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レッスンを終えて、麗さんと事務所へ戻る。
フリースペースでさっきのレッスンの反省をしがてら休憩をしようって麗さんが言ってくれたから、一緒に階段を下りていくことにした。

「…♪」
「…都築さん!階段を下りる時に目を伏せないでくれ!」
「え…?」

聴いていた足音のリズムが狂ったこととそう声をかけられたことで、ぱちっと目を開けた。
先を歩く麗さんのトントン…という規則正しい澄んだ音が好きで、思わず聴き入ってしまったから、いつの間にか目を閉じていたみたいだ…。
けど、変だな。
ちゃんと、目で見ているみたいに、前を歩く麗さんの足下が映像で見えていた気がするのに。
けど、今目を開けのだから、きっと麗さんが言うように伏せていたのだろう。
困ったような顔で、僕より数歩分先にいる彼が足を止めて僕を振り返っている。

「…目、伏せていた?」
「はい。瞑っていました」
「そう…。気づかなかったよ」
「階段を下りる際に目を閉じているなんて危険極まりない。できれば、片手を手摺りに添えて降りてください。こういう風に」

細くて綺麗な腕を一本、麗さんが横に伸ばして手摺りへ添える。
流れるような美しさがそこにあって、まるで当然のようにその仕草に一つの短いメロディが聞こえた。
気に入って、僕も彼の真似をし、手摺りへ片手を添える。
僕のメロディは、彼ほど高くはなかったけれど、それでも良い音のように感じた。

「…こう?」
「ああ。これなら、転ぶ心配もないだろう。…さあ、足下に気を付けてください。怪我をしたら大変ですから」

確かに、怪我をしてはよくないね。
麗さんに教わった通り、片手を手摺りに置いて、目を開けて、トントンと階段を降りていく。
僕を気遣いながら降りるようになってしまったせいで、さっきまで聞こえていた麗さんの階段を降りるリズムは聞こえなくなってしまったけれど、その分、奏でる音が僕の方へ向いて聞こえてくる。
階下が近くなると、先に降りた麗さんが僕を待って、片手を差し出してくれた。

「どうぞ」
「ああ…。ありがとう、麗さん」

差し出される細い手を取って、僕も遅れて階下へ降りる。
お礼を言った僕ににこりと微笑み、麗さんは先に立って事務所のドアを開けた。
事務所の中には、何人かの人がいた。
ざわざわと色々な音が飛び込んできて、その音の高さやリズム、雰囲気やテンポなどの違いによって、誰がこの場にいるのか大体分かるようになる。
現実的な音とは少し違うけれど、今日もどの音も、自分の輝きと誇りを持っていて、張りのある音ばかりだ。

「賢さんに、レッスン時間終了の報告をしてきます。都築さんは先に座っていてください」
「うん。ありがとう」

賢くんへ報告しに、行く後ろ姿を見送ってから、さて…どこに座ろうかなと周囲を見回す。
この建物自体はあまり目立つ場所にあるわけじゃないけれど、中はどこもいい音楽が流れていて、このフリースペースも陽の光がさんさんと降り注ぐサンルームのような明かり取りで気持ちがいい。
…いい天気だなぁ。
こんな日は、いつか行ったみたいな森へ行きたい気がする。
街中もそうだけど、木々の中や自然が多くある場所の方が、天候によって音が全然違う。
木々の中に立って聞く晴れの日の音楽は、とても美しいものだから。

「……」
「都築さん」
「…?」

立ったまま、あちこちのテーブルに映る日の光や壁のコントラスト、誰かが置いたペットボトルに反射してきらきら光る日光を眺めているうちに、また名前を呼ばれて振り返ると、さっき離れたはずの麗さんが、まだそこに立っていた。
少し呆れた顔をしている。

「座っていてくださいと言ったはずだが…」
「ああ、うん。座って待っているね。麗さんは、賢くんの所へは行かないの? 僕が行こうか?」
「もう行ってきました」
「…? もう? 早いね」
「ちなみに、離れてから数分経っています」
「そうだった?」
「…」

ふう…と麗さんが困ったような顔で息を吐いた。
そんな音を聞く度に、また、あ…と思う。
どうも僕は、麗さんを困らせてしまうことが度々あるみたいだ。
けれど、気づくのはいつもその音を聞いた後で、僕の何が麗さんを困らせてしまっているのか、また、何に注意すればそれが回避できるのか、よく分からないでいる。

「ごめんね、麗さん」
「いえ、大丈夫です。あまり出入りがある時間でもないし、他の方の邪魔になるようなこともなかったと思います。休憩にしましょう。わたしの軽食を持って来たので、一緒に食べましょう」
「そんなにお腹は空いてないけど…」
「一口でもいいですから」

そう言えば、麗さんの片手にはさっきは持っていなかった小さな手提げを提げていた。
歩き出す麗さんに付いていって、特別光の粒が踊っている、明るいテーブルに着く。
手提げに入っていた包みを取り出してテーブルの上で広げると、綺麗なサンドイッチが顔を出した。
色とりどりで、一つ一つが小さめだ。
気持ちを込めて作られたことが、一目で分かる。

