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野菜を切り分け、ボウルに入れてドレッシングと塩胡椒で和え、冷蔵庫へ。
言われたとおり、銀色のトレーの上に冷蔵庫から出した解凍した魚の切り身を並べ、こちらも塩胡椒を振って片栗粉をまぶし、また冷蔵庫の中へと戻す。
他人の家だというのに、慣れたキッチン。
冬馬の家に出入りするようになって、もうどのくらい経つだろう。
お父様がお仕事の都合上単身赴任をされているので、多少なりとも防犯の意味も兼ねてなるべく立ち寄るようになった結果、今ではすっかりJupiterにとっての"家"になっている気がする。
マンションの一室は勿論持ち家などと比べるとコンパクトであるが、それでもこうして一人でいる分には広く感じるのだから、人一人が生活するスペースなんていうものは、本来そんなに必要がないのかもしれない。

「…さて。冬馬に言われたものは終わったけど…。何か他にもう一品作ろうかな」

閉めた冷蔵庫のドアに貼ってある一週間分の献立メモのようなもを見ながら、顎に片手を添えて検討してみる。
今夜のあがりはオレが一番早かった。
…というか、オレが定時あがり組でいられたが、冬馬と翔太は監督のご意向で今夜の居残り組に組み込まれたというわけだ。
舞台の仕事では、あまり珍しいことじゃない。
冬馬は火が着くと動きや発声に張りが出るが、今回の舞台のようにしなやかさや優雅さを求められるようなものは少し苦手のようだし、翔太は日中に予定していたシーンの稽古が押してしまって必然的に残るようになってしまった。
本来ならその場に残って待っていてもよかったんだが、たまたまオレに単体のドラマが入っていて台詞を覚えたいこともあったし、冬馬から合い鍵を預かって一人先に冬馬の家へあがらせてもらったわけだけど…。
視線を上げ、壁にかかっている時計を見上げる。

「いつ頃になるかな。それによって作るメニューも違ってくるけど…。キノコでもソテーして盛り付けに――」

 

――バタンッ。ガタ…!

 

「…ん?」

ポケットからスマホを取り出してキノコを使っていいかどうか聞こうと思った矢先、玄関が開く音と足音がした。
…帰って来たかな?
出しかけていたスマホを、再びポケットへしまう。
「ただいま」の声がしないことに多少の違和感を覚えたが、とはいえただただ忘れただけかもしれないし、自宅という意味で言わないとしたらたぶん翔太ではなく冬馬だろうな。
そんな予想をつけながら、音がしたドアの方を向き、短い廊下の向こうからその姿が出てくるのを待った。
ドタドタと多少乱雑な足音が聞こえ、これは不機嫌だぞと顔も見ないうちから分かった気でいたけれど、その足音がキッチン前のリビングに着く前に止まってしまった。
遅れて、ザーと水が流れる音が聞こえ始める。
外出から戻って手を洗うにしても先にオレがいることが分かっているのだから、大体はまず顔を見せることが多いはずなのに、すぐに洗面台に直行するその行動に少しの違和感を持った。
流しで両手を洗って軽く拭いてから、キッチンを離れる。

「…? 冬馬?」

リビングを横切って廊下へ出ると、案の定洗面台があるバスルーム前に明かりが付いていた。
姿も見えぬうちから声をかけたが、踏み込むと、案の定帰って来たのは冬馬だった。
…まあ、ベルを押さないのだから鍵を持っていない翔太ということは有り得ないのだけれど。

「おかえり、冬馬」
「…!」

帰って来たのはやっぱり冬馬で、蛇口の水を出しっ放しにしたまま、片手にタオルを巻き込んで両手を洗面台の縁に置いて俯いていたようだけれど、オレが顔を出すとびくっと露骨に身を固くして、弾かれたようにオレを振り返った。
見開かれた双眸と目が合ったのは一瞬で、すぐにふいと顔を反らされてしまう。
項垂れていたようだった体を少し戻して顔を上げるが、その横顔の顔色が悪い。
何かあったのはすぐに分かるが、とはいえ怒っている感じではない。
…何だ?
訝しげに思いながらも顔に出さないでいると、さっと冬馬が濡れた手の甲で顎下を軽く拭った。

「お、おう…。た、ただいま…」
「早かったな。翔太はまだもう少しかかりそう?」
「ぁ、そ…そうだな、たぶん。…ちょっと体調悪くて、俺だけ先にあがらせてもらったんだけどよ…」
「体調? 熱でもあるのか?」
「え!い、いや…っ!」

熱があるのか気になって一歩踏み出すと、またビクッとして冬馬が洗面台から手を離すと一歩オレから逃げた。
「それ以上近づくな」とばかりに、遮るように片手を上げられる。

「だ、大丈夫だ!何でもねえ!!熱があるとかそういうんじゃねえから…!」
「それならいいけど…。それはそれとして、どうしてそんなに服が濡れてるんだ?」
「…あ?」

敢えて焦って拒絶していることには触れず、踏み込んだ結果手が伸びる範囲になったので出しっ放しになっている水道の蛇口を閉めながら聞く。
オレに正面を向けた冬馬のトップスが濡れていたので気になって尋ねると、冬馬も今気づいたみたいで上げていない方の手で着ているロングティシャツの裾を引っ張った。
丁度左肩の所から腹部にかけて、一筋という感じで水で濡れてしまっている。
今さっき濡れてしまった感じだな。

