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雲行きが怪しいな…とは思っていた。
地方のロケ地。
山の中のキャンプ場にあるコテージを拠点として撮影していた今回、夕方から出発して星空のロケを行う予定だったけれど、雲行きを見て、地元の人が「今日は止めた方がいい」とアドバイスしてくれた。
一応現場に向かったは向かったけど、天候の影響でやっぱり中止。
帰ってくる途中から、遠くで雷鳴が聞こえてきてしまった。
まだずっと向こうの空だけど…。

「…」
「…翼、大丈夫か?」

小型のワゴンの中、隣に座っていた輝さんがそっと顔を寄せて小声で聞いてくれる。
いつの間にか俯いていたらしい顔を、ぱっとあげた。
心配かけちゃだめだ。
気を使ってくれた輝さんに、やっぱり小声で返す。

「あ、ハイ…!大丈夫です。まだずっと遠くですから」
「そっか…」

何とか笑顔を返すと、輝さんが少しほっとした調子で肩を下ろしたのが分かった。
それまでの心配そうな表情と声をがらりと変えて、笑顔でオレの肩をぽんぽんと叩く。

「昼間はすっごく晴れてたのになー。やっぱり山の天気って変わりやすいんだな。夜の撮影始めちまう前に延期が決まってよかったな。早く戻って、コテージでごろごろしようぜ」
「ごろごろする暇などない。今夜の撮影が中止になったのであれば、もう一度ロケ地の情報を整理して、アピールするポイントをピックアップしておくべきだ」
「ぐ…」

輝さんの向こうに座っていた薫さんが、両目を伏せたままでそう入って来て、オレの方を向いていた輝さんが、拗ねたようなというか…一瞬渋い顔になる。
あ、はは…。
起きてたんだ、薫さん。
目を瞑って静かにしていたから、疲れて寝ちゃってたのかと…。
どうやら、輝さんもそう思っていたみたいだ。
くるっと向きを変え、輝さんも薫さんの方へ半眼を向けた。

「起きてたのかよ。寝ちまったのかと思ったぜ」
「寝てなどいない」
「そーかぁ? 寝ててもいいんだぜ、桜庭。ちょっとでも休んでおけよ。昼間のロケはお前には大変そうだったもんな~。山道の石段、疲れただろ? 真っ青な顔して、ぜーはーしてたもんなぁ。明日筋肉痛にならないように気を付けろよー?」
「っ…」

薫さんの方で、実際に聞こえそうなくらい、"カチン"って音が鳴ったのが分かった。
ああぁ、輝さん…。
またそういう心にもないことを!

「ま、まあまあ。本当に大変でしたよね。オレもすっごく疲れましたよ、昼間。今夜はお風呂上がりにしっかりマッサージしないとですね、薫さん」
「…」

薫さんが目を開けて輝さんをきっと見たので、何か言葉を返す前にやんわりフォローに入ると、薫さんは言い返すのを止まって場は落ち着いてくれた。
けどやっぱり気分を損ねてしまったみたいだ。
そりゃそうですよ、あんな言い方をされたら…。
ぷいっと薫さんが窓の方を向いてしまったので、もう…と思ってそっと輝さんに耳打ちする。

「だめですよ、輝さん。意地悪なこと言っちゃ。オレ知ってるんですよ。輝さんだってすごく薫さんのこと心配して、途中休みをもらえませんかって、プロデューサーと一緒になって監督さんにお願いしてたじゃないですか」
「しーっ!」

一瞬ぎくっとした輝さんが、まるでいたずらっ子みたいな顔で口の前に一本指を立てて、こそこそと、それでも明るく笑う。
また小声で、ぼそぼそとオレに白状してくれた。

「なんだよ、翼。見てたのか? …ったく。いいんだよ、そんなことは。桜庭にバレると怒り出すんだから、秘密にしといてくれよな」
「よくないです。今のは輝さんが悪いですよ?」
「う…。へいへい」

ちゃんと薫さんのことを心配しているのに、そういう意地悪なことを言うから口論っぽくなってしまうんだから……って、たぶん薫さんもその優しさを素直に受け取れない人ではあるから、そうなってしまうのは仕方がないんでしょうけど。
でも、それも全部含めて、いつものオレたちなんだから、こういうやり取りをする度、どことなくほっとするな。
確かに輝さんの言うとおり、今日はありがたいことに延期になったから、コテージに戻って少し気を休めよう。
普通の空なら何となく次に天気がどう動くか分かるけど、この辺りはさすが山地って感じで、空を見上げてもオレの予想と少し違う風に天気が動いていくから、見通しが付きにくい。
だけどきっと、雷もすぐに遠くへ行くだろう。
そう思うけど、会話が一段落した隙間を縫うようにして、またゴロゴロと遠くで音がした。