「サンドイッチだ。とてもきれいだね」
「家人が作ってくれたんです。どうぞ、召し上がってください」
「ありがとう。…いただきます」

うち、一つを取って麗さんが僕に差し出してくれた。
片腕を上げてそれを受け取る。
売っているサンドイッチの、四分の一くらいの大きさだ。
白い小さなスクエアのパンに、黄色が挟まっている。
…卵かな?
両手で持って、一口食べてみる。
物を食べるのは、水を飲むのと違って疲れるし、少しだけ億劫だけれど…。
これはきれいで小さめの食べ物だし、一緒に食べれば麗さんが喜んでくれるなら、それは僕にとっても嬉しいことだ。
もぐもぐと数回噛んで呑み込むまでの間、麗さんは自分では食べず、じっと興味深そうに僕を見ていた。

「…」
「…うん。おいしい」
「そうか!」

呑み込んでから感想を伝えると、ぱっと麗さんの表情と音が明るく高くなる。

「よかった。たくさん食べてくれ。…ああ、そうだ。飲みものも買ってきてあ…」
「うっわ~!かっわいー!!」

パンッ…!と、クラッカーを鳴らしたかのような、Con motoな音が不意に飛び込んでくる。
麗さんの視線が僕の座っている背後に向いていたし、その鳴った音に対して僕も振り返ってみると、そこにはCafe Paradeの二人が立っていて、興味津々という様子で僕らのテーブルの上を見ていた。
麗さんよりも少し年上の、若い少年が二人。
…えーっと。
名前は確か…。

「お疲れ様です。水嶋さん、卯月さん」

麗さんがすぐに丁寧に頭を下げた。
ああ…、そうそう。
確か、そんな響きだったかな。

「やっほー、れい。けいも、おつかれさま☆」
「うん。おつかれさま」
「こんにちは。…すみません、突然。変わったサイズのサンドイッチが見えたので、つい」
「カフェやってたから、こういうのついつい気になっちゃうんだよね~」
「よかったら、お二人もどうぞ。たくさんあるんだ」
「わあ、本当?」
「やったー!…えへへ、実は期待しちゃった☆」

嬉しそうに、Cafe Paradeの二人がイスを引く。
向かい合って座っていた僕と麗さんの左右のイスにそれぞれ腰掛けると、本当に楽しそうに、興味津々という様子でテーブルの上のサンドイッチを一つずつ手に取った。

「いいね、このサイズ。小さい子や小食の人も食べやすそうだし、色々な種類をあれこれ愉しめるよ」
「本当!ねえ、これすっごく小さくて可愛い!れいが作ったの?」
「え…」

問われて、麗さんが虚を突かれたような顔をする。
両手を膝に置いて、やや戸惑いながら、彼が小さな口を開いた。

「いや。作ったという程では…。殆ど家人が…」
「作ったの?」

その言葉が意外で、僕も尋ねる。
「家人が作った」と言ったから、てっきり、麗さん以外の人が作ってくれたものかと思った。
けれど、今の話を聞くと、どうやら麗さんも一緒に作ったみたい。
尋ねた僕の方を向き、慌てた様子で麗さんが低く片手をあげた。

「本当に、作ったという程ではないんだ…っ。手に何かあってはと、我が家ではあまり包丁や火の気には近づけないよう言われていて…。わたしはほんの少し、具を挟んだくらいで」
「パンで挟んだんでしょ? それは作ったでいいと思うけどな。切った人は別でもさ」
「そーだよ~。立派なれいの手作りサンドイッチじゃない!…ねっ、けい?」
「…うん?」

両手で持ったサンドイッチをもう一口含もうと思っていたところを問われて、一度手を下げてゆっくり頷いた。

「うん。僕も、そう思うよ。麗さん」
「…そ、そうか。手作りになるのか…」

麗さんを見詰めてそう言うと、どこか不思議そうな困ったような様子で、少し俯いてしまった。
けれど、ぱっと音が跳ねた。
小柄な体から、音が周囲へ飛び出すのが聞こえる。
麗さんが嬉しいと、綺麗な澄んだ音がその仕草に合わせて聞こえてくるようだ。
Cafe Paradeの二人に声をかけられて、戸惑っていた様子の麗さんが再び顔を上げ、サンドイッチが入っている容器を掌で差し示す。

「ありがとう、二人とも。…どうぞ。遠慮せず」
「わーいっ!ありがとーっ!」
「遠慮無くいただきます!」

早速左右の二人が手を伸ばし、麗さんとも楽しそうに会話をしながら食事を進めていく。
その傍らで、僕も一つ目のサンドイッチを食べ終えた。
噛むという行為は顎を動かすから、やっぱり少しだけ疲れてしまうけれど、久し振りに、食べ物をおいしいと感じた気がした。
お腹いっぱいの気がするし、そうでない気もする。
テーブルの端に麗さんが出してくれたいつものミネラルウォーターを一口飲み、少し考えて、もう一つのサンドイッチへ手を伸ばした。
食べ物、というよりは、その間に挟まれている色が愉しみに感じる。
さっきは黄色だったから……次は、緑色とピンクが入っているものにする。

「おいしい~!れいってば、きっといいお嫁さんになれるね!」
「わたしは花嫁になる予定はないが…」
「えー。でも、れいくらい可愛ければ、そういうお仕事が来るかもよ? …あっ!ねえっ、今度プロデューサーに頼んで、あたしとロールとれいでそういうお仕事ないか聞いてみない!? かのんとかも一緒だと、パピッと可愛さ倍増??」
「いや…。わたしは…」
「俺もスカートはちょっとなぁ。似合うのは咲ちゃんだからだよ。エスコート役ならやりたいな」
「え~? もー。ロールも絶対似合うのになぁ、リボンやスカート」
「あはは、ありがとう。けど、俺は、似合う人を見ていたいよ」
「う~…。そーお? じゃ、やっぱりれいとかのんと……涼ちゃんも一緒にできたらいいよね!」
「できれば、わたしも卯月さんと同じくエスコート役をやりたいものだ」
「…」

