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「二人とも!映画の撮影ほんっっっとうにお疲れさん!!」
「て、輝さん…!声が少し…っ」
「うるさい。もう少しボリュームを下げろ。店にも僕にも迷惑だ」

よく行くバーのカウンター奥。
店のドアからだと少し暗がりが強くて、そこに座る奴の顔が見えない!…って所で、シャンパングラス片手に、もう片手を拳にして言うと、左に座る翼と右に座る桜庭に揃って突っ込まれた。
思わず大きくなっていた声に気づいて、はっとする。

「…っと。悪い悪い。そうだよな」
「構いませんよ、天道さん。まだ開店直後で他のお客様は何方もいらっしゃらないんですから」

カウンターの内側にいる顔見知りのバーテンが、にこやかに俺をフォローしてくれる。
確かに、今日ここに来たのは開店直後。
まだ他に客はいないようだが、そういう問題じゃないよな。
騒ぎすぎはよくないぜ。うん。
軽くバーテンに片手をあげて「サンキュ」と片目を瞑ってから、咳を一つ。
改めて、グラスを持ち直した。
座ったままだが、少し身を引いて、左右の二人の顔が見られるようにする。

「桜庭、翼。今回の映画はアクションが激しかったし、監督も手抜きのない人だった。お互い見えていない辛いことや苦しいこと、なかなか上手くいかないことも、色々あったと思う。それでも!こうして俺たち三人でやり遂げられたこと、本当に嬉しいぜ!」
「ええ、輝さん。オレもです」
「ふん…。努力を惜しまず常に精進するのは当然だ」
「だよな!きっと俺たちは、もっと輝ける!」

にっと笑って、グラスを掲げる。
ライトが気泡を抱えるシャンパンを、きらきらと星みたいに輝かせた。

「スタッフでの打ち上げはあったが、今日は俺たちだけのクランクアップの小さなお祝いだ。ここは俺の特別好きな秘密の場所なんだ。俺の特別を、大切な二人にも知ってもらえて嬉しいぜ。これからも、三人で頑張っていこう!…それじゃ!乾・パイレーツ!!」
「ぱ……」
「……」
「はっ…!え、あ…か、薫さん!えっとっ、輝さんは今回の海賊映画にかけてですね…!」
「おっ、よく気づいたな翼!どうだ!面白いだろ!?」
「と、とても素敵だと思います!でもでもっ、今回は普通にもやりませんか?ね??」
「ん? そっか?」

海賊映画だったし、いい乾杯の音頭だったと思うんだが、翼は普通にやりたいらしい。
片手をぐーにして身を乗り出してくる翼の意見を尊重して、んじゃま…ってことで、改めてグラスを前に出す。
桜庭と翼のグラスも傍に寄せた。

「んじゃー月並みだが…。お疲れさーん!カンパーイ!!」

チリン…と、どちらかといえば鈴が鳴るような高く澄んだ音が食うに響いた。
それを合図に、バーテンが用意していてくれた簡単な食事兼つまみのような小皿を、いくつか出してくれる。
喉を通るシャンパンはいつものように美味だ。
…いや、いつも以上だな。
殆ど一人で来ることが多いが、今日は桜庭と翼がいるからそれだけで嬉しくなっちまうし、そういうのは味覚にも影響するからな。
乾杯の後に傾けたグラスを戻すと、横で桜庭が開始早々息を吐いて突っかかってくる。

「おい、天道…。君のその下らないダジャレには、常々興が削がれる。忠告してやろう。止めろ。その悪癖を直せばいくらかはマシになる」
「はあ~!? 何でだよ。俺たちの仕事に掛けたいいジョークだっただろ!それに、その言い方は忠告じゃなくて完璧命令じゃねーか!」
「うわあ~。輝さん、薫さん、このキッシュみたいなの、すっごく美味しいですよ♪」

映画撮影終わって、明日は初めてのオフ日!
翌日気にしなくていいのはすげー助かるぜ。
三人でメシに…っていうのは結構あるが、飲みの機会は何だかんだで少ない。
桜庭はあまり飲まないイメージがあるし、翼はどっちかっていうと食事の方がメインだろうからな。
けど、たまにはこういうのもいいって思うから、賛同してくれたんだと思う。
今日は美味い酒と楽しい会話でリフレッシュだ!

 

 

 

「それにしても…」

いくらか時間が経って肴の小皿も増え、シャンパンも二杯目を飲み終わる頃。
ナイフで大きめに切ったウインナーから顔を上げ、翼が店のフロアへ視線を投げた。
ちらちらと客が入ってきたが、まだ時間帯が早いせいかそんなに多くもない。
決して広くはないかもしれないが、飴色の家具と並ぶボトルの輝き。
それらを改めて見回して、翼が感心したように声を零した。

「とてもオシャレなバーですね。オレ、バーとかあまり入ったことがないんですけど、こんなに綺麗な場所だなんて思いませんでした」
「へへ。そうだろ?」

翼の言葉が嬉しくて、思わずにかっと笑いかける。
社会人をやってれば公私ともに酒場に行く機会はあると思うが、色々見てきた中でここは俺の一番のお気に入りだ。
落ち込んだ時や自分を褒めてやりたい時、何となく一人になりたい時…色々なタイミングで来させてもらった。
片隅で目を覆ってこっそり泣いたこともあったし、隣の客を巻き込んで笑い合った時もあったっけ。
あんまり人に教えることはない特別な店だけど、プロデューサーに会ったのもここだったし、桜庭と翼には知っていて欲しいという気持ちが不思議と沸いてきた。
がんがん食い物食べている翼に、縦長の細いメニューを差し出す。

「ここは食べ物も美味しいだろ? 足りないならもっと頼めよ。翼はアルコールは何が好きなんだ? 本当はさ、ここのバーはカクテルも有名なんだ。全員が賞を取っててな」
「へえ。そうなん――…わっ。カクテルって、こんなに種類があるんですか…!?」
「おう。すげーよな!最初のページに、ちょっと大きい写真のカクテルがあるだろ? そこがこの店から生まれたカクテルなんだぜ。バーテンの紹介みたいにもなってて…。けど、残念だが俺はシャンパンが好みでさ、いつも悪いなって思ってるんだ」

言いながらカウンターの内側に顔を向ける。
視線が合ったバーテンはにっこり笑って、磨いていたグラスを少し下げた。

「そんなことはありません。天道さんには、いいお酒を入れていただいていますから。いつもありがとうございます」
「ははっ。飲める範囲が狭いってだけだけどな」
「シャンパンっていうと…」
「簡単に言うとスパークリングワインってやつだな。ドンペリなんてのは、名前知ってるんじゃないか?」
「ドンペリ…!知ってます!高級ワインですねっ!」
「ドン・ペリニヨンってんだ。有名だよな。俺なんかはペリエの方が好きなんだが」
「ぺりえ…ですか?」
「ペリエ・ジュエっていうのがあってさ。…て、飲んだ方が早いよな。じゃあペリエ、一本いいか?」
「かしこまりました」
「あとはルイなんかも有名なんじゃねーかな」

いつものように軽く会釈をして、バーテンが背を向けて用意を始めてくれる。
イスの上で身動ぎし、片腕をカウンターについて、俺も翼の方に身を乗り出してメニューを覗き込む。

