一覧へ戻る


「――サ…」

むにゃむにゃ温かい布団の中で丸くなっていると、遠くの方で誰かが呼んだ気がした。
声のする方に指先を伸ばして、掴まえることにする。
声は遠くで聞こえた気がしたけど、思ったよりも簡単に伸ばした手の範囲内に対象はあって、ぐいと肩を掴んでは思いっきり腕の中に抱き締める。
直後。

 ――ばし…!

「あてっ…!」
「寝惚けない」

すぱん、と頭を叩かれた。
…痛いよぅ。
ぼんやりする頭を何とか覚醒させ、寝惚け眼をうっすら開けると、目の前にちょこんと腰を下ろして座っているアイスがいた。
シーツの上に片手を着いて、少し前のめりの格好でもう片方の手が何かを叩いた後のように前に出ていた。
…頭痛い。
丁度脳天のあたりをさすさすしながら視線を上げる僕に、アイスが呆れたような顔を向ける。
昨晩セックスが終わっておやすみした時は風邪ひくといけないからパジャマ着せてあげたのに、今はいつものリボンが付いたシャツ姿だ。
どうやら、もう起きて着替えを済ませているらしい。
彼の様子を見てから、ふと自分の腕の中を見る。
オリンピックの時のマスコットだった、クマさんの抱き枕があった。
…なんだぁ。
アイスだと思ったのになぁ…。
また重い瞼を閉じようとしたところを、ばっさと布団を剥がされる。

「寝惚けてないで起きた方がいいよ。…時間。仕事でしょ」
「う~ん…」
「リトたちが困ってたよ」
「あーとーごーふーん~…」
「その五分を考慮して今の時間なの。遅刻しても知らないからね。…ほら、起きる。着替えここに置いておくよ」
「キスしてくれたら起きる~」
「…はあ?」

俯せにごろりと寝返り、腕を伸ばして何とか片手で彼のシャツの後ろを掴む。
立ち去ろうとしていたアイスが立てなくなり、迷惑そうに僕を振り返った。
そんな彼を下から見上げる。
僕の方が背が高いからいつも上からだけど、こっちからはこっちからでまたとってもキュートなんだよね。
何気に長い睫が目立つし、透明な双眸も目立つ。
僕以上に色素の薄いプラチナブロンドに肌も白いから、彼が照れるとすぐ分かる。
くいくいシャツを引きながら、顔をシーツに埋める。

「キスしてくれたら起きるの~」
「の~って…。本気?どこの子供なの。…て言うか、馬鹿じゃないの?」
「…キスしてくれなきゃ起きない~」
「僕は別にそれでもいいけど。…どのみち、顔伏せてたらできないし」

確かに…。
言われたのでむくりと顔だけ上げると、うんざりした顔で僕を見下ろしている彼と目が合った。
目を伏せて、んって顎を上げて待ってみる。

「…起きなきゃ低すぎて口にできない」

うん、それも確かに…。
仕方ないからのそりと身を起こしてみる。
迷惑そうに一度視線を反らして悪態吐いてから、やっつけ仕事みたいに僕の額にキスしてくれた。
顔を離して、鬱陶しそうに目を伏せる。

「…はい。終わり」

つんとした態度に不釣り合いなほんのり赤い頬が、言葉にできないくらい可愛くて堪らない。
もっとしてほしくて後ろから抱きついたら、突然顔面押し退けられて、そのままにゃーにゃー怒って逃げちゃった。
ぴゅーっと足早に大きなドアをすり抜けていく様子が、猫っぽい。
…うーん。
嫌じゃないとは思うんだけど…。
素直にぺたぺた甘えてくれる時もあるにはあるんだけど、色々な条件が揃わないとそれは無理みたい。
加減が難しいなぁ…って、最近はちょっと距離を計算中。
少し前からの新しい僕の家族は、長い間弟に欲しかった年下の男の子でね。
火山の爆発とか大気汚染があってずっと眠っていたけど、起きてからは前よりずっといいこになっていた。
ようやく懐いてくれたから、本当によかったな。
ずっと仲良く暮らすんだ。

…て、思ってたのにな。

 

 

