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「露西亜さん。お客さんが来てますよ」
「うん。待たせといて」
「え…。でも」
「待たせといて」

廊下の方からひょっこり顔を出して報告してくれた立陶宛に、キッチンから軽い調子で返事しておく。
何処の誰だか知らないけど、もう夕方だし、こんな忙しい時間帯に来られても困っちゃう。
だって僕今ボルシチの下拵えで忙しいんだから。
材料を用意して野菜を切って、鍋の底でそれらを炒めて、しんなりしてきた頃合いを見計らって水を測って入れる。
…いつもなら水なんて適当に入れちゃうけど、何でだかこの間は失敗したんだよね。
ボルシチ失敗するって普通ないからちょっとショックで、今日はレシピ通りやることに決めたんだ。
ひたひたになった鍋の中に牛肉を入れて、最後にスパイスを入れていく。
さて。蓋をしようとしたところで蓋が見つからなくて、ガサガサあちこち探して漸く見つけた。
かぽっと蓋をすれば、後はことこと煮込むだけ。

「ん。今日は大丈夫そうかも。…えーっと。後は」
「あの…。露西亜さん…」

人差し指を頬に添えてパンは何にしようかなとか考えていると、さっきからずーっとリビングでおろおろしてた立陶宛がキッチンへそろり…と入ってきたから、思わず振り返る。
いつもは報告だけしてすぐに帰って行くのに、珍しいかも。
ずっとそんなところにいないで、早く他の仕事とかしに戻ればいいのに。

「なあに、立陶宛。僕の邪魔をしたいの?」
「い、いえ…!違いますよ! 違いますけど、でも…」
「さっき言ってたお客さんのこと? …やだなあ。まだ帰ってないんだ。また明日来てねって、言っておいてくれる?」
「えっと、でも…。…氷島さんですけど」
「…?? だから?」

立陶宛が何を言いたいのかよく分からなくて、思わず首を捻る。
まるで彼が特別みたいな言い方だけど、彼に何か弱みでも握られてるのかな。
でも、例えば立陶宛が何かしらの弱みを握られていたとしても、そんなの僕には関係ないよね。

「あいにく僕には氷島君だと急がなきゃいけない理由なんてないよ~。待たせておけば諦めてそのうち帰るんじゃないかな」
「ぁ…。で、ですが…今日は寒いですし…。可哀想なんじゃないかなって」

窓の方をちらりと一瞥し、立陶宛が困ったような顔をする。
僕もそれにつられて窓を見た。
僕らの視線に、自らを主張するように風が吹き、窓ガラスをガタガタ鳴らす。
…他の家では会う会わないは兎も角、取り敢えず家の中に入れてお茶でも出して待たせるのかもしれないけど、僕の家では僕の許可がない限り家の中に上げないことになってる。
今の季節日中でも寒いし、日が沈むとそれはもう突然に気温は下がり、ほっぺたとか、出している肌が痛くなるくらい。
庭で待ってるとしたらきっととっても寒いだろう。
早く帰ればいいのに、何でいるんだろう。

「本人が待っててくれるんだから放っておけばいいんじゃない? 僕今時間ないから。これが終わったら会ってあげてもいいけ…」
「あ…! ろ、露西亜さん!帰っちゃいますよ…!?」

キッチンの奥に立つ僕の角度からでは見えないが、急に立陶宛がリビングの窓の方を向いたまま片手をぱたぱたさせる。
彼が足早にそっち方へ行くから、ついつい僕もキッチンから出て窓へ向かった。
立陶宛に並んで暗くなった窓の外を見ると、灰色のコートを着た後ろ姿が庭を横断して西門の方へ向かっている所だった。
風にコートが靡いて…庭も暗いし、何だか幽霊みたい。

「あ、ほんとだー」
「僕行ってきますよ。お茶でも飲んでいってもらった方が…」
「え~?」

僕を振り返ってお茶の提案をする立陶宛に、眉を寄せる。
変なの。
何でそんなに氷島君を引き留めようとするのか全然分からない。
波蘭君といい氷島君といい、相変わらず趣味が悪いなあ。
ちょっとMっ気あるみたいだから、きっと振り回してくれるタイプが好きなのかもね。
両肩をちょっと上げて思わず吹き出した僕を、立陶宛は不思議そうに振り返った。
…うん。
別にいいよ。
どんなに趣味が悪かろうと、好みは人それぞれだもんね。
くすくす笑いながら、彼の鼻の頭を指先でちょんって突く。