「翼、次はカクテル飲んでみろよ。俺、見てみたいやつがあるんだよな。これとか…」
「……輝さん」
「ん?」
「格好いいですっ!!」
「あ? …か、格好いい?」

飲めはなさそーだが見てみたいカクテルを翼に頼んでもらおうと、メニューに横から指を突っ込んでいた俺を、翼がきらきらした顔で見詰めていた。
その目が感動している。
格好いい…?
言われて嬉しい言葉だが、酒を注文したくらいでそんなことを言ってくれるとは思わなかった。
きっと、初めてこういう店に入ったからだろうな。
素直で可愛い翼の言葉に気をよくして、思わず緩んじまう頬を照れ隠しに掻いた。

「何だそりゃ。オーダーしただけだろーが」
「いやいや、大人の男って感じです!」
「ったく。何言ってんだよ。4つしか違わねーのに、おっさん扱いすんなよなー。なあ、桜――」

くるっと反対側を振り向いて、少しの間放置しちまった桜庭の方を向く。
最初からいつもの調子で、俺らをうるさげにしながら静かに飲んでいたし、ついさっきまでぽつぽつ会話に入っていたからそんなに気にしてなかったが、少しの間を置いて振り返った桜庭は、気配がいくらか希薄になっている気がした。
とろんとしているというか、ぼーっとしているというか…。
とにかく、いつもみたいに張り詰めている雰囲気じゃない。
まだ二杯目だが、まさか酔ったとか…?

「おい、桜庭?」
「…? 何だ」

心配になって声をかけてみると、普通の反応で返って来た。
普通の、ピリッとした語気というか何というか…眠そうに見えた目も、どうやらそうでもなさそうだ。
気のせいか?
もう少しで二杯目が飲み終わりそうなグラスを見て、ほっとする。
もしかしたら桜庭は酒を愉しめない奴かもしれないって思ったが、誘った時も付いてきたし、こうして飲み進めてくれているってことは、少なくとも嫌いだったり下戸ではなさそうだな。
どうせコイツのことだ。
自分の中で「何杯まで」とかって決めていて、「これ以上は体に毒だ」とかって飲むのをスッパリ止めるんだろう。
自律強い奴だしな。
ここで俺が「酔ってるのかと思った」とか言ったら確実に怒るの目に見えてるし、触れないでおこう。

「お前、シャンパン好きなんだな」
「別に特別好きなわけではない。普通だ」
「そうか? なかなかいいペースだと思うけどな?」
「薫さん、カクテルのメニューも、見ているだけで楽しいですよ」
「ああ…」
「…」

真ん中にいる俺の背後から、翼が桜庭にメニューを手渡す。
受け取った桜庭は、無言のままぺらりと開いた。
…。

「…なあ。もしかして、眠いか?」
「眠くない」

静かな桜庭に聞いてみても、速攻で否定が飛んでくる。

「眠くない。…ただ、思った以上に居心地がいい店だ。少し気が抜けているのかもしれない」
「ああ、なるほどな!」
「あ、分かります~!本当、素敵なお店ですよね!高級感があってどきどきしますが、リラックスもできるっていうか…」
「そーだろー?」

俺が好きな店の雰囲気を二人も好きになってくれるのは嬉しい。
自主的な口数が多くないのはいつものことだが、それとは別に眠そうに感じていた桜庭の雰囲気は、リラックスしていたからだったんだな。
安心した俺の前に、バーテンがペリエを持って来る。

「天道さん。こちらのワインです」
「ん? …ああ、確かに」

エチケットを確認して、注いでもらって簡単にテイスティングする。
…まあ、ここが出してくれるものを信用してるしな。
正直、シャンパンのテイスティングは流してもいいかなと思うところがないわけじゃないが、この丁寧さも店の魅力の一つだからな。
誠実に仕事してるって感じで、格好いいぜ。
男はそうじゃなくちゃな。
…とはいえ、信用しているからこそいつも軽くなっちまうが。
たぶん珍しいんだろう。その間も、翼が両手をそれぞれ拳にして、きらきらした目で見てくる。
そんな大層なもんじゃないんだけどな…。
「結構だ」とグラスを置くと、バーテンが頷いて用意をしてくれる。
隙を見計らって、また翼が同じ事を言ってくる。

「輝さん、本当に格好いいですね。慣れている所がすごいです」
「何だ~翼。俺を褒め立ててどーする気だー? さてはメシが足らなくてもっと注文したいんだな? いいぞ、頼め頼め!俺がまとめて奢ってやる!!」
「い、いいんですか…!」

そこまで注目されない程度に加減をしつつ、それでもわいわいしている俺たちにくすりと笑って、バーテンがボトルからシャンパンを傾けた。
新しいグラス3つに、金と銀の間みたいな、綺麗な薄い独特の色が注がれていく。

「うわぁ~。綺麗ですね。さっきのとまた色が違う。これがその…えーっと」
「そ。ペリエ・ジュエだ」
「……いい香りだな」

グラスを照明にかざして、短い間色を眺めていた桜庭が、グラスを鼻に近づけてぽつりと静かに呟いた。
小声だったから、翼には聞こえなかっただろうけど、隣の俺には聞こえた。
ちょっと桜庭の方へ肩を寄せる。

「だろ?」
「…」
「あっ…!そういう態度かよ!」

親睦を深めようってのに、俺が寄った途端、桜庭がぷいと壁の方へ顔を向ける。
くっそ…。
相変わらずな奴だな。
一瞬むっとしたが、反対側から翼のおっとりした素直な声が飛んできた。

「わあ。華やか…っていうのかな、これ。ぱあってなりますね。おいしい~」
「翼もさっきよりはこっちの方が好みか? よっし、じゃあ飲みきれるな」
「あ、でも…。オレ、次はカクテルも飲んでみたいです。いいですか?」
「お? ああ、そうか。…んじゃ、桜庭。飲み終わったらもう一杯付き合ってくれよ」
「…頂こう」

そんな感じで、開けたボトルと好きな酒を欠かさないまま、最近あったことや撮影中に感じたこと、これからのことやちょっとだけ愚痴とか、色々会話に花が咲いた。
早くに飲んだから時間帯は早いんだが、変化が目に見えてあったのは、そこから約三時間後のことだ。

「――輝さんの秘密基地で、こうして三人でお酒を楽しめるなんて…。オレ、すごく嬉しいです。オレ、輝さんと薫さんと…勿論、他の皆さんともですけど…本当に会えてよかったです」

感動屋になるらしい翼が、グラスをカウンターに置いて急にそんなことを言い出す。
アルコール飲んで感情が出やすいっていうのもあるだろうし、何より最近きつかったスケジュールの作品が一段落して、きっとほっとしたんだろう。
スタッフの人たちとの食事会や飲み会だってそりゃ楽しいが、完全に気を許せる相手と飲むのはまた違うから、やっぱり礼儀とか気を付けていなきゃなんねーし…。
今日はその辺がなくて、翼の気が緩んだんだろう。
感情的になった翼が、片袖で掬うように目を掻く。

「パイロット辞めなきゃならない時は…オレもう、もう本当にこれからどうしようかと思って…」
「何言ってんだよ翼。そんなの、俺も同じだって。実際、ここでやけ酒してる時にプロデューサーに会ったんだしな。…それに、辛かったと思うけど、翼がパイロット辞めてくれてなかったら、俺たちは絶対に出会えなかったんだ。通るべき道だったんだって!絶対っ!」
「…~っ」

ぽんぽん肩を叩いてやると、目元から袖を離して、翼がこっちを向く。
こぼれてこそいないが、その涙目を見るとこっちまで感動してくる。
一拍おいて、横から翼が抱きついてきた。
大型犬みたいな翼に片腕を回して、今度はぽんぽんと背中を叩く。