「……」

気になって、指先で横にあるカーテンを少し引く。
夜になりつつあって分かりにくいけど、向こうの空に、厚く黒い雲がかかっていた。
…やだなあ。
今あの方角にあるってことは、風に押されてきっとこっちの方に流れてくる。
けど、少しズレてくれるかもしれないし、来る頃には散ってるかもしれない。
今降らないってことは夕立の時間帯にはあの暗雲は来ないと思うから、大丈夫だとは思うけど…。

「…」
「なあ、翼。戻ったら、オレのコテージに来ないか? 最終日に少しだけ自由時間があるだろ? この辺りの観光雑誌、持って来たんだ。ちょっと見てみろよ、面白いぞ。それに、今回のロケ地も載ってたしさ、勉強になるだろ?」
「え? ぁ…い、いいんですか?」
「おう!」

にっと笑う輝さんに、胸が熱くなる。
輝さん…っ。や、優しい…!
お嫁さんに欲しい!
ああ、よかった。
オレ、この後一人でいるのちょっと不安だったから、輝さんが一緒にいてくれるのはすごく心強い。

「ぜひお願いします!」
「よっし。それじゃあ、一緒に色々おさらいしようぜ。…なあ、桜庭も――」
「そんな暇はない」

再びくるっと薫さんの方を向いて輝さんが誘おうとしたけど、その言葉途中で切り捨てるように薫さんが振り向きもせず返す。
また輝さんが、少しだけ呆れたように肩をコケさせる。
ふふ。通常運行、ですね。
くすくすと笑う余裕が、いつの間にか生まれていた。
もし雷が来ても、今ならきっと大丈夫だ。


雷鳴遠く




コテージに着いて、荷物をある程度まとめてから輝さんのコテージにお邪魔した。
キャンプ場のコテージはたくさんあって、ありがたいことにオレたちは一人一棟割り当ててもらえた。
建物自体は小さいかもしれないけれど、一人で使わせてもらえるのなら十分過ぎる広さだ。
撮影に入る予定だったから夕方に軽食は食べたけど、この時間になってくるとやっぱりお腹も空いてくる――…はずなんだけど…。

「…いやー。すげー天気になっちまったなー」
「うう…。こんなすごい雨になるなんて…」

ドザーー!!という、コテージに降り注ぐ豪雨。
本来なら眺めのいいガラス戸に立って、輝さんが呆れたように言う。
その窓は雨が打ち付けていて常に水が流れており、ガラス戸の向こう側なんて全く見えない。
拠点に戻ってきて、すぐそれくらいの土砂降りになってしまった。
オレはというと部屋のソファに腰掛けて、なるべくそっちを見ないようにしながらぐったりと肩を落としていた。
ゴロゴロと窓の向こうで雷の音が響いている。
結構近い気がして、自然と顔色も悪くなってしまう。
食べることは大好きだけど、さすがのオレもこんな状態だと食欲なんて出るわけない。
窓際にいた輝さんがカーテンを閉めて、オレの向かいのソファに腰を下ろした。

「通り過ぎるまでが忍耐だな。けど、大丈夫だって!すぐ通過す――うおっ!?」
「うわ!?」

輝さんが話している途中、唐突にブツン、と部屋が真っ暗になった。
ぎょっとして、オレも輝さんも天井の照明を見上げると、電気が消えている。
大きなガラス戸はカーテンを閉めたけど、それとは別に小さな窓があってそこから明かりがほんの少し入るから完全に暗くはならないけど…。

「て、停電!? 停電ですか!?」
「みたいだな。…うわ~。どうす――!?」
「ひっ――」

輝さんの言葉を遮って、震え上がるような大きな雷の音が鳴った。
一瞬だけ、まるで昼間みたいに白い光に照らされた外が見えて、全身が凍り付く。
ビクッと全身が跳ね上がる。
今のは絶対、どこかに落ちた音だ…。

「は、はは…。ちょっとこれは……ほぼ真上だな…」
「う、う…」

輝さんに言葉を返す余裕もなくなってしまった。
情けないけど、子供みたいに目を伏せ、両手で耳を覆って背中を丸める。
…怖い。
体から力が抜けていく。
気持ちが悪くなってきた…。

