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毎日朝晩。
一応僕だって、上司に挨拶に行く。
行くけど、でも大して特別な話はしなくて、おはようとおやすみを言ってすぐ部屋に戻るくらい。
時々上司が出かけたりしてるとその挨拶も流しちゃうくらいで。
…でも、その日の夜。
上司が不在で、じゃあ帰ろうとした時に、部下の1人に呼び止められた。
待っててくださいって言われて、お菓子食べながら待ってると眠くなった頃に上司が帰ってきて、待たせてごめんなさいねの後に、明日から少しの間、露西亜さんの家にお世話になっておいでなさい…って言うから。
少し固まった。

「…は? 何で。嫌だし」

数秒経って、思いっきり顔を顰めると、上司はテーブルを挟んだ向こう側で小さく息を吐いて困った顔をする。

「あなたの体調について早急に対策を考えるから、決定案が決まるまでの僅かな間だけよ。忙しい間だけなの。我慢なさい」
「やだよ。…だったらひとりで部屋にいる」
「体調の悪いあなたをひとりにさせては行けないでしょう? …隠せているつもりかどうかは知らないけれど、貧血も多いし体力も落ちていると山のように報告書が上がっているわ。夕方から寝てしまう日は熱があることは承知しているし、お茶の時間が格段に増えているのも、すぐに疲れてしまうからなのでしょう?」
「…」
「私たちが不在の間、何方かに傍にいてもらわないと…」

テーブルの上…お菓子の瓶の横に僕の体調不良を訴える報告書の束がそっと置かれる。
頭の上に乗ったパフィンが低く鳴いて僕の代わりに不快を示した。
…そもそも隠せる訳なんてないんだけど、こういう時、僕にも完璧なプライバシーが欲しくなる。
始めにノーレに言ったけど、返事がこなかったんだってさ。
…まあ、無理だと思うよ。
今すごく忙しそうだし。
あと上司は何も言わなかったけど、たぶん丁抹とかにも伝えたりはしていて、都合が悪かったとか、そんな感じでダメだったんだと思う。
じゃあベッドから出ないから…って言ってもダメだった。
そういう問題じゃないわって言って、何方かいないと何かあった時に対応ができないでしょうっていらない心配して…。
とにかく誰かのお世話にならないとダメって言って、少しの沈黙と説教の後、最後に三択が与えられた。
米国か、英国か、露西亜か。
…。
…っていうか、どれもブラックカードだし。
嫌気が差して、結局、勝手にしてよってソファから立ち上がった。
急に立ち上がった僕に驚いてばたばた翼を広げたパフィンに片手を伸ばして肩に移動させながらツカツカ歩いて上司の部屋から出ようとドアを引いた所で。

「Okkar yndi Islandi...,Fyrirgefdu」
「…」

ごめんなさいね…って謝られたから。
そのまま振り返らずに聞こえないふりして部屋に戻って、おやすみはすっかり言い忘れた。
…どうせだったらノーレの家が良かった。
良かったけど、今の僕なんかが行っても迷惑なのは一応分かってるから。
そういう意味では英国の家に転がり込んで行けばよかったと気付いたのは、翌朝家を出る直前だった。
往き道に芬蘭とか瑞典に会ったらそっちに逃げようかと思ってたけど、ふたりとも留守でダメだった。



露西亜の家の無駄に堅くて巨大な門前に着いて、一番に出てきたのは名前を忘れたおっとりした男だった。
離れが用意してありますから、短い間ですけどゆっくりしてくださいねって言って、案内してくれた。
着替えとか、大きな荷物はもう送ってあるから、手持ちは小さな後ろ腰のホルダーだけ。
本城っぽい大きなお城の外縁に付いてる廊下を移動する途中で庭を突っ切るみたいになってて、そこは渡り廊下があって。

「あ…。アイスくんもう来たんだ~」
「…」

廊下の向こうから、露西亜がマフラーを風に揺らしてひらひら手袋した片手を振りながら歩いてきた。
いつもみたいに無意味ににこにこしながら寄ってくるこの家の主人に、まだ全然距離があるくせに、僕を案内してくれて数歩前を歩いていた優男がぴし…ッと背筋を伸ばして直立不動で固まった。
…びびりすぎ。
静かにため息ついてると、彼は片手で腰の後ろで手を組んでいた僕を露西亜に紹介するみたいに示す。
向こうは僕が来ること知ってるだろうから、今更紹介とか…必要ないと思うんだけど。

「あ、えと…。ご報告にあったと思うんですけど、今日から数日間彼を離れに預かることになります…ね」
「うん。聞いてるよ~。今おうち大変だもんね」
「…」
「…あ、あの。一言くらい挨拶とか……」

黙ったまま半眼でその場を眺めていた僕に、優男が青い顔でこっそりと、縋るように耳打ちしたけど、無視しておく。
…別に、こっちだって来たくて来た訳じゃないし。
両目を伏せてそっぽを向くと、彼は更に顔色を悪くしてわたわたしだした。
余裕のない彼と違ってこっちに歩いてきてた露西亜の方は大して気にしなかったみたいで、歩みを一度も止めぬまま僕らと擦れ違う時にもう一度僕に向かって手を振る。

「それじゃあ、いてもいいけど邪魔にならないように隅っこにいてね~♪」
「…」
「し、失礼します…!!」

優男がガチガチの声で挨拶して、揺れる背中とマフラーが見えなくなってから漸く彼は息を吐きながら身体を起こした。
別に暑くもないのに額に汗をかいていて、それをポケットから取りだしたハンカチで拭いながら僕を振り返る。

「…す、すごいね、君。…度胸あるね」
「…?」

よく分からないけど褒められて、ハンカチを取りだした時に一緒にポケットに入っていたことに気付いたらしい飴玉をひとつ僕にくれた。
すぐに口に放り込みながら、続けて彼の後を着いていく。
一度背後を振り返ったけど、もう誰もいなかった。
仕事してるって雰囲気じゃなかったけど…たぶん露西亜もそれなりに忙しいんだろうから、僕がいてもいなくても直接的には大して関係ないんだろう。
僕を預かるって行ったって、実際にこうして案内してくれたり接待してくれるのは使用人の人たちだろうから。