「うわ、マジだ!床…は濡れてねえか。ならいい、すぐ着替えちまうし」
「どうした。大人しく手も洗えないのか?」

何か事情があるだろうとは思うけど、いつものように少し戯けて苦笑してみる。
その一方で、何か理由を探れるヒントはないかと窺った。
水を出していたから、その時だろうけど……普通に手を洗っていればそんな場所が濡れるわけがない。
何となく左肩へ注目すると、そのすぐ傍にある髪も少し水が付いている。
服もだが、どうしてそんな場所が濡れているのか、濡れた手で首でも掻いたのか……とぼんやり疑問を持っていたが、そる色が目についた途端、さ…と思考が凍り付いた。
水で湿る、左の横髪と襟元。
その奥にある首筋に…。

「――、冬馬」
「…!」

ぐいと強く、出されていた手首を握った。
冬馬の肩が震え、驚いた顔がオレを見上げる。
手首を取ったまま一歩踏み込むと、冬馬がまたまた一歩慌てた様子で後退した。

「っ…な、何だよ!何でもね――…うわっ!?」

それなりに本気の抵抗を無視して少し強引に手を伸ばし、今見た異常な色を探るため、冬馬の左の横髪を片手で耳にかける。
途端に出てくる、目に痛いくらいの、鮮烈な赤い色。
…口紅だ。
たぶん、水で取ろうと思ったんだろう。
左耳の下、白い首の横に、水で微かに擦れた口紅が付いている。
…。

「…これ、どうしたんだ?」
「どーもしねえよ!!うるせえな!離せよっ、痛ぇだろ!」

咄嗟に冬馬がオレの腕を掴んで引き剥がそうとしたけれど、その一瞬オレも腕と体幹に力を入れて引かなかった。

「…っ」

もう一度本気で腕を振るわれるが、それでもオレの手が離れないと分かると、一瞬だけ、とても気弱そうな、困惑したような顔でオレを見上げ、目が合った。
その表情に弱い。
こんな表情を見る瞬間は、いつも日頃忘れている彼への想いを突発的に思い出す。
961プロを冬馬が飛び出したという話を聞いて、驚いたとか焦ったとかではなく、凍り付いたことを思い出す。
翔太と一緒に夜の公園で見つけた時のあの顔だ。
いつだってあの瞬間を思い出すし、その不安げな表情を早く打ち消してやりたいと思う一方で、笑顔と同じくらい、まるで磁力のようにぐっと強くオレを惹き付ける。
冬馬のいいように何だって許して甘やかして、望みという望みを全て叶えてやりたくなる。
離せと言われれば咄嗟に離してしまいそうな自分がいるけれど、オレの場合と違って冬馬にとってこの手の話は有耶無耶にしてはいけないし、何より冬馬自身、有耶無耶にする仕方が分からないだろうから、放っておけば確実に自分の中での消化不良を起こすはずだ。
冬馬が焦っている以上、こっちがノってしまえば場は混乱するだけだし、オレの方は口調だけ慌てないよう、早口になってしまわないように気を付けながらもう一度尋ねる。

「どうしたんだ?」
「っ……お、俺が知るかよ!!」

バンッ…!と冬馬が持っていたタオルを片腕で洗面台に叩き付けた。
喧嘩腰なのはいいけれど、思い出したのか、一気に顔が赤くなって叫き出した。
けれど、怒っているとか照れているというよりは、まるで泣き出しそうに見えるし、今彼の中にあるものは、勿論怒りとか照れくささとかではないんだろうな。

「俺が知るわけねえだろ!!俺だって何が何だか…っ。よく分かんねえけど突然話しかけられて近づいてきて、それで何か知らねえけど急に…!」
「冬馬」
「うるせえっ!触ん――おいっ、離せって!!」
「ちょっと待って。落ち着いて」

叫きながら力任せに腕を振り、また一歩後退する冬馬を三度捉まえる。
そろそろ威圧的になってしまうかなと思わなくはないけれど、跡にならないように、且つ剥がされないようそれなりの力で手首を掴んだまま、反対の手で洗面台に投げ捨てられたタオルを手に取った。
よく見れば、白いタオルの一部が口紅の赤で汚れている。
取れないことはないけれど、時間の経った口紅をただの濡れタオルで完璧に取るのは少し手間だ。
その場で洗えればまた違ったんだろうが、ここまで着けて帰ってきたのなら、どんなに急いだって時間は経っている。
手にしたそれを示すように、軽く持ち上げて見せた。

「洗おうとしてたんだろ? タオルじゃ落ちにくかったんじゃないか? オレがコットンと化粧落としを持っているよ。おいで。タオルよりは綺麗に落ちる。拭いてやるから」
「…」