「…、翼」

震え出すオレを見て、輝さんがテーブルをぐるっと回って隣に一度座ると、ぽんと背中に片手を添えた。

「大丈夫だ!雷なんて、すぐ通過するって!」
「は、はい…。すみません…」
「しかし、電気が通らないのは困るな。暗いから、余計に雷が目立っちまう。…翼。俺、管理棟に行ってくる。ちょっと離れるが、大丈夫か?」
「え…。こんな土砂降りの中ですか!?」
「電気が付けば、お前も少しは楽だろ?」
「や、止めてください!危ないですよ!!」
「大丈夫だって。長靴履くし、ゴム手袋が玄関にあったぜ。返って安全なくらいだぜ。さすがコテージだよな。きっと珍しいことじゃないんだ」

言うが早く、輝さんはアウターを羽織って玄関の方へ歩き出した。
心配になってオレもそこまで付いていく。
玄関にあったカッパに身を包んだ輝さんがドアを開けた瞬間、ぶわっと勢いのある暴風と、少ないけど雨粒がオレのいる場所にまで入り込んできた。
ドアの向こうが、まるで別世界みたいに真っ暗で吹き荒れていて――…次の瞬間、真っ暗だった輝さんの向こう側が、昼間みたいに真っ白になる。

「――!!」

悲鳴をあげたけど、オレのあげた悲鳴なんか聞こえないくらい、雷鳴が轟いた。
ドアを開けているから、さっき響いたものよりももっと大きい。
荒れた夜空が、そのまま地上に落ちてきたみたいだ。
輝さんもびっくりした顔をしている。

「おおぉぉ…。驚いたぁ…」
「て、輝さん。輝さん止めましょう!危険ですよ!」
「うーん…」

迷った素振りを見せながらも、輝さんはカッパの襟のボタンをカチリと留めてしまった。
どう見たって行く気満々だ。
そして、どうして行く気満々なのかといえば、勿論オレがこうして怯えているからに他ならない。
バタバタとカッパの裾が鳴る。
そんな荒れた天気の中、輝さんがにっと笑った。
雨に負けないように、輝さんが大きな声を張る。
太陽みたいな明るい笑顔と溌剌とした声……のはずが、豪雨によって、まるで俺と輝さんの間に膜が張ったみたいに、全体的にどれも不鮮明になってしまっている。

「ま、近くだし大丈夫だろ!行ってくるから、待ってろよ、翼!」
「あっ、輝さ――」

オレも咄嗟に一歩だけ前に踏み出したが、それだけしかできなかった。
言うが早く、輝さんは外へ駆けだしてしまった。
無謀すぎる。
けれど、そんな輝さんを追っていくことができない。
バタン…!と、風に押されたドアが勢いよく閉まる。
絶望的な気持ちで、そのドアを数秒間見詰めていた。

 

 

…――どうしよう。
心臓がどきどきする。
輝さんが出て行って、まだ五分も経っていないのに、随分待っている気がする。
青い顔をしたまま、ソファに座って頭から毛布を被り、震えていた。
本当、まるで小さな子供みたいだ。
部屋の電気はまだ着かない。
ゴロゴロと鳴る雷も、さっきよりは遠のいた気がするけど、とはいえまだすぐそこにいる。

「……あぁ」

目を閉じて、ぎゅっと握り合わせている両手に力を込めた。
ああ、いやだ…。
オレって、どうしていつもこうなんだろう…。
もう時間だって随分経っているのに、どうやっても雷雨の飛行を思い出す。
恐いけど、今はまだいい。仕事中ではないから。
けど、これがいつかみたいにライブを控えて休憩室とかだったら、オレはきっとまたこうして、震えているに違いないなと思う。
また、輝さんや薫さんに迷惑をかける…。
そんなことは絶対に避けたいのに。
分かってる。きっと輝さんも薫さんも、迷惑だなんて思ってない。
寧ろ、その迷惑を受け入れて支えて普通…なんて、思っている大人の二人だ。
実際にオレが一番年下なのだからそう見えているだけかもしれないけれど、本当は、オレだってドラスタの一人として、二人をサポートしてみたい。
他のユニット……特に、Jupiterの三人を見ていると強くそう思う。
三人ともオレよりも年下なのに、三人でしっかりお互いを支え合っていることが分かる。
オレは、二人に心配ばかりかけている。
輝さんや薫さんは、そんなことはない、三人で切り抜けていこうって言ってくれるけど、それは自分が引っ張っていく側だから、自然とそう思えることができるんだ。
着いていくのに必死だったり、負担をかけている方は、オレみたいに、きっといつだってこういうことを考えているに違いない。
追いつかなきゃ、早くしなきゃ、迷惑かけちゃだめだ…って。