「うう~っ、輝さぁ~んっ!!」
「これからも宜しくな、翼!」
「はいっ!宜しくお願いします!!」
「桜庭も――…あ?」

翼を片腕に抱いたまま桜庭の方をくるりと見れば、片腕で頬杖を付いたまま目を伏せていた。
静かに店を楽しんでいるだけと言われればそう見えなくはないが、すぅすぅと一定に吐き出されている呼吸は睡眠のそれだ。
…おっと。
そんなに飲んでないつもりだったが、気づけばボトルは空だった。
やっぱりちょっと眠かったんじゃねーかな?
それとも、飲むと眠くなる体質か?
結構多いよな、そういう奴。
…けど、困ったな。
女の人なら簡単に運べるが、男の酔い潰れは体重が重い分なかなか面倒臭い。

「桜庭? …桜庭!」
「……」

名前を呼んで肩を揺るすると、ふ…と少しだけ目を開けた。
…が、ちらりと俺を見て、そのまままたうとうとと目が伏せ出す。

「おいおいおーい…。まずいな。完全に寝る前に起こして帰らせねーと。おい桜――…って、翼。悪い、抱きつくの今は一旦止めてくれるか?」
「輝さーん。輝さんも薫さんもとってもいい方なんですからー…三人仲良くですね――…」
「って、お前も!? 止めろ寝るな!潰れるな翼っ!お前みたいなデカい奴、連れて帰れないからな!?」

翼に寄りかかられ、桜庭を起こそうとして一人わーわーやっている俺を見て、バーテンがくすりと笑う。

「そろそろお開きですかね」
「ははは…。だな」
「結構飲まれましたね」
「そうか? 仲間と一緒だと、愉しいから進んじまうんだろうな。…悪いが、タクシー呼んでくれ」
「はい。天道さんが愉しそうで、私たちも安心しました」

そう言ってくれた彼に、にっと笑みを返す。
タクシーを呼びに背を向けた彼の先には、カウンター端にアンティークの古い電話機がある。
その横に、今日この店に来てすぐに書いた、俺たち三人のサインが入ったボトルが一本飾られていた。

 

翼はちょっと会話が成り立たない感じで一人あれこれ言っているが、取り敢えずはふらふらでもまだ歩けたし、桜庭は今にも眠ってしまいそうだったが、俺が腕を引っ張るのだけは許せないらしく、腕を引く度に「お前の手は借りない」とばかりに思いっきり振り払われるが、間を置くとまたうとうとしてしまう。
そんなことを何度か繰り返してやっとタクシーに押し込んだ。
予定では、愉しく飲んでそれぞれ帰るつもりだったが…これはダメだ。
仕方ないから、二人を連れて俺の家に向かうことにした。
マンションの前に着く頃には、桜庭はもう殆ど半寝状態で、腕を掴んでも今度は振り払われない。

「翼。ちゃんと俺に付いて来いよ? 部屋行ったらすぐ寝ていいからな」
「ひゃい…!オレ、がんばりまふっ!」
「おう。そうしてくれ」

ぴしっと敬礼する翼を、笑いながら振り返る。
よいしょ…と桜庭の片腕を肩にかけ、タクシーから降りた。
取り敢えず翼は勝手に付いてこれはしそうなので、自動ドアをくぐり、キーを通して二枚目のドアをくぐる。
やってきたエレベーターに乗り込んでしまえば、部屋はもうすぐだ。

「しっかし…。二人ともこんなに酔うとはな…」

俺自身そこまで強い方じゃないと思うんだが、翼や桜庭はあまり平日から飲まないのかもしれないな。
そう言えば、あまりお酒の話は話題に出て来ないし、二人とも元医者と元パイロットだ。
職業柄、例えば「何かあった時の為にあんまり飲むなよ」みたいな習慣の方が根付いている可能性だってあるか。
それに、今日の日中がダンスレッスンと舞台稽古だったことも大きいかもしれない。
練習が終わってすぐに移動したし……そう考えれば、体を動かした直後で回りが早かったのかもしれないな。
肩に腕引っかけて担いでいる桜庭の顔を見下ろす。
色が白いせいか、ほんのり赤い頬が余計に目立つ気がする。

「翼は兎も角、桜庭が潰れるまで飲むってのが意外だな…」
「当然らないですかっ!」
「うお!?」

ぽつりと呟いた独り言だったが、傍にいた翼が突然拳を握って力説しだしてびっくりする。

「そりゃ、オレも薫さんも、輝ひゃんの好きな場所に連れてきてもらえて、好きなものを教えてもらえて、すごく嬉しかったですもん。はしゃぎもします…!」
「そうかぁ? はしゃいでたか? コイツ…」
「はしゃいでましたよ~!じゃなきゃ薫ひゃんがつうれぅわけないらないですか~も~。おぇたちだけとくべぅなんていぁれはらうれひぃれふよ~。どーしてわかぁないんでぅかてうひゃ…」
「んん~? おう、分かった分かった。落ち着け落ち着け。部屋行ったら水飲もうな」

ばしーん、と俺の背中を力なく大振りに叩く翼の呂律も、段々怪しくなってきた。
後半何言ってるか全然分かんねーや。
ヒートアップしそうな翼を宥めていると、やっと部屋がある階に付く。
夜の静かな廊下を進んで、キーを通すと漸く部屋だ。
桜庭を抱えていない方の肘で電気を付けると、ほっと息を吐いた。

「ふー。やれやれ。…ほらー、翼ー!靴脱げー?」
「ふぁーい…」
「桜庭、分かるか? 俺んち着いたぞ」
「…」

まるで子供みたいに素直に、目を擦りながら翼が靴を脱ぐ。
その横でもう何度目かになるが桜庭に声をかけてみる。
だが、半寝どころか、もう殆ど夢の中の状態のようだ。
仕方ねーなーもー。
重いし腕が痺れてきて一度降ろしたいが、一度降ろすと億劫になっちまうのが目に見えてるからな。
多少行儀が悪いが、手を使わずに、足だけで靴を脱ぐ。

「ぃよ、っと」

いつもなら揃えるんだが、脱いだ靴に爪先ひっかけて端へ押しやってから、前屈みになって桜庭の靴に手を伸ばす。
そのまままとまってひっくり返らないように注意しながら、何とか革靴を脱がせた。

「翼、ソファで寝ていいぞ。後で水持って行ってやるからな。おやすみ」
「ふぁい…。おやすみなさぁい…」

何度か出入りしている俺の家はもう把握しているだろうから、リビングのソファで寝るように言う。
翼はふらふらしながらも、のそりのそりとリビングへ進んで行った。
…あっちは大丈夫そうな。
デカい翼が完全に潰れなくてよかった。
アイツがもし潰れたら、俺と桜庭でもどうにかできるかどうか、だ。
ほっと一安心したはいいが……さて、問題はこっちだ。

「ほら桜庭。ベッドまで歩くぞー。足だけ出せよ。もう少しだからな」

返事はもうない。
俺に担がれたまま、ぐったり頭を下げている。
本当なら、負んぶさせてもらっちまった方が楽なんだが、ここまで来たらもういいや。
それに、悪酔いじゃないだけマシだ……て、まあこっから吐くかもしんねーけど。
明日大丈夫かな。
休みではあるが、個々人の予定までは把握していないし、聞いておけばよかったぜ。
一応、朝声かけてみるか。
ずりずりと桜庭を引きずるように、寝室へ向かう。
客間もあるにはあるが、すぐに寝かせてやりたいしな。俺んトコでいいだろう。