ゆっくり伝えると、逃げ腰だった冬馬も次第に落ち着いてくれたらしい。
一度視線を逃がしてどうしようか迷って、けれど最後には試すようにぎろりとオレを睨んでくるあたりが冬馬らしい。
苛々をぶつけてくるような視線に、少し首を傾げて飄々と瞬いてみる。

「まあ、オレはどっちでもいいけど…。翔太が来る前に取りたいんじゃない?」
「ぐっ…」
「のんびりしてると、今にも帰って来るかもしれないぞ」

握っていた手をオレから離し、微笑しながら背を向ける。
リビングに置かせてもらったカバンの方へ一足先へ向かうと、オレがカバンの口を開ける頃に、冬馬も不機嫌なままとぼとぼ部屋へとやってきた。
カバンの中から、革の小物入れに入った簡単な化粧道具を取り出す。
"化粧道具"という程大それたものではないけれど、男性として最低限のエチケットを整えるものくらいは持ち歩いている。
或いは、撮影中に化粧が崩れてしまった時にたまたまスタッフがいない時とか、そういう時の応急処置用だ。
勿論プロの技術には到底及ばないけれど、自分たちのすぐ身の回りのことだ。勉強くらいはしておく心積もりくらいは普通だろうと思う。
本当なら化粧落としのシートでもあればいいんだろうけど、さすがにそこまでは持ち合わせていない。
ただ、本当に小さな瓶に入った、3回分くらいのクレンジングはある。
香水や化粧水、乳液と合わせ、コットンも数枚入れてあった。
…こんなことで使うとは思わなかったけれど。

「そこに座って」
「…」

取り出しながら顔だけ振り返って言うと、冬馬が渋々という調子で部屋中央にあるテーブル傍に腰を下ろして胡座をかく。
必要なクレンジングの小瓶とコットンだけを抜き取って、後は元あった通りカバンへ戻した。
冬馬の傍のテーブルにそれらを置いて、オレも横に屈んで彼の左側に腰を下ろす。
酷く居心地が悪そうだ。
正直、大したことではないと思うし、現実にオレは何度かそういうシチュエーションにあったことはあるけれど……まあ、冬馬は違うだろうな。
小さく息を吐きながら、コットンを指に乗せ、そこにクレンジングを適量移した。

「髪、少し押さえてて」
「……おう」

どうやら諦めが付いたようで、左腕を上げ、さっと冬馬が左の横髪を耳にかける。
かけるにはかけるが、少し長めの襟足はそれでもさらりと首に流れた。

「うーん…。右腕で押さえられる? 左腕だと少し邪魔だな」
「あ?右? …こうか?」
「そうだな。その方がいい」

作業しづらいことを告げて、言われたとおり右腕で後ろから左髪を押さえるようにしてもらった。
それだけで、まるでCMなんかのワンシーンのように見えるのだから、本当に顔のつくりが整っているんだと思う。
きりっとした目元、それでも性格を表すようにはっきりした視線の強さと多くの光が入る明るめの瞳。
整っているが故につんとして見える横顔は、普通にしていればそれだけでオレ様に見えるけれど、未成年故の少年の雰囲気が抜けきれていない。
オレが3,4年前には既になくしてしまったそういった輝くものを、冬馬はまだ持っている。
パフォーマンスのために鍛えてはいるけれど、完全に筋肉質な体になるわけでもない。
だからよく見れば、翔太ほどではないにしろ彼がまだ意外と"少年"で、そういえば未成年で高校生なのだとはたりと気づけるだろう。
髪を退かせることで、首の横が明かりの下に現れる。
オレなんかと比べると、本来はまだ未成熟な、意外と白くて細い綺麗な首。
だからその分、今耳の下あたりにある擦れた口紅の跡が相当に目立った。

「…」

顔が近いし、音にならないよう気を付けながら、息を吐く。
…酷い色だ、と思う。
何故そう思うのか、オレ自身も分からない。
女性の口紅もグロスも、さして嫌いな方じゃない。
何なら、水嶋くんのように男性が唇に色を乗せてもいいと思う。
現に、オレたちもメイクで唇を染めることはままある。
「綺麗になりたい」「美しく見せたい」と思うその気持ちがまず可愛らしいと思っているし、そう思う人の口元を飾る鮮やかで美しい色のはずなのに、今はまるで血を吸われた跡のような、酷く毒々しい色に見えた。
まるで、一刺し毒を打ち込まれた気になってくる。
早く消してやろう。
そう思って、コットンをその場所へ添えてゆっくり撫でた。

「…」
「…」

オレがやりやすいように首をそれとなく反対側へ向けながら、最初は目を伏せて注射を我慢する子供のようだったが、気になるのか、冬馬がその場所を見ようとする。
けれど、当然人間の視界的に無理なわけだ。
様子を窺っていたが、やがてぽつりと珍しく気弱そうに口を開く。

「……おい、北斗」
「ん?」
「その…。…取れそうか?」
「ああ。勿論。そのためのクレンジングだからな。いつもするメイクと同じさ。すぐ消える。心配ないよ、これくらい」
「そ、そうか…」

ほ…と冬馬が息を吐く。
強張っていた表情がいくらか柔らかくなり、張り詰めていた空気も和らいだみたいだ。
そろそろいつもの調子で突っ込んでもよさそうだ。
コットンで口紅を落としながら、小さく笑う。