わいわいと賑やかな音を奏でる三人。
けれど、気づくと、うち一つの音が静けさを持っていて、二つめのサンドイッチを食べ進めていた手を止めて顔を上げた。
卯月…だっけ?…くんが、二人の会話に加わりながらも、いつの間にか僕の方を見ていて、目が合った。

「…?」
「…♪」

首を傾げはしなかったけれど、なんだろう?と疑問を浮かべると、にこり、と笑みを向けてくれた。
不思議に思いながらも、僕も笑みを返す。
何か、伝えたいことがあるみたい。

 

 

 

「何か、僕に話があるの?」

麗さんとCafe Paradeの可愛らしい子が事務室の方へスケジュールの確認をしに席を離れたから、その子と二人になった時に聞いてみることにした。
声をかけると、卯月くんは照れくさそうに笑って、ぐいと身を乗り出した。

「えへへ、分かっちゃいましたか? …実は、都築さんにプレゼントがあるんです」
「プレゼント…?」
「じゃーん!『超絶簡単☆カップケーキセット』二人前っ!」

足下に置いていた自分の荷物に片手を差し込んだと思ったら、そう言いながら両手で僕の前に銀色のシンプルな袋を掲げて見せた。
長方形の、保存食とか入ってそうなそんな感じの袋に見える。
ドライフードとか入れそうだな。
けれど、袋の中央にはラベルが付いていた。
カップケーキのイラストが描いてあったから、指先でそっとそれを撫でる。

「…ケーキ?」
「そーなんですっ。そーなんですよ!」

卯月くんが、ふわふわとした嬉しそうな顔でその袋をテーブルの上に置き、ずいと僕の方へ寄せる。

「ファンの子からもらったんです!全く料理やお菓子作りをしたことない人を対象にした、ものすごく簡単にお菓子が作れるキットなんです!試作品で、まだ非売品なんですよ!本当は麗くんに試してもらおうと思っていたんですけど……ほら、彼、サンドイッチ作れちゃうみたいですから。それならきっと、こんなキットがなくたってカップケーキくらい作れそうだなって」
「ああ…。うん。麗さんは、家ではキッチンにはあまり入らないみたいだけれど、仕事で河原に行った時に、包丁で野菜を切っていた気がするな。上手だったよ」
「ああ、やっぱりですか。…ううーん。けど、それじゃ困るんですよね。本当に作ったことない人がやってみてどうかっていうことを知りたいんです、俺」
「そうなの?」
「はい!だって、全く知識も経験もない人がやってみて作れたら、きっと楽しくなるでしょう? 興味を持ちますよね? そうなったら、ケーキが好きになってくれる人が増えますから、ケーキの素晴らしさを世界中に広める、強い戦力になると思うんです!」
「へえ…。そうなんだ。それは夢があるね」

こくこくと頷きながら聞いておく。
ケーキが戦力なんて、面白いな。
目の前の彼からは、早いリズムでメロディが溢れてくる。
どうやら、余程嬉しくて、強い主張があるみたい。

「都築さんは、絶対お菓子作りや料理なんてしないですよね?」
「僕? …うん。そうだね。やったことはないかなぁ」
「ですよね! …はいっ、これ。差し上げます!作ってみてください!」
「うーん…。けれど、僕はお菓子作りはしないから」
「だからですよ!これは都築さんのような人向けのキットなんです!麗くんは、都築さんのためにこんなに素敵なサンドイッチを作ってくれたじゃないですか。お礼をしても、罰なんて当たりませんよ」
「……僕のため?」
「え…?」

彼が当たり前みたいに言うけど、その言葉がピンと来なくて瞬くと、彼も僕と同じようにぱちりと瞬いた。
それから、表情は変わらなかったけど、一瞬だけちょっとムッとした音を出してから、気を取り直したみたいで、片手を腰に添えて人差し指を立てた。

「そうですよ。このサンドイッチは、麗くんが都築さんの為に作ったんです」
「そうなの? そんなこと、麗さんは言ってなかったけど……」
「シンプルな具、二人分にしては少なすぎる量的に見てもそうですし、何よりサイズですね。こんな小さいサイズ、子供用にしたって作りませんよ。これは、都築さんに食べてほしいと思って、麗くんが用意してくれた、都築さんのためのサンドイッチなんです」
「へえ…。そうなんだ?」

僕もこんなに小さいサイズは珍しいなって思っている。
確かにとても食べやすい。
包丁は持たせてもらえないらしいから、切ったのは別の人だったとしても……麗さんは、僕に食べやすい大きさを考えて、用意してくれたんだね。
そう思えば、もういいかなって思っていたけれど、もう一つ、自然と手が伸びて三つ目のサンドイッチを手に取った。
両手で持つと、本当に小さい。
特別豪華なものでも大きなものでもないけれど、それでも、とても大切なものに感じる。

「そうか。……うん。それで、きっと他のサンドイッチよりおいしく感じるんだね」
「そうです!手作りはハートですよね。気持ちがこもっていれば、自然と細部に注意が行き届くので、仕上がりも違ってきます。食べてくれる人の笑顔と幸せを想う…。そこは、本当に大切な調味料なんです!」
「お菓子か…」
「いつも俺たちにも作ってくれるから滅多にないのですが、荘一郎さんが神谷さんだけに作るお菓子なんて、それはもう夢みたいなんですよ!この間だって――」