「…」

そう言えば、敷地内に入ってから案内してくれている彼と露西亜以外誰にも会ってない。
…まあ、これだけ広いとたくさん人がいても遭遇率は低いのかもしれない。
暫く歩くと、やがて長い渡り廊下の先がなくなって、芝生が続いて。
その先に、比較的趣味のいい小さな白い建物が見えてきた。
小さな林みたいな庭付き…って、ここだって敷地内だから庭って言えば庭なんだけど…その建物の為の木々みたいなスペースがあって、結構ゆっくりできそうだ。
建物は気に入った。
離れっていうのも嬉しい。

「体調悪いんだって?」
「…まわりが大袈裟なだけだけどね」
「そうなの? …でもまあ、無理しないでゆっくりしてね。荷物は中にあるから、何かあったら何でも言って。立ち入り禁止の所とか勿論あるけど、基本的に自由にしてもらって構わないって、許可はもらってあるから」
「へえ…。意外」

てっきり一歩も出るなと言われることを予想して来た手前、思いの外の好待遇に半眼のままちょっとだけ顎を上げる。
嫌味を込めて呟いてみると、隣で案内してくれた彼は片手を口元に添えて小さく笑った。

「だって君、あまり自分から出歩かないんだよね? …って上司さんから聞いてるんだけど」
「…。まあね」
「出歩かないとは思うけど、出歩かせたくなかったらお菓子とお茶と書物を切らさないこと…とも書いてあったかな」
「…」

先に送られてきているらしい連絡書の文面を思い出すみたいに、彼が斜め上を見上げるようにして呻る。
…何か勝手に報告されてるし。
確かに、こんなに上質な一戸建てみたいなのが宛がわれるとは思ってなかったけど、でも例え狭い部屋に通されてもそこから出歩こうとかは、最初からあまり思ってないし。
ご自由にどうぞとか言われても、好きこのんであちこち動き出すタイプじゃない。
でも、如何に上司とは言っても、人のこと勝手に観察してあれこれ勝手に書かれるのだって好きじゃない。
ちょっと気分を害していると、優男は困ったように隣で笑って小首を傾げた。

「でも、まあ…。それが賢いと思うよ。…露西亜さん家ではね」

小声でこっそり囁いてから、そっとドアを引いた。
膨大な敷地内の端の端にある小さな別館は端の端にある割りに結構趣味が良くて、特にリビングの壁一面を埋め尽くしてあるぎっしり本の入った本棚はそれなりに気に入った。


Небольшой сад



到着したその日の夜、寝る前に思い出したけど、僕を案内してくれた優男は立陶宛だった。
僕らの間では話題に出る時は“波蘭と一緒にいる人”で通るから、名前呼ぶことってあんまりなくて、だからすっかり忘れてた。
東の子ってあんまりよく知らないけど、でも彼はなかなか気が利くマシな人でよかった。
お茶の時間とか、寝る時間とか…。
そういう上司からもらった依頼事項をしっかり守ってくれる。
あと彼の趣味も読書だっていうから、結構気が合うみたい。
だって波蘭みたいなのがいたら帰るし。
絶対無理。一緒になんかいられない。
…でも、あんなテンションでいられても困るけど、彼の方もその依頼事項をしっかり守りすぎてて、ちょっと面倒臭い。
昨日は10時ちょっと前にお茶の用意が終わって飲もうとしたら、「まだ時間じゃないから待って」って言って止められた。
腕時計を見下ろす彼の前で苛々しながら2分くらい待って、時間きっかりになってから漸くどうぞ…って。
…何だか待てされてる犬みたいで、その日は気分が悪かった。
立陶宛は仕事があるから、一日中付きっきりって訳じゃない。
朝と昼と夜と、その間にあるお茶の時間にひょっこり来るけど、それ以外は自分の仕事をしにどこかへ去っていってしまう。
その間の僕は自由時間で、壁を埋め尽くす本を順番に読んでいった。
本棚の端から、ずーっと順々に潰していくのがちょっと楽しくて、ソファでごろ寝しながら読んだり、庭の木陰で読んだり、ちょっと目眩がする時はベッドに持って行って寝ながら読んだり。
寝るのが惜しくなって、徹夜して読んだり…。

そうやって毎日本ばかり読んでる僕を見て、数日経ったある日。
膝を抱えるみたいに小さくソファに座って、膝の上に置いた本を黙々と読み耽っていた僕へ、お茶の用意をしていた立陶宛が聞きづらそうに小さく尋ねた。

「あ…えと…。ねえ、アイス君。そんなに毎日読んでて疲れない…?」
「…別に」
「で、でもさ、たまには散歩とかしないと…。ずっと黙ってるとストレス堪るって言うし、身体にも良くないんじゃないかな?」
「…。それは慣れてない人がやるとでしょ」
「え…?」

うるさくて集中して続きを読めないから、そこで一度読むのを止めることにする。
ソファの真横にぴっとりくっついていたパフィンが、僕が読むのを止めたことに気付いて黒い羽根を一枚嘴で抜いて差し出してくれたから、それをもらって栞代わりに本に挟んでテーブルの上に置いた。
…丁度お茶の時間だし、そのまま用意されていたティカップを手に取る。
何を言われたか分からないみたいな顔してる立陶宛を一瞥して、一口飲んでからため息吐いた。


「あんたたちが慣れてなくても、僕いつも冬はこうだから」
「冬…?」
「外寒いから、ずっと家で本読んでるの。特に誰にも会わないし、喋る必要もないし。慣れてるから平気。…気遣いとか、疲れるから止めてほしいんだけど」
「あ、うん…。…ご、ごめんね」
「…って言うか」