「初めてなんじゃないか?」
「あ?」
「口紅。付けられるのがね。それだけ相手を惹きつけたって証拠さ。…どきどきした?」
「するかよっ!」
「おっと…」

急に冬馬が噛み付かんばかりの勢いで振り向くものだから、首が動く。
ついでに、押さえていた髪も流れた。
苦笑して、片手で顎を掴んでぐいっと前を向かせる。

「動かない」
「う…」
「ほら。髪押さえて。ヘタすると髪にも付くからな、口紅」
「げっ!そうなのか!? …え、けどそれシャンプーで落ちるだろ?」
「そりゃ落ちるけど、何にせよ付かない方がいいだろ?」
「…」

さっとまた冬馬が髪を押さえる。
一拭きしたコットンは、勿論赤が擦れて汚れてしまうので、二枚目にまた同じようにクレンジングを染みこませる。
逆向きにならないよう、一定方向に撫で上げると、二枚目にはもう色は殆ど取れた。
本当は付けられてすぐにその場でトイレにでも駆け込み洗ってしまうこともできただろうに、それをせずに焦りながら真っ直ぐ自宅へ帰ってきたのは、それだけパニック状態だったということだろう。
お陰でオレは知ることができたわけだけど、現場から自宅までの移動時間ずっと一人で心細かっただろうから、それは可哀想だったな。
放っておくと深刻に受け止めそうだから、軽く軽く話を持って行った方がいいだろう。

「あまり気にすることないよ。たぶん冬馬が思っているほど珍しいことではないし。…けど、そう言えば冬馬はあまりこういう話は聞かないな。女性からの積極的なアプローチなんて、普通は羨ましいものだけれどね。…ま、冬馬にはまだ早かったかな?」
「はあ? 早ェとか遅ェとかじゃねえだろ!自己中過ぎだ!相手のこと考えてねえだけじゃねえかっ!稽古中だったんだぞ!?」

まあ、そうなんだろうけどね…。
可愛らしい恋する乙女の味方でいてあげたいけれど、ご尤もな一言には同意するしかない。

「…くそ。何なんだよ、アイツ…」
「それで? 誰が声をかけてくれたの?」
「は? だっ、誰だっていいだろ!?」
「そう? 冬馬がいいなら、まあいいけど。明日以降フォローくらいするよ?」
「…フォロー?」
「ああ」
「……」
「教えてくれれば、それなりにできると思うけど」
「………いや!やっぱいいっ!お前は気にしなくていい!」
「そうか? 分かった。それじゃあ、これ以上聞くのは止めておこう」

何でそんなことを聞くんだ!?くらいの勢いで返されたので、逆にオレの方が一瞬瞬いたけど…。
そうか。
冬馬の中では、相手の名前は出さないつもりなのか。
たぶん、オレの中でのその人に対する評価を落としちゃ悪いとでも思っているんだろうけれど……となると、オレも知っている相手ということになるな。
無意識にざっと今回の舞台での関係者を脳内にリストアップする。
まあ正直、冬馬が教えてくれなくても、現場で冬馬の言動見ていれば分かると思うから、無理に探る必要はないんだけれど。
それでも、かばう必要なんてないと思うけれどな…。
実際、そういうことをされたという事実は事実なのだから、隠す必要も相手の周囲に対する印象もかばう必要もないと思う。
それに、冬馬の場合、今後の仕事に今日の出来事が響いてくるはずだ。
それをやんわりと伝えるため、二枚目のコットンを捨て、三枚目に化粧水を含ませて声をかけてみる。

「けどな、冬馬。もし今日逃げ帰ってきたんだとしたら――」
「逃げてねえっ!」
「ああ…うん。そうか、じゃあ…。今日その場を離れてこうして帰って来たんだとしたら、どのみち、何かしらの返事を相手にしないといけないぞ。中途半端な状態が一番よくない」
「返事くらいしたっつーの!」
「したの?」

それは意外だ。
返事をしたこと自体は上出来だけれど、そこで何と返したかにもよる。
横から、ひょいと冬馬を覗き込む。

「何て?」
「……」
「何て言ったんだ?」

覗き込まれた冬馬は、また思い出したのか、顔が赤くなっている。
その反応を見ていると、何だか色々通り越して、少し呆れてしまう。
取り敢えず、世間で二言目には「格好いい」と続く話題の男性アイドルがするスタンダードな反応ではないだろう。
ちょっと聞かれたくらいでこの反応には、やっぱり心配になる。
けれど同時に、安らぎもする。
何とも言えない妙な表情で沈黙していたけれど、化粧水で宥めるように首を撫でてやると、やがてはぽつぽつと唇を開いた。

「…と、取り敢えず、引き剥がして…。『俺はアンタには興味ねえ』って…」
「おおっ。よく言えたな」
「たぶんなっ、たぶん!正直、ちょっと覚えてねえっつーか…」
「もし本当に言えたとしたら、上出来だと思うよ。その相手には残念な結果かもしれないが、やっぱりそういう気持ちは、一方的ではよくないからな。…ほら、終わり。もう綺麗になったぞ」
「っ…」