「そんな器量もないのに、浮気してると波蘭君に刺されるよ☆」
「へ…?」
「立陶宛がそんなに言うなら、紅茶くらい淹れてあげてもいいかもね。でも少しだよ? 僕君ほど暇じゃないんだから」

仕方ないから許可してあげることにする。
ここに波蘭君とかがいたら面白いのにな。
僕修羅場って見たことないし、興味あるんだけど。
…あ。後でこっそり彼に教えてあげてもいいかもね。
怒ってぽかぽか立陶宛を叩く波蘭君の姿が想像に易くて、余計に笑っちゃう。
急がないと間に合わないと思うのに、立陶宛は暫くぽかんと僕を見返したまま動かなかった。

「どうしたの? 早く行かないと帰っちゃうんじゃない?」
「あ、は…はい!」

催促してあげて、漸くはっと我に返ると急いで部屋を出て行った。
何ぼーっとしてるんだろ。
変な立陶宛。
足早に部屋を出て行く彼の背が見えなくなってから、おろし立てでまだ硬めのマフラーに埋めていた顎を浮かせてキッチンへ視線を投げる。
…うーんと。
紅茶って言ってたっけ?
今キッチンは僕が使ってるから、料理が途中なのにリトアニアに入られるの嫌だなあ。

「…お湯くらい沸かしておいてあげようかな」

紅茶自体は淹れないけど、ポットに水を張って火にかける。
茶葉と器具をリビングのテーブル端に置いて、棚に並んでるカップを選んで取り出そうとしたところで、立陶宛が帰ってきた。




「あれ? 氷島君は??」
「いえ、あの…。暇じゃないからもういいって、帰るそうです。寒くなってきたから…って」
「…」

出て行ってから3分くらい後かな。
呼びにいったくせに1人で戻ってきた立陶宛が、困り顔で僕にそう伝えた。
お茶の用意が並んでいるテーブルを見て慌ててその傍へ佇んでいた僕の方へやってくると、僕が持ってたジャムの瓶を受け取ろうと掌を上にして差し出す。
…何でか、そののんびりした仕草に苛っとした。
…。

「すみません。お茶の用意しててくださったんですね」
「うん。そうだよ~。…ほら。見れば分かるよね?」
「…え?」
「ねえ、立陶宛」

差し出した彼の手に瓶を置くことなく、にっこり微笑みかける。
今さっき閉めたばかりで片手を添えていた瓶の蓋が、パキ…と小さく歪んだ音がした。

「折角 僕が 用意して あげたのに…。君は それを 無駄にするんだね…?」
「…!」

別に怒ってないよ。
怒ってないけど、ちょっと聞いてみただけ。
だって事実だしね。
それなのにちょっと言ってみた瞬間、立陶宛がひく…っと喉を攣らせて一歩後退した。
照明のせいかな。
ちょっと青く見える顔で、遅れてもう一歩後退する。
二度三度言葉を詰まらせ、結局聞こえないくらいの小さな細い声で「お連れします」とか言って、もう一度リビングを出て行った。
廊下に出た途端走り出したのか、カツカツカツと甲高い足音が早いリズムで遠のいていく。

「…」

さっきまで笑顔でいたのに、いつの間にかそれが引いてたみたい。
少し顎を引いて静かに立陶宛が出て行ったドアを見てたけど、ふっと我に返って、瓶を持ったまま両手を両頬に添えて、むに…っと持ち上げてみる。
…頬の筋肉が固くなっちゃったのかな?
この季節だから外にいるとそういうことあるけど、室内ではあんまりないんだけどな。

「ん~」

暫くむにむに頬を柔らかくした後で、中断してた紅茶の用意を続けることにした。
鼻歌を歌いながらお気に入りのジャムをテーブルの真ん中に置いてあげると、何だかちょっとしたパーティみたいで少しだけうきうきできた。









一体どれくらい待っただろう。
迎えに行ってくるだけなのに何やってるのかな。
随分時間を空けて、立陶宛がコートとマフラーを片腕にかけたものっ凄い不機嫌顔の氷島君を連れてきた。

「やあ。いらっしゃ~い」
「…」

立陶宛の背後。
ドアの所で佇みリビングとキッチンが連なるこの場所を一瞥する氷島君へ、一応挨拶しておく。
一瞬目が合ったけど、合った瞬間また目付きが険悪になる。
やだなあ。顰めっ面しちゃって。
そんなことしたって全然恐くないのに、無駄なこと好きだよね。
僕らの見つめ合いが長引く前に、立陶宛が片手を広げてお客さんとは呼べない迷惑な来訪者にリビングのソファセットの方を示す。