「ほっ…!」

これまた行儀が悪いが、ぐっと片足上げてドアを蹴り開ける。
電気を点けないまま、暗い室内を奥にあるベッドへ向かうと、まず掛け布団を爪先に引っかけて後ろの方へ寄せる。
シーツが見えた所にぐっと前に腰を曲げて、自分も一度頭から突っ込むような感じで漸く桜庭をベッドに横たわらせた。

「ほ……っと。…ぶはーっ」

俯せに桜庭を寝かせてから、ごろりと反転させて仰向けに返し、漸く曲げていた腰を戻す。
左手を腰に添え、右手でとんとんと後ろ腰を叩いた。
次に肩も叩いて、最後にぐるりと両肩を回す。
コキコキ鳴る関節の音が気持ちいい。
桜庭はたぶん男にしてはどちらかといえば華奢な方なんだとは思うが、それにしたって成人男性一名運ぶってのはやっぱり骨が折れる。
最後に首をぐるっと回し、シャツのボタン上三つを開け、ジレのボタンを取る。

「あー。疲れた」

けど、三人で飲めてやっぱ愉しかったな。
いつもメシばっかだったし。
…つーか、あんまり意識したことねえけど、俺ってもしかして酒強いのか?
今日一日の愉しい時間を振り返りながら、部屋の端にあるハンガーに脱いだジレを掛ける。
ついでに、窓のカーテンを全開にしておいた。
今は暗いからそんなに影響はないが、こうしておけば朝日が昇ると日光が入って起きやすいからな。
翼のいるリビングのカーテンも全開状態だと思うが、そのままでいいだろう。
…さてと。
俺は風呂入って、軽く何か食うかな。
キッチンなら明かりつけてもいいだろう
幸い、開始が早かったせいで、時計を見てもまだ日付が変わるまで三時間くらいある。
寝る場所は、今夜は俺が客間になるが――…。

「…お。そーだそーだ」

クローゼットから着替え出してそのままバスルームに行こうとしたが、その前に思い出して足を止める。
自分ばっかり楽になっちまったが、桜庭ももうちょい楽な格好にしてやんねーとな。
これじゃリラックスできねーだろう。
翼は俺と同じく、飲んでいる時に少し襟ボタン外していた気がするが、桜庭はきっちり留めてやがったからな。
念のため、後で翼も見てやんねーと。
クローゼットからベッド傍へ行こうとするとベッドヘッドよりも足下の方が近かったんで、ぽんっとその辺に着替えを放り投げた。
片膝ベッドに着いて、ひょいと桜庭のパンツの裾を軽く捲り上げ、靴下を脱がせてやる。
自分のだったらポイポイと放って終わりだが、なんせ桜庭だしな。
ちゃんと揃えておいとかねーと怒られそうなんで、ベッドの横の床にてんと揃えて置くことにする。
足下から横に回って、軽く屈み、腰へ腕を伸ばす。
次は、ベルト…っと。
ウエスト細ェなー。
ちゃんと食ってんのかよ。俺絶対ェ入らねーわ、こんな手前の穴で。
ガチャガチャとベルトを外し、パンツのボタンも一個外して中に入ってたシャツを引っ張り出しておいてやる。
気に入って着ているらしいグレイのシャツを引っ張り出したところで、はた…と桜庭が眼鏡だったことを思い出した。
顔を上げて桜庭を見ると、案の定…というか当然そうなんだが…眼鏡をかけていて、少しズレたそれが、まだ顔の上に載っている。
うわ…、俺って馬鹿だな。
いつも見ているくせに、何で忘れてたんだ?
担いでくる時も、最初に取ってやればよかったぜ。
途中で割れたり落としたりしなくてラッキーだったな。割ったら弁償モノだ。

「あっぶねー…。割れてねーよな?」

慌ててシーツに片膝乗せて、小声で呟きながら、横から身を乗り出して寝ている桜庭から眼鏡を外す。
引っかけて起こしちまったら可哀想だし、そろそろと静かに注意深く外してやると、いつもはあんまり見る事のない眼鏡なしVer.の桜庭の顔になる……て、目を閉じてるから大した違いも分かんねーけど。
そう言えば、いつだったか翼がこっそり、「桜庭は眼鏡を取ると割と幼顔になる」的なことを言ってたっけ。
…桜庭がねぇ。
あんまり想像つかねーや。
ただ、黙っているとやっぱりイケメンの類いなんだろーなと思う顔立ちではある。
顎も細いし、"綺麗な顔"ってやつなんだろう。
…こうやって眠ってでもいねーと、まじまじ顔なんか見る機会もねーし、第一起きている間に凝視でもしようものなら、恐らく「下らない」「迷惑だ」「気が散る」で一蹴だ……て、表情と態度付きで想像がつく辺りが逆に面白ぇけど。
真面目なのは桜庭のいい所だが、たまには冗談とかちょっとしたお遊びにも付き合ってほしいよなー。
無事に確保できた眼鏡に、それでも傷とかひび割れがないかざっくり確認して、ベッドヘッドへ置いた。
問題なし!

「よっし!あとはタイとボタン――…ん?」

固めに結んであったタイを手早く解いてぐるぐる左手に巻き付け、ついでにそのままシャツのボタンを俺と同じで上三つ開けてやろうとし、二つ目を開けた所で手を止めた。
首の所に、きらりと光るものが出てきたからだ。
…何だ?
ネックレス?
疑問に思いながら、その正体を知ろうと三つ目のボタンを外して、指先で少しシャツを左右に開く。
露わになった桜庭の首に、銀色のネックレスがかかっていた。
トップが変わっている。
…いや、それ自体は変わってはいないが、少なくとも男物のネックレスのトップとしては、俺は見たことがない。
イルカのネックレスだ。
銀色の、小さなイルカが、鎖骨の凹凸に落ちている。
暗い部屋の中。
窓から入る少ない光がそこにだけ集まって、まるで深海の海の中、小さく光る星のようだ。

「…。これ――」

それは見覚えがあった。
一度だけだが、見せてもらったことがある。
桜庭の、亡くなったっていうお姉さんの形見のネックレスだ。
…今日一日、首に付けてたのか。
当然だが、全然気づかなかった。
俺が見せてもらった時は、大切そうに胸ポケットから出していた。
だから肌身離さず持っているんだろうなとは思っていたが、首にしてることもあるってのは知らなかった。

「…」

…桜庭、本当にお姉さんのこと好きだったんだな。
歌が上手いのも、たぶん彼女が桜庭の歌声が好きだったから、毎日のように病室で歌って聞かせていた経験があってこそなんだろう。
桜庭にとっては、アイドル活動は目的の為のルートってだけかもしれねーけど、俺は…。
…。
…いや、すげー変な例えだけど、俺がもし桜庭の兄貴で桜庭を置いて死んだとしても、今みたいにコイツがこうして歌ったり大勢の仲間と過ごしているのを見たら、安心するし嬉しいと思うと思う。
桜庭が手放しで慕っていたくらいのお姉さんだ。
よっぽどいい人だったに違いない。
だとしたら、やっぱり、桜庭が幸せになることが、一番嬉しいと思うお姉さんなんじゃないだろうか。
まるで、お守りみたいだ。
お姉さんの想いが、このネックレスにはきっと詰まっていて、桜庭を守ってくれたり勇気づけてくれているんだろうな。
男物のネックレスじゃないが、そう思えば桜庭にとても似合って見える。
何だかしんみりとほっこりが同居して、数秒間ぼんやりしてしまう。
しかし、いつまでも浸っているわけにもいかない。
…。
……で、だ。
これは…取った方がいいのか?