指の側面でゆっくり、少し意味深にその場所を撫でてやる。
ぴくっと一瞬擽ったそうに顔を歪めたがそれだけで、すぐに掌に切り替えると、簡単な汚れを拭き取るようにさっくりと一撫でして手を離す。

「…」
「見る?」

自分で見えないその場所をまだ気にしている冬馬へポケットミラーを取って手渡してやると、片手で持ち、まじまじと首筋を確認した。
けど、もう口紅の跡がどこにあったかも分からないだろう。
ほ…と一息吐いて、ミラーを軽く振ってどこか得意気に勢いよくぱたんとカバーを閉じると、それを持つ手をオレへ伸ばした。

「サンキュ、北斗」
「どういたしまして。…お?」
「…!?」

返されたミラーを受け取ったところで、ベルが鳴った。
びくっと冬馬の肩が跳ねる。
どうやら翔太も終わって来られたみたいだ。
もう少し遅いかと思ったけれど……思いの外本当にぎりぎりだったな。

「わ、お、おい…!」
「ん?」

手にしたミラーを一旦ポケットへ入れて、出迎えてやろうと立ち上がりかけた俺の手首を冬馬が取った。
何かと思ったら人の腕をぐっと掴んで、赤い顔のまま、縋るようにというよりはほぼ喧嘩腰で声を張った。

「しょ…翔太には言うなよ!?」
「分かってる。言わないよ。それより、料理途中なんだ。続きは頼むよ。あと焼くだけなんだけど。翔太もお腹が空いているだろうからね」

手首を掴む冬馬の手を軽く叩いて立ち上がり、部屋を出たオレの背後からまた声が飛んでくる。

「絶対誰にも言うなよっ!?」
「分かってるって。信用ないなぁ」

笑いながら短い廊下を進んで、翔太が待っているドアの錠へ手を伸ばした。

 

 

 

 

「――と冬馬と約束をしてしまったから、誰にも言えないな。独り言になってしまうけど、誰かに聞かれたらどうしたものか…。困るな」
「わー。大人ってずる~い」

相変わらず家庭的でおいしい夕食をいただいて帰った翌日。
たまたま冬馬がプロデューサーと部屋を出たところで、控え室にある鏡の前に腰掛け、目を伏せてしみじみ独り言を言うと、丁度鏡越しに移っている、背後の部屋中央のテーブルにあったお菓子を食べていた翔太が間延びした陽気な声で応えた。
今開けたばかりのスティック状のお菓子を一本取り出し、ぱくりと口に咥えるようすが、目の前の鏡にはっきり映る。

「ふ~ん、そんなことがあったの? 今回の撮影って僕たち役のグループが途中までちょっと別れちゃってるし、いつもよりは一緒にいる時間、現場では少ないもんね」
「それ自体が悪いこととは言えないけれど、冬馬には撮影に集中してもらわないといけないからな。他のことは仕事に意地でも持ち込まないのに、こっち方面はどうもな…」
「でも頑張ってると思うよ、冬馬君。僕、そこまで気づかなかったもん」
「その点、昔よりは成長してるのかもな」
「だね。けど…まあ、聞いちゃうとまた違うかなー。それ知ってると、僕心当たりあるかも。今日、妙に冬馬君に話しに来ないなってお姉さんが一人いるから。いつもすぐ来るのにさ。たまたまかなとは思ったけど、違和感はったんだよねー。性格的にもしそうだし、たぶんその人かな」
「そう? じゃあ、後でこっそり教えて」
「…。うーん…」

台本を開きながらそれとなく言うと、迷った様子が背中越しに返ってきた。
少し意外に感じて、折角開いた台本から視線を上げると、肩越しに背後を振り返る。
宙を見ながら、ぽりぽりと翔太がお菓子を食べ進めていた。

「…? 教えてくれない?」
「できれば、北斗君にはあんまり教えたくないなぁ」
「どうして?」
「僕は冬馬君と一緒にいればそれだけで年齢的に予防になるけどさ…。北斗君って、動いちゃうんだもん。そのお姉さんに声かけに行くつもりでしょ?」
「それは分からないな。けど、オレは素敵な女性にはいつだってお近づきになりたいと思っているよ?」
「…」

ウインクついでにいつものように軽く片手を上げるも、翔太には通りにくい。
食べていたお菓子を最後まで口の中に入れて呑み込んでから、やっとオレの方を向いて片頬杖を吐くと、呆れたようにため息を吐いた。

「北斗君ってホ~ント、びっくりするくらい優しいよね…。たまに心配になっちゃうよ」
「買い被りすぎだよ」
「だといいんだけどねー。…冬馬君、こういうの知ったら絶対怒るんだろーな~。僕はまだいいけど、たぶん北斗君は本気で殴られると思うから、覚悟しておいた方がいいよね。きっとグーだよ」
「顔はご勘弁願いたいね。エンジェルちゃんやエンジェルくんを哀しませるわけにはいかないからな」