両手を頬に添えて、幸せそうな音を広げながら、彼がうっとりと何かを思い出している。
…そういえば、最近あちこちでチョコレートを見かける気がする。
去年、ダンボールでたくさんもらったな。
全部はとても食べられなかったけど、付いていた手紙は全部読ませてもらった。とても嬉しかった。
イベントの名前……バレンタイン…だっけ。
大切な人にチョコレートをあげる日だったはずだ。よく覚えていないけれど。
だからファンから「好き」をたくさんもらえたことは、素直に嬉しい。
それでも、その日だけチョコレートのプレゼントなんて、不思議な話だなとも思った。
別に、チョコレートじゃなくても、特別その日じゃなくても、いいような気がするけど…。
好きな人に贈りものをしたい気持ちは、僕にも分かる。
"ものを送りたい"というよりは、その先にある、"喜んでくれる音"が聴きたい。
他の人の感性は僕には分からないけれど…それは好ましい音色を持つ、美しい楽器を奏でることに似ている。
麗さんは、僕にとっては美しいピアノのような人だ。
僕が指先で鍵盤を弾くように何かしらの行動を取って、それで麗さんから綺麗な音が聞こえたら、それはとても素敵なことだと思う。

「……」

手元の袋に視線を落とし、じっと見詰めてみる。
…料理、か。
僕にできるものだろうか。
お仕事のイベントで何だかそんな感じの仕事内容があった気もするけど、いつも気づくと麗さんや他のメンバーが作り終わっている気がするから、自信はないな。
でも、そういう人向けのキットというのなら、少なからずの興味はある。
袋の後ろを向けてみると、簡単な説明が書いてあった。
…中に紙のカップと小袋が入っているから……小袋の中身をカップに入れて、牛乳を注いで、20回混ぜて、決められた通りの時間、オーブンで焼くだけ……だって。
…。
おーぶん…。
頭の中に、僕の部屋にある二つの機械が思い浮かぶ。
部屋にある家具は、プロデューサーさんに揃えてもらったもので、特にキッチンは殆ど使っていない。
どっちかがオーブンで、どっちかがトースターだって聞いたけど……それはどっちだったかな。
…まあ、やってみれば分かるだろう。うん。

「それじゃあ、お言葉に甘えて、これはいただこうかな」
「はい、是非!もし作ったら、結果を聞かせてくださいね」
「ロールー、けい~!おっまたせー☆」
「…! しまってください、都築さん。早く早く…!」
「…? どうして?」
「早く!」
「しまえばいいの?」

慌てた様子で促され、どうして早くしまわなければならないのか疑問に思いながらも、言われたとおり足下のバッグにそれを入れた。
それとほぼ同時に、事務室に行っていた麗さんともう一人の元気な子が戻ってくる。

「待たせてしまってすまない、都築さん。先に話していた資料を賢さんから預かってきた」
「ありがとう、麗さん」
「…」

クリップ留めされている用紙を僕に渡す途中、麗さんがテーブルの上へ視線を投げた。
いくらか減っている容器を見て、再び僕を見上げる。

「都築さん。その…今日の軽食は、少し食べ進められただろうか」
「うん? …ああ、うん。小さくて食べやすいよ。おいしいね」

資料を受け取りながら何気なく返すと、ぱっと横で輝くような音が響いた。
その音に惹かれるようにして、資料に向いていた視線を麗さんへ向けると、控えめな微笑が目に入る。

「そうか。……よかった!」
「…」

人知らぬところで白い蕾が朝日を浴びて開くような、可愛らしい無垢な笑顔に音楽が流れ出す。
見ていた資料をテーブルの端に置いて、足下のバッグから五線譜のノートとペンを取り出した。

「……つ、都築さん?」

表紙を開いて、今聞いたフレーズを忘れないように書き留めないと…。

「――」
「…。始まってしまった…」
「うわ…。え、それ今作ってるんですか?」
「すっごーい、けい!ピアノもないのにそんなことできるの? だって音取れなくない??」
「たぶん、今は話しかけても聞こえていないだろう。都築さんの場合、頭の中にグランドピアノが一台あるようなものらしい。…しかし、急だな。何か特別な音でも聞こえたのだろうか。…困ったな。こうなるとなかなか動かないんだ。この後の予定もあるし、プロデューサーさんに相談を――…」

五線譜と頭の中が、音楽で埋まっていく。
…そうだ。書き終わったら、麗さんに聞いてもらって、感想をもらおう。
ヴァイオリンの譜面も作ろう。
どうせならカルテット用に書き下ろしても……ああ、だけど麗さんのヴァイオリンの音色に合う弦楽器奏者は今の所僕は知らないから、それよりもやっぱりピアノの譜面を整えた方が――…。
…。

 

 

 

 

 

「――…ただいま」

部屋に入ると同時に言う「ただいま」は、プロデューサーさんと麗さんに言われてから少しずつ癖が付いた。
麗さんと同じ部屋に泊まる時とか、黙って入って来て驚かせてしまうことが何度かあって、何か一言言いながら入って来てくれると助かるっていうから。

