーなことして調子に乗ってる…。

「おい、氷島」

…こいつくらい。

「…」
「聞こえてんだろ。返事くらいしろよ」

呼ばれて、伏せていた目を開く…けど、半眼でそれ以上開くのを止めておいた。
長い腐れ縁だから。
声を掛けられれば一発で分かる。
僕のいるカフェの軒先前にある道路に横付けした黒い車の後部座席から、同じく帰宅するらしい英国が、見たくもない顔を覗かせていた。
珍しく随分早い帰宅時間らしい。
心配半分、得意気半分という絶妙な顔でこっちを見ている。
その自惚れ入った顔を見れば、次に何を言い出すのか簡単に想像が付く。

「こんな所で雨宿りか? 電車通は大変だな。お前が頭下げるな…」
「誰も乗せてなんて言ってないから」

片手を軽く振って偉そうに言葉を続けていた彼の台詞をぶった切る。
予想は的中だったようで、僕がそう言った瞬間、英国は少し間抜けな顔をしてから青筋を立て、目を伏せて眉間に皺を寄せた。
…そっちの方がお似合いだ。

「おい…。意地張るなよ。雨宿りなんだろ? 乗せてってやるっつってんだよ」
「誰が雨宿りなんて言った? 待ち合わせしてるだけなんだけど」
「諾威たちなら、さっき校門出て行くの見かけたぞ」
「…」
「大体、お前ら兄弟一緒に帰る時なんて滅多にねーじゃねーか。授業終わる時間違ぇし」
「うるさいな。早く帰れば?」
「あのな…。何でお前はそーなんだよ。濡れてるし、冷えるだろ。一言『乗せて』って言えば俺だってな…」
「待ち合わせしてるって言ってるの聞こえなかった? 耳鼻科行けば」
「…」
「…」

じろりと睨んだまま、お互い数秒間沈黙する。
運転手の人が困り始めた頃、ふん…と英国がそっぽを向いた。
偉そうに手と足を組んだのが、僕の立っている場所からでも見えた。

「本当に乗せねえからな。…いいのか?行っちまうぞ?」
「いいって言ってるでしょ。しつこいな」
「…相変わらず可愛くねーな」
「…」

しつこい悪友がしみじみ吐き捨てる。
…そんなの、僕が一番解ってる。
分かり切ったことだけど改めて言われると不愉快で、僕もそっぽを向いた。
肩の所で、パフィンが英国に嘴を開けて翼を広げ、軽い喧嘩を売る。
それに気付いた彼が、窓枠に片肘かけて、中指を立てる。
普段の澄ました様子からは想像が付かないような子供っぽい仕草に呆れてしまった。

「雨に濡れて風邪でもひいてろ。バーカ!」
「ガキ? 早く帰れば」
「ふん…!」

眉を寄せた顰めっ面のまま、車の窓が閉まる。
それから、黒塗りの車はゆっくり道を走る流れへと、雨の中戻っていった。
視線でそれを追ってから、自分の足下を見下ろす。
…見えなくなってから、ほんの僅かだけど後悔が出てくる。
英国とは家も近いし…と言っても、かなり距離はあるんだけど…まあ、比較的近所だし、彼が乗せてくれれば楽なのは確かだった。
けど、あんな態度の奴に頼ろうとは思わない。
「足が無いのか?」「送っていってやるよ」の間に、必ず"仕方ないから"が入る奴なのだ。
ああいうところが昔からダメなんだよね、あいつ。

『アイス。中でカフェオレでも飲んで、雨止むの待とうぜ。どうせすぐ止むだろ、この降りじゃ』
「…ごめん。今日、財布と携帯忘れてきたから」
『はあ…!?』

耳元でのパフィンの提案に、小声で答える。
…言いたくなかったけど、事実だから仕方ない。
本当にたまたま、財布と携帯を忘れてしまった。
昨日、探しているカードがあって、部屋のベッドの上に広げたままだった。