その日は、朝からアイスの機嫌が特別良かった。
休日で、午前中の遅い時間までごろごろしてたけどいい加減に起きようかってなって、僕が起きたくないとごねたら「熱い紅茶でも飲みなよ」って珍しく淹れてくれた日だった。
けど、彼ちょっと鈍くさいから。
それにいつもは立陶宛や良登美野がやってくれていたし…。
きっと久し振りで感覚が緩んでいたのだろう。
カップを持ち上げようとしたその瞬間。

「あ…!」
「…え?」

彼の手を滑って、それなりに価値のある陶器が割れた。
ティカップが一つ。
ガシャーン…!と、繊細な甲高い音が部屋に響いて、やがて消えた。
ベッドの上でしぶとく横になっていた僕が慌てて起きあがってそっちを見た頃には…。
床を濡らす血のように赤いローズティと割れた白亜のカップの欠片を、中途半端に両手を上げたまま、アイスは双眸を見開いて硬直したまま凝視していた。
…嫌な予感が頭を過ぎる。
そしてそれは予感じゃなかった。

「…。アイス?」
「…」
「大丈夫…?」

細心の注意を払って、刺激しないような柔らかい声をかけてみる。
…でも、そんな僕の気遣いくらいじゃ、解けた魔法が再びかかるわけもない。
濡れた床を凝視していた彼の目が、ゆっくりと僕を見る。

「…。……え?」

ゆら…とそよ風にさえ揺らぐように、ふらりと一歩後ずさった。
欠片でも踏んだのか、パキ…と床が鳴る。
その音に胸を剔られる。
どこまでも澄んでいるアイスブルーの双眸が、瞬いて僕を見た。

「…? 露西亜? …何で?」
「…」
「何ここ…。どこ? 絶対僕の家じゃな……ていうか、あんた何で服着てな、い…」

そこで、どうやら自分も随分な薄着であることに気付いてしまったらしい。
襟の開いたシャツとベルトをしていないパンツは、彼の中では日常的な服装とはいえないみたい。
察して、見る間に、ただでさえ色白な彼の顔から血の気が引いていく。
もう一歩、もう一歩と後ずさる姿を前に、僕は静かにため息を吐いた。
…ああもう。
ひどいなあ。
せっかく夢の中にいるみたいに、毎日、本当に楽しかったのになぁ…。

 

不意に北風が窓を叩いた。
それを合図に氷島が床を蹴って走り出し、僕がベッドヘッド傍に隠して置いてある手のひらサイズの短銃を取り外し、瞬時に狙いを定めてトリガーを引く。
威嚇に一発、目立つ飾りの絵を撃つ。
きれいな女性の絵画のど真ん中にある顔が飛び、カンバスが壁から浮いて床に落ちる間に、二発目は彼が向かう先のドアのノブを撃つと、案の定如何にもな金属音がして、銃声に慣れない彼は反射的に足を止めて身を竦ませた。
一瞬を突いて、布団を左手で払い除けて駆け出す。
敵意を持って接近しても、彼は何もできない。
僕の方を向いての反撃すら、思い立ちもしないようだった。
がばっと両腕で頭を守るように耳を塞ぐだけ。
…可哀想な記憶が多いアイスは、きっとこういうのすごく嫌なんだろうけど。

腕を引いて捻り、床に叩き落とす。
簡単に無力化する体を片膝で上から押さえつけながら、ごめんねと呟いてこめかみに銃を振り下ろした。


Я действительно люблю тебя



仕事が終わって、執務室を出る。
全然遠くはないけれど、家に向かうまでのほんの十数分の間の街道に並ぶお店のうち、本屋の入口に絵本のキャラクターか何かのぬいぐるみが置かれているのを見つけて、殆ど義務のようにそれを買う。
雪の降り止まない家に着いて門を開けると、公の仕事場所と違って人の出入りの少ないプライベートハウスは一面の銀世界だ。
ここだけ、時が止まったみたい。

「ただいまー」
「お帰りなさい、露西亜さん」

コートをぱたぱたしてから玄関に入ると、立陶宛が奥から足早に迎えてくれた。
今日は帰るよって言ってあったからか、すぐに現れた。
迎えてくれるのは嬉しいけど…。
僕は少し眉を寄せる。
だって、彼には「見ててね」ってお願いしてあるのに。

「なんで立陶宛ってば、お部屋を離れてるの?」
「す、すみません…。今、ゴミ捨てに席を立ったところで…」
「…そう」

ちょっと顔が恐くなっちゃったのか、立陶宛がびくびくしながら僕に理由を告げる。
本当は、ほんのちょっとでも離れて欲しくないけど、でも確かにずっとドアの前にいろっていうのは無理だもんね。
分かってる。
納得しなきゃ。
コートを脱いで彼に渡して、少し寄れたマフラーを首に巻き直す。