わざとらしく片手を頬に添え、正面の鏡に向けて決め顔をつくりながら言ってみると、翔太はまた鏡越しに小さくため息を吐いたのが見えた。
不機嫌顔ではないにしろ、もやもやとした気持ちを抱えていることが目に見えている。
いつも注目されている立ち居振る舞い以上に、翔太は大人びている。
だからオレもついつい甘えてしまうけれど…彼もまた、何てことはない中学生の少年だ。
…間を置いて、食べかけのお菓子をざっくりと片付けてから翔太が席を立つ。

「…じゃ、僕、冬馬君の傍にいるから」
「よろしく」
「は~い」

ぱたぱたと翔太が控え室を出て行く。
ドアが閉まる音を聞いてから、足を組んでイスの背に体重を預けた。
…教えてくれないのか。
翔太の心配はありがたいけれど、オレが動いてしまった方が、一番リスクが少ないし誰も傷つかずに済むと思うんだけどな。
緩く腕を組んで、小さく息を吐く。
けれど、吐いたところで目の前の鏡に映る顔が曇っていることに気づき、にこりと映る自分へと微笑みかけた。
暗い顔や悩める顔なんて、大切なエンジェルちゃんやエンジェルくんには見せられないし、オレたちを支えてくれるスタッフさんにも見せられない。
今日の衣装の襟を開いて、ネックレスが映えるように首と鎖骨を見せる。

「…女性の口紅は、オレの首筋が一番似合うと思うんだけどね」

誰が聞いているわけではないけれど、澄ました声で言ってみる。
別段苦痛に感じたことはないし寧ろ誉れだと思っているけれど…。
やっぱり、翔太が言うように、冬馬が知ったら殴られるんだろうなとも思う。
頭に血が上ると、本当に何をするか分からないからな、冬馬の奴…。
そして意外にも、どことなく自分はその瞬間を待ち望んでいるような気もする。
顔を殴られるなんてことは絶対に阻止しなければならないし、それ以前に冬馬の耳に入らないように動く自信はあるけれど、それはそれで悪くない気がしてしまう。
こんな複雑な、けれどありきたりなどこにでも見かける感情を、きっと真っ直ぐな冬馬は解らないだろうなと思えば、自然と口元が緩んだ。
解らないことが可愛いとも思うし大切にしたいと思う一方で、複雑怪奇な恋情を、片っ端から教え込んでみたい気もしてくる。
きっと、楽しいだろうなと思う。
例えば冬馬がオレのことを意識したとして、万一付き合ったとして、けれどオレが女性たちの誘いを断らなかったら、その時に感じるであろう泥のような感情だって、確かに「恋」の一片であり、「嫉妬だよ」と教えてやれたら、その瞬間、どんなにオレは幸せだろう。
…と、そこまで考えてふと我に返る。

「…」

目を伏せて、深くゆっくり、息を吸う。
…冷静になろう。
今すぐにでも動き出したいけれど、翔太が任せて欲しいと伝えてきたから、信頼したい。
少し冷静にならないと、この両足が勝手に、一刻も早く例の相手を探し出し、口説き落として冬馬からオレへ流れるようにしに行ってしまいそうだ。
あの首筋に残った紅が自分で思っていた以上に鮮明に記憶の片隅に残ってしまって、思い出す度に柄にもなく、また少し焦った。

 

 

 

その日の夜。
稽古が続く日は割と連日になることが珍しくないが、その日も冬馬の自宅に翔太と揃ってお邪魔させてもらった。

「なんかね、やっぱり向こうも冬馬君を避けてるみたいだったから、様子見で平気っぽいかな」
「そう? それはよかった」

本人がキッチンにいる間に、特に声を潜めるわけでもなく、あっさりとオレに報告してくれる。
…まあ、ある程度自信と余裕があって行動したところに面と向かって『君には興味がない』とまで言われたら、普通の女性はショックだろうとは思うけど。
彼女の方のメンタルも少し心配だ。
冬馬の件は相手の女性には残念だったとはいえ、そちらもあまり気落ちしていなければいいけれど。
そういう意味でも、相手が分かればある程度慰めることもできる。

「…で? やっぱり教えてくれない?」
「教えな~い」

さらりと尋ねてみても、ウチの小さなナイトは揺らがないらしい。
心強ささえ感じながら、小さく笑ってしまった。
リビングのテーブルに食器を並べ終わったついでに、ラグに俯せに寝転がってアプリをしている翔太の頭をぽんと軽く叩く。

「立派なナイトだな、翔太」
「北斗君に言われても嫌味にしか聞こえないけどね~」
「そう? お互い様だと思うけどな」
「おう、悪ぃな、北斗。スプーンサンキュ……って、オイ翔太。他んトコで転がってろ!明らか動線だろ、そこ。踏むぞ!」
「いてっ」

話の途中、冬馬が両手に料理の盛られた皿を持ってリビングへ入ってきた。
カレーをテーブルに置きがてら、片足で軽く寝ている翔太の脇腹を蹴ると、これ見よがしに翔太がその場所を押さえて体を丸め込む。

「ううう~っ、いたーい!冬馬君が蹴ったぁー!痛くて起き上がれないよ~」
「じゃー、お前の分はいんねーな? 痛くて食えねえんならお粥でも作ってやるか?」
「えー!?」

