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「――けど…、」

自然と唇が開いて言葉を紡いでいた。
とても穏やかな気持ちで。
けれど一方で、「声にするのは止めた方がいい」と主張する理性の存在にも気付いていた。
…そう。止めた方がいい。
今は、声に出さない方がいい。言葉にしない方がいい。
本人を目の前にしてならいくらでも言える。からかっているのだと思わせられる。
冗談のように、何でもないように、軽い気持ちで発言できる。
けれど、本人がいない今は止めた方がいい。
瞬間的に自分に言い聞かせる。
早まるな。
言い方は、他にも色々あるはずだ。
こんな場所で、第三者に……しかもこんなに万感を込めたような声で伝えてしまったら――。
…けれどこの声は、気持ちは、"俺"を待たない。

「すぐに好きになったな…」

まるで牢獄からの逃げ道を見つけたみたいに、理性を無視して体から言葉が外へ飛び出す。
言った瞬間、S.E.Mの皆さんが、少し意外そうな顔をした。
――ほら見ろ。
本心の含まれた声は、歌は、こうして素晴らしくストレートに他者に伝わってしまう。
間を置かず、下げた視線を上げながら、にこりと微笑む。
ここは否定をするより、更に肯定した方が流しやすい。

「俺にとって必要な、最高のメンバーだと思っていますよ」

追って言うと、マイケルが驚いた顔から華やいだ笑顔に転じた。

「Wow!ねえ、聞いた!? ミスターはざま、ミスターやました!」
「ああ」
「うんうん。聞いた聞いた」

ビールを片手に、興奮した様子でマイケルが同じユニットのメンバーである二人の顔を交互に見る。
お二人に頷いてもらってから、再び彼が羨ましそうに俺を見た。

「北斗にとって、同じユニットのメンバーは大切な仲間…Treasuresなんだね!Wonderful!」
「そうだな。それに、心で思っていたとしても、君の年齢だとなかなかそれを言葉に出すことは容易ではないはずだ。伊集院君。今の発言をしたことで、君がどれだけメンバーを誇りに思っているのか、我々にはよく伝わった」
「そーだねぇ~…。まー思ってても照れくさくて、なかなか難しいもんだよねぇ、普通はさ。大切なことだと、余計にねえ…」
「そんなことないよ、ミスターやましたっ。相手に伝えるには、Wordにしなくちゃ!俺は二人が大好きだよ!俺にとっては、S.E.Mだって、BestなMemberさ! I love you、ミスターはざま&やました!!」
「はいはい、どーもどーも。愛うれしいよ~。…けどねえ、るい。前も言ったけど、あんまりあっちこっちでそう愛と笑顔振りまいて、投げキスして歩かな……」
「ああ。私もだ、舞田くん。I love you too!」
「いやいやいやいやっ、ストップストップ…!ちょ…さすがにおじさん同士の投げキスは止めましょーよ!そういうのは後で再確認するとして、今はごはんでしょ、ごはんっ」

ビールを置いた両腕を思いっきり左右に広げたり、投げキスをしたりしているマイケルや、それに律儀にも返している硲さんへ山下さんが片手を差し出して止めに入り、それから苦笑しながら俺の方へ小皿を箸を差し出してくれる。
両手を差し出し、ありがたくそれを受け取った。

「いやー…ゴメンね~。ムサいの見せちゃって…」
「いいえ。俺もよく投げキスをして、冬馬に怒られていますよ」
「ほら、怒られてるってさ。…るい~。もー投げキス禁止って話じゃなかった~?」
「けど、それは他の人にって話だったよ? ミスターやましたとミスターはざまにならいいって言ってなかった?」
「うむ。私の記憶にもそのフレーズはある。山下くん、確か君が我々の前では構わないから、と」
「いや、そりゃそーだけど…。別に悪かぁないのよ? ただ一応大人だしさぁ、人様の前は止めようね~って話で…」
「…」