「…静かにしてる?」
「ええ、まあ…。今の所は」

それならいいな。
…けど、きっと僕が行くと違うんだ。
胸中でぽつりと独りごちる。
僕が行くから暴れ出す。
僕が行くから泣かせちゃう。
そんなことは分かっているけど、階段を登る足を止められない。
無言で歩き出す僕に、立陶宛が無言で付いてくる。
プライベートハウスは決してそこまで大きくはない。
それでも最上階の三階の半分を占める広い部屋が、丸々大きな、僕の鳥籠。

 

 

鍵はかかってないにしろ、重い扉のノブを握ると、ギギギ…と錆びた音がした。
まだ体が滑り込む余裕もないくらい細く扉が開く。
直後。

「…開けるなッ!!」

甲高い裏声の悲鳴が、室内から飛んでくる。
聞いている方が、体が裂けそうになるくらい痛い声。
どんなオペラの台詞よりも胸に来る。
僕は一度、横の立陶宛へ視線を投げた。
彼は曖昧にほんのちょっとだけ首を振った。
…仕方ないよね。
開けるなって言われても、開けないと会えないもん。
改めてドアノブを握る手に力を入れて、ぐっ…と押した。
窓を開けているわけでもないのに、空調管理されている室内と僕たちのいた廊下との温度差に、一度大きく風が吹く。
室内は、今日も無駄なものがなく、ただ広い。
元々は多目的ホールだったところだから当然だけど、床も天井も綺麗な模様が彫られていて、暖炉があって、小振りだけどシャンデリアもあって、壁にも燭台がかかっている。
立陶宛が僕の横を通り過ぎ、手前のソファセットに置いてあったティセットを端の方へ寄せる。
どうやら、今日はお茶くらいは飲んでくれた機嫌だったみたい。
…でも、そのテーブルのすぐ横に割れた破片があったりした。
まあそれは見ない振りをしておくとして、それ以外は陶宛が整理してくれているお陰で、どんなに暴れても大体はこれくらい部屋は綺麗に整えられている。
特に、今日は僕が行くよって言ってあるから、特別お掃除してくれたんだろうな。
だからあのカップは、きっと直前に割られちゃったものなんだろう。

「…立陶宛、そこにいてね」
「はい…」

彼を一番上手に扱えるのは、残念だけど僕じゃない。
お世話を任せている立陶宛がいなくなるといざって時に困るから、少し離れた場所に立っててもらって、僕は奥の衝立の向こうにあるベッドの方へ、街で買ったぬいぐるみ片手に進む。
連絡も入れず不意打ちで来ると、大体ソファがある手前の場所から奥にあるベッドに進む間に、首の切られたぬいぐるみや割れたグラスとか、あと倒れた植木鉢とか切れたブレスレットとか洋服とかが捨ててあったりする。
体から溢れた拒絶を尚示すようなそれらが無いだけ、随分マシだ。
ブレスレットとかはともかく、前は絶対にぬいぐるみを傷付けるような子じゃ無かった。
だから最近は、顔が見たい日は事前に連絡を入れるようになった。
そうすれば、立陶宛がお部屋を掃除してくれるから、まだマシだもんね。
…一瞬息を止めてから、衝立の向こうを笑顔で覗く。

「やあ。元気? アイス」
「馴れ馴れしく呼ばないで!!」

怒声と涙声を半分ずつ混ぜたような大声で、広いベッドの上からアイスが僕を睨んで叫ぶ。
アイスブルーの瞳は、敵意を持って直視されるとそれだけでナイフで刺されたみたいに感じる。
ベッドヘッドの方は左右に赤いカーテンがある天蓋がついていて、枕の左右には今まで買い溜めていたぬいぐるみが山を作っている。
上着こそ着ていないものの、今日はお気に入りのリボンの可愛いシャツを着ていた。
やっぱりこれが一番似合うなと思うけど、そんなに軽い雑談はここ最近できてない。
彼の両手首は、背中に回されて手錠のような小型の拘束具で一括りにされていた。
きっとこれは、今だけ立陶宛がやってくれたんだろうと思う。
たぶんさっき割れてたカップあたりがその名残なんだろうな。
全然痛くないし僕は気にしないんだけど、前に殴られてから、僕が顔を見に来る日には大体アイスは両手を塞がれるようになってしまった。
上司の命令でやらなくちゃいけなかったネックレス型のプレートは、まだ取ってあげちゃダメなんだってさ。
本当は、その手枷も首輪も、可哀想だから取ってあげたいんだけど…。
いつもにも増して自由を拘束されているせいか、毛を逆立てて僕に威嚇する。
真っ赤な顔で、いつものことだけど…既に瞳は水気を帯びていた。