テーブルを挟んだ向こう側で両手を膝に置いて縮こまっている立陶宛から視線を外し、リビングの横にある本棚を一瞥する。
左上から右下まで、微妙に背表紙が斜めになっていたり、ちゃんと奥まで入ってなかったりする。
…最初に用意されていたよりも少し本の入れ方が雑になっているような気がするけど、片っ端から出し入れしてるんだから歪むのは当たり前だし、仕方ない。
それよりも…。

「そろそろ読み終わっちゃうから、別の本持ってきて」
「え…!?」

言うと、一口ケーキの凹んだ所にジャムを塗っていた立陶宛がぴたりとナイフの手を止め、驚いた顔して僕を見た。

「…何?」
「も、もう読み終わっちゃったの…? ここにあるの全部??」
「全部な訳ないよ。合わない本は読んでないし」

僕にだって好みがある。
雑読家じゃないから、嫌いな本は途中で止めたりするけど。
でも、そこまで飛ばした本はないはず。
…国外の本読める機会なんてあまりないから、新鮮さに背中を押されて少し張り切り過ぎたかもしれないけど。
テーブルの上にケーキが6つ並んだお皿を置いた後で正面のソファに座り、立陶宛が口元に片手を緩く握った拳を添えて壁際の本棚へ視線を送る。

「そうなんだ。…困ったな。これは僕が家から持ってきた本なんだけど、十分かなと思ってこれ以上は持ってこなかったんだ」
「…この家の本はどこにあるの」
「露西亜さんの本? …ああ。そう言えば、本城の地下奥に広い書庫があったっけ。…で、でも、貸してくれるのかな…えーっと」
「…」

何かを思い立ったらしく、折角座った矢先に彼はまた立ち上がるといつも僕の所に来る時片手で持ってくる手帳が置いてある窓際へと歩いていった。
その背中を一瞥してから、すぐに目の前にある苺ジャムのケーキを1つ取って小さく齧る。
ビスケット生地のケーキだから少し欠片が溢れて膝の上に落ちたけど、僕が片手で払う前に横にくっついていたパフィンが小さく翼を広げて膝の上に飛び乗ると欠片を食べ始めたから、ちょっとくすぐったいけど、そのままにしておくことにした。
…前にいくつか読んだことあるけど、露西亜の家の本は結構読み応えがあるから嫌いじゃない。
折角なんだし、できればいくつか読みたい。
それに本がないと暇すぎてどうしていいか分からない。

「あ、アイスくん。大丈夫大丈夫。書庫は立ち入り禁止じゃないよ」

ケーキを半分くらい食べ終わった頃、立陶宛がソファに戻ってきた。
手帳に立ち入り禁止の地区が書かれているのか、開いたページに片手指を添えながらもう一度チェックして顔を上げる。

「夜に僕もう一度来るから、その時一緒に…」
「いい。…夕方まで待つの嫌だから、自分で持ってくる」
「そ、そう…? 場所分かるかなあ…。ちょっと入り組んでるんだけどね」

立陶宛はそのまま空きページを千切ると、ペンでそこに簡単な地図を書き始めた。
今は確かちゃんと自分の家に住んでるはずだけど、露西亜の家をここまで把握しているのは昔住んでいたからだろう。
…紅茶とケーキを食べながら待っていると、少し経って小さくてシンプルな、要点を詰めた手書きの地図が出来上がった。

「はい。どうぞ」
「…」
「広いから迷うかもしれないけど、もし迷ったら電話くれれば迎えに行くからね。…たまには部屋から出ないと。あそこは静かだから、落ち着くと思うよ。ゆっくり選んでくるといいよ」

ティポットに手を伸ばすと、空いていた僕のカップに注ぎ、一口も口を付けてない自分のカップだけソーサーごと片手で持ってまた席を立つ。
彼が奥にあるキッチンでカップを洗っている間、今さっき手渡されたメモを見下ろした。
…たぶん分かり易い地図だとは思うけど、見知らぬ場所を1人で歩くのは少しだけ不安になる。
なるけど、今の様子からも分かるけど…たぶん立陶宛は来たり行ったりで忙しいみたいだし。
取り敢えず1人で行ってみようと思う。
食器を洗い終わった後でまたリビングに戻ってくると、テーブルの上に置いてあった手帳を取って、襟を正した。

「じゃあね、アイスくん。また夜に」
「…ん」

ぺこりと軽く会釈して、彼は玄関から出て行った。
注いでくれた紅茶を飲んで、ケーキもあともう1個、オレンジのジャムのやつを食べて…それからもらったメモを片手に、上着を着て割り当てられた別館を出た。



最初に着た時に歩いた道を逆らうように、門の方へ向かう。
途中で本城の外廊に差し掛かったところで右に曲がって、正面に出てきたドアを開けて中の廊下に入っていった。
午後のいい時間から少しずつ夕方に差し掛かるけど、まだ暗くはない。
横に広い廊下は天井が随分高くて、上の方は暗いけど、一定間を開けて灯っている電気ランプはそんなに高い位置にある訳じゃないから、窓から差し込む日光に光力負けして意味無い。
ランプとランプの間に絵画やちょっとした飾り物があって、真下を見ると床は磨き抜かれてて水面の上に立っているかのように反転した世界を映してる。
…一歩一歩歩くだけで、カツン…カツン…と、冷たい音がする。

「…。静か」

小さく呟くだけで声は反響して、ちょっと意外な程響く。
僕に同意して頭の上で鳴いた友達の声はもっと響いた。
地図に書かれた『ポルタヴァの戦い』の絵が掛かってる角で一度足を止め、少しの間その絵を見ていた。
スヴィーが見たら嫌な顔するだろうなとか思いながら、角を曲がってまた歩いていく。
…立陶宛が書いてくれた目印の部分をいくつか曲がっていくと、徐々にだけど、本城の中心部に近づいている気がした。
段々窓とかも少なくなってきて、さっきまで馬鹿にしてた壁のランプが重要な光源になってくる頃、唐突に地下へ続く階段が現れた。