「…。えーっと…」

ベッドに腰掛け、片手の指で桜庭のシャツの襟を押さえたまま、ぽりぽりと自分の首を掻く。
ネックレス。
ネックレスか…。
俺は、ネックレス付けたことねーしな……つーか、正直一人じゃ付けらんねえ。
金具が小さすぎて、首の後ろでなんてとても留めらんねーし、前でも首下なんて見えねーし、だからこういう銀色のネックレスはしないというかできない。
頭からかぶるくらいチェーンが長けりゃいいけどな。
だから分からないわけだが、普通は寝る時に眼鏡みたいに取るもん……なのか?
俺の周りにも、男でネックレス付けて寝てる知人や友達はあんまり見たことがない。
いたとしても、寝る時は取っていた。
そんなに多くない女性経験を振り返っても、やっぱりネックレスやピアスを首にしたまま寝ている女の人はいなかった気がする。
翼が知っているかもしれないが、アイツも潰れてるしなぁ…。
取って普通のものなら、取ってやらなきゃならない。
しかも、特別大切な桜庭の宝物だ。
勿論眼鏡以上に大切だろうから、取るべきもんなら取っといてやりたい。

「…う~ん」

眉を寄せて少し悩んだ結果、取ってやることに決めた。
少なくとも、やらずに後悔するよりいいだろう。
それに、その辺がよく分からない俺からすれば、単純に首に何かあって寝るよりも、無い方が桜庭がよく眠れるんじゃないかって思う。
ぐるぐる左手に撒いていたタイをヘッドに置いて、ネックレスのイルカを指でそろりと抓み取る。
幸い、ネックレスの金具部分がトップであるイルカのすぐ傍にあった。
動いているうちに、後ろじゃなくて前の方に来ちまったんだろう。
取りやすくて助かる。
小さい抓みみたいなものがあるから、そこを親指で押せば、リングになってる一部が開いて外れるはずだ。
構造は分かっているから、自分の首にあるものを取るわけじゃないし、簡単だと思ったんだが…。

「ん? …お。あれ?」

と、取れねえ…!
途中まで確かに親指で押さえてられんのに、リングから外そうとするともう少しの所で親指が外れてリングが塞がっちまう。
しかも暗いし、よく見えねえ。
元々細かい作業は得意じゃないんだが、おしい感じを数回繰り返し、苛々してきていつの間にか随分身を乗り出していた。
それでももう少し距離を詰めたくて……というか、たぶん横からやってるから上手くいかねーんじゃねえか?
前屈みになっていた体を一度戻す。

「くっそ。ダメだ、取れねえ…!」

小声で舌打ちして、両袖を軽く捲り上げながらもう片膝もベッドへ乗り上げ、膝で立つ。
仰向けで爆睡してる桜庭を踏まないように跨いで、シャツのボタンをもう一つ外して襟を少し開かせてもらった。
ちょっと腹筋がつらいが、起こさねえように気を付けながら前に身を乗り出して両手で正面から金具を外しにかかる。
やっぱりパチパチと弾いちまって二度三度上手くいかなかったが、四回目くらいに漸く外れた。

「っしゃ!取れ――」
「――…」

銀のチェーンを桜庭の首から抜いて、左手をシーツに着いた所で、すぅ…と気配が動いたのが分かった。
人が起きる音というか、雰囲気というか…。
静かにしていたつもりだったが、桜庭が薄く眼を開ける。
やべ。起こした…!
ぎくりと一瞬身を固くする。
俺からすると桜庭が起きたのはすぐ分かったが、酔って寝ていた桜庭はすぐに俺に焦点が合わなかったらしく、ぼんやり俺の肩越しの天井ら辺、どっかその辺を見ていた。
ぼぉっとしたその顔に、目が行く。
…ああ。
これか、と思う。
翼が言ってた"幼顔"って…。
…。
黙ってたらまた寝るか…?
…とか思いながら見ている間に、そのぼんやりした瞳と目が合った。

「――」
「よ、よぉ…。悪い。起こし――…うわっ!?」

目が合った瞬間、見る見るそこに自我が宿っていく。
絶っ対に怒られると思って、ネックレス持った右手を顔の前に立てて謝ろうとした矢先、バッ…!と勢いよく真正面から腕で払いのけられた。
下から腕を振られて咄嗟に身を引いたものだから、シーツに着いて体を支えていた左腕が浮いてしまい、横に倒れる。
ベッドの上で倒れるだけならまだ良かったが、倒れた所がベッド際すれっすれだったものだから、そのままもう一段、今度は床へと体が滑り落ちた。

「ぇ…わ、どわあっ!?」

反射的にシーツを掴んだのも悪かった。
俺の体重に引っ張られて、ベッドメイクされていたシーツが引っ張られ、それがベッドヘッドまで響いていったらしい。
ガタタバサッ!とさっき置いた眼鏡やタイやタイピン、俺が元々置いているインテリアや文庫本などの小物が落ちる音がして、最後に、カーンッと時計が床に落ちた頃には、俺は妙な格好で仰向けに床に転がっていた。

「っ~…」

こ、後頭部と腰と肩打ったぁ…。
いってて…。
けど、イルカのネックレスは、真っ直ぐ天井へ伸ばした右手の中にしっかり死守してある。
うっかり手放してなくすなんて、絶対できねえ!
痛む後頭部を左手で押さえながら、グーにした掌はそのままに右腕をベッドへ掛けて、のろのろ身を起こす。

「いぃってぇ~…。おい、桜庭!何もいきなり…」

起こしちまったのは悪かったが、いきなり振り払うことはないだろう!…と、文句の一言でも言ってやろうと思ったが、ベッドを挟んだ向こう側に立っている桜庭を見て言葉が飛んだ。
起きてすぐ俺が目の前にいたから驚いせいだろうが、俺を振り払うと同時に向こうもベッドから飛び降りたらしい。
俺が咄嗟にシーツを握ったのと同じように、桜庭は片腕で何故か枕を抱えて、驚いた顔で起き上がった俺を見返していた。
たぶん向こうも反射的に手元にあるものを握ったんだろうとは思うが、だいぶ寄れて開いてるシャツも含めて、いつもぴしっとしてる桜庭のイメージと随分全体的な差があって、俺の中でブレが出る。
驚いているようなその顔も、眼鏡がないせいでさっき感じたようにいつもとの顔立ちの雰囲気の違いが目立つし、何だか、もっとずっと若い知らない奴を相手にしているような錯覚が生じた。

「――」
「――」

一瞬が永く感じる。
まるで、初めて会った奴と、磁石みたいな強さで目が合うような…。

「ぁ…。さ――」
「…――っ!」

一瞬お互いピンと来なくて、けど桜庭が自分の身なりに気づく。
ボタンの外れたシャツに気づいて、片手で合わせて押させると、素早く周囲を見回すような仕草をする。
けど、桜庭は俺んちに来たことはあるが寝室に入れたのは初めてだし、部屋そのものに見覚えなんてないだろう。