「うざい!!顔見せないでよ!吐き気がするのッ!!」
「えっと…。元気そうだね」
「出てけッ!!」

噛み付く勢いで上半身を前のめりにしながらアイスが怒鳴る。
僅かに乱れた髪の間で、爛々と瞳が黒く燃えている。
思わずたじろいで、でもまだ出て行きたくないし…。
どういていいかちょっと戸惑ってから、片手に持っていたぬいぐるみの存在を思い出した。
彼に見せてあげるために、両手で持って前に出す。
やわらかい素材でできているせいか、クマのぬいぐるみはくたりと頭を垂れて元気がない。

「あ、ねえほら…!可愛い子がいたから、また連れてきたよ。仲間に入れてあげてね」
「っ、や…!」

いそいそとぬいぐるみたちの山に添えてあげようと、ぐるりとベッドを回って横に近づくと、露骨にびくっとアイスが震え、思わず途中で足を止める。
両肩をぎゅっと上げて顔を反らして俯いて、背中がガタガタ震え出す。
背後にまわされた指先が、血の気を失せたように白くなっていた。
丸くなった背中が、透明で小さい。
一呼吸置いても、彼はシーツの上でそのまま。
…。

「ぁ…あの、ね…。今日は何もしないよ? だってほら、疲れてるし…」
「うるさいッ!出てってよッ!!」

震える背中で、尚ぎゅっと縮こまりながらも口調は激しい。
いちいちチクチク言葉が胸に刺さる。

「あんたの顔なんて見たくないの!もう放っといて!!二度と来るなって何度言えば分かるの!?」
「…でも」
「顔見るだけで嫌なの!虫唾が走るの!!あんたなんか大っきら……っい!」

両手が塞がっているせいか、言っている途中でバランスを崩して、べしゃっと横に倒れる。
咄嗟に支えようとしちゃったけど、何とか自律でその反射行動をストップする。

「…っ」
「…」

叫びすぎたせいか、荒く肩で息をしながらも一瞬だけ静かになった。
貧血かな?
音にしないように気を付けながら、ひっそりとため息を吐いた。
アイスが完全に"覚めて"からもう一ヶ月以上経つのに、未だに態度に変化がない。
…おかしいな。
人間でいう細胞にあたる彼の国民の人たちは、大体染め終わったと思ったんだけど。
何が不満なんだろう。
やっぱり、以前は独立国だった時のプライドとか?
困るんだよなあ…ちっぽけなあの人間たちに変な自我を持たれちゃうと。
今度ちょっと、彼の家の人に独立派団体とか増えたかどうか調べてこなくちゃ。
あんまり嫌い嫌い言われると、哀しくなっちゃうもん。
摘めそうな芽は摘んでおきたい。
…けど、それは後でやることで、今は今だし。
どうしていいか分からずベッドサイドでぼうっとしていると、やがて倒れたまま、アイスがぎっと僕を睨み上げた。

「…僕に触らないでよね」
「…」
「指一本触らないで。あんたに触られると腐るんだから」

まだ整わない息のまま、白い顔で睨む。
この状態でどうしてそんなに強気でいられるんだろうって、時々本当に不思議。
今までは、すごく素直で可愛かったのに。
それなりの時間仲良く過ごしていたせいで、それより前の、クールだった彼のことをもう上手く思い出せない。
確かに初めのうちは仲良しにはなれなくて…だから仲良くなりたいなって思って、眠っちゃった時もその後も介抱してあげたんだけど…。
でも、仲良くなる前も、こんなに冷たくなかった気がする。
たぶん今までで一番、彼は僕が嫌いなんだろうな…。
そんなこと当然で解っているはずなのに、冷たくされると哀しくて、その哀しさを上手く霧散させるために口が勝手に開いて意地悪なことを言ってしまう。