「ど、どうぞ…。座って」
「…まさかお茶飲めとか言うの? 止めてよ」

テーブルに紅茶セットあるの見えてると思うけど、氷島君はそっちに行こうとせず、室内に入る気もないみたいで不服そうにその場で軽く顎をあげて見せた。
左肩に乗ってる黒い鳥が、飼い主と同じように不服そうに胸を張って低く鳴く。
彼は厚いブーツで覆われている右脚の爪先で二回くらい床を叩いてから立陶宛を睨んだ。
立陶宛が萎縮して申し訳なさそうに何かを言いかけたけど、結局止めたみたい。
ふふ…。怖い怖い。
思わず両肩をあげて小さく笑うと、空かさず氷島君がまたこっちを睨む。

「僕帰るって言ったんだけど。…なかなかドア開けなかったくせに、今更何?」
「ああ。ごめんね~。僕さっきまで料理してたか…」
「い、いえ…!露西亜さん先程まで会議が入ってたんです!」

僕が理由を伝えようとすると、立陶宛が僕を遮って声を張った。
身に覚えのない予定をでっち上げられちゃったけど、何だか必死だから一瞥するだけで咎めず訂正もしないことにした。
数歩後ろにいた立陶宛が僅かに前に出て、優しく不機嫌な王子様に話しかける。

「待たせちゃって本当にごめんね。外寒かったでしょ?」
「…それはあんたじゃなくて露西亜が言う台詞なんじゃないの。普通は」
「僕? あはは。面白い冗談だね~。君が勝手に来たんじゃない」
「だから暫く待っててやったけどもういいって言ってんの!」

ガッ…!とまたブーツの先で床を叩く。
その音に僕も立陶宛も少し驚いた。
眉を思いきりつり上げて声を強めで返されて、ちょっと意外。
…何だか本気で怒ってるみたい。
何で僕が怒られなきゃならないのか分からないけど、彼が声を張るの珍しくてぱちくり瞬く。
寒くて苛々しちゃったのかな…。
そう言えばほっぺたとか鼻の頭とか、すごく赤い気もする。
早く帰らない自分が悪いと思うんだけど…。
大体みんな普通の顔より怒ってたり泣いたりしてた方が可愛いんだけど(特に英国君とか日本君とか)、どうも氷島君はそれらの顔はあんまり可愛くなくて、まだ普通の無愛想顔の方がマシみたい。
少なくとも今みたいにポコポコ怒ってる顔は似合わないらしい。
別に彼が怒ってても何してても全然恐くないし困らないんだけど、珍しいから何だかが妙に焦っちゃって、駄々をこねる小さな子供を宥める心境でこっそり聞いてみる。

「えっと…。そう言えば何しに来たの?」
「うるさい。もう用とかなくなったから帰る」
「あ、氷島さん…!」

一言言い放ってくるっと部屋の入口で氷島君が回れ右すると、そのまま今来たばかりの廊下を足早に歩き出した。
立陶宛がすぐに追いかけて彼もまた部屋から出るけど、僕は彼を折って部屋の入口まで行ったはいいものの、ドアに片手を添えただけで立ち止まった。
目の前でカツカツと冷えた廊下に二人の足音が響く。

「ちょ、ちょっと…。待って待って…!」
「うるさいな。一度戻ってやったんだからもういいでしょ」
「…」

二人が廊下の角を曲がって足音が遠のいていった。
…少しその場で佇んでいたけど、廊下の角曲がった先の、ずっと向こうにある玄関が開く重い音を微かに聞いて、僕も部屋から廊下へ飛び出すと足早に玄関の方へ二人を追うことにした。







僕が玄関に着いた時、両開きの扉の向こうは既に雪が降っていた。
冷たい北風が濁流みたいに家の中に飛び込んできて、口を開いた玄関から冷気が廊下を滑って僕の背後へ向かう。
さっきよりは少し落ち着いた様子で玄関前に立っていた立陶宛が僕を振り返ったけど、彼を相手にしないでそのまま彼の隣に並ぶと、玄関から庭に降りる数段の段下で、門の方へ歩き出していた氷島君の姿が見えた。