「…――」

震える息を吐いて、そろりと目を開けてみる。
けれど、雷鳴の音を聞いて、また光るカーテンの向こうが恐くて、すぐに目を瞑った。
毛布を握る指先が冷たい。
…ああ、いやだ。
雷がいやだ。
雷に怯える自分がいやだ。
こうして、気弱になっていく自分がいやだ…。
…。
…輝さん。
輝さん、まだかな。
早く戻ってこないかな…。
情けない姿を見られることを恥ずかしく感じていたけれど、こうして誰もいない空間に取り残されると、やっぱり辛い。
輝さんになら、情けない姿なんて、いくらでも見られてよかったんだ。
電気が着くことよりも、輝さんが傍にいてくれた方がよっぽどよかった。「行かないでください」「一人でいる方が怖いんです」って、素直に言えばよかった…。

――パシャ、パシャ…。

「…!」

そんなことを悶々と思いながら電気が着くのを待っていると、電気よりも先に雨の中を走る足音が聞こえてきた。
その音に、ぴくっと顔を上げて玄関の方を見る。
輝さん…!
まだ電気は復旧していないみたいだけど、そんなの後回しでいい。
出迎えようと、慌ててソファから立ち上がる。
毛布を被ったオバケみたいな格好のまま急ぎ足で玄関へ歩み寄ったけれど、ドア一枚挟んだ向こうの雷が恐くて、随分手前で足を止める。
そう言えば、こんな風なのに、さっき輝さんが出て行ってから鍵をかけていなかったことを思い出す。
けど、ここは輝さんに割り当てられたコテージだ。
だから、回るドアノブの向こうは、当然輝さんなのだと思っていた。
けど…。

「輝さ――」
「…っ」

開けられたドア。
その隙間から、また一気に吹き込んでくる風や雨粒と一緒に、薫さんが入って来た。

「え…。あ、あれ? 薫さん!?」

畳んだ傘を片手に持っているが、こんな風だから、ずぶ濡れに近い。
髪やシャツだけでなく、全身の左半分と膝から下が濡れてしまっている。
ゴウゴウと吹く風を背に、ドアを片手で押さえる薫さんが目を伏せてため息を吐いた。

「想像以上に酷い雨風だ…。悪いが、少し雨宿――…っ!?」
「え、わわっ…!危な――!!」

突風が、薫さんの背後から吹き込む。
片手を添えていたドアがその風圧で押されたのか、薫さんが前に倒れそうになって、気づいたら止まっていた足が動いて前に飛び出していた。
毛布オバケのまま、倒れそうになった薫さんを…タックルみたいになっちゃいましたけど…何とか腕の中に抱き留めた。
バンッ…!!と、物凄い音を立てて、ギロチンのような勢いで薫さんの背後でドアが閉まる。

「…」
「う、うわぁ…」

そのあまりの勢いに硬直してしまう。
あ、危な…。
サーっと青い顔になる僕の腕を少し押しのけるようにして、薫さんが離れた。

「…すまない、柏木。助かった」
「い、いえ…。けど、雨宿りって…。こんな雨の中、何処へ行こうとしてたんですか? 危ないですよ」
「管理棟だ。備え付けの電話をかけたが誰も出なかった。停電もしているようだし、状況を把握しようかと思ってな」
「あ…。それなら、輝さんがさっき行きましたよ」

薫さん、勇気あるなぁ。
動ける人は、やっぱり同じ行動を取ろうとするんだなぁ。
輝さんと薫さんの行動力に感心しながらそう伝えると、水が付いた眼鏡を取って横髪を払っていた薫さんが、少し眉を寄せた。

「…天道が?」
「はい。オレがすごく怖がっちゃって、輝さん、様子を見に行くって言ってくれたんです」
「君を残してか?」
「え? …ぁ、はい」
「…」

薫さんが突然、怒ったような呆れたようなため息を吐いた。
…?
な、何だろう?
輝さんに先を越されちゃったのが面白くないのかな?
けど、そんな子供っぽいこと考えないような気がするし…。
少し狼狽えたけど、そうしている間にも薫さんの濡れた髪先からぽたぽた水がシャツの方に垂れていることに気づいて、はっとまた動き出した。