S.E.Mの三人が仲睦まじく会話をするのを、ある種の疎外感を感じながら微笑みを保ちながら聞いていた。
大丈夫だ。軽く流せた。
けど…。

「…」

少し視線を下げて、空の状態の小皿を見下ろす。
どくんどくんと、心音がいつもより速い気がした。
こんなに楽しく気持ちのよい時間のはずなのに、自分は今こんな所で何をしているのだろうという気にもなってくる。
冬馬のいないこの場所で。
…。
言葉になんか、するんじゃなかった。

 

 

 

 

ため息を吐いている姿を誰かに見られたくないから、夜道で、ゆっくりと、深呼吸のように慎重に息を吐く。
世界の誰が狂喜していても哀しみに暮れていたとしても、時間は無情に進んで行く。
山下さんの家にお邪魔させてもらってから、もう数日が過ぎた。
けれど、あの言葉を口にしてしまったが為に、以降数日、久し振りの熱情が維持されてしまっている。
…あの日は、山下さんの家を出、すっかり日が沈んだ夜の空の下、平然を装うことを意識しながら、駅へと向かい、あまり気が向かなかったけれど冬馬の家に行った。
幸い、その日は既に翔太もいてくれて、夕飯のメニューはカレーだったっけ。
お陰で、すぐに"Jupiter"の雰囲気に入っていけた。
その時は忘れることができたというのに、帰り道、独りになるとまた沸々と沸き上がってくる。
日頃はいっそ本当に忘れられるくらいの恋情が、四肢に行き渡っている。
「ケンカでもしたの?」というのは、今日の翔太の言葉だ。
上手くだましだましできているとは思うけれど、"いつもの態度"という加減がそれでも難しく、どうも翔太にはここ数日、俺が冬馬に対して少し冷たく見える瞬間があったらしい。
…冬馬にはどうだろうか。
直接彼から何か言われてはいないし、いつもと変わらない態度だったけれど、もしかしたら、冬馬も俺が最近冷たいと感じているかもしれない。
それは本意ではない。
彼の気分を害させてしまっていたら、悪いなと思う。
…けれど、もう少し時間が要る。
今は、冬馬と距離を置きたい。

「…我ながら、馬鹿なことをしたな」

久し振りの友人と少し食事をした帰り、夜の道を歩きながら、ふう…と目を伏せてまた一人深い呼吸をする。
何故、あの時言葉にしてしまったのだろう。
マイケルがあの場にいたのが悪かったな…。
硲さんや山下さんだけだったら、あんなに本心をさらけ出そうとは思わなかっただろう。
笑顔で上手く流せた自信があるけれど、気心の知れたマイケルが無邪気な目で見てくるから、警戒心が薄れてしまった。
久し振りに、"冬馬が好きだ"と自覚してしまった。
昔話はなるべく避けていたのに。
今ではもう、感情に鍵をかけるのも、随分上手くなっていたつもりだった。
ピアノを奪われて生きていくのが嫌になっていた時に出逢った、一縷の光のような、大切で尊い存在。
せめてもう少し薄汚れていてくれればどうにかできたかもしれないけれど、あれだけ真っ白だと、逆に守らなければという方へ意思が傾く。
けれど一方で、こうして触れたくて仕方がなくなる時もある。
…さすがマイケルだ。
あっという間に、人の心の内側に入り込んできてしまう。
あのコミュニケーション力は素晴らしい魅力であると同時に、人との距離を測りながら生活している俺のようなタイプにとっては、些か困った驚異でもある。
再び吐いた息が、少し熱を持っていたことに気付いて、軽く首を振った。
今夜も、昨夜と同じく久し振りにくらくらしてくる。
甘い美酒が、常に身体の中に程よく入っているような感覚だ。
自我がはっきりしているけれど、どこか浮遊感があり、自分を制御する力が緩くなっていることが分かる。