「…」

階段の上に立って、そっと下を覗く。
ここまでは普通に床とか壁とか綺麗だったのに、階段は昔ながらの石段になっていた。
壁も石造りで、少し行くと途中か螺旋状になってるらしい。
ランプはやっぱり石壁にあるから明るいと言えば明るいけど…。
…かさかさ立陶宛の地図を広げてもう一度見たけど、やっぱり地図上はここを降っていくことになってる。
階段から離れて周りを見回してみても、近くに他の階段らしきものはない。
ってことは、やっぱりここなんだろう。
…。

「…汚れそう」

少し迷ったけど、石壁に片手を付いて足下に気を付けながらゆっくり降りていくことにした。
石段は古そうで綺麗に整ってはおらず、油断すると歪なでこぼこに足を引っかけそうになる。
一段一段下りていく事に、皮膚の上を滑る空気がひんやりしてくる。
…これ、行きはいいけど帰りに本を抱えて帰るの面倒臭そう。
取り敢えず、読みたい本を決めるだけ決めて、夜になったら一度戻って立陶宛に運んでもらおう。
あんまり重い物持ちたくないし。

「ん…?」

途中、何か牢屋っぽいのがあったりなかったりしたけど、そっちの方は極力見ないようにして進んでいくと、やがて階段の下に小さなフロアみたいな空間が現れて、ぽつりと正面に鉄の扉が出てきた。
…何となくホラー映画っぽくて扉の前で数秒考えて、一度少し手前の壁にあった最後のランプまで数段戻ってその灯りの下で何度目かになるけど立陶宛のメモを開き直し、突き当たりの扉で合っていると確認してからメモを折り畳んでポケットにしまいつつ、再び扉の前に降りていった。
鍵代わりの押さえ木みたいな鉄の棒があるけど、今は使ってないみたいで横の壁に立てかけてある。
そして何故かその横に、ホウキとかハタキとか、ジョウロとか…そういう掃除用具みたいなものがいくつかあった。
倉庫代わりみたいにして使われてるのかもしれない。
…古い本が閉まってある所にはよくあることだけど。
半眼でそれらを一瞥してから扉に手を当て軽く押すと、ぴくりともしなかった。

「…」

少し呆けた後で添えていた両手を離し、袖を捲ってから改めて両手を添えて、今度は力一杯押してみる。
ギ…ギギ……と、いかにもな音を出して、鉄の扉は何とか動いたけど、全部動かす必要はないから僕が入れる分だけ少しスライドさせる程度で両手を話して一息吐いた。
空気の流れができた瞬間、ちょっと黴くさいようなあの独特の本の匂いがふわりと石段の方へ流れてきた。
薄暗い中に一歩踏み込み、手探りで灯りを探る。
スイッチを見つけて押すと、ぱ…っと、一気にその場が明るくなり、目の前にずらりと、数多の本棚がまるで森のようにずっと奥まで並んでいた。
すごく汚いかと思ったけどそうでもなくて、厚手の絨毯に天井のシャンデリア。
端には階段があって、中二階も存在していて、それらはとても圧巻だった。

「…。…へえ」

露西亜のくせに、なかなか整理してるっぽい。
好奇心が疼いて、無意識にふらりと奥へ足を進めると、ずっと肩に乗っていたパフィンが翼を広げて床に落ちるみたいに、ぽて…っと足下に着地し、ぺちぺちと音を立てて僕の後を付いてくる。
…本は、処女作を発表した作家順に並んでいた。
手前の辺りは僕でも知ってるよく聞く作家の名前だったが、足を奥に進める度に知らない名前が増えてくる。
最後の伝記みたいなものはもうタイトルも読めないし作者は不明だし、よく取ってあるなと思うくらい落書きに見えるものもある。
…どれを運んでもらおうかな。
っていうか、この巨大な本棚ごと部屋に持って行ければいいのに。
いくつかめぼしいタイトルを見つけては、立陶宛と取りに来た時分かり易いように整理整頓された本棚の中、ちょっとだけそのタイトル本を引き出しておく。
小さく国歌を鼻歌で歌いながら奥へ奥へと進んでいくと…。

「…。あれ…?」

目の前。
まだ先の方だけど、さっき入ってきた鉄のドアが見えて足を止めた。
…確かにあちこちの細道に入って色々見てきたけど、大体入ってきて真っ直ぐ歩いてきたつもりだったから、少し驚いた。
方向音痴なつもりはないからちょっと意外だったけど、でも気付かないうちにぐるっと回って元いた場所に帰ってきたのなら、じゃあこのまま戻ってもいいやと思ってそのまましっかり閉まっていた正面の扉に近づいていく。
その時は広い空間に1人でリラックスしてて、少しぼーっとしてたから、書庫に入ってきた時に扉を少し開けっぱなしにしていたことなんて忘れていた。
よく考えたら、入ってきた扉と全く同じもう一つの扉だということに気付けたかもしれない。
入る時と違って扉を引くのはそんなに大変じゃなかったから、石段に出て閉めるのは押す時ほど苦労はしなかった。
両手が汚れた気がして、両掌を見下ろしながら石段を上がる。
別館に帰ったら両手を洗って残りのケーキ食べようと思いながら上っていったけど、違和感に気付いたのは残り数段に差し掛かった頃だったから、やっぱり結構ぼーっとしてたのかもしれない。
心地いい風が階段の上から吹いて前髪を揺らして、それに疑問を持って顔を上げた。
…だって、出た先は廊下のはずだし。
窓は広かったから光は差し込んでたけど、でも締め切ってたから風とか吹く訳ないし。
少しの間立ち止まってから、残り数段は一歩一歩確かめるように、様子を窺うようにゆっくり進んでみた。
こっそりと何とか視線が石段から外を覗ける所で足を止めて周りを伺うと…。
花畑だった。
…ヒマワリの。

「…。……何これ」

何か危険がなさそうなんで、そのまま石段を上がりきる。
階段を上がりきった先は歩いてきた廊下じゃなく、ちょっとのタイル床を残してその先はいきなり芝生になっていた。
更にその先は土になってて、オレンジ色の大きなヒマワリが、やっぱり大きな緑色の葉っぱと、それらと同じ背丈くらいまである雑草の中で小さく揺れて太陽を追っている。
…。