「あ、タオル持ってきますね!」

その場を離れて、急いでバスタオルを二枚持って来る。
一枚を足場に敷いて上がってもらい、もう一枚を手渡した。
薫さんはまず眼鏡を拭いてからいつものようにかけて、それから濡れた服や髪の水気を取っていく。
その仕草一つ一つが丁寧で、気づいたら何もせずそれを見ていた。
…薫さんって、顔も歌声も綺麗だけど、仕草とかも丁寧で綺麗だな。
手伝いもせず着替えを用意することもせず、ぼーっと見ていると、不意に耳にゴロゴロと雷の音が入って来て、びくぅっと肩が震えて背筋が伸びる。

「…」
「…」

…あ、まずい。
音がまた大きくなってきた。
行ったと思ったのに…!
このままだと、薫さんにまで情けない姿をまたさらすことになる。
ちょっとそれは、できれば避けたい。普通にしていないと。
じり…と薫さんから離れつつ、片手を前に出した。

「で、電気のことは、輝さんに任せましょう? こんな雨ですから、薫さんはこのままここにいた方が…。えっと、じゃあ…。あ、輝さんの着替えを借りないとですね。オレのだとサイズが合いませんから。だから、その…」
「無理するな。毛布を被るくらいに雷が苦手なのであれば、僕のことなど構わず座っていればいいだろう。放っておいてくれていい」
「あ…」

濡れた靴下を脱ぐために屈んでいた背をただすと、ぴっと片手を上げて制され、手にしたタオルと下に敷いていたタオルを片腕に、片手を壁に添えて、暗がりの中、手探りで薫さんは洗濯機があるバスルームに向かってしまった。
付いていくこともできず、オレはおろおろするばかり…。
結局、言われた通りに一人さっきまで座っていたリビングのソファに腰を下ろして俯いた。
毛布オバケのまま、膝に置いた手でぎゅっと皺になるくらいパンツを握る。

「…」
「天道が出て行ったのは何分前だ?」
「ぇ、あ、えっと…!」

俯いていると、薫さんがバスルームから戻ってきて聞いた。
咄嗟に、テーブルの上のスマホを手に取る。
それは暗闇の中、懐中電灯の役割も果たした。

「十分前くらいです…」
「…殆ど入れ違いだな」

顎に片手を添え、薫さん。
…停電して、すぐに輝さんは管理棟へ行った。
薫さんもきっと、すぐに何とかしようと自分の棟を出たから輝さんと入れ違いくらいの時間差でここまで来たんだ。
何もしていないのは、オレだけで…。

「そう、ですね…」
「…」

殆ど上の空でぼんやり相づちを口にすると、ふう…と抑え気味の息を吐く音が聞こえた。
オレじゃない以上、薫さんなわけだけど…。
顔を上げようと思うより先に、薫さんがオレの隣に新しく持って来たバスタオルを敷くと、そこに腰掛けた。
濡れているせいか、少し水気のある匂いが鼻を擽る。

「…。平気か、柏木」
「…!」

まるで内緒話のような声の小ささで、薫さんが尋ねてくれる。
今口にした言葉の単語、一つ一つ全部が全部、オレの為だけに発せられた言葉だってことが分かるくらい普段と違う優しい声に、はっと顔を上げた。
震えている俺の背に、労りのある手が触れる。
たったそれだけなのに、どんなにそこに気持ちが含まれているか分かるくらいに優しい声と触れ方だ。
…心配かけちゃいけない。

「ぁ、はい。平気ですよっ。やっぱり、ちょっとびくびくしちゃいますけど、前よりは…」
「無理はしなくていい」
「…」

最初はただ置くだけだったそれが、小さい子を宥めるみたいに、上下に軽く撫でてくれる。
じわ…と、張り詰めている何かが解けていくのが分かった。

「っ…」

嬉しい。
うっかりすると、「恐いんです」と泣きながら、薫さんを抱き締めてしまいそうになる。
嬉しいけど、それだけでは恐怖は収まらない。体に染みついている。
情けない…。
どう言葉に表していいか分からないくらい、悔しくて情けない。
どうにか普通でいようと思っても、どうしてもどうしても、雷の音と同時に目を瞑り、首を竦める。
肩が震えて、背中が丸まる。
怖い。
床が揺れてる気がする。
足下がぐらぐらする。
ここは一階だってことは分かり切っているのに、このまま床が抜けて、自分が見えない地の底へ真っ逆さまに墜ちていくイメージが、妙にリアルに想像できて頭から離れない。
とてもとても高い場所から、空の上から、一気に落下するかのように。
ジェットコースターに乗った時に感じるぞくっとした落下感が、雷が鳴る度に全身に走る。
…けど、いつまでも迷惑はかけられない。