『こぉのおっちょこちょい!今のご時世、金と携帯無くして何ができんだよ!あぁん!?』
「…分かってる」
『畜生。飲めないと分かると欲しくなるぜ』

僕の肩に乗ったまま後ろを向いて、黒い翼をべちょっと店のガラスにくっつけている。
パフィンが髪の下に僅かに潜り込み、少し浮く横髪を感じながらため息を吐いた。
じわじわと後悔が大きくなる。
…ああ、もう。
英国が去って肩の力が抜けて、げんなりと目を伏せた。
片手で軽く顔を覆う。
…僕って、何でこんななんだろう。
あの馬鹿のことは気に入らないけど、例え相手が誰であろうと、乗せてくれるのならそれが一番いいに決まってるのに。
何より僕が楽なはずだ。
そんなの、分かり切ってる。
分かり切っているのにできないことが、少し悔しい。
嫌いな相手でも上手く扱えるような大人の態度が、僕にはできない。
そして、それが途轍もなくガキっぽいことも、分かっている。
…どうしてこんな性格なんだろうって、時々思う。
みんなより年下だけど、年下にあるべき可愛げも、たぶん僕にはない。
英国の言うとおりだ。
けど、僕に「可愛くない」とかいうなら、まず自分が手本を見せろって話だと思う。

「…。…て、こういうところが生意気なんだろうな」

ゆっくりと片手を下ろし、店の軒先から雨空を見上げた。
まだ止む気配はない。
もう暫く降り続きそうだ。

「…傘、持ってくれば良かった」

早く上がらないだろうか。
相変わらず軒先に佇んでいると、雨の降る中、大きな傘を持った制服姿が一人歩いてくる。
…うちの学校の制服だ。
二人組じゃない時点でノーレたちじゃないのは確かだけど、知ってる奴かどうか気になってちらりと一瞥投げてみる。
投げて、顔を見て、後悔した。
それまで目深に傘を差していたのに、相手も同じ学校の制服で立つ僕が気になったのか、ひょいと傘を僅かに上げた。
ばちっと目が合う。
…見なきゃ良かった。

「あれ~? 氷島君だ~!」
「…」

まるで気易い友達相手にするように、ひらひらと手を振る露西亜。
…馴れ馴れしいな。
そんな仲になった覚えはないんだけど。
思わず顔を顰める。
僕の傍までやってくると、傘を差したまま足を止めた。

「どうしたの? 雨宿り?」
「…あんたには関係ないでしょ」
「寒いからお店入れば? 傘は持って来なかったの?」

とぼけた様子で首を傾げて、見れば分かるだろうことを尋ねる。
ほんと、性格悪い。
顔見知りの姿を見たパフィンが、僕の肩からぴょんと頭の上に飛び移り、露西亜に向かって小さい翼をぱさっと広げる。

『聞いてくれよ!この馬鹿、財布を忘れちま…』
「黙っててよ!」
『ぐえ…っ!』

両手を上にして、左右からパフィンを勢いよく挟んで捕まえる。
言葉が喋れない程度に喉を掴んでから、すぐさま胸元に引き寄せた。
自分のミスを知られるのが嫌で露西亜を伺ってみるけど、彼は小首を傾げて不思議そうに飼い鳥を掴んだ僕を見下ろしているだけだ。
…そうか。パフィンの声って普通聞こえないんだっけ。
なんだ。焦って損した…。
乱暴に見えたんだろう。
露西亜が僕を諫める。

「そんなに首絞めて、大丈夫なの?その鳥さん」
「…平気」
『ぶっは…!』

腕の中で首を掴んでいた片手を緩めてやる。
パフィンは勢いよく呼吸して、ぜーぜーと喉を鳴らした。
けどまあ、窒息には程遠い。大丈夫そうだ。
首絞めて悪かったと思うけど、他の人に聞こえないパフィン相手に謝ったら、僕が怪しい人だ。
露西亜がいなくなってから謝ろう。
腕の中でギャアギャアバサバサ暴れて抗議するパフィンを撫でて、何とか宥める。