「今日はお土産が多い日だね…」

ふらふらと短い廊下を進んで、リビングに辿り着くと、肩にかけていたバッグをテーブルの上に置いた。
中には、いつもはないものがいくつか入っている。
仕事の資料、麗さんのサンドイッチをラップにかけたものが少し、今日作った楽譜のクリップ留め…。
…ちょっと重かったな。
今日は、午後からプロデューサーさんと現場スタッフと簡単な打ち合わせがあったけど、気づいたらその時間はとっくに過ぎていて、麗さんもいつの間にかいなくて、代わりにプロデューサーさんが正面に座っていた。
僕が楽譜を仕上げている間、麗さんはボイストレーニングに行ったらしい。
打ち合わせは延期になってしまったみたいだ。
約束していたのに悪かったなと思うけど、そこはプロデューサーさんが調整を付けてくれるから気にしなくていいよって言ってくれた。
だから、今日は予定よりもずっと早い帰宅になった。
いつもならカフェに寄って音を集めたいなと思ったりもするけど、今日はすることができたからね。

「…あった」

バッグに片手を入れて探り、もらったお菓子のキットを取り出す。
シンプルな銀色の袋の裏には、小さい文字で「必要なものは牛乳とスプーンとオーブンだけ」って書いてある。
スプーンとオーブンはあるから、帰り道に牛乳だけ買ってきてみた。
牛乳なんて、何だか久し振りに見る気がする。
あの子からもらったお菓子のキットと牛乳を持って、いつもは殆ど使っていないキッチンスペースに置く。

「料理をする時は、エプロンと……ああ、そうだ。麗さんが、髪は後ろで結んだ方がいいって言ってたっけ」

いつも左耳の下辺りで適当に一つに結んである髪から、シュシュを取り外す。
両腕をゆったりと上げて、簡単にうなじの所で一つにまとめた。
両手を洗って、始めるぞと思って……けれど、触った袋が濡れたから、手を拭いていないことを思い出して両手を拭いた。
それから、また袋を手に取って、裏面を見る。

「えっと…。まず、袋から材料とカップを取り出して……」

袋の底二カ所を両手で持って、逆さにする。
カン、カララ…と、いくつかモノが出てきた。
固い紙のカップと、茶色い粉のパックとチョコチップの入ったパックと、プラスチックのスプーン…。
それらが小さくぶつかって、甲高い可愛らしい音を立てる。
まるで小さなオモチャ箱から飛び出たみたい。

「ふふ…。可愛い音。――…ん?」

スプーンを片手に持って眺めていると、コンコン…、と小さな音がした。
ふと音の方を振り返ると、リビングスペースにある窓の前に、小さな僕の友達たちがやってきているのが見えた。
それに気づいて、スプーンを置くとそちらへ向かい、窓を細く開ける。
…と同時に、二匹の小鳥たちが室内に入ってきた。
片手を上げて指先を差し出すと、茶色い小鳥はその場所へ、華やかな色の一回り大きな小鳥は、僕の左肩へ留まった。
茶色い羽の彼はシルヴィオ、華やかな色の羽を持つ彼はアルノルトだ。
僕は小鳥に詳しくはないから彼らが何という種類の鳥なのかは知らないけれど、彼らの名前は、彼らから聞いた。

「やあ。こんにちは」
『こんにちは。おかえり、ケイ』
『今日は早かった。まだいないと思ってた』
「うん。いつもよりは早く帰ってこられたんだ」

シルヴィオの乗っている指先を右の肩へ近づけて、そこに移ってもらう。
開けた窓を閉めてから、またキッチンへ向かって、また最初から……と思って、両手を洗って、拭いた。
今度は拭くことを忘れなかったから、袋から出した道具が濡れることは避けられた。

『何してるの?』
「お菓子を作ってみようと思って」
『お菓子? ケイが??』
「うん。すごく簡単なんだって。料理ができない人用のお菓子なんだってさ。面白いね」
『…? 変なの』
『できない人用なら、できても、本当には、できないままってこと?』
「たぶんね」

二匹は僕の肩から自由にそれぞれのタイミングで降りると、僕の手元を興味深そうに眺めている。
広がっているいくつかの袋の中身から、空のカップを手前に置いて、改めて袋の裏側を見る。

「えっと……。まず、粉を、それぞれカップに入れます」
『何の粉?』
「さあ?」

首を傾げながら、書いてあるとおり、二袋の茶色い粉をそれぞれのカップに入れる。

「次に、牛乳を……それぞれに、80cc、入れます」
『ハチジュウシーシーって何?』
「80ccは分かるけど、それがどれくらいかはすぐには分からないな。……これ一つを、二つに分けて、カップいっぱいに入れればいいのかな?」
『あふれちゃうんじゃない?』
「確かに、そうだね。……あ、ここに、"おおよそレンゲ三杯分"って書いてある」
『レンゲって何?』
「レンゲは僕も知ってるよ」

いつもは全く開けないいくつかの引き出しを開け、プロデューサーさんが揃えてくれた食器がそのままが入っている棚を見つける。
引き出しになっているそこには、お箸とかスプーンとか、そういったものが揃えてあって、その中に白いレンゲもあったから、手にとって小さな友達たちに見せた。

「見て。これがレンゲだよ」
『へ~』
『へー』
『乗りやすそう』
「中華を食べる時に使うんだ。あとお粥とかね。……はい。こっちは遊んでいいよ」

もう一つレンゲを取り出して、二匹の前に置く。
彼らはレンゲの中に入って座ってみたり、細長い柄の方に留まってみたり、僕の手元より少し離れた場所で遊び始めた。
心解れるその光景を見てから、改めて手元へ視線を戻す。