「そんなこと言われると、触りたくなっちゃうなぁ」
「…!」

脅しにも満たないそんな一言で、面白いくらい強気な目が揺らぐ。
横倒しになっていた体を、急いで起こして膝立ちに戻った。
僕の方を向いて身体中で警戒するけど、その膝が震えているのがよく分かる。

「…絶対、止めてよね」
「…。ねえ、もうさ、止めない? 僕そろそろ疲れてきちゃった…」

持っていたぬいぐるみを、枕元の他のお友達にそっと加えて置いてあげる。
僕の言葉をどう取ったのか知らないけど、アイスは今の発言に興味を持ったようだ。
震える足で膝立ちになっていた姿勢から、シーツにぺたりと腰を下ろす。

「…止めるって?」
「あ、君を解放するっていうのは無理だよ? 上司からも、絶対君のこと手放すなって言われてるんだ。僕、君がいてくれるだけですごく仕事がはかどるんだもん」
「だから…!そもそもどうして僕があんたと暮らさなきゃなんないの!?」
「あれ~? 最初の頃説明してあげたじゃない。ちゃんと同意書も誓約書もあるし。君の字だったでしょ?」
「そんなの…!」
「それに、周りのみんなも同意済みだしね。…いよいよ切り離されちゃった君だもん。寧ろ僕としては感謝して欲しいんだけどな~」

さり気なく添えると、目に見えてアイスがショックを受けた。
唇を噛んで俯く。
彼が眠りから起きてから今みたいに覚めるまでの間のことは、どうやら漠然としか覚えていないようで、僕と仲良くしている間に自分から北欧のみんなをうざいと拒絶したことは、都合良く忘却の彼方らしい。
自分に甘くて狡いなぁとは思うけど、都合がいいからそのままにしておく。
そういう所も子供っぽくて可愛いと思うしね。
アイスはというと、今僕が言ったようにいよいよ放置されたと感じているみたい。
ここを突かない手はないよね。
だって僕、本当に彼のこと手放したくないんだもん。
…最初は俯いていただけだったけど、段々と哀しくなってきたのか、俯いたまま目を伏せた。
元々潤んでいたらしい目元は、それだけで涙を横に一筋流す。

「…。もう、やだ…」
「…」
「本当に…。もうやだ…」

ぽたぽた涙を零しながら、心底という感じでアイスが呟く。
…僕だってやだよ、こんなの。
前みたいなのがいいなぁ。

「君はどうしたいの?」

ぽふん…とベッドに腰掛けながら、関係ない窓の方を向いて聞いてみる。
背中に、控えめな視線が注がれるのが分かった。

「みんなの所に帰りたいの?もういいやって思われてるのに? 邪魔になっちゃうんじゃない?」
「…」
「僕の一番の望みはね、君や立陶宛たちと一緒に仲良く暮らすことだよ。…でもそれが無理だっていうのなら、君が傍にいてくれればそれでいいかなとも思ってるんだよ」

アイスは性格が捻くれすぎていて、困っちゃう。
好きだっていうと逃げるし嘘だって言うくせに、なら分かり易く信じられるくらい無茶すると、今度は僕が彼の言う束縛家になってしまう。
どうすればいいんだか教えてほしいくらいだよ。
本当に、どこまでも我が儘なんだから…。
居たたまれなくて膝の上で指を弄っていると、嘲笑うような皮肉げな声が返ってくる。

「は…。…それで? だからあんたに懐けとか、そう繋がるわけ?」

ちらりと肩越しに後ろを見ると、案の定そんな顔で僕を見ていた。
意地を張っても仕方ないから、肩を竦めて頷く。

「そーだよ?」
「…」
「僕、結構すごいんだよ。今は」

嘘でも誇張でも何でもない。
彼が眠っている間に、世界は随分歴史書の執筆を進める羽目になったんだから。
悪い話じゃないと思うのにな。
時間はどんなに遅くても構わない。
今すぐにって訳じゃなくてもいいから、せめてこの時、僕のこの提案に無言でいてくれれば良かったのに…。

「…。無理…」
「…」
「絶対…そんなの無理……」

伏せた目から静かに涙を零しながら、力なく首を振ってそんな返答しか返ってこない。
もう一度溜息を吐いて、僕は膝の上に投げている自分の両手を見下ろした。
前は、ぎゅーって何度もさせてくれたのに、この格差は何なんだろう。
理由なんて分かり切ってるけど、それでも納得できない。
…。
はあ…。
本当、疲れちゃうなぁ…。
哀しくなっちゃう。