「ねえねえ」

雨を弾いている羽毛を撫でていると、露西亜が不意に僕に声を掛けた。
やる気無く顔を上げると、大きな傘を背負った彼が脳天気に笑っている。

「傘が無いなら、お家まで送っていってあげようか?」

彼の言葉に、数秒呆けた。
だって、その口から出てくるとは思わなかったから。
…あと、間に"仕方がないから"が入ってなかったから。

 

 

 

「…お邪魔します」

ぽつり…と、小声で何とか呟いて、玄関を潜る。
茶色いとんがり屋根に薄いクリーム色の外壁。
黒くて仰々しい門を入って内実を隠しているような杉の木を抜けると、露西亜の家は案外こぢんまりとしていて可愛い感じだった。
玄関横にある戸棚に、花が飾ってある。
あと、パッチワークみたいなやつの布とかが壁に飾ってあったりする。
何となくそれを一瞥していると、数歩先に家に入った露西亜が面白いものでも見るように僕を振り返った。

「は~い。どうぞ~」
「…」

短い廊下を、彼に続いて歩く。
帰り道、どうして露西亜の家に立ち寄ることになったかと言えば、家まで送ってもらうのが嫌だったからに他ならない。
こいつに送られるなんて冗談じゃない。
英国と同じくら嫌だ。
そんなことされるくらいだったら、電話だけ貸りて、一応の部下の雷克雅未克に迎えに来てもらおうと思っただけだ。
彼も忙しいかもしれないけど、露西亜の家にいるんだと言えば、たぶん飛んでくるだろう。
今の所、あんまりこいつと親しくして欲しくないみたいだし。
…ま、そんなつもりは毛頭ないけど、こっちにも。
て言うか、露西亜も偶然今日携帯忘れて来たとか、無いから。
どんな確率だ。
不運過ぎる。今日の僕。
露西亜に着いていくと、リビングに出た。
広くはないけど、狭くもない。
床には絨毯が敷いてあって、部屋もとても温かかった。

「…電話、どこ?」
「持ってくるよ。座ってていいよ~」

マフラーの尻尾を泳がせて、露西亜が別の部屋へ出て行く。
彼の姿が無くなってから、そろりとソファに近づいて座ってみた。
三人掛けの小さなソファだけど、柔らかくてそこそこ硬さもあって、座り心地は悪くないし趣味もいい…かも。
…何か、意外。
露西亜の家って、もっと大きくてゴテゴテしてるイメージあったけど、そうでもないらしい。

『へえ…。結構キレーにしてるじゃねえか』

僕の肩に乗ってきょろきょろ辺りを見回しているパフィンも同意見らしい。
敢えて素っ気なく流しておく。

「…みたいだね」
『だがちょっとばかし少女趣味だな』

ヴォヴォヴォ…とパフィンが梟のような低い声で笑う。
…ま、その意見は否定できないかな。
何気なく体の左右に開いて置いた両手のうち、右手がクッションに触れた。
正方形の、シンプルな……くせして、縁に白いレースが付いている。
…これだけ一際趣味が悪い。
何だかよく分からないけど、とにかくその一個だけ浮いてる妙に可愛い感じのクッションを持ち上げて、膝の上に置いてみる。
指でレースを抓んで調べてみると、どうやらこれだけお手製らしい。
元々あったものに、誰かがレースを付けたようだ。
…。
誰が?…という話だけど。

「…」
『…。露西亜の奴が付けたとしたら、ぞっとするな…』

パフィンが僕の手元を覗き込んで言う。
これにも全くの同意見だ。
でも、その線は薄いと思う。
口には出さずに、顔を上げてもう一度部屋を見回してみる。
これだけ部屋が統一されてるんだから、たぶんこの空間の感じがあいつの趣味だと思う。
このクッションにだけレースってことは、彼よりももっと悪趣味な他の奴が勝手にやった感がするんだけど。
そう言えば、趣味の合わない妹がいるとかいないとか、聞いたことあるような…。
日常、彼に関する噂なんて耳に留めないから、情報なんて殆どない。