持って来た二人分をオレと自分の定位置においてそのまま座ろうとする冬馬に、がばっと勢いよく翔太が起きる。
両手をテーブルに着いて中腰のまま、冬馬が翔太を向いた。

「何だよ。そういう話だろ?」
「またまたー。とか言いつつ確実に僕の分だよね、それ。知ってる」
「今日はいい加減本気だったらどうする?」
「んー。北斗君に泣きつく? …北斗くんっ!冬馬君が僕に飢え死にしろって言うよおっ」
「おっと」
「あ、テメ…!」

けろりと会話をしていた翔太が、突然の涙声と演技入れて横からオレにハグしてくるので、片腕を背中に回して軽く受け止める。
勿論冗談の流れなのは分かり切っているので、オレもノってしまって、軽く翔太の背中を叩いてやる。
話が大きく長くなる前に冬馬へ視線を投げると、不愉快そうでありつつも"分かってる"というような顔で一度オレを見てからため息を吐いて翔太へ向き直ると再び立ち上がった。

「馬ぁ鹿。ウソに決まってんだろ。くれてやるから、邪魔にならないところで寝てろよな。…ほら。これはお前の分」
「わーい♪ 僕もうお腹空いちゃって動けなかったんだよ。けど、冬馬君のお陰でまた動けそう。ありがと。今日も美味しそうないい匂いだね~」
「ったく。調子いいな。…それじゃ、片付けくらいは手伝えよな」
「うーん…。食べたらお腹いっぱいで動けないかも、僕」
「どっちみち手伝わねえんじゃねーかっ!」
「何か飲みものもあった方がいいな。二人とも、何がいい? 取ってくるけど」
「僕、炭酸水!」「ウーロン茶」

まるで揃ったように翔太と冬馬がさっと手を上げ、話は頓挫する。
「OK」と手短いに応えて席を立てば、二人のそのやりとりはあっさりと終了し、中央のサラダを二人で分け始めていたからもう今の流れには戻らないだろう。
リクエスト通りの飲みものをグラスへ注ぎ、トレーに並べる。

「…」

中身の色の違うグラスが三つ。
たったそれだけのことに満足して、丁寧に両手で持つと二人が待つ食卓へ戻った。
今日の夕食も温かく美味しそうだ。
いつからだろう。胃がすっかり冬馬の手料理に馴染んだ。

 

 

 

「――…? 静かだな…」

静かな部屋で、一人別の仕事の台本を読みながらグラスを傾ける。
視線は変わらず文字を追っていたものだから、傾けたグラスの中身を飲みきってしまい空の状態になったことで、ふと我に返った。
いつの間にか集中してしまっていたらしい。
近くにあったスマホへ手を伸ばして時間を確認すれば、もうすっかり深夜で日付まで変わっていた。
食事をして片付けてシャワーを借りて…少し共通の仕事の話をして、そのまま個々人の仕事の話になって、ちょっと集中したいと思って話を切っていたんだっけ。
スマホに触れたついでに入っていたいくつかのメッセージに返してから、台本を閉じ、その上にスマホを置く。
妙に静かなのは、翔太と冬馬がそれぞれうとうとしているからのようだ。
テーブルの右側では冬馬が、向かい辺りでは翔太が、それぞれ横になって適当なものを枕代わりに寝ているようだった。
…こんな時間になっているんだから、当然か。
今日も今日でそれなりに疲れただろうからな。
最近は、以前のような人気が戻りつつある。
一時活動できなかった時期もあって体力が落ちることを心配したようなこともあったけど、最近では普通に生活をしているだけで基礎体力をキープできるのだから、休養はしっかり取らないといけないな。

「冬馬。寝るならベッドで寝たら?」
「……ぅ」

腕を伸ばして横になっている冬馬の肩を軽く揺すってみたが、起きる気配はない。
規則正しい寝息が聞こえてくるだけで、その呼吸音にこっちまでうとうとしてきてしまう。
冬馬がこの状態なら、オレが帰るから内側から鍵をかけるようにと起こすよりは、泊まってしまった方がいいだろう。
オレが寝るのはどこでもいいけれど、ベッドが空いていて三人床でごろ寝というのはいただけない。
せめて翔太を運んでやろうと立ち上がって、ベッドの布団を捲っておく。
翔太の傍へ行くと、片足をテーブルの下へ伸ばしてはいるが、クッションを枕に見事に大の字で寝ていたので、その背中と膝裏に腕を差し込んで抱き上げた。
昔と比べれば少し重くなったけれど、それでもまだ抱き上げても余裕がある。

「……ぅー…」
「おやすみ、翔太」

翔太をベッドへ寝かせ、ヘアバンドをしていないふわふわとした前髪を手ぐしで横に流してやる。
布団をかぶせてこちらはいいとしても、さすがに冬馬を翔太と同じように抱き上げることはできない。
テーブルの上のグラスを流しに運んで、簡単に洗う。
それが終わればリビングに戻り、人の家で勝手をしてしまって申し訳ないけれど押し入れを開け、知っている場所から広いブランケットを一つ取り出し、腕に持った。
冬馬の傍に膝を着き、さっきと同じように冬馬の肩へ手を置く。