「…」

スマホをポケットから取り出して、眺めた。
そんなわけでここ数日、気持ち早めに上がらせてもらっている。
追加連絡のようなものが入って来ることもあるけれど、冬馬からのポップアップは何も出ておらず、安心したような残念なような、複雑な気持ちのまままたスマホを戻した。
頭が、彼のことばかりで埋め尽くされていく。よくない。
気付けば、少し足早になっていた。
…少し落ち着きたい。
ふと道の先にイートインのあるコンビニを見つけ、内心ほっとする。
コーヒーでも飲もう。
人の出入りが激しく、けれど誰も横の他人を気にしないような、ああいう空間は妙に落ち着く。
一息ついて、少し落ち着いてから帰ろう。
今夜は危ない。
恋情が、溢れ出て止まらない。
日中あれだけ一緒にいたのに、冬馬の顔が見たい。声が聞きたい。
「北斗」と何気なく呼ぶ、完全に気を許しているあの声のトーン。
あれに俺の手で、甘さを乗せたい。
抱き締めて髪を撫でて、腕の中で思い切り甘やかしてやれたらどんなに――…。

「…!」

足早に歩いていたこととどこか上の空だったせいもあり、コンビニの入口で、内側から出てきた男性客とぶつかりそうになってしまった。
咄嗟に爪先に力を入れ、止まる。
相手が自分より小柄だったこともあり、女性相手のように反射的に片腕で支えようとしてしまったが、その必要はなさそうだった。

「――っと。失礼」
「いや、悪い。こちらこ……ん?」

黒い素材のニット帽。
形のいい顔の輪郭に、太い黒縁の眼鏡。
その眼鏡の奥にある見知った茶色い瞳とぶつかって、ぎくりと内心跳ね上がった。
…最悪だ。
反射的に、表情筋が笑みを作ったことが、自分で分かった。
同じ笑みでも苦笑にならないように気を付けて、ついついにこりと笑いかけ、いつものように片手を挙げてしまう。

「やあ」
「よう、北斗。何だ、お前かよ。奇遇だな」
「冬馬こそ」

ぶつかった相手……冬馬が、相手が俺だと分かった瞬間、表情を変える。
外面というわけではないんだろうけれど、何となく張り詰めていた彼をまとっていたクールな雰囲気が、ぱっと払拭されて突然温かみのある親しげなものになった。
「北斗」と何気なく呼ばれた今の声が、暫く頭の中に残りそうだ。

「こんな時間にコンビニなんて珍しいな? 家から少し離れてるのに」
「ちょっとな。ダチの所に、学校のノート返しに行って、ついでに少し勉強してきた」
「大変だな、高校生」
「馬鹿。似たようなもんだろ、大学生。お前の方こそ大丈夫なのかよ?」
「こう見えて割と優秀なものでね」
「どーだか。自分で言ってるうちは、大したことねーな。…何? 夕飯か?」
「そんなとこかな」
「コンビニメシなんて不健康だな。ウチ来るか?」

何でもない調子で、冬馬が親指を立てた片手で自宅がある方角を示す。
複雑な心境のまま、軽く首を振った。

「ありがとう。けど、今夜はいいよ。いつもお邪魔してばかりじゃ悪いしね」
「今更だろ。別に俺は構わ――」

「…北斗~!」

不意に俺の名を呼ぶ声が背後からかかり、俺も冬馬も顔を上げた。
呼び止めるにしても声の抑えがあって、振り返ると、傍に停車した車の後部座席の窓が開く途中で、中から見知った年上の女性が顔を覗かせた。
ひらひらと笑顔で手を振る様子に、冬馬からそれとなく離れて数歩近づく。
彼を巻き込まないように進んで車へ近づき、軽く片手を上げて少し腰を屈め、挨拶を返した。

「こんばんは。お久し振りです」
「ええ、こんばんは。確かにちょっと久し振りね。ごめんなさい、思わず呼び止めちゃったわ。名前呼んじゃったけど、大丈夫だったかしら? はしたないことしちゃった」
「構いませんよ。お仕事帰りですか?」
「そうなの。繁忙期だから仕方ないんだけど…。北斗は? 食事はもう済んじゃったかしら。今夜は何か予定がある? 忙しすぎて、すぐそこのホテルに最近泊まっちゃってるんだけど、よかったら、食事を一緒にどう? 一人で食べてもつまらないもの。付き合ってくれると嬉しいんだけど…」