「氷島君、おまたせ~!」

白い電話の子機を片手に、露西亜が戻ってくる。
座ったまま、それを受け取った。

「…ありがと」
「あと、タオルね」
「は? …って、ちょっと!」

子機を僕に手渡した後、腕にかけていたらしいタオルをぱっと両手で持って広げる。
そのまま、まるで獲物でも捕まえるみたいに僕の頭にそれをかけた。
何なの…!
ぶんぶん首を振るうと、タオルが首にずりおちてかかる。
視界が開けたところで、ソファの背に立つ彼をきっと睨み上げた。

「急に何するの!」
「え~? だって、髪の毛とか肩の所濡れてるんだもん。ソファが濡れちゃうよ~。そのソファ、お気に入りなんだ」
「…ぁ」

言われて、ぱっと寄りかかっていたソファから背中を浮かせる。
…そうだ。
あまり気にして無かったけど、そう言えば僕濡れてたっけ。
雨とか雪とかで湿るのとか、結構日常茶飯事だから…。
お気に入りの場所を濡らされたら、当然嫌だろう。
立ち上がろうとした僕に、露西亜がぱたぱた手を振る。

「あ、別に立たなくてもいいよ。濡らさないでくれればね」
「…」
「う~ん…。でも、結構濡れてるよねぇ。服は無理でも…髪なら、ドライヤー持ってくる?」

別に頼んでもいないのに、小首を傾げて言った後、彼はまた部屋から出て行った。
子機を片手にやっぱりそれを見送って、視線を背中へ向ける。
…濡れてないよね?
片手で今寄りかかっていた場所へ軽く触れてみると、少しだけど既に濡れてしまっていた。
慌てて、肩に掛かっていたタオルでそこを拭いておく。

「…先に言えって話」
『まったくだ!』

苛々しながらさっさと拭いて、立とうかどうか迷って…。
でも、立つまでする必要ないかな、露西亜だし…とか葛藤して、結局あいつ自身がいいって言ったんだから、ちょっと居心地悪いけど座ったままでいることにする。
背中は浮かせたままに、手にした子機に自宅の番号を押す。
数回のコール音の後、耳に慣れた声が出た。

『はい。氷島共和国です』
「あ、ハーロ。レイ?」
『その声は…。Iceさんですか?』

"イース"と呼ぶ声が急に柔らかくなる。
数少ない僕の部下のリーダーである雷克雅未克は、諾威や丁抹の部下と比べれば、どちらかといえば落ち着いていて穏和な方なのだろう。
勿論、英国の口うるさい倫敦なんかとは比べものにならない。
…ていうか、寧ろ比べないで欲しい。
澄まし顔でいるけど、ほんっと煩いから、あいつ。
他の人達の部下と違って、僕の家の部下は比較的物静だ。
一緒にされちゃ困る。
…ていうか、人数少ないから、レイが殆ど仕事を統括してるんだけど。

『どうしました? 非通知からなんて。公衆電話ですか?』

基本設定非通知なんだ…。
呆れ半分に溜息を小さく吐いた。

『そうそう。今日、携帯と財布を忘れて学校に行きましたね』
「うん…。傘もね」

繰り返すと、本当に情けなくなってくる。
傘も忘れたと告げただけで、彼は僕が迎えを求めているのが分かったらしい。
受話器から、小さく笑う声が零れた。

『アークが呆れていましたよ。…まだ随分降ってますからね。諾威さんと会えそうですか?』
「ああ…。別に、一緒に帰ろうとかは思ってないから」
『おや。そうですか? では私が迎えに行きましょう。今は学校ですか?』
「…学校はもう出た」
『ですがお店などには入れないでしょう? 後程料金は払うとして、近くのカフェでお待ちになってください。歩いている途中ですか?』
「て言うか、露西亜の家」
『…』