「あ…」

その姿を構成してるコートとマフラーにはたっと目が留まる。
灰色のコートにちょっと草臥れたシンプルな白マフラー。
…二週間くらい前かな。
一体何の用だったのかは忘れちゃったけど、昼くらいに来たのに何だかんだで結局今日みたいに帰るときは夕方になっちゃって、しかもやっぱり今日みたいに雪が降ってきて酷く寒くなったから、僕の家にいた氷島君が帰れなくなった時があった。
軽装…と言っても勿論季節が季節だからちゃんとコートは着て来てたんだけど薄いやつで、だからその上から着るようにってコートとマフラーを貸してあげたっけ。
気付けなかったけど、彼がずっと腕に持っていた防寒具はどうやら僕のものだったらしい。
窓からその後ろ姿を見た段階でどうして気付かなかったんだろう。
玄関口で佇む僕の隣に歩み寄ると、立陶宛が困り顔で氷島君の背中を見る。

「氷島さん、露西亜さんにコートとマフラーを返しに来たみたいで…」
「…」

きっと最初は畳んで持ってきてくれてたのかもしれない。
でも、庭で待たせてる間にすっかり日は落ちて寒くなってきて、雪も降ってきたし、薄着で帰るにはちょっと辛いから、折角持ってきたけどまた借りて帰るって意味で“もういい”なんだ。
…て事は、氷島君にしてみれば、今日僕の家まできたことは完全に無駄足になっちゃったという訳だ。
もう少し僕が早く料理を終わらせて会ってあげれば、受け取って温かいうちに帰れたかもしれないのかな。
そう思うと、ちょーーーーーーーーーーっとだけ僕が悪い気もしてきて、去っていく背中に向けて、両手を口の左右に添えてメガホン代わりにし、玄関から声を張った。

「氷島くーん!ごめんねー!!」
「ごめ…!!?」

バッ…!と勢いよく隣で立陶宛がこっちを向いた気がしたけど、気にせず遠くで足を止めた灰色の影に声を送る。

「返すのはいつでもいいから、また来てよー。今度はアポイントちゃんと取ってよね~!」
「やだ」

結構距離はあるはずなのに、たぶん小さく呟いただけの彼の返事は僕らの所に風に乗って届いた。
ぷいっと顔を背ける彼に遅れて、首の後ろで蝶々結びしてるマフラーの尻尾が遅れて揺れた。
雰囲気が透明に近い彼に白いマフラーは似合いすぎてて、そのまま冷えた空気に解けて消えそう。
コートの方は丈はぴったりくらいなのに肩幅が僕のコートには合わないみたいで、実際以上にぶかぶかに見える。
裾がぱたぱたと風に靡いて踊ってた。

「絶対来ない。今日みたいなことになるの嫌だから、後で送る」
「え? 何で??」
「寒い中待ったり帰ったりなんて、誰だって嫌でしょ。あんたのせいで待ってる間に体冷えたし、今から帰らなきゃいけないんだから。…ほんと最悪。二度と来ない」
「じゃあ泊まってっちゃえばいいのに」
「え…!?」

僕が返すと、やっぱりまた立陶宛が横で青筋立てて僕の横で聞き返すような大声をあげた。
ちょっと煩くて片腕伸ばして顔面掴んで静かにさせてあげようかなとも思ったけど、その前に氷島君が回れ右してこっちを振り返ったから注意はそっちに向いた。
僕らの方をちら見してから、片手の指先で俯き気味の顎をちょっと持って、視線を落として少し何かを考えてたみたい。

「明日温かくなったら帰ったら? マフラーとか、僕だって返すなら早く返して欲しいしね」
「…」

間を縫うようにぴゅう~…と北風が吹いて。
その音を持った風が吹き抜けた後、氷島君が半眼のまま顔を上げた。

「…まあ、その方が楽と言えば楽かもね」
「うん、そうだよ。…じゃあ、はい。こっち来てコートとか返して。そのマフラーだって姉さんからもらった大切なものなんだから」
「は…。シスコン」
「君にだけは言われたくないかな~」