「か、薫さん…。すみません、迷惑をかけて…。あの、オレは、大丈夫なので…気にしないで、休んでください」
「…なるほど。君は、わざわざ様子を見に来た僕が迷惑ということだな」
「えっ…。いや、違――…うわっ!!」

轟く雷鳴。
奔る雷光。
またビクッと全身が跳ねて、毛布を被り直した。
頭だけにかけるのではなく、もっと。
顔が見えなくなるくらいにすっぽりと、オバケに仮装する時みたいにかぶって、両腕で耳を塞ぎ、背中を思い切り丸めた。
床が抜けて落下するイメージがどうしても頭から離れなくて、足の裏全部を床に着けられない。

「柏――…」
「あのっ…!本当に!大丈夫ですからっ!!」

思わず、大きな声を出してしまった。
やけくそのような自分のその声に驚いて、はっと我に返る。
真っ青になって薫さんへ振り向いたオレが何かを言う前に、薫さんがまた静かに口を開く。

「…落ち着け、柏木。雷はすぐ通過する」
「っ…、すみません…っ」
「謝らなくていい。謝られるくらいなら、礼の方がいくらかマシだ」
「ぇ…。あ…」

ずばりと言われて、気づく。
いつの間にか俯いていた顔を慌てて毛布の中で上げ、何とか薫さんを見た。

「えっと…。…あ、ありがとう、ございま……す?」
「そちらの方がまだいい。正確には、どちらも必要ないがな。…確かに音は大きいし、光は驚きはするかもしれない。だが、君がいかに騒ごうが怯えようが、現実的に落雷する確率は極めて低く、過ぎ去れば何ということはない。安心して気が済むまで怯えていろ」

淡々と告げると、薫さんは立ち上がり、もう一枚隣の毛布をベッドから持ち上げて戻ってくる。
ばさりと一度広げ、オバケ状態になっているオレの肩に更にそれをかけてくれた。
何故かそれに、ひどく驚いた自分がいた。
そんなことを当たり前にしてくれることが、この時のオレには衝撃だった。
びっくりしてまた隣に座る薫さんを見詰めていると、僕の視線に気づいて薫さんも僕を見た。

「……僕も、」

けれど、折角合った視線をふい…と反らして、目の前の何もないテーブルへ視線を向ける。

「僕も幼い頃…、雷があまり得意ではなかった。不安な時は、よく身内がこうしてくれていた。…じきに止むから心配するな、それまで一緒にいよう――と言ってな」
「――」

窓の外で、また雷。
強く光ったから、たぶんそうなんだと思うけど…。
…けれど、薫さんを見詰めていたオレの耳に、不思議と音も光も届かなかった。

 

 

 

 

「翼…!!」

バンッ…!とドアが勢いよく開き、輝さんの声がして懐中電灯の灯りが部屋へ入ってきた。
焦った声でオレの名前を呼びながら、灯りを踊らせてオレを探してくれる。

「翼、大丈夫か!? 翼っ!」
「ぁ…」
「大丈夫だ。僕と柏木はここにいる」

まだうまく声が出ないオレの代わりに、薫さんが横から冷静に輝さんに応えてくれたお陰で、すぐに輝さんもこっちに来てくれた。
輝さんが向かってくると足音と同時に、薫さんがさっと隣で立ち上がってしまい、今までほんのり湿っていた隣に、すっと風が通って更に寒くなった。
あ…と思う間もなく、ライトがオレたちに当たる。
オレたちを照らすと、輝さんの顔は見えにくかったけど、その声から焦りが消えて、ほっとしたものに変わった。

「よかった…!桜庭がいてくれたんだな!」
「ここの棟が近かったので雨宿りさせてもらっただけだ。…それより天道。柏木を置いて――」
「ナイスだぜ、桜庭!さすがだな、お前!!」
「っ…!」