「……ええと、これ三杯」

80ccは、料理したイベントの時みたいな目盛りのあるカップがないと分からないけど、レンゲで何杯、なら僕でも分かる。
書いてある通り牛乳を入れて……。

「"20回、スプーンで混ぜます。"……こうかな?」

さっきレンゲが入っていた引き出しに小さなスプーンもあったから、それでぐるぐると一つにつき20回時計回りに混ぜる。
クリーム色した、粘度のあるペーストができた。
もう一つあった袋を開けて、チョコチップをその上に乗せる。
僕の手元に興味を惹かれて戻って来たシルヴィオが、うんざりした顔で言った。

『…。まずそう』
「うーん……そうだねえ。けど、焼けばきっとおいしくなるよ。僕の知っているカップケーキは、焼いてからできあがるから。……さて。それじゃあ、あとはこのままオーブンに入れるだけだよ。本当に簡単なんだね」

粉を入れて混ぜるだけなんて、これくらい簡単なら僕でも大丈夫そうだ。
あとは焼くだけだもんね。
そう思って、ペーストが入っている可愛いカップを両手に持って、視線を上げる。
冷蔵庫の隣へ顔を向け、そこに似たような長方形の機械が二台あって、はた…と動きを止めた。
……ああ、そうだ。
どっちがオーブンなのか、僕は知らないんだった。
……というか、そもそも、どちらかがオーブンだとして、もう一台は何なんだろう?

「……」

両手にカップを持ったまま、そろそろと近づいていく。
ずっと部屋にあったものだけど、今初めてちゃんと見た気がする。
一台は大きめで、もう一台は小さめだ。
ボタンの数も違うけど、似ているものもある。
…。
大きい方かな?
……ああ、でも、こっちは"レンジ"って書いてある。
レンジ……って、何だっけ?
けど少なくともレンジじゃないから……じゃあ、こっちの小さい網がある方かな。

「……」
『ケイ?』
『どっちで焼くの?』
「……さあ?」

分からないから、さっきみたいに軽く首を傾げた。
小さい網がある方の機械だとは思うけれど、自信がない。
折角持ったカップを置いて、ふらふらとテーブルの上のカバンの所へ戻ると、スマホをバッグから発掘した。
電子の音は無機質でそんなに好きではないから、いつも音が出ないようにしてもらった。
久し振りにスマホを見るから、いくつかの着信履歴があったしいくつかのメールが届いていたようだけれど、やりかたもよく分からないし、見なかったことにして、プロデューサーさんに教えてもらった電話のかけかたを思い出しながら指先で操作した。
画面に触れた後で耳に添える僕を、二匹が不思議そうに見上げている。
…何度かの呼び音の後、電話番号の相手が出た。

「……ああ、麗さん? 今、時間あるかな。ちょっと教えて欲しいことがあるんだけどね」

 

 

 

 

 

「こちらがオーブンです、都築さん」

僕の部屋にやってきた麗さんが、大きい方の機械の口を開けてから、掌で示した。
さっきまでいた二匹は、麗さんが来ると知って家に戻ってしまった。
事務所から解散して麗さんは家に向かっていたらしいけれど、まだ着いていなかったみたいで、僕が電話しのを切っ掛けに、事務所近くの僕の家まで引き返して来てくれた。
そこまでしなくていいよ、教えてくれれば……と言ったんだけれど、彼の方で心配になってしまったみたいで、「行くからそれまで待っていてくれ」と慌てた様子でやってきてくれた。
麗さんには迷惑をかけてしまったけれど、来てくれてよかった。
だって僕は、絶対に小さい方の機械だと思っていたから。

「へえ……。そっちがオーブンなの?」
「ええ。小さい方はトースターですね。パンを焼いたりするものです」
「…? パンを焼くのはオーブンだよね?」
「あ、はい。そうですね、えっと…。正しくは、パンを温めるもの、だ」
「なるほど。……けれど、大きい方は、レンジって書いてあるよ?」
「オーブンレンジといって、二つの機能があるものなんです。レンジでもあるけれど、オーブンでもあるから、都築さんがオーブンを使いたいのであれば、こちらで問題ないはず」

僕の質問に、てきぱきと麗さんが答えてくれる。
小気味良いリズムと穏やかな声は、聞いていてやっぱり癒やされるな。
またさっきみたいにカップを両手に持ったまま、にこにこと麗さんへ微笑みかける。

「麗さんは博識だねえ」
「あ、ありがとうございます…。とはいえ、これは決して博識と例えるような知識ではないと思うが…」
「僕よりは博識だよ。……さて、それじゃあ早速これを焼こうかな」
「どうもこの黒い板に乗せて焼くらしい。…都築さん、ここに置いてください」

オーブン(大きい機械の方だった)の横に立て掛けてあった黒い板を持ちながら麗さんがそう言うから、そこの上にカップを二つ、離れて乗せる。
すると、麗さんはその黒い板をオーブンの真ん中に入れて蓋をした。

「どのくらいですか?」
「ん? えっとね、焼けるまでかな」
「それはそうなのだが…。時間でいうと、何分か、袋に書いてありませんか?」
「袋に? …あ、あった。うん。えーっと……」

袋に書いてある数字を伝えると、麗さんが設定してくれる。
僕が"スタート"のボタンを押すと、機械の中がオレンジ色の光に染まった。
へえ…と、思わず感嘆詞の声が出る。
初めてオーブンを使ったな。
けど……。

「…ちょっと嫌な音だね」
「そうですか?」
「うん。色々な音が混ざっていて、どれも低く踊っていない……。まるで音が窮屈な場所に閉じ込められているみたいで、可哀想だ。……なんだか、胸がもやもやする」
「…」