「…太陽?」

自分の感想に遅れて、真上を見上げる。
空には、夕時の白い太陽があった。
花畑は奥行きも縦横もかなりあるみたいで、外縁代わりに植えられているみたいな木々までは随分距離がある。
…直接外に出られる道だったのかな。
何気なく数歩進んで、一番近くの花の葉っぱを片手で触った時だった。

「あれ~? アイスくん??」
「…」

突然名前を呼ばれて内心かなり驚いたけど、でも声からして相手はすぐに分かったから。
大して振り向きたくもないけど仕方ないから、一呼吸置いた後で声がした方へ視線を投げた。
僕が立ってる右側。
ヒマワリと雑草の花の間の中で、さっきまでいなかったはずの露西亜が立っていた。
…僕の姿を見ると、ぱたぱた手を振って葉っぱと雑草の間からがさがさ歩いてくる。

「どうしたの~、こんな所で。君家の中に引き篭もるの好きなんじゃなかったの??」
「…。本取りに来たんだけど」
「本? …ああ。じゃあ出口間違えちゃったんだね。ここ僕んちの裏庭なんだ~」
「…裏庭?」
「うん。裏庭って言うか中庭って言うか…。ほら」

露西亜が僕の背後を指差す。
その指先を追って今更ながらに背後を振り返ると、距離はあるけど、今上がってきた石段の後ろに本城のものと思われる石造りの壁があった。
あんまり近いから、殆ど真上を見上げるような状態で首を上げていたからすぐに疲れて…興味もないし、一瞥しただけでまた目の前の大して見たくもない相手へ視線を戻す。
にこっと、露西亜は片手の人差し指を頬に添えて小首を貸してた。

「あのね、こっちのドアは入ってきたドアじゃないんだ。ふたつあってね? …ん~。確かに似てるけど、普通間違えないんだけどな~。だってホントに正反対だしね。…あれ? 君って方向音痴なんだっけ?」
「…」

…いい加減慣れてきた。
はいはい…って心境で、半眼で小さくため息吐いて触っていた葉っぱから手を離し、もう一度周りを見回す。
綺麗といえば綺麗だけど、オレンジ一色で目がちかちかしてくる。

「…っていうかあんたどこから湧いたの」
「ん? ずっとそこにいたよ~。屈んで草取りしてたんだ」

両手は汚れてるから、右腕を上げて袖で目元を擦りながら聞いてみると、露西亜は手に持ったスコップを僕に示した。
…座ってたから見えなかったらしい。
当たり前か。
いくらヒマワリが背の高い植物だからって僕らが隠れる程の高さがある訳じゃないし、屈んでる以外にないだろうし。
常識はずれだからって、突然幽霊や妖精みたいに現れるはずもない。
何だ…って肩すかしくらってると、横に立っていた露西亜が覗き込むみたいに僕を見下ろし、自分の持っていたスコップを垂れ下げていた僕の片手首と甲に両手を添えて、そっと握らせた。
無言のまま暫く睨みあげたけどにこにこしてるだけだから、仕方なく口頭で聞く。

「…。何。触んないでよ」
「ありがとうアイスくん。手伝ってくれるの?」
「誰が?」

ぱっと緩くシャベルを握らされていた五本の指を瞬時にパーにする。
シャベルは重力に従って僕の手から足下へ真っ直ぐ落ちていき、土の上に落ちた。
おっと…って、ブーツの先に落ちる前に慌てて一歩後退した露西亜が離れた隙に、僕の方は数歩分後退して距離を取った…瞬間。

「…っ」
「ん?」

す…っと、体内を冷たい一陣の風が通ったような奇妙な感覚がした。
最近は本当に慣れたけど、それは貧血の直前に起こる風で、やっぱり一瞬遅れでぐらりと世界が大きく揺れた。
後退した最後の一歩で上手く土を踏めなくて少しぐらついたけど、でも転ぶとか有り得ないから。
ぐらついた先で何とかもう一歩踏み直して、耐えた。
けど、身体はどうしてもくの字に折れちゃうし、何とか安定しようと無意識に右手の指先を額に軽く添えたから、如何に鈍くて他人に大した興味のない露西亜でも違和感に気付いたらしい。
頭上に乗ってたパフィンが、僕の目眩に気付いて慌ててそこから落ちるように足下に降りる羽音がした。
視界が白くちかちか蝕まれててよく分からなかったけど、落ちたシャベルを拾いもせずに僕が後退した数歩分寄ってきたらしい。
声は思った以上に近くから響いた。

「どうかした? 大丈…」
「…るさい」

そんな訳ないけど、何となく手を伸ばされた気がして左手を前にして適当に払ったら本当に何かに当たった。
それが伸ばされた腕なのか肩なのかよく分からないけど、それ以上弱ってる自分を見せたくなくて、よたよたしながら上ってきた階段横にあった、巨木の木陰に避難した。
片手を幹について、ゆっくり瞬きする。
…ある程度収まって、一息吐いて振り返ると、さっきまで僕らがいた場所から一歩も動かない場所に露西亜が立っていた。
元々気の抜けた顔してるけど、どことなくいつも以上にぽかんとした妙な顔が、その時は僕への呆れに見えた。

「…。何。何か文句でもあるの」
「え…?」
「僕が体調悪いの、あんた知ってるんじゃないの」
「あ~…ああ、うん。そー言えばそうだっけ?」
「…ボケた?」

ちょっと耳鳴りがした状態のまま、なるべく崩れ落ちないように注意しながら必死に余裕を見せつけて腰を下ろす。
座ると、足下にいたパフィンが心配そうに寄ってきて両足の間に立つと僕を見上げた。
…大丈夫だよって、頭とか嘴撫でてあげたいけど、今はちょっと無理。
両足を前に投げ出して、両手もぶらりと身体の両脇に下ろし、荒い息を整える。
耳鳴りが治まってきた頃、露西亜がヒマワリを背景に小さく笑った。