勿体振ったって結果は同じだし。
簡潔に言い切ると、それまでテンポ良く受け答えしていた雷克雅未克が一瞬間を空けた。
嫌なんでしょ。
はいはい、分かってるから…。
…いや、レイの場合は嫌という訳じゃないんだろうけど、僕の部下のみんなの間でも、露西亜に好意的な奴とそうでない奴に分かれている。
でも、これは僕の家に限った事じゃない。
…ま、そんなに構えなくても、人間も国も好かれる奴には好かれるし、嫌われる奴には嫌われるんだから気にしなくていいと思うんだけど。
少なくとも、少人数制の僕の部下の中でもかなり発言力を占めている雷克雅未克は、どちらかに揺れるのを好まない。
結局、将来的に現在の無関係が一番動きやすいということだ。
こほん…と小さい咳払いが受話器の向こうから聞こえる。

『あ、えっと…。では、迎えに行きますので、露西亜さんにご迷惑が無いように、私が行くまで大人しくしていてくださいね』
「はいはい…」
『あと…。まあ、頂き物とかは控えていただけると…』
「はいはい」

一回目の返しより僕の声がきつくなったのが分かったのか、少し雷克雅未克が慌てる。

『それじゃあ、すぐ参りますね』
「うん。…じゃ」

言って、通話を切る。
膝の上に子機を置いて、ふう…と息を吐いた。
雷克雅未克は口うるさい方じゃないけど、それでも人の交友にあれこれ口出されるのは何となく腹立たしい。
別に僕が、誰といようと一緒じゃん。
誰を嫌いになったって、誰を好きになったって、誰にも関係ない。
…。
…なんて、言い切れればいいけど。
そんなこと無理に決まってる。
膝にある子機に視線を下ろしていると、後ろで布擦れの音がした。
振り返ると、ソファの背に片手を着いて、上から覗き込むように露西亜が傍に来ていた。
目が合うと、人懐っこい笑みをつくる。
…笑顔だけはね。

「電話、終わった?」
「まあね。…はい。ありがと」
「どういたしまして。お迎えすぐ来るって?」
「来るみたい」
「でも、君の家世界の端っこだし、時間かかるよね~」

言いながら、片手で持っていたドライヤーのコードをぐるぐると伸ばす。
僕は肩にかかったままのタオルを一度広げて、また肩にかけた。
そんな僕の前に、にゅ…とドライヤーが差し出される。
…?

「はい、どーぞ。使っていいよ」
「どうも」

ソファに浅く座り直し、背筋を伸ばす。
…けど、いつまでも風が来なくて、ふと後ろを振り返る。
まだ突っ立ったままの露西亜が、きょとんとした顔で僕を見下ろしていた。
…何なの。
早く動いてよ。

「…何?」
「え? 何って…」
「突っ立ってないで早く乾かしてよ」
「えええ~!僕がぁ?」
「はあ? あんた以外に誰がいるの。あんた僕より年上でしょ」
「…」

妙な間を空けて、のろのろと露西亜が動き出す。
ぶおー…という低温と共に、背後から温かい風が届く。
手持ちぶさたに負けて、さっきの変なレースが付いたクッションをまた膝に乗せ、弄ってみる。

「…これ、まさかあんたが付けたの?」
「え? …ああ。それはね、ベラが勝手にやってったんだよ」

心なしか彼の声が小さい。
ベラ…。
白露西亜か…。
同じ中等部にいる露西亜の妹だ。
見た目は悪くないんだろうけど、中身最悪だから近寄りたくなくて、仲は良いとは言えない。
というか、関係ない。
ドライアーをかけながら、露西亜がため息を吐いた。

「僕の留守中に侵入して、そこにあるクッション全部に縫っちゃうんだもん。剥がすのすっごく大変だったんだから」
「ああ…。だよね。そんな感じだろうと思った」
「錠を新しくしてみたんだけど…。どうだろうな~。…はーい。もう乾いたかな?」