詰まらなそうに鼻で一笑して氷島君が言うから言い返してあげると、途端にむっとした顔になる。
わざわざ彼の所まで迎えに行きはしないけど、玄関から片手を伸ばすとそれに応えるみたいにして両手をコートのポケットに入れたまま、とことこ戻ってきた。
機嫌は直ったかな?
傍に来た彼はさっきみたいに怒ってる感じじゃなくて、ほっと胸を撫で下ろす。
隣で僕と氷島君を眺めてた立陶宛も浅く息を吐いた。
よかった。
…家の中に入って玄関を閉めて、廊下を歩きながら氷島君がマフラーとコートを脱ぐと、ぽいぽいっと雑に僕に放り投げ、僕はそのまま真横にいた立陶宛にコートをパスしたけど、マフラーだけは今自分の首に巻いてる新しいものを脱いで、代わりに、手元に戻ってきた馴染みある姉さんのマフラーを巻いた。
…うん。
やっぱりぽかぽかして、これが一番いいな。
マフラーの尻尾をいつもみたいに背中の左右に垂らしてから、隣に尋ねる。

「紅茶飲む?」
「ココアがいい」
「でも紅茶用意してあるから紅茶飲んでね。…あ。そうだ」

開けっ放しだったリビングのドアが見えてきた頃。
不意に気がついて、今僕の首から取ったばかりの新しいマフラーをその首にひっかけてあげた。
片腕伸ばしてぐるーっと首の周りを一週させて巻いてあげると、やっぱり半眼で睨むみたいに一瞥される。

「…何?」
「それ、代わりに使ってもいいよ。あったかいでしょ?」
「別にいらないんだけど。…て言うか室内なんだからマフラー取れば」
「だって首に何かあるの好きなんだもん」
「…変なの」

両肩竦めてため息吐かれて、それで家主である僕よりちょっと先を歩いてた彼は、ドアの前でぴたりと足を止めた。
入らないのかな?と思って思わず僕も足を止めると、馬鹿にしたみたいに振り返る。

「…何してんの?」
「え?」
「あんたがこの家の主人なんだから、先に入るべきでしょ。早く入ってよ」

そう言って僕の背中を片手で突き飛ばす。
そんなバランス崩すほどの力では全然なかったけど、何となく崩れた気分になりながらリビングに一歩踏み込んだ。
入ってすぐの絨毯の上で背後を振り返ると、すまし顔で僕に着いてくるようにして入ってくる氷島君がいて、何だかその考え方とか仕草とかが可愛くて、思わず笑っちゃった。

結局、紅茶は飲まないとか我が儘言うから、用意したティセットは立陶宛と僕で使うことにした。
返ってきた僕の灰色コートを部屋の端に掛けてからリクエスト通り小さな王子様の前には湯気立つココアを置いてあげると、漸く静かに飲み始めて、立陶宛が心底安心したようにほっと息を吐いてトレイを抱え直した。


Кредитования и заимствования



久し振りに客間の鍵を開けて~。
暖房を付けて、部屋用のティセットを用意して、子供っぽい彼にはお似合いかなと思って枕を羊さん枕に替えてあげたところで…。

『迎いに行っから。…デンが』
「…」

据わった目でフォンにテレビ電話かけてきた諾威君の一言とその背後に見え隠れしてる丁抹君がコートを羽織る映像で、氷島君は帰ることになった。
もう色々用意しちゃってるんだから本人もちょっとくらい抵抗すればいいのに、ノーレが言うなら帰るって速攻で決めちゃうし。
…吹雪にでもなって路面凍りまくって来られなくなっちゃえばいいのに。
あとは雪崩が起きて巻き込まれたりとか。

「…君いくつだっけ?」
「完全独立してからは67年経つけど。もうすぐ68」
「…」

本当に独立できてるの…?とか言ったらまた怒っちゃうのかなあ…。
結局、場所は玄関前。
外は寒いし、両開きのドアはばっちり閉まってるけど、内側ですることなくて立ち話。
そろそろ丁抹君が来る頃かなって時間を見計らって、リビングから移動した。
車の中なら温かいから、コートなんていらないし、帰れるもんね。
…でもちょっとつまんないかな。

「…何。まさか寂しいとか言わないでよね」
「ええ~?」

両手を後ろで組んでブーツの爪先で足下の絨毯の毛を躙り潰してると、隣で氷島君が片手を腰に添えて聞いてくる。
寂しいとか、面白いことを言うから、思わず吹き出してしまった。

「何それ。そんな訳ないよ~」
「だろうね」
「ふふ」
「あんたにすれば面倒だろうけど、今度うちの近く来たら寄って」
「…え?」
「だってコートとか借りたお礼。まだしてないし。…アポ無しで来たら入れないけど」