「あはは。弱いんだねえ、アイスくん」
「…」
「大丈夫だよ~? 安心して。君が手伝ってくれても全然助力にならないのは分かってるし、最初から期待してないから☆」
「あっそ…」

笑顔と一緒に飛んでくるウインクを鼻で笑って突き返す。
僕を放置して、露西亜は足下に落ちたシャベルを拾って回れ右すると、鼻歌歌いながらまたヒマワリの中に戻っていって見えなくなった。

十数分すれば、一度狂った体調も徐々に良くなってくる。
元々突発的なことを覗けば、目眩とか貧血だって長引かない。
結構空が暗くなってきてもまだ夕食までには時間があるから、風も気持ちいいし、立ち上がってまたふらついたら嫌だから、念のためにひとりで家にいる時よりずっと長い時間僕はそのまま木陰にいることにした。
柔らかい風が吹くけど、太陽が遠のいていって、ヒマワリたちは元気がなくなってくる。

「…。ねえ」
「ん~?」

また屈んで草取りしてるみたいだから、今露西亜がヒマワリ畑の何処にいるのかは見当も付かないけど、退屈紛れにオレンジ色の花たちに向かって声をかけてみると、どこからともなく帰ってきた。
声が返ってきた場所を検討付け、大体あの辺にいるのかな…という方向へ視線をやって少し声を張る。

「何でヒマワリしかないの、ここ。…他の花は?」
「ないよ~。人に見せる用の庭は別にあるしね。ここは僕個人の庭だから」
「…ふーん」

別に興味ないけど、社交辞令で相槌を打ちながら改めて周りを見回す。
…本当に、馬鹿みたいにヒマワリ一色。
庭と言うよりは畑って感じ。
出荷でもしそうな勢いで、センスのなさに滅入る。
普通庭とか作る時、色々考えるのに。
英国なんかがこの場にいたら、きっとこんなのは庭じゃない!俺は認めん!!って、力説を始める気がする。

「…あ。暗くなってきたね」

唐突に、見当を付けていた所からはかなりずれた場所から、にゅ…っと露西亜が生える。
マフラーに埋めている顎を上げて、随分前から暗くなり始めていた空を見上げた後で葉っぱと雑草の愛だからこっちへと歩いてきた。

「僕帰るけど、一緒に帰る?? もしもう少し残ってるなら鍵は閉めちゃうけど」
「それだと僕出られないんだけど。…あんた頭悪いんじゃない?」
「やだな~。勿論分かってて言ってるんだよ~」
「…なら言っちゃ悪いけど、幼稚」

僕の返しに小さくくすくす笑ってる露西亜を放置して、ゆっくり木陰で立ち上がってみる。
目眩とかは大丈夫そうだったから、両手でお尻の汚れを払い、それが終わると背中を丸めて足下で一声鳴いたパフィンに片手を伸ばした。
彼をいつものように肩に乗せてから背を伸ばして顔を上げると、さっきまでそれなりに近くに寄ってきていた露西亜がいつの間にかいなくなっていた。
ふと見ると、また畑の方に戻って、ヒマワリをいくつかハサミで切っていた。
何本か持ち帰る気らしいけど、どのヒマワリも茎が太いから切るの面倒臭そうで5本も切ればもう彼の両手もいっぱいっぽかった。
落としそうになって慌てて抱え直している露西亜を無視して、一足先に階段を降りて書庫に向かった。
後から来た露西亜も書庫に降りてきて、僕がそれなりに苦労した気がする鉄の扉を軽々と引くと、重い音を立てて鍵を閉めた。

「迷子にならないでちゃんと付いてきてね。なっちゃっても探さないから」
「…」

にっこり笑いかけた後で、ヒマワリを片腕に抱えながら静まりかえった書庫を露西亜が歩き出し、僕はそれに付いていくことにした。
分かってはいたけど、やっぱり今出てきた裏庭に繋がっている方の扉は本当に唯正反対の位置に対になるように存在していたらしい。
本棚の林を歩いているうちに自分が読みたくて目印に少し引いていた本がちらちら目に入ったけど、頼んだってどうせ運んでくれないだろうし、そもそもヒマワリを持ってるから部屋に運んでとか言うのは諦めた。
やっぱり後で立陶宛に頼もう…とか思いながら、何気なく背後を振り返る。
遠くに鍵をかけた鉄の扉が見えた。
今出てきたはずなのに、何でかずっと人に忘れられた不思議の国への入り口みたいに見えた。

「…。草取りとか、1人で終わるもんなの?」
「ううん。終わらないよ~」

意味のない雑談とか好きじゃないし言う方でもないんだけど、その時は本当に何気なく前を行く露西亜の背中に聞いてみた。
振り返りもせず、マフラーを揺らしながら彼が明るい声色であっさり応える。
その答えがあまりに明るくあっさりしてたから、少し虚を突かれた。

「だってあの広さだからね。全部なんてとても無理だよ~。種まきはできるんだけど、維持できるのは階段周りのちょこっとくらいかな。他はみんな水とか栄養とか、雑草に取られて枯れちゃうよ」
「…何それ。楽しい?」
「うん。楽しいよ~。 綺麗に咲いてくれると、やっぱり嬉しいしね」
「でもそのうち殆どは枯れるんでしょ」
「仕方ないよ。僕にもっと自由時間があれば一日中草取りしてもっとたくさん綺麗にメンテナンスできるけど、何だかんだで結構忙しいしね。君と違って」
「…」

抱えているヒマワリの花びらを指で突っつきながら言う露西亜がちょっと理解できずに、思わず半眼で馬鹿を見るみたいな目になってしまう。
時間が無いなら無いで勿論仕方ないと思う。
だって大人なんだから。
こんなご時世だし、風邪引かないためにたくさん仕事しなきゃいけないのは当たり前だし。
…でも、それを補うための方法なんて、いくらでもある気がするんだけど。
例えば。