目を伏せ、右手で胸を押さえてその辺りを撫でていると、困ったような顔をしていた麗さんが周囲を見回し、低い本棚から古びたドイツの楽譜を見つけると、それを手に取った。

「都築さん。こちらを見てもいいだろうか」
「え? ……ああ、うん。構わないよ」
「その焼き菓子が焼けるまで、まだ時間がある。隣の部屋へ行きましょう。テーブルがある場所へ。わたしはドイツ語をすらすらとというわけにはいかないから、難しい所があったら教えてくれ」
「…? 僕も、ドイツ語はできないよ?」
「え…。この間、読んでいませんでしたか?」
「ああ…。あれは譜面と、音楽史だったから」
「…??」
「でも、それは楽譜だからね。解説は分かると思うよ」
「そ…。…そう、ですか?」
「うん」
「…」

そういわけで、僕と麗さんは隣の部屋へ向かった。
向かう途中で気がついて、彼へ尋ねる。

「そういえば、帰る途中だったのに、悪かったね」
「いいえ。気にしないでください。…その、よければ焼け終わるまでいていいだろうか。何となく心配で…」
「本当? そうしてくれると、僕も助かるよ」

キッチンとは違う隣の部屋のテーブルセット。
そこに着いて、何ということのないそれぞれの時間を愉しむ。
麗さんは楽譜を開いていたし、僕はそんな彼の音色を聞いたり、少し微睡んでみたりしていた。
…ああ。
とても穏やかだ。
こんな時間がずっと続けばいいのにな……。
心地よければいい程、微睡みが出てくる。
だからいつも、麗さんやプロデューサーさんと一緒にいるとうとうとしてしまう。
結果、僕は本当に数分眠ってしまったみたいで、麗さんは僕に聞けなかったから思ったよりも楽譜は読み進められなかったみたいだけれど、ふと起きてからは楽譜に添えられている作家の添え書きや覚え書きもあるような資料だったから、そこを読んであげたりしているうちに、あっという間の時間が経っていた。
時間は、楽しいと過ぎるのが早いって言うけれど、本当にあっという間だ。
やっと焼き始めたはずのオーブンの中なんてすっかり忘れていた僕へ、麗さんが教えてくれてようやくそれを思い出し、再びキッチンへ戻ることにした。

「焼けているかな?」

部屋へ戻ってオーブンを覗き込むと、さっきまで着いていた内部の灯りは消えていた。
取っ手を持って開けてみようとする僕に、慌てて麗さんが横から手を伸ばす。

「都築さん。万一、貴殿が火傷などしては大変だ。わたしが出します」
「大丈夫だよ」
「しかし……っ!」

伸ばされた手を、そのままぎゅっと握る。
はた…と固まった麗さんへ、少し首を傾げながら伝えた。

「僕は、僕の指より、麗さんの指の方が大切だよ」
「――…」
「大丈夫。出すだけだもの。僕にもできると思うな」

そっと手を離して、オーブンの中に手を入れてみる。
大丈夫だと思ったけど……予想以上に、ちょっと熱かった。
どこに触っているわけでもないのに。
不思議だ。

「ああ……。確かに、少し熱いかな」
「ぁ、えっと…。く、黒い板には絶対に触らないでくれ。とても熱いはずだ。こういう時は確か……そうだ。ミトンというものがいいと家庭科の教科書に――…」
「みとん?」
「それかトングがいいかと」
「とんぐ??」

内部にとどまっているもやっとした熱に気圧されして手を一度引っ込めている間に、麗さんがキッチン周辺の棚を忙しく探し出す。
やがて、銀色をした大きなVの字の道具を探し出し、嬉しそうに笑顔になる。

「あった…!これです。これなら熱くても問題ないはずだ!」
「それがみとんっていうの?」
「いいえ、これはトングの方です。これでカップを挟むんだ」
「へえ~。面白いね」
「都築さんのお気持ちはありがたいが、やはりわたしがやろう。都築さんは、そこでお皿を持っていてくださいね」
「そう? …なら、絶対に火傷をしないでね、麗さん」
「ご心配をありがとう。絶対にしないと誓おう」

近くからお皿を出してきて、僕が両手で持つ役。
そして、銀色のトングという道具で、麗さんがオーブンの中でほかほかしているカップを取り出してくれた。
ふわん、と甘い匂いが鼻腔を擽る。
茶色の、さくさくした生地が、カップいっぱいに膨らんで湯気を立てている。
僕は食べ物に対してそんなに興味がなく、特に甘いものや辛いものはどちらかといえば苦手な部類に入るけど……何故だろう、目の前のこれは、とても素敵なことのような気がした。

「わあ…」
「すごい!上手にできましたね」
「うん。ちゃんとカップケーキだ」

麗さんもトングを置き、両手を合わせて喜んでくれた。
それがまた嬉しい。

「本当にできた。……不思議だね。ああいう粉と牛乳で、ケーキってできるんだね」
「都築さんがお菓子を作れるなんて、知りませんでした。とても素敵なことだと思う。尊敬します」
「うん。ありがとう。僕も知らなかった。僕も、これを作った人を尊敬することにするよ」
「…?」
「さあ、麗さん。こちらへどうぞ。そこに座って」
「え?」
「お礼だよ。麗さんが僕にサンドイッチを作ってくれたように、僕も麗さんのために作ったんだ。上手にできてよかった」