「あ、ここ俺――…って!?」
「…」

「ここは俺の家で、酔い潰れたから運び込んでやったぜ」と事情を説明する前に、ぱっと桜庭が突如踵を返してドアの方へ歩き出した。
急に出て行こうとする姿にぎょっとする。
……は?
いや、ちょっと待て。
眼鏡も上着も置きっ放しで、突然何処に行く気だ!?
しかも足下ふわふわしてるからな、お前!
例えばそれがバスルームやトイレでないことは、何故かはっきり分かった。
出て行こうとする桜庭を引き留めようと、反射的に立ち上がってベッドに足を掛ける。

「お、おい!?」
「…」
「待てよ桜庭!!違うって!そうじゃな――」
「輝さん!? 今の音はなんで……!?」
「…!」

ベッドを横断して床に下りた矢先、寝室のドアが勢いよく開いて、翼が飛び込んできた。
まだ千鳥足っぽかったが、丁度出て行こうとしていた桜庭とぶつかる形になって、一瞬桜庭の背がびくっと震える。
ナイス足止め、翼!
しかし、翼まで起こしちまったか。
出て行こうとしていた桜庭を見て、翼が目を丸くする。

「へ? ぁ…か、薫さ……」
「…」
「悪い、翼。今のは俺がベッドから落ちちま――」
「わ、わ…。ちょ…ちょっと待ってっ!?」

翼が足止めしてくれたんで、ほっとして足を緩めて近づいた途端、その翼が俺と桜庭の間に片腕を広げて入り込んできた。
…ん?
ずばっと、今度は俺の行く手を止める翼の行動がよく分からなくて、桜庭に渡そうとしていたネックレスを握った手を中途半端に上げたまま足を止める。

「お、落ち着いてください、輝さんっ!」
「は? え…そこ俺か??」
「…」
「…! 薫さんもっ、逃げないでください!」
「っ…誰が!」

後ろで部屋から出て行こうとしていた桜庭に気づいて、翼がその片腕も掴む。
出て行こうとしていた桜庭は翼の言葉にカチンと来たらしく、結果的には足を止めて振り返った。
…おいおい。
何なんだ。
二人揃って酔ってんのか?
疑問符浮かべまくっている俺の腕も、翼ががしっと掴んだ。
妙に熱の入った顔で、何だか分からないが鬼気迫る圧力で、掴まれた指にぐっと力を入れて俺に詰め寄ってくる。

「落ち着いてください!大丈夫ですっ!俺、驚きませんから!!」
「はあ? …いや、お前が落ち着いた方が……」
「この手のことは一度うやむやにしてしまうと、絶対後で面倒ですよ!話を整理しましょう!?」
「は、話の整理ぃ~?」
「…」

翼の言っていることが全く分からないが、妙な凄みは変に刺激しない方が良さそうだ。
ちらりと桜庭を見れば、そっぽを向いているがいつものように「馬鹿馬鹿しい」とか言い出さないあたり、翼の言っていることが解ってんのか…?
俺は別に翼の絡みに付き合うのはいいが……桜庭は結構酔ってたし、薄暗くて分からなかったが、今だって頬が随分赤い気がする。
大丈夫か?

「翼。話は俺が聞くから、桜庭は寝かせておいてや――」
「三人で!!」
「………お、おう」

があっと眉をつり上げて言う翼は、見慣れなくてちょいと恐ぇ。
翼の右手左手にそれぞれ連行され、俺も、始終静かな桜庭も、すごすごとリビングへ向かうこととなった。

 

 

 

さて、リビング。
移動してきて座らされて、一体全体何の話を整理するのかと思ったら、話題は「俺がしたこと」と「桜庭が出て行こうとしていた理由」だった。
三人掛けのソファの端に俺と離れて座っている桜庭は、足を組んで向こう側に頬杖着いたまま話題に参加するつもりはなさそうだったが、どうやら翼の方は、俺と桜庭が喧嘩をして、俺が悪いことをしたんだと思っているらしい。
…そりゃ、驚かせたことは悪かったかもしれないが、そんな大袈裟な話でもないはずだ。
何だ、そんなことかと思って、素直に俺が寝室に入ってからしたことと起こったことを指折り数えながら教えてやると、テーブル挟んで向こうの一人掛けに座って興奮状態に見えた翼は、次第に落ち着きを取り戻していった。

「――だからな、」

話している間に俺も少し疲れてきちまって、ぐでぇと桜庭と反対側のソファ端に頬杖着いて、ぐったり背もたれに体を預けながら翼にまとめる。

「確かに起こしちまったのは悪かったけどな…。俺だって、桜庭が寝やすいようにと思ってやったわけで、悪気があったわけじゃないんだぜ? お前が心配するような取っ組み合いレベルの喧嘩があったわけじゃないから、安心して落ち着けよ」
「ね…寝やすいように……」

寧ろ俺からすると、桜庭が、何がそんなに嫌だったのか分からない。
起こされたのが腹立ったという感じじゃなかった気がする。
酔ってぼんやりしている所、はっと気づいたら知らない場所にいたから、帰ろうと思ったんだろうか。
人の家に泊まるのは絶対に嫌だとか、人のベッドには寝たくないとかいう人は、たまにいるからな。
だとしたら、勝手に俺のベッドに寝せちまったのが嫌だったって話になる。
確かに、その可能性はなくはない。

「ぁ、ああ~…。そ、そう…ですか……」
「…?」

話終わってそう言うと、翼は両手を顔で覆って背中を丸めた。
何だ何だ。今度はどうした?
結構酔うんだな、翼って。
興奮状態が落ち着いて気持ち悪くなったのかと思い、身を乗り出して様子を窺う。

「おい、翼? どうした。気持ち悪いか? 吐くか?」
「い、いえ…。ふああぁ~……オレ、すごく馬鹿みたいです…。変な勘違いしちゃって…」
「いいって。俺と桜庭が、また喧嘩してるとでも思ったんだろ?」
「いや、その…まあ…。……すみません~」

顔を覆っていた両手で改めて頬を覆い、恐る恐るという調子で俺を見る。
顔がものすごく赤い。
酔っていると、状況がよく見えなくなることがあるもんな。
気持ちよく酔っていたところに大きな物音がして、翼も翼でびっくりしたんだろう。
そこに丁度俺と桜庭が言い争っている風に見えて、心配しただけだ。
苦笑して、ソファから立ち上がった。

「ちょっと酔っちまっただけだろ。気にすんなよ。…そうだ。レモン水作ってきてやる。飲み終わった後に柑橘系はいいんだぜ。桜庭も飲んでから寝ろよ。俺のベッドが嫌なら、客間が空いてるからさ。今更帰るのも億劫だろ?」

つーか、ここに移動してくるのも翼の肩を借りていたし、絶対一人じゃ帰れないからな、お前は。
軽く声をかけてみる。
さっきの一瞬は帰ろうとしていたみたいだったが、泊まるだろ?というニュアンスも含めて言ってみる。
静かに翼に付き合っていた桜庭が、俺の声に、はあ…と疲れたような息を吐いて頬杖を止めた。
頭痛がするのか、今度は頬杖ではなく、こめかみを片手で押さえながら、それでも静かに、漸く口を開く。

「……頂こう」
「よし!待って――…お、そうだ!桜庭。ほら、これ」
「――!」

話している間、無意識にポケットに入れてしまっていたイルカのネックレスを思い出す。
ポケットからそれを取りだして差し出した途端、ばっ…!と桜庭が自分の鎖骨の所へ手を当てた。
「桜庭の身を軽くしてやろうと思って」とは話したが、さっき説明した時にネックレスまで外そうとしていたことまでは言わなかった。
襟のとこ一つだけボタン外した状態にしてあった自分の首にネックレスがないことに気づくと、ものすんげえキツい目で俺のことを睨み上げてくる。
立ち上がったと思ったら、俺の手から勢いよくそのネックレスを掴み取った。