「…業者とかに頼めばいいじゃん」
「業者…?」

薄暗い書庫を歩きながら、肩越しに露西亜が振り返る。
両手を後ろで組んだまま、両肩を見せつけるように落としてため息吐いた。

「使用人でもいいけど」
「立陶宛とか良登美野とかってこと?」
「…って言うか、普通に庭師でも雇えば? ヒマワリが好きなら好きでいいけど、あんたがひとりでやるよりもう少し趣味のいい庭になるんじゃないの」
「え~?やだよ~。 だって僕あの庭に他の人入れたくないんだもん」
「…」
「何かほら、あるじゃない? 自分だけの秘密の場所って。そんな感じ?? …あ、そうだ。あのね、立陶宛も知らないから内緒にしてね。折角あんまり人が来ない場所に作ったんだから。昔はあそこちょっと困った僕ん家の子の処刑場でね、いい栄養に…」
「…ねえ。あんた本当に頭大丈夫?」

口の前に手袋したままの人差し指添えて、内緒ねってジェスチャーする露西亜に眉を寄せて結構真面目に聞いてみると、心底不思議そうな顔してそのまま瞬いた。
本気でその単細胞が心配になる。

「…?? 何が?」
「僕さっき普通に入ってたんだけど。その秘密の場所」
「…」

顔をちょっと顰めて言ってみると、前を歩いていた露西亜は僕を振り返ったままぴたりと足を止めた。
僕だけ歩き続けて背中にぶつかる気もないし、僕も一定の距離を空けたままその場で足を止める。
そのまま少し呆けた後で、露西亜が直前の内緒のジェスチャーのまま不思議そうに斜め上を見上げながら首を傾げた。

「…ん?あれ? そう言えば…」
「いや、そう言えばとかいうレベルじゃないし」

呆れて、片手を腰に添えて深く息を吐く。
どれだけ馬鹿なんだ。
…息を吐き終わった後、下から睨み上げるつもりでのほほんと首を傾げてるしてる露西亜を見上げた。
プライベートの、自分が大切にしている場所に他人を上げたくないって感覚は、よく分かる。
僕も割とそれが強い方だから。
方だからこそ、聞かなくていいくだらない情報を得た途端、罪悪感が沸々と湧いてきた。
でもそれを認めるのが嫌で、相手を非難する。
だって実際露西亜が悪いし。

「…あのさ、僕だってそれなりにプライベートの重要性とか、解ってるつもりなんだけど。…すぐ出てってって言ってくれれば出てったし」
「うーん…。すっかり忘れてたみたい」
「一応言っとくけど、僕が悪いんじゃないから。不可抗力だから。迷っただけだし、言わないあんたが悪いんだからね」
「え~? ふふっ。やだなあ~。そんなに畳みかけなくてもいいじゃない。…ねえ、そのまず責任転嫁しとくのって癖?」
「…」

浮かべてた疑問符をすぐに消していつも通りにこにこする笑顔を見せつけられ、両肩を上げてぐっと言葉を飲んだ。
何だか自分がとても大人げなく見えて、場凌ぎに片手の甲を口元に添えて意味のない咳をしてみる。
…くるっと背を向け、露西亜がまた歩き出す。
地味な色の長いマフラーが彼の仕草を追って尻尾みたいに低い場所で揺れた。
さっきよりも長い距離を空けて、僕もそれに付いていく。
いきなり殴られたりしたら嫌だし、普通に歩いているよりはすぐに逃げられるような距離を取ることにしたけど、前を歩く露西亜はまた鼻歌歌いながらリズム取りつつ歩いていく。

「いいよ~別に。あんまり気にしてないから」
「…。そうなの?」
「うん」
「怒られるかなとか思ったんだけど。…今更怒ったりしたらほんと意味分かんないけど」
「うーん…。僕も誰かが間違えて入っちゃったりしたらそのまま撃ったり細かくしたりして、肥料にしちゃおうかなとか思ってたんだけど…」

そこで、くるっと露西亜が空いてる片手を広げ、踊るみたいに振り返る。
コートの裾が広がって、やっぱりマフラーが急なその動きに合わせて大きく揺れた。
瞳の色が似てるから、あんまり見てて嫌いじゃない。

「何かね、平気みたい♪」
「…」

にぱっと無邪気に笑い、後ろ歩きのままそれだけ言ってまたくるりと正面を向いた。
今の一瞬の動きに耐えられなかったのか、鼻歌続けながら歩く彼の方からヒマワリの細い花びらが数枚散って僕の横を通ると、薄暗いこの部屋の床に寂しく落ちた。

僕が全力で開けた扉をやっぱり片手で軽々と閉めて、僕らは明るさのある城内の廊下へ戻ってきた。
あんまりうろちょろされちゃ困るからって、露西亜はまるで罪人を見張る看守人みたいにして別館まで付いてきた。
追いやられるみたいにして別館のドアを開ける。
ここも含めて全部彼の家だけど、今この瞬間はこの建物は僕の場所だから。
彼を中に入れようとかは思わなかった。

「あ、そうだ。あのね」
「…?」

別に別れの挨拶もせず別館に入ってドアを閉めようとした所で、露西亜が思い出したようなそんな声を上げる。
気になって振り返ると、また唇の前に人差し指を立てて内緒のジェスチャー。

「さっきも言ったけど、立陶宛たちには内緒にしてね。その読みたい本とかっていうのは僕が後で持ってきてあげるから」
「いいけど…。でも誰にバレても全然問題なさそうじゃない、あんた」
「ん~…。立陶宛とかはやだな~」
「…? 意味分かんないんだけど。何なの、その変な境界線」
「あ、そうそう」

人の話を全く聞かず、続け様思い出したらしい彼はずっと片腕に抱えていたヒマワリから一本ヒマワリを右手に持ち替えた。
よく見るとそのヒマワリだけ茎の長さが他の4本と違い、ちょっと短めで持ちにくそうだった。
例えばそろって大きめの花瓶に入れたりするのなら、間違いなく邪魔になる1本だ。
その間違いなく邪魔になる1本を、案の定僕に差し出す。