持っていたお皿をテーブルへ置いてイスを示すと、麗さんがぱちりと瞬いた。
少し経ってから、そわそわと落ち着きのないリズムになっていく。
一度片手を浮かせ、戸惑って、その手を静かに胸に添え、麗さんが僕を見上げる。

「わ、わたしに…? わたしに作ってくれたのか?」
「そうだよ」
「……」
「…? 甘いのは苦手だった?」
「えっ…!いや!」
「よかった。……さあ、どうぞ、麗さん」

麗さんの横を周り、向こうのイスを引いて片手で示す。
エスコートは得意じゃないけれど、イスに近づいてくれた彼に合わせてイスを押し出した。
まるで初めてこの部屋にやってきたみたいに、緊張した面持ちで両手を膝に添える様子が、何だか新鮮に感じる。
目の前の焼きたてのカップケーキを……何だか後半は殆ど麗さんが作ったようなものだけれど……じっと見詰める瞳と周囲には、輝きの音色が響いている。
嬉しい、という感情が、音で分かる。
例えば、「色聴」――という単語が、世の中にはあるらしい。
それは、ある音を聴くと、それに色を感じるものらしい。
僕は色を見ることはできないけれど、その声が、表情、鼓動が…動作の布擦れも、そこに感情を感じることができるような気がする。
それとも、ひょっとしたら逆なのかもしれない。
感情を、あらゆる音でしか感じることができないのが、僕なのかもしれない。
世界は音で溢れている。
あらゆる生命は常に音を奏でる。
乱雑で統一性なんてなく、幾何学的にも見えるのに、それでも、まるで最初からそういうものであるかのごとく美しい調和が取れているものもあるけれど、同時に、この世界にある全ての音が完全に調和するなんてことが、有り得ないことも僕は知っている。
美しい音楽で全てを包み、心のままに愛せたら、きっととても素敵だろう。
ところが、現実には聞きたくもない不快な音色を聴かざるを得ない時もある。
表情は笑顔なのに、頭が痛くなるような、胸が痛むような音を奏でる人もいる。
そういう人や場所に出会うと、生きることが突然無意味に思えて、億劫になってしまうこともある。
けれど――…。
もう一度、麗さんが目の前に置かれた二つのカップケーキを見下ろし、静かに深く息を吐いた。

「嬉しい…。――ありがとうございます、都築さん」

座るイスの背に片手を添える僕へ、麗さんがふんわりと笑みを向けてくれる。
…と同時に、"Dolce"な、麗さんらしいメロディが天から耳に降りてくる。
――たまに、こんな素敵な音楽に出会えるならば、多少の痛みには目を瞑ろう。
世界は傷と錆びた金属の打ち合う音で溢れている。
けれど、それと同じくらいに、確かに天から光と共に降り注ぐ音がある。

「うん…。喜んでもらえて、僕もよかった」

僕も、彼へ笑みを向ける。
メロディが心地よい。
プロデューサーさんや麗さんは、まるで僕がいつでも思い立ったらすぐに譜面を書き上げてしまう……なんて思っているようだけれど、そんなことはないんだよ。
とびきり美しいものは、美しいまま。誰の手にも渡せない。
黄金色の澄んだメロディは、正しい解釈や背景が伝わらず、年代や奏者によって雰囲気が変わるなんてことがあってはならない。
僕だけが知っている彼の音楽…。
本当に大切なものをしまう場所は、昔から、胸の中って決まってる。


Schokolade Melodisch




「どうでした? 作りました??」

後日…。
次の日かその次の日かちょっと分からないけれど、カップケーキを作った日の後、事務所のサンルームでうとうとしていると、Cafe Paradeの三つ編みの彼が話しかけにきてくれた。
滑り込むように僕の正面のイスに腰掛けると、手の平サイズのメモ帳と可愛いペンを持って、跳ねる音と一緒に僕に声をかけてくる。
…そうそう。
あのキットは、彼にもらったんだったっけ。

「ああ、うん……。作ったよ」

ぼんやりしながら応えると、ますます前のめりになってくる。

「作れましたか!?」
「うん。とても上手にできたと思うな」
「うわぁあっ、それはよかったです!…それで、作っている途中で、難しかったり詰まってしまったところはありましたか?」
「えっと……。…ああ、そういえば、オーブンの使い方が分からなくて困ったかなぁ」
「えっ、オーブンですか!?」

彼は驚いた顔をして一瞬止まったけれど、慌ててメモ帳にペンを走らせていく。

「そっかぁ…。お菓子や料理に馴染みのない人のネックは、オーブンになるのか…。それで、どうやって解決しました?」
「麗さんに電話して、来てもらったんだ」
「……え?」
「ん?」
「…。都築さん、麗くんにプレゼントしたんですよね?」
「うん。したよ」
「その為に作ろうって思ったんでしたよね?」
「うん。喜んでもらえたよ」
「……」
「…?」

何故か、メモを取る手を止めて、彼が何とも言えない顔で僕を見詰める。
きらきらと跳ね出ていた音も、周囲に広がらずに斜め下にポロポロと落ちていく。
首を傾げてみた僕の前で、彼がメモ帳を閉じた。
にこっと、可愛い笑みを向けられる。

「とても参考になりました。ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」

僕もにこりと笑みを返して彼と別れ、麗さんのところへ向かった。



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「Schokolade Melodisch」=独逸語でチョコレートのメロディ。
都築さんは麗君以外にあんまり興味が無いといいなって。
今年はチョコ作らなかった!
2018.2.14





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