「…そっかぁ」

落胆して、ぽつりと呟く。
数秒落ち込んで、でも落ち込んでいても仕方ないから、顔を上げる。
心を握るのが無理なら、外堀から埋めていくしかないもの。

「じゃあ、君は辛いだろうけど…。ごめんね」
「…? なに…」

何が、と聞こうとしたのかどうかは分からないけど、僕が座ったままマフラーを首から外してベッドに片膝乗り上げた途端、少し落ち着いていたアイスが耳を突くような悲鳴を上げた。
天井を突き抜けるような少年期独特のテノールは凍った僕の家によく響くし、まして広いこの部屋には尚更だ。
両手を拘束された状態で素早く動けるはずもない。
膝を立てて逃げようともしないんだから、腰でも抜けちゃったのかもね。
髪が揺れるくらいメチャクチャに首を振って泣き叫く。

「ヤダ!絶対ヤダッ!!」
「すぐ終わるから」

目の前で上げられた片足が顔に当たる前に、足首を緩く掴んで宥めるように言う。
…直後。

 ――ガッ…!

「…っ!」
「触るなよ!!」

バランス崩してシーツに仰向けに倒れたと思ったら、空かさず反対側のアイスの足が僕の左目辺りを勢いよく踏んだ。
倒れそうになるのを何とか耐えて、思わず放すところだった手を強く握ると、掴まれている片足を逆に軸にして、思い切り体重かけて踏みつけられる。
ぎりぎりと頭蓋骨が軋む音が聞こえた。

「ふざっ…けんな!」
「…」
「やだ…やだ!ヤダって言ってるだろ!! ねえ、何なの!もう…ホント何なのッ!?」
「…痛いよ」
「触るな!僕に触るな変態ッ!!どっか行け!!」
「…」

半狂乱で拒絶される姿は見ていて辛い。
…おかしいな。
目を狙って足蹴にされる自分が、何だか他人のことみたい。
痛くもないし欠片も怒ろうとは思わない。
ただ、冷たい白い足が、顔とはいえ彼から僕に触れているのが、ほんのちょっと嬉しかった。
好きにさせていると、バタバタと足音が駆けてくる。
さっきの悲鳴を聞いてか、同じ部屋でも距離を置いて控えていた立陶宛が衝立の向こうまで駆けてきた。
その足音を聞いて、流石に僕を足蹴にしているもう片方の足も首を掴んで離させる。
流石にね、人に見られちゃうと困るかな。
それに、うっかり見られちゃったら間違いなくアイスが罪を問われる。
今の僕はそれくらいの立場なんだって、自覚くらいはあるからね。
これくらい流してあげてって言っても、上司も部下もそうはいかない。
どんな強くなれたとしても、結局僕の思い通りにならないことなんて、たーくさんある。

「露西亜さん!何かありましたか…!?」
「ああ…。ごめんごめん、別に何でもないよ~」
「立陶……!」

ぱっと顔を上げて衝立向こうの立陶宛を呼ぼうとした瞬間、ぴくっ…と無意識にこめかみが引きつる。
考える前に体が反射的に動いた。

「…!」

両手でのんびり持っていた彼の足を左手一本でまとめて、アイスの横に肘を置いて寝そべるように滑り落ち、空いた右手でその口を押さえる。
絶望的な目で、近距離でアイスが僕を見た。
ほんのり口元を緩めて、彼に笑みを返す。
…僕があんた呼ばわりなのに、どうして立陶宛の名前は呼ぶんだろう。
そんなの狡いよ。
順番がおかしいと思う。
もごもご蠢くアイスの口を押さえる手に力を込めながら、その力みが声にでないよう気を付けながら立陶宛に返事をする。

「いつものパニックだから、気にしないで。相変わらずご機嫌斜めみたい」
「でも…。あの、お薬お持ちしますか?」

この場合、薬物じゃなくて鎮静剤のことだろう。
最近の常備薬だもんね。
まあ、それでもいいんだけど…。

「ううん、大丈夫みたい。…もう立陶宛はいいから、部屋に戻っていいよ」
「え…。い、いや、でも…」
「…っ!」

腕の中で、ぶんぶんとアイスが泣きながら首を振る。
藻掻く小鳥は可愛く見える。
いつだって羽を折れるからこそ、いつまでだって先延ばしにできて優しくできる。
彼の目をひたと見据えながら、立陶宛に続けた。