「勝手に触るな!何故君が持っている!?」
「な…。何だよその言い方!寝ている間は外すのかと思って…」
「いらぬ世話だ!!僕に構わないでくれ!」
「あーもー!悪かったよっ!もうそれには触らねえよ!!」

正しくは分からないが、少なくとも桜庭は、どうやらネックレスを寝ている間も付けたままでよかったらしい。
知らなかったとはいえ、悪気はないんだ。そんな言い方ってないだろう!
おろおろしている翼とむすっとして座り直す桜庭に背を向け、俺は大股でキッチンへと向かった。

「…ったく」

グラス三つ用意して、氷を入れていく。
瓶に入っている100%のレモン液を薄く入れて、ウォーターサーバーから水を流し入れ、カットして冷蔵庫の中に入れてあった皮付きレモンを放り込んで、マドラーで軽く混ぜた。
混ぜながら、はあ…とため息を吐く。
疲れた…。
あと、腰と後頭部がまだずきずき痛いぜ…。湿布貼って寝るかな…。
あのまま二人そろって夢の中かと思ったら、とんだ騒ぎになった。
桜庭は真面目で正直だし、いい奴だ。
ただ、アウトラインがはっきりしているから、そこに引っかかると途端に敵意を向けられることがある。
誰だってアウトラインは持っている。俺にだって翼にだってある。
俺だって、桜庭が嫌なことはしたくない。
ただ、見極めが難しいから、時々ああして怒らせるんだ。
今回だって、結局何が桜庭を怒らせたのか、まだよく分かっていない。
イルカのネックレスを渡した瞬間のあの反応を見る限りじゃ、部屋を出て行こうとした時は、勝手にお姉さんのネックレスを取られたことに対して怒っているわけじゃなかったはずだ。
その他で思い当たることといえば……そうだな。例えば、勝手に俺の家に連れて来たことか?
けど、あのまま店に置きっ放しになんてできるはずがない。
感謝こそされても、怒る理由にはならないはずだ。
あとはだから…人のベッドで寝るのが無理だった、とか。
…いや、でもそれだと、人の家のソファで寝ることや、共有のソファとかでも嫌だよな? たぶん。
桜庭は潔癖症ってわけじゃないし、控え室とかのソファだったら仮眠しているのを見たことがあるし……それが理由って線も薄い。
じゃあ、服を緩めてやったことか…?
けど、タイしたままで普通眠れねえだろ。
これだって感謝されてもいいことじゃないか?

「…あーもー!わっかんねーっ!」

最初っからそういう所あったけど、桜庭との意思疎通は難しい。
ライブ中とかレッスン中とか、"ピタっ!"って瞬間は確かにあるのに、それ以上に噛み合わなかったり読めない部分が多い。
片手を腰に添え、もう一度ため息を吐きながらマドラーを横に置いた。
…と、その瞬間、はたっと思い出す。

「…? あれ? けど待てよ。確か俺…」

――「待てよ桜庭!違うって!!そうじゃなくて」

ふと、さっき自分で言った言葉を思い出す。
桜庭が出て行こうとした時、確かにそう言った。
"そうじゃなくて"…?
…。

「…って、何が"そうじゃない"んだ?」

一人眉を寄せて、首を傾げる。
過ぎ去ってしまった今では、あの時に自分が一瞬何を考えてそう口走ったのか、思い出せない。
けど、そう口走ったからには、俺の方でも何か思い当たることがあったのか…?
…。

「…いいや!分かんねーもんうじうじ考えてても仕方ねえぜ!」

少しの間考えてみたが、やっぱ分からん。
桜庭とはこれからも付き合っていくんだし、そのうち分かってくることも見えてくることもあるだろう。
気長に行けばいいさ、気長にな。
今日だって、桜庭の眼鏡をしていない顔を初めて見たわけだ。
こんな感じで、少しずつ見えてくることがある。
俺たちは、時間をかけて今より少しずついいメンバーになれるはずだ。
…にしても、桜庭の奴、翼の言う通り眼鏡がないと随分印象が変わるよな。
気づかなかったが、目元は優しげみたいだし、ああいう驚いたような表情をされると余計に若く見えて、アイツが俺より二つ年下だってことを思い出す。
薄暗い中で確かに目が合った、あの桜庭らしからぬ一瞬の表情。
アイツは、物怖じしないしクールな性格もあって、今まで"格好いい奴"なんだと思っていたけど…。

「…可愛い、か」

目の前の三つ並んだグラスの中身を見詰めながら、無意識にぽつりと口が呟いた。
言葉にすると、しみじみそう感じもする。
俺も割と実年齢より若く見られがちで髭なんぞ生やしてみているが、それとはまたちょっと違う感じだ。
若く見えるからって、俺の場合は"可愛い"には繋がらないだろう。
その辺の違いは、何なんだろうな。
やっぱ顔のつくりか?
例えば、俺や翼は"格好いい"と言ってもらえる機会も多いが、桜庭はそれプラス"綺麗"と言われることが多い。
…けど、やっぱり"可愛い"は聞かないな。
綺麗、格好いい……に、可愛いがプラスされたら、アイドルとしては最強じゃねーか。
けど、なかなかそれは二十代後半に入った男が持ち続けられるものじゃない。
桜庭がそれを持っているってのは魅力の一つだと思うけが、同じ男として、必要だと分かっていても「可愛い」と言われることに多少の抵抗がある気持ちも分かる。
俺の髭じゃねーけど、コンタクトでもいいところを敢えて眼鏡を掛けている理由がそこだとしたら、桜庭はきっとその単語が出てくるのを抑えておきたいんだろう。

「ま、どっちにしろ俺にはない要素だな」

苦笑しながら、レモンが入っていたパックを冷蔵庫にしまう。
ぱたん…と冷蔵庫の蓋を閉じたところで、心臓の鼓動がいつもより大きい気がして、片手を胸に当てた。
どくんどくんと、日頃は意識しない心臓の働きが掌をはっきりと打つ。

「…? 俺も飲み過ぎたか…」

何事も程ほどにしないとな。
トレイにグラスを乗せて、リビングへ戻った。

 

リビングへ戻ると、席を移動した翼が桜庭の隣に座っていた。
何か話していたみたいだが、俺が来た途端、すぐに立ち上がって腕を出す。

「あ、輝さん。ありがとうございます」
「おう。…て、あれ?」

トレイそのものを受け取ろうとした翼を断って、グラスを一つ手渡す。
桜庭にも手渡してやろうと差し出したところで、いつの間にかその顔に眼鏡がかかっていることに気づいた。
まだアルコールが残っていて、俺たちみんなほんのり顔に赤みが入っているが、それぞれ大分落ち着いてきた感じだ。
足を組んで座っている尊大な態度はいつもの桜庭だし、翼も一時みたいにぐでんぐでんという様子ではない。

「何だ、桜庭。もう眼鏡取ってきたのか?」
「…柏木が取ってきてくれたんだ。裸眼のままでは、よく見えないからな」
「それも要因の一つでしたよね…」
「ふーん…」

俺も片手にグラスを持って、空になったトレイをテーブルの端へ置きながら、さっきまで翼が座っていた一人掛けの方に入れ違いで腰を下ろす。
一口飲んでから、グラスを持った手の人差し指で桜庭を差した。