「これいらないから、分けてあげるね」
「いや、いらない」
「うん、じゃあ捨てといて」
「…」

…要するにただ捨てて欲しいだけらしい。
深々とため息を吐いて、適当に片手を上げて仕方なくその一本を受け取った。
指で太い茎を抓み、ぶらぶらさせてみる。
僕が受け取ると、露西亜はいつもみたいな満面の笑みじゃなくて少し微笑む程度に口端を緩めてから、すぐに玄関から数歩分離れ歩きながら小さく片手を上げて振った。

「じゃあね~。もう来ないで大人しくしててね~」
「…て言うかもう用もないし」

ヒマワリ抓んだ片手を腰の後ろにして、空いた手を釣られて同じようにひらひら片手を振りながら彼と別れた。
鼻歌歌いながら足取り軽く去っていくのはいいけど、大の男がやるとその背中は本当鬱陶しい。
目を伏せて、もう一度ため息吐いた。
…今日一日で何度吐いてるんだろう。
ここにいる間に悪癖として染みついたらどうしよう。
独逸や和蘭みたいに眉間に皺とかできるのは勘弁して欲しい。

「…。何か、疲れた」

誰と話しててもそうだけど、相手がいなくなると突然疲れる。
今日は特に疲れた…。
人差し指で自分の眉間を押さえ、皮膚を伸ばしながら館内に入って玄関のドアを閉めた。
すぐにでもソファに寝転がって仮眠を取りたかったけど、ソファの前に来たところで自分の持ってるヒマワリに気付いた。

「…」

僕別にいらないし、露西亜は捨てていいって言ったけど…。
でも綺麗に咲いてる花をゴミ箱にぽい捨てできる程、残虐なつもりもないから。
寝る前にキッチンに入っていって、細くて深いグラスを探してそこに水を張る。

「…ちょっと貸してね」

傍で興味深そうに僕の作業を見ていた友達に断ってから、その首から赤いリボンを取ってグラスに結ぶ。
本当はもっと装飾したいけど、今は眠くてそれどころじゃなかった。
露西亜に貰ったヒマワリをぶすっと挿して、リビングテーブルの中央に置き、それを眺めながら数歩後退する。
…。
…まあまあかな。
部屋のレイアウトが殺風景だから、中央にオレンジ色はとても栄える。
よく見ると形も悪くないし、大振りな花だから華もある。
自己主張強いその色に何気なく遠くから、軽く顎を上げた。

「…案外悪くないかもね」

誰もいない部屋で花主を一言褒めてやり、すぐに背を向けると欠伸をしながら部屋へ戻っていった。








翌日早朝。
いつもみたいに立陶宛がやってきたけど、テーブルの上の一輪挿しを見て悲鳴を上げたからうるさくて両手で耳を塞いだ。
勝手に切ってきちゃダメだよ、怒られるよとか。
かなり失礼なことを言われたから、貰ったんだと主張したら、そんなことある訳がないと更に失礼な返事が返ってきてすごく気分が悪かった。
あまりに腹が立ったから、露西亜にすぐ来てって内線したら立陶宛が横で真っ青になってぶんぶん首を振っていて呼ばなくていいとか泣きそうになってたけど、呼んでやったから、朝食は僕のいる別館で3人で取ることになった。
…とは言え、立陶宛は殆ど立ちっぱなしで食器運んだりお茶淹れたりしてたけど。
食事をしながら事情を説明して証言を求めると、露西亜はバターナイフを立てたまま立陶宛へ頷いた。

「うん。あげたよ~♪」
「…。…え?」
「…だから言ってるじゃん」
「ねえねえ立陶宛~。こっちにパンもう1つちょうだい」
「あ、はい…!」

バスケットから焼きたての湯気立つパンを露西亜の皿に盛った後で、天然気味らしい優男は小声で尋ねた。

「あ、えと…。あげたんですか?ヒマワリを? …露西亜さんのヒマワリですよね?? いつも何処からか持ってくる…」
「うん。綺麗でしょ? 君にはあげないよ☆」
「…」
「何なのあんた。そこ疑うとこ?」
「…あ、いえ。……はい。…ごめんなさい」
「…?」

何が彼をそうさせるのか、妙にぽかんとした顔で僕の方を見たまま、全然心が籠もってない言葉でぼんやり謝ってくる。
…これ以上相手にするのも時間の無駄な気がして、引き摺らないことを決める。
この辺りの人たちってみんなそう。
よく理解できない。
食事が終わって、ぼーっとしてる彼がキッチンへ食器を運んて行った隙を縫うように。

「ねえ。それ、捨てなかったんだね」

正面に座って、ヒマワリの一輪挿しの向こうで両肘着いてた露西亜が、紅茶を淹れたカップの湯気を吹きながら言った。
露西亜が来る時に持ってきた数冊の本のうち、早速一冊目を読み始めていた僕は話しかけられて文章から顔を上げた。
…捨てなかったとか、見れば分かると思うんだから話題にする必要ないと思うんだけど。
取り敢えず、応えてやる。

「まあね」
「…~♪」
「うるさいんだけど」

一言だけ短く返してまた文章を読み進めて暫くすると、鼻歌が聞こえてきたから更に一言上乗せして黙ってもらった。
その代わり、紅茶が飲み終わった後指先で虐めるみたいに延々花びらを突っついていたから、あんまり弄ると弱っちゃうの早いし、文章の合間に片手を伸ばして一輪挿しごと手前に引き寄せ、どん…っと僕の目の前に避難させてあげた。
間を置いて、何が楽しいのか、くすくすマフラーに鼻先押し当てて笑い出す露西亜を、キッチンから戻ってきた立陶宛が不思議そうに恐る恐る一瞥していた。

上司からのお帰りのメールはまだ来ない。
…これともう暫く一緒かと思うと本当…朝からどっと疲れて、何をしてなくてもため息が出た。



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長くなっちゃってすみません。
露氷は何故かお泊まりネタが多い気がする。
2012.1.12





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