薫さんが何かを言う前に、大股で傍にやってきた輝さんがバシーン!と薫さんの背を叩いた。
少し乱れた明かりの中、言葉途中でよろめく薫さん。

「翼、管理棟で確認してきたぞ。もう人が集まっていて、すぐ直るって――…おっ!」

輝さんが説明してくれていた途中で、ぱっ…!と部屋の明かりが付いた。
三人揃って、顎を上げて天井を見上げる。
暗闇に慣れた目に、明かりが痛いくらいだ。
いつの間にか、雷の音も少しずつ遠のいている。

「…」

オレが見上げていた顔を少し下げると、座っているソファの正面に並んで立っている二人が明々と照らされる室内ではっきり見えた。
輝さんが片腕を腰に添えて懐中電灯を片手に笑顔でいて、薫さんが腕を組んでほっとした顔をしている。
この視点で見上げる二人の姿に、ぶわっと安心感が体中に広がっていく。
ああ、何だか…。
すごく嬉しくて、心がじんわりする。
うわ…。
泣きそう…。

「よっし!着いたなっ。雷も遠くなってきたし、雨も少しだが弱まった気がする。風はまだ強いけどな。安心しろ、そろそろ終わりだ。もう少ししたら、完全に雨雲もいなくなるだろ」
「元々局地的なものだったんだろう。日中、地元の人に聞いた話では、この辺りは通り雨の後は快晴になるという。明日の撮影は心配なさそうだ」
「へえ…。だってさ、翼。やったな!…さあ、そんじゃコーヒーでも飲んで一息吐こうぜ!」
「待て。就寝前にカフェインを取るのは…」
「ぁ…」

きっと敢えてだと思うけど、ぱっと背中を向け、輝さんがキッチンへ向かう。
彼を追って薫さんもオレの前を離れたけど、離れる一瞬視線がオレへ向いた。
一瞬の流し目。
オレに見えるのは、すぐに背中になってしまう。
だけど、そこにとても優しい、ほっとしたような瞳の色を見て、ビリッと四肢にシビレが走った。

「…っ、輝さん!薫さん!!」

気づいたら名前を呼んで勢いよく立ち上がっていた。
ゴロゴロとまだ少し遠くで雷が鳴る。
まだ完全に「恐くない」とはとても言えない。
いや、きっとこれからも、「恐くない」なんてきっと言えない。
けど、オレとメンバーであるこの二人は、「それでいいんだ」と言って支えてくれる。
そして、オレがほっとすることで、自分もほっとしてくれるくらい、親身に想ってくれている人なんだ…!

「ぁ…ありがとうございますっ!!」

頭から被っている毛布そのままに、大きな声でお礼を言う。
両手をぐーにして言った言葉に、輝さんも薫さんも、笑みを返してくれた。

 

 

 

雷の光と音が去ってから二十分経たないと、本当に安全とは言えないらしい。
研修でそう教わったから、その二十分が経過する間も、ぎゅっと身を縮めていた。
けど、今は薫さんの提案で、コーヒーからホットミルクになったカップを持って来てくれた頃には、もう光も音もなくなっていたし、オレの気もすっかり元通りになった。
三人で、もう慣れたいつもの座るポジションに収まり、明日の仕事の話をする。

「ん…? 何だよお前、髪濡れてるじゃないか。タオルを…」
「もう一通り拭いた。君の感じているものは髪や服に残った湿気だ」
「湿気でも何でも、そんなに湿ってたら風邪引くだろ。風呂入っていけよ」
「もういっそみんなでここに泊まっちゃいましょうか? 三人川の字で寝たいです!」
「いいなー!合宿みたいだな!」
「不 可 能 だな。どこにそんなスペースが…」
「おっ、じゃあこのソファ寄せて床に雑魚寝するか!」
「あ、オレも手伝います!」
「………本気か?」

輝さんが明るい声で笑い、薫さんが半眼で輝さんと僕を呆れたように見る。
二人といれば、雷の後の二十分なんて怯える必要がない。
こうして少しずつ少しずつ、二人の傍で無理をしないように、オレのペースで心を解放できていけたらいいな…。
オレも笑顔で、一人飲んだら帰ると言っている薫さんを説得するため、二人の会話の間に入ることにした。

 

 



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翼さんの苦手なもの、雷。
フライト中に当たっちゃったら、そりゃ恐いですよね。
けどきっと三人でいれば恐くない!
2018.11.9






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