「何だ。結構可愛かったのにな」
「……は?」
「か……えっ!?」
「お前、眼鏡取ると雰囲気変わるよな。なあ、翼?」
「え!? は…え、えっと……ハイ!」

急に話を振ったせいか、わたわたと翼が両手を胸の前で合わせて応える。
…何でそんなに慌ててるんだ?
お前が一番に気づいて俺に教えてくれたことだっただろーが。
桜庭が、見る見る間に不機嫌になっていく。

「……天道。君は人を不愉快にする言葉しか言えないらしいな」
「あ、やっぱり嫌なんだな、そう言われるの。悪ぃ悪ぃ。…けどよ、度が入って実用っていうなら、どっちみちなかなか取れないだろ。寝る時くらいなんだから、やたらめったら人に見られることなんてないだろ。大丈夫だって。ナイショにしてやるからさ」
「……」
「し、心臓に悪い……」
「…? 何か言ったか、翼」

片手を胸に押さえて背を向けている翼が何か呟いたような気がしたが、聞いてみても「何でもない」と首を振るだけだった。
何でもないならいいや、と軽く流す。

「…はー。何だか騒いだせいか、俺まで回った気がするぜ」

一気にレモン水を飲み干して、テーブルに置く。
体をソファに沈めると、そのまま寝ちまいそうだ。
風呂に入る気だったが、もう明日でいいかもな。
両腕を左右の肘置きに置いて、天井を向くと目を伏せた。
控えめな翼の声がかかる。

「ふふ…。確かに、少し疲れましたね。そろそろ本当に休みましょうか。皆さん、明日の予定は?」
「俺はなーんにもナシ!」
「僕も特に予定は入っていない」
「それじゃあ、みんなで朝寝坊できますね」

嬉しそうに翼が笑う。
自堕落なチームだなって、思わず目を伏せたまま苦笑した。

「…ああ、そうだ。面倒でないなら、お前ら客間で寝ろよ。ここよりは休まるだろ」
「ありがとうございます、輝さん。お借りします。…それじゃ、行きましょう、薫さん」

ギ…と音がして、翼が立ち上がったのが気配で分かった。
重くなってきた瞼を開けると、促されて桜庭も立ち上がったところだった。
さっきふらついていたから、どうやら翼がまた肩を貸すつもりらしい。
優しいなあ、翼の奴。
だってのに、桜庭の奴は差し出された翼の手を取らないし、肩も借りる気はないようだ。
"甘え下手"って単語が頭を過ぎる。
その桜庭が、振り返って俺を見た。

「…世話になる」
「おう。もうお前の宝物には触らないから、安心しろ。…悪かったな」

ひらりと片手を上げる。
泊まるにしても相変わらず尊大な態度。よく知る桜庭だ。
さっきの可愛い顔した年下の、思わず何でもかんでも奢ってやって頭撫で回したくなるような青年の面影は微塵もない。
人って、たまにそういうのあるから面白いよな…。 

「それはもういい。…だが天道。まさか、君はここで眠る気じゃないだろうな」
「輝さんも、部屋で寝てくださいね? 一緒に行きますか?」
「いや、いいよ。分かってる。少し休んだら、俺も部屋行って寝るよ」
「ならいいが…」
「それじゃあ、先に休みます。おやすみなさい」
「おやすみー」

律儀に空になったグラスを全部流しへ運んでから、翼は桜庭を連れてリビングを出て廊下の方へ向かっていった。
ふらついているが、桜庭の奴は何とか自分で歩けているらしく、まるで骨折した奴のリハビリに付きそうみたいな感じで翼が合わせて追っていく。
それを薄目で確認してから、もう一度目を伏せて天井を見た。
目を伏せていても照明が眩しく感じて、テーブル端にあるリモコンへ腕を伸ばすと、明かりを落とす。
…ああ、ダメだ。
億劫になってきた。
部屋に戻っても、ベッドはあんな様子だしな。
小物を拾ったりシーツを戻すことすら面倒臭い。
とはいえ、ここで寝ると明日二人に怒られそうだし、風邪ひいちまったらシャレにならないしな…。

「…」

もう少しだらっとしたら、起きて移動しよう…。
そう思って、瞼を伏せた。

 

 

 

――暗い海。
だけど、暗黒ではない。
見えないけれど、遠くに見える夜景のような僅かな光が奥にあるのが分かる。
ザァ――…と、音もなく、これまた見えないが何かが横を通った。
気がした、とかじゃなくて、"絶対に通った"。
それがイルカだと、遅れて気づく。
…ああ。こんな夢を見るのは、絶対あのネックレスを見たからだ。
あれは桜庭だけのものだけど、今はもう、俺にとっても特別だ。
あれを見ると、大したことはできないって分かっていても、桜庭の為に何かしてやりたくて居ても立ってもいられなくなる。
俺が隣にいるぜ!…って、手を握ったり背中をドンと押したくなる。
あっという間に遠くなった存在を追って、イメージの水中を駆け出す。

人のことなんざ一切待たないくせに、見えないイルカが向こうで、美しく寂しく歌う。
"こっちへ来てくれ"と切に呼ばれた気がして、脳みそが、"セイレーン"っていう歌声も見た目も綺麗な魔物の名前を思い出す。
どうせ行っても、ああだこうだ言われるんだ。そんなことは分かってる。
けど、とても放っておけなくて――…。
…。


深海のイルカ




「――…ふごっ!?」

翌朝。
ビク…!と全身が痙攣するような感覚と……まあ、日頃の素晴らしい習慣付けのお陰で、朝寝坊するつもりがいつもの時間に起きちまった。
頭を掻きながら、一旦むくりと上半身を起こす。
目覚めた場所はリビングで、あのあと結局寝ちまって、寝室に移動はしなかったんだっけ…。
だが…。

「……毛布」

起きたら膝に掛かっていた毛布を両手で抓み、朝の寝ぼけ眼で呆然と見下ろす。
何処の毛布かと問われれば、俺の部屋の毛布だ。

「ん~…?」

最後の記憶を思い出そうとしながら、片目を掻く。
…と、脳裏できらりと何かが光った。
影の濃淡と遠い場所から僅かに差し込む街の明かり。
その中で、すぐ目の前に浮かぶ銀色のイルカだ。
見た覚えはないけれど記憶にうっすらあるという、妙な感覚。
もぞ…とソファの上で毛布にくるまり横向きになり、ソファの上に足を引き寄せる。
掛けてくれたのが誰なのか、予想はできるが、素直にお礼を言ってもたぶんそっぽを向かれるに決まっているから、"有難く使ってるぜ"という意思表示も兼ねて、更に丸く肩まで被って二度寝をすることにした。

「…はあ。可愛げがあるんだかないんだか…」

ふあぁ…と大きな欠伸を一つして、目を伏せた。
どっちかと言えば朝は得意な方で、いつもメンバーの中じゃ早く起きる方なんだが、たまには「いつまで寝ているんだ」と起こされるまで寝ているのもいいかもしれない。



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未満状態の輝薫。
どうも自分は、薫さんは輝さんが好きだけどそうは見えなくて、
輝さんは薫さんと親しくしたいけどLOVEではない
…という未満状態が好きなようです。
けど、もし輝さんが本気の恋をしたら、たぶん誰も邪魔できない。
力強い恋情な気がしませんか。
2017.11.6





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