「戻っていいよ」

そんなつもりはなかったけど、冷たく聞こえてしまったらしい。
立陶宛は震える声で返事をして、慌てて出て行った。

 

 

 

 

「…そんなに僕と抱き合うの嫌?」

立陶宛が立ち去って…。
静かになった部屋の中で、足と口を抑えられたまま、まだ怯えた涙目を反らして震えているアイスに上からそっと尋ねる。
前は散々やってたのになぁ。
気持ち良いって言ってくれてたし、僕も気持ち良かったしすごく可愛かったのに。
好きな場所とかももうとっくに分かってるんだし、セックスに関して言えば、今更拒絶してももう意味ないと思うんだけど。
僕の質問に、僕を見上げる彼は頷くことも首を振ることもないから、続ける。

「じゃあね、そんなに嫌なら、これから言うことをしてくれたら止めてあげるよ」

言うと、漸くアイスが弱々しい目でシーツに広がる髪の間から僕を見る。
怖がらせないように、ゆっくり告げることにする。

「難しくないよ。"ロッサが好き"って、三回言ってくれたら止めてあげる」
「…」
「毎回、止めてあげるよ? …ね?簡単でしょ?」

小首を傾げて繰り返す。
…数秒経って、そっと彼から手を離してあげる。
特に口を塞いでちゃ、言えるものも言えないもんね。
そう思って足首も一緒に好意で離してあげたのに…。

「…っ!」
「うわ…っ」

手を離した直後、シーツに膝を立てて中途半端に上半身を上げ、そのまま勢いよくアイスが僕にタックルした。
どん…!と酷い音がして額あたりに彼の肩が当たり、今度は踏みとどまれなくて背中から横に倒れる。
いたーい…。

「わ…」

ベッドに横向きに転がって、のんびりと片手をタックルされた額に添えて呻いていると、不意にガッ…!と上になっていた左肩を蹴られ、シーツの上で仰向きに返される。
見上げる先に、やっぱり肩で息をしているアイスが立っていた。
自分を見下ろす視線に慣れなくて、一瞬きょとんとしてしまった。

「…っ、あんたが好きだよ!!」

涙声で高らかに叫く。

「馬鹿みたい…っ。あんた、本当に…最低!」

両手を後ろで拘束されて、首にプレートを下げて、泣いてるのに…。
怒りを湛えた澄んだ目で、僕の左肩に素足を乗せる姿は、どこまでも偉そうで、面白くて。
思わず小さく笑ってしまった。
くすくす笑いながら、左肩にかかる彼の足に指を添える。
僕の指が、冷たくて白い皮膚を滑る。

「え~? …ふふ。ダメだよ。僕の名前言ってないもん。今のはノーカンだよ?」
「っ…ロッサが好きだよ!」
「うん、いいよ。一回目」
「ロッサが好き!!」
「はい、二回目。あと一回ね」
「ロッサ…、が…!」

と、そこまで言って不意に言葉が止まった。
体がよろけて一歩後退し、そのまま花が萎びるようにベッドにぺたんと尻餅を着いてしまう。
…?
もう一回なのに。
どうしたんだろう。
不思議に思って僕は半身を起こすと、目の前に前屈みになるように思いっきり俯いて首を振って、泣き崩れるアイスがいた。
嗚咽を我慢していた今までと違って、本当に子供みたいにしゃっくりをあげながら泣いている。

「アイス?」
「…も…、う…。…やだぁ!」
「嫌なの? …どうして?言うだけなのにそんなに嫌?」
「い、意味…が…。意味が分かんない…っ。なんで、こんな…。…ねえもう、何なのこれ!変だからこれ!!」
「そうかな?」
「…あたま、いたい…!」
「…。そう…」