雑談を繰り返しているうちにドライヤーが止まる。
確認のために片手で後ろ髪を梳いてみたけど、どうやらある程度乾いたようだ。
癖っ毛ではないけど、変に内側にくるって巻けてきちゃうから、あんまり自分の髪は好きじゃない。
…もっとさらさらならいいのに。
鏡はないけど、変ではなさそうだ。
パフィンが柔らかくほんのり熱を持った僕の髪の下に潜って遊ぶ。

「…まあ、いいか。これで」
「て言うか、一つ聞いてもいい?」
「…? 何」
「君、いつも誰かに乾かしてもらってるの? 髪の毛」

興味津々という様子で、露西亜が僕を上から覗き込む。
…何でそんなこと聞かれなきゃいけないんだ。
もしかして、いつも誰かがいないと乾かせないとか思っているとしたら不愉快なんだけど。
子供扱いしないで欲しい。

「言っとくけど、髪くらい一人でも乾かせるから。でも…」

軽く肩を竦めて、とん…とソファから立ち上がり、半眼で肩越しに彼を一瞥する。

「年長者がいたら、それってそいつに任せる仕事でしょ」

今はほぼ一人暮らしだからそんなことないけど、夜とか温泉で遊んだ後とか、諾威や丁抹がいたら彼らが髪を乾かしてくれるのが普通だ。
部下がいたら、それはそれで彼らがやってくれる。
一人で乾かすよりも人に任せた方が綺麗にできるし。
当然のことを言ったつもりだけど、僕の言葉に露西亜はきょとんとした顔をする。
どうやら彼の所は違うらしい。
…お姉さんいるって言ってたのに、やってもらったことないとかいうのだろうか。
そんなはずないと思うけど。
僕の顔を見つめていた露西亜が、突然ぷっ…と吹き出した。
右手を口元に添えて、くつくつと笑う。
笑われて機嫌良くなる奴なんていないし、当然カチンと来る。

「…何!?」
「ええ~? だぁって~」

噛み付くように尋ねると、にこにこ笑いながら擽ったそうに彼は両肩を上げた。
同意を求めるような声で、僕に。

「可愛いねぇ、氷島君って」
「…。…は?」

数秒硬直した後、眉を寄せて聞き返す。
…一番嫌な一言だ。
嘘以外の何ものでもない言葉にしか聞こえない。
刺々しく聞き返す。

「誰が?」
「誰って、君がだよ。…うふふ。砂糖菓子みたい♪」
「…」

馬鹿みたいな表現力に、怒りが何処かへすっ飛んでいく。
…センス無いし。
怒りが引っ込んだ代わりに、全力で呆れることにした。
ふいっと軽く片手を振るう。

「馬鹿みたい。あんたやっぱりちょっとおかしいよ。可愛げ無いの、僕自身だって分かってるし、人からも言われ慣れてるくらいなのに」
「…? それって、誰かに可愛くないって言われたってこと?」

確認した後で、また露西亜が笑う。
今度はさっきよりもずっと楽しそうにころころと、おかしそうに笑っている。

「その子こそ、眼科に行った方が良さそうだね。ふふ」
「…」

砕けた笑顔に呆然とする。
とても嘘を吐いているようには見えない笑顔で。
だから数秒後、急激に顔が熱くなった。


Þú ert sætur




「ありがとうございます、露西亜さん。Iceさんがお邪魔いたしました」

胸の前に手を添えて、恭しく相手を立てる雷克雅未克に、露西亜が馴れ馴れしく片手を上げる。
長身の彼は、露西亜と並ぶと同じくらいの背丈らしい。

「どういたしまして。僕は全然構わないよ。同じ学校の後輩だもん。困ったときはお互い様…て言うんだっけ? あんまりやったこと無いから分からないけど。だから気にしないで。でも、僕が困ったら、雷克雅未克君にも僕を助けてもらおうかな♪」
「ええ。可能な限りで」
「僕、氷島君ともっと遊べると嬉しいんだけどな」
「ありがとうございます。ですが、残念なことにIceさんは塾などで毎日忙しくて…。露西亜さんや他の皆さんのように博識になれるよう、我々もそれを支えたいと思っているところです。今後も色々勉強させてください」