目を伏せてゆっくりした瞬きしてから、また綺麗な色の目を開けて僕を一瞥する。
預けていたマフラーをぐいっと僕に渡してくるから、何も考えず僕はそれを受け取った。

「あんた相手に物の貸し借りとか、長引くと面倒臭そうだから嫌。…から、それもいらない」
「…」

突き返されて両腕の中に戻ってきた、最近下ろしたマフラーを見下ろす。
…別にいいのになあ。
だって彼相手に見返りとか求めたってどうせ何も返せないだろうし、その辺は全zねん期待してないのに。
姉さんのマフラーは駄目だけど、それ以外だったらあげたっていいくらいなのになあ。
…でも、それを言い出す前に外に車が停まる音がした。
ゴーン…って、重いベルの音が響く。
来客からドアを開けることは普通ないし僕もドアを開けずに佇んでたんだけど、氷島君がすぐに玄関を開けて、あんまり好きな顔じゃない丁抹君が現れた。
彼は固くて小さな帽子を片手で持ち上げ軽い調子で僕に挨拶し、氷島に笑いかけて彼を連れて階段を降りていく。
階段が凍ってて足下が危ないからか、途中で氷島君は丁抹君の袖を掴んでいた。
…ぼんやりそれを眺めていると、車に乗る直前、氷島君が段上にいる僕を見上げた。

「…じゃあ、連絡入れてから来てよね」
「あ…。うん」
「来なくてもいいから」

淡々とした挨拶を投げて車に乗り込む彼にひらひら手を振る。
車は…残念だけど、途中で路面を滑ったり雪に乗りあがったり事故ったり道が通行止めになったりせず、まっすぐ彼らの家の方向へ走っていった。
雪を伴った風が強く吹く。

「…なんだ。…つまんないの」
「露西亜さん」

車が立ち去って無意識にぽつりと何か言った気がするけど、何を言ったのか自分で分からなかった。
けど、それを呟いた直後、少し離れた場所で控えていた立陶宛が静かな足取りで傍にやってきたから、別にそこまで疑問が長続きもしなくて、彼を肩越しに振り返りながら開けっ放しのドアを閉める。
片手で重いドアを閉めながら、両肩を竦めた。
うるさい来訪者が去って、家の中はまた静かになった。

「やっと帰ったよ~。もうすっかり遅くなっちゃった。…て言うか、氷島君って待たせると怒っちゃうんだね」
「そうみたいですね。…僕もちょっと驚いちゃいました」
「ね。…うーん。ちょっとうるさいから、これから彼が来たらもういいや。すぐ通しちゃって今日みたいにお茶とかお菓子でも置いて黙らせておいてよ」
「…。あの、露西亜さん。…前々から一度お伺いしたかったんですけど」
「なあに?」
「氷島さん…。気に入ってるんですよね?」
「へ?」

玄関からリビングへ戻る途中。
立陶宛がやけに小声で話しかけ、すごく不思議なことを聞いてきた。
思わずくすくす笑って返す。

「あはは。止めてよ立陶宛~。僕君みたいに趣味悪くないよ」
「え。…い、いえ。僕は別に」
「氷島君我が儘なんだもん。一緒にいると気を遣うし疲れちゃうから、あんまりかな」
「…き、気を遣…って」
「あと周りが邪魔だし。鳥も。…鳥いらないよねえ??」

同意を求めるために聞いてみるけど、立陶宛は、えっと…とか、あの…とか、何か言いたげにもごもごしてるだけで、いつもみたいにいらないですよねっていう同意はなかった。
…まあいいや。
取り敢えず、コートもマフラーも返ってきたし、今度はお礼をされにすごく面倒だけど遊びに行かなくちゃ。
中途半端に用意してあげた客間はそのまま放置することに決めて、羊さん枕もベッドの中央にぺいっと捨てて置く。
今日は結局お泊まりは流れて良かったけど、また後でそんな機会があるかもしれないしね。
その時また用意するのは時間取られるから、もういいや。この部屋はこのままとっておこう。
鼻歌歌いながら客間を出て、寝る前にカレンダーの前に立って首を傾げた。
予定が空いてる日を確認してから、大体お出かけできそうな日にちを絞ってメモしておく。
明日にでも電話して、早めにアポイント取っておこう。
貸し借り云々の約束が先々に伸びるの、僕だって嫌だしね。

翌日。
早い方がいいかなと思って電話すると「朝っぱらから何考えてんの…!」と受話器越しにいつもの不機嫌声が飛んできて面白かった。



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氷の王子にめろめろなろさま。
露氷はほんわかします、ろさまが強行に出ない限りは。
2012.1.16





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