弱々しく首を振る彼の泣き顔を、穏やかな心境で見守る。
…本当は、ちょっと前みたいに、兄弟や恋人みたいに、仲良く過ごしたい。
でもそれが無理だっていうのなら、そんなに大それたことは望まない。
ランクを、ずーっと下げることだってできるんだ。
例えば今みたいに、泣いても暴れていても大嫌いだと言われても、傍にいてくれればそれで十分だって思える。
これってすごい妥協だと思うんだ。
でも、それが彼の大嫌いな"束縛家"であることも解っているから、難しい。
哀しくさせるのは可哀想だけど…。
僕は君のこと手放すつもりは無いから、我慢してくれなくちゃ。
若しくは、自分で気持ちを調節してくれると嬉しいかな。
細胞である人達はもうある程度染まってるはずだもん、自分の気持ちのコントロールも、きっとコツを思い出せば簡単なはずだ。
蹲る彼に手を伸ばそうとして、止める。
…触らない方がいいかな。
時間はたっぷりあるもんね。
急ぐ必要は無い。
彼のペースで、また微睡みの中に堕ちてきてくれれば、それが一番いい。
その方が、抜けるのも遅いだろうしね。
僕もぺたりとシーツに腰を着けて、蹲る彼を気遣って声をかける。

「でも、あと一回だから、言っておこうよ」
「…」
「じゃないと、ちゅ~ってキスしちゃうぞ。嫌なんでしょ?」

人差し指を立てて戯けて言ってみると、間を置いて、アイスがのろのろと僅かに顔を上げた。
寝てばかりでどことなくしんなりした髪先が、頬にかかっている。
泣き腫らした目元はすっかり赤くなっていて、だから返って目の色が栄える。
声がすぐには出ないのか、暫く金魚のようにぱくぱくと口を開いたり閉じたりしてから、漸く呼吸に声が乗る。

「…。ロッサ、が…。好き…」

まるで水の中から必死に声を紡ぐような。
しゃっくりの途中で途切れ途切れに紡がれる小さな言葉に、満足する。
満足だから、今日はいいや。
照れ臭くてほわほわする。

「うん…。ありがとう」
「…」
「嬉しいな」
「…ば…かじゃ、な…。…っ」

笑顔でお礼を言うと、声を震わせていたアイスは、そのまままた俯せて声を立ててわあわあ泣き出してしまった。
頭を撫でて慰めてあげたいけど…。
今はまだ、止めておいた方がいいかな。
でもきっと、いずれまた撫でさせてくれるだろうって予感はしている。
今は傍にいてくれるだけで嬉しい。
僕は彼と離れたくない。
だって、離れたら好きも嫌いも無くなっちゃうもの。
触れないくらい遠くにいってしまうより、嫌われても傍にいてくれた方がずっといいに決まってる。
好きになってくれたらもっといい。
…目の前に放られた彼の片足に、そっと触れる。
逃げられるかと思ったけど、泣くのに忙しくてそれどころじゃないみたい。
白くて細い、小さな足。
ちょっと前まで、形のいい爪先を、抱き合ってる間に擽るように触ったり、キスしたりするのが好きだった。
彼だって好きだったはずだ。
今だって好きだけど、もう一度擽ってあげるには、もう少し時間が必要みたい。
まあ、あんまりかからないと思うけどね…。
無理強いしちゃ、やっぱり可哀想に思うから。

「…僕、のんびり待ってるからね」

膝に頭を押しつけて泣いている彼を見るのは辛いから、変わらないその爪先を視界に収める。

「もう一度眠りに落ちたら…。もう一度、僕と素敵な恋をしようね」

白い爪先を見つめ、静かに告げて眼を細めた。

 

"好きだから傍にいてくれるだけで十分"…って、よくあるフレーズだけど…。
そんな綺麗事有り得ないだろうって、ずっと思ってた。
でも、それはどうやら大して美しいフレーズではなかったみたい。
なるほど。
きっと、こういうことなんだね。
傍にいてくれるだけで、離れているよりずっといい。
何処か遠くで違う誰かを見ているよりも、すぐそこで、多少涙目でも、僕を見てくれてる方がずっといい。
…何か変かな?
何処か遠くで違う誰かを見ている好きな子の方が好きなんて、そっちの方がなんか変じゃない?
僕はそんな変わった性癖持ってないもん。
ね?
冷静に考えれば、これが普通でしょ?

僕はやっぱり、彼が大好き。



一覧へ戻る


眠り姫シリーズBADENDバージョン。
眠り姫は何気に「続きが気になります…」という感想を多く頂いていたので書いてみたのですが…。
えーっと…ろさまのヤンデレが発揮された。
あと個人的に氷島君に彼を足蹴にしてほしかった。萌える。
2014.3.16





inserted by FC2 system