にっこりする露西亜に、にっこりと笑顔で返す雷克雅未克。
その背中に、こそっと僕は隠れていた。
…居たたまれない。
早く帰りたい。

「…先に車乗ってるから」
「あ、はい。鍵は空いていますので、どうぞ」

早く立ち去りたくて、雷克雅未克に小声で告げてから車の方へ向かうことにする。
せっかく乾いた髪を濡らしたくなくて、片手で頭上を覆って駆け出す。
幸いにも、門の内側に車を入れることを許してくれたから、玄関のすぐ前まで車が来ていた。
数段の改段を下り、ロータリーに降りて車の傍に歩み寄る。
ドアを開ける直前にちらっと玄関でまた話している二人の方を見上げてみる。
瞬間、どうして合わなきゃならないのか、露西亜も僕の方を見ていたみたいで、目が合った。
ぎくっとして、慌てて車内に飛び込む。
車内は暖房が効いていて温かい。
ちょっと暑すぎるから、ぱたぱたと片手で自分の顔を扇いでからゆっくり息を吐いた。

 

 

車での帰り道。

「Iceさん」

運転をしながら、雷克雅未克が正面から視線も反らさずに、至って普通の表情でやんわりと告げた。

「仲良くするお相手は、ゆっくり選びましょうね」
「…」
「優しい北欧の皆さんもいらっしゃることですし、今日みたいな日は、諾威さんにお声かけてご一緒に帰られたらいいんじゃないかなあ。…あとは、携帯を忘れないようにすることですね」

悪気がないことは分かってる。
首都である彼の仕事のうち、最も重要なものが僕の素行管理だ。
僕に優しい時もあれば、厳しくしないといけない時もある。
結局、国である僕らの方針は、往々にしてその時々の上司と、そして首都が決めているといえる。
時によっては、彼は僕の部下でありつつも、教育係なのだ。
…仲良くするつもりなんてない。
ちょっと話して、ちょっと電話を借りただけだ。
そう胸の中で付け加える。
自由なのはいつも、この擬似的な体の内側の空間だけだ。
感情だけ。
胸の中だから雷克雅未克に分かるはずないのに、どうしてか、絶妙なタイミングでくすりと彼が笑った。
穏やかな笑顔で、横目に僕を見る。

「Iceさんは、一緒にいるだけで接待になっちゃいますね」
「…?」
「存在だけで魅力的ってことです」

誇らしそうに横で言われ、は…と短く息を吐いた。
…馬鹿みたい。
そんな訳がない。
可愛くもなければ、魅力的でも無い。

「嘘ばっかり…」
「嘘じゃないですよー。ですが、貴方の社交はまるまる私のお仕事です」
「あっそ。ご苦労様」
「…窮屈ですか? もし、本当に彼の事が好きでしたら、議員を集めて…」
「冗談止めて」

苛々して切り捨てる。

「僕は独りが好き」

断言する。
脳裏に何故か、今はだいぶ丸くなった丁抹の姿がちらついた。
誰かと一緒に暮らすのは辛い。
雷克雅未克は、小さく息を吐いて黙ってくれた。
それでも何かが、刺さるように痛かった。
…結局、国である僕の自由になることなんて、体の内側の感情だけなのだ。

こつん…と頭を車の窓に添えてみると、仕草に少し遅れてドライヤーの熱がふわりと香った。
指先を横髪に絡めようとしたけれど、滑り過ぎてひっかかりもしなかった。



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氷島の忠実な部下、雷克雅未克(レイキャビク)さんを捏造してみました。
氷島は人が住んでいる範囲がきゅっとしているので、国民率6割がレイさんの所に住んでるってウィキ先生が言ってた。
きっと他の国の部下の人との繋がりよりも強いかなと思って。
ベタ甘な優男設定。でも、意外と狸だと思う。
2014.5.10






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