「冬馬。ベッドは翔太が使っているんだけど、床でいい?」
「…――」

やはり返事がなく、さっきと比べると何やら難しそうな顔で寝込んでいる。
触れた掌がすぐにほんのりと熱を持つ。
小さな子と比べるつもりはないけれど、寝ている人の体温は高くてとても好ましい。
まるでただただ暖を取るような気持ちでつい腕を回したくなってしまうけれど、そんなことになる前に手を離してブランケットをかけてやる。
本当に大きなサイズのものなので、二人で使うくらいはできそうだ。

「…。ふむ…」

片手を口元に添え、隣に横になろうかどうかを少し思案する。
何も考えずくっついて寝られる日もあれば、今夜だけは勘弁して欲しいと理由を付けて距離を置く日もある。
面白いもので、ライブ上がりや仕事上がりは何も考えず傍で寝られるが、自分がリラックスしていればしている程、距離を取る必要を感じる。
今夜はこんなにも心穏やかなのだから、いつもなら離れる必要があるのだけれど、冬馬も翔太も寝転んでいるこのうとうととした空気が部屋を充たしていればオレもすぐ眠ってしまいそうな気がする。
きっと大丈夫だろうと、部屋の明かりのリモコンを片手にオレも隣へと横になった。
元々好みとも言える冬馬の整った顔を見ているのは飽きないので暫く眺めているうちに、白い首にかかっている毛先が邪魔そうに見えて、後ろに流してやろうと片手を伸ばす。
その瞬間、ふ…と冬馬が目を開けた。
ぴく、と無意識に手を止める。

「…」
「…」
「……悪い。起こした?」

さすがに一瞬ぎくりとしたが、表面には出なかったと思う。
ぼんやりしているところにオレがそっと声をかけると、前髪の間からこちらへ視線が移ってくる。
一度目が合って、けれどふいと目の前のラグ辺りへ視線を移してその瞳がゆっくりと瞬きをした。
たったそれだけで、ぐいっと体の中の何かが引っ張られるような色っぽさがあり、思わず口元を引き締める。
…ああ。
止めてほしいな。そういう自覚のない色気は。
一呼吸落ち着いて、今度はいつもの調子で笑みを向けた。

「ベッドは翔太が使ってるよ。…これ一枚で寒くない?」
「…――ん…」
「そう。…おやすみ」
「…」

中途半端に止まっている手を引っ込めるのは逆におかしい気がして、そのまま首にかかっていた髪を耳にかけて後ろへ流してやる。
今日は何の跡もない。
ほっと息を吐く。
そうしている間に、またうとうとと冬馬が目を伏せる。
寝る直前というものは誰しもそうだけど、ひどく幼い印象だ。
何の心配もなく眠りに落ちていく姿を見るだけの現状に、思わず笑いがこみ上げてきた。
まるで事後のようなシチュエーション。
正直、こうして横になって髪を流してあげてきた相手は何人かいる。
…。
ここまで、状況が整っているのにな。
きっとその気になれば、流れに持って行くこと自体は簡単なんだとは思う。
冬馬が混乱している間に最後まで持って行く自信もある。
けれど、そうしたくないオレも確かにいる。
目を伏せて……何だか、世間では色々なイメージで見てくれている自分がこんな清んだ気持ちを持っていることが、愉快でならない。
自分らしくないなとは思うけれど、ぐるっと一周して、いっそ本当にオレらしい気もする。
甘ったるくて、偽善的で、理想主義で、都合よく、美味しい所取りで、格好つけだ。
口が巧く、八方美人で、思いの外いじけ癖があるくせに、それを他人に見せたくないし、見せることが怖くて、常に笑顔で一定の距離を守っている。
腕を引っ張る誰かがいないと走り出せもしない男が、君に相応しいわけがない。

「…オレが臆病者でよかったな、冬馬」

内緒話のように囁いてからぽんと軽く指の背で冬馬の頬を叩いてみるけど、夢の中の冬馬は無反応。
さっきみたいな仕草は一々可愛らしいくせに、黙って寝ていれば寝顔はなかなか男前で格好いい。
そのまま写真集に載せてもいいくらいに。
今夜も安堵の息を吐く。
ブランケットを彼にかけなおし、電気を消してオレも隣で休むことにした。




今はまだ見上げる花





陽の光と春の風で自ら強く咲く自然の花は、触れない方が美しいということを、本当は全ての人が知っている。
それでもいつか…例えば今回の口紅ように…いくつもの偶然が重なって、彼にとってのいくつかの悲劇やオレにとってのいくつかの喜劇とが運命的に、且つ奇跡的に重なって、いつか、まるで美しく花咲く枝をそのままそっと自宅へ持ち帰るかのように、僅かな傷もつけないままに…。

見事に手折れたらいいなと思う。



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北冬の片想い。
本命は大切過ぎて手が出せないけど欲情はある。
公式での「今日も格好いい」発言を最初に見た時はひゃあー!ってなりました。
恋人設定も書いてみたいけど…翔太君が可哀想だし、やっぱり3Pが妥当な気が…。
2018.4.1





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