するりと伸びた手が、どこか甘えるように俺へ伸びる。
反射的に、その細い手を取った。

「ええ、いいですよ。喜んで。…それじゃあ――…!」

言葉に甘えて――と、続けながら一歩踏み出した俺の袖が、後ろからぐっと引っ張られた。
意外に思って振り返れば、冬馬が少し不愉快そうな顔で、俺を一瞥する。
けれど、目が合ったのは一瞬で、冬馬は俺の袖を捉まえたまま、車へ顔を寄せた。

「すいません。これから、ちょっと簡単な打ち合わせが入ったんっす。北斗の奴にも、今伝えようとしていたところで…。悪いんすけど、コイツ連れて行っていいっすか?」
「え? あ、ら…。やだ、もしかして冬馬くん? 気付かなかったわ、ごめんなさい」

突然の冬馬の登場は予想していなかったのだろう。
彼女が頬を染めて、あっさりと引き下がってくれた。
俺の手の中から、彼女の手が逃げるように抜け出る。

「お仕事中にごめんなさい」
「いや…。すみません。ありがとうございます」
「夜遅くまで大変ね。お疲れ様。…じゃあね、北斗。また後で連絡するわ」
「残念です…。また後日、ご一緒させてください」
「行くぞ、北斗。急げよ」

急ぎ足で冬馬が歩き出してしまうので、俺もそれを追う。
手を振ってくれる彼女へ振り返し、やがて前を向いたけれど、冬馬は不機嫌な雰囲気のまま、振り返りもせず足を進めた。
軽い調子で、冗談めいて聞いてみる。

「どこで打ち合わせ?」
「うるせえ。まだ車停まってんだろ。…いいから黙って着いてこい」

いつもは通らない奥の道へと曲がっていく。
一気に人気が無くなる。
俺はあまり通らないけれど、裏道を知っているのか、迷わず進む冬馬の後を追って夜道を歩いた。

 

 

 

「――前々から言いたかったんだけどよ」

流れで、結局冬馬の自宅に着いてしまう。
ドサッ…と財布とスマホをソファにどこか投げやりに落とし、冬馬が片手で帽子を取ってから俺の方を向く。

「お前さ、いい加減止めろよ。…ああいうの」
「ああいうのって?」

片手を軽く開いて肩を竦めて聞き返してみると、かちん、と冬馬の眉が寄る。
「前々から言いたかった」とか言っているけれど、このくだりは一定期間を置いて、割と定期的に話題にされてしまう。
そんなに多くはないけれど、何だかんだで十数回は経験済みだ。
口をへの字に結んで、むっとした顔のまま、けれど早速耳を赤くしながら、冬馬が片腕を振るう。

「だから…、何だ…。色んな女の人とな、その……夜にだ、出かけることだよ!」
「夜に、ホテルのレストランで食事をしたらいけない?」
「お前の場合、それだけじゃ終わらねーんだろっつってんだよ」
「まあ、そうだな…。確かにその後、バーに行ったり、ラウンジでコーヒーを飲んだりはするかもな」
「おい…。ふざけんなよ?」

顎に片手を添えてそしらぬ風で答えると、冬馬の声のトーンがぐっと下がった。
帽子を固く握りしめ、目つき鋭く俺のことを睨み上げてくるその視線を、飄々と受ける。

「…」
「…」

沈黙が、数秒。
ここは俺から折れるべきだなと思って、目を伏せ、ふっと息を吐いた。

「…悪い、冬馬。心配してくれているのは、分かってるつもりだ」
「違ぇよ。心配してるとか、してねーとかじゃなくて…」

俺がそう言うと、やっと冬馬も、鋭かった表情をいくらか和らげてくれた。
こちらも少し安堵して、ソファの端に座らせてもらう。
何か言おうとして、けれど一度言葉を呑み込んで。
珍しく、どことなく俺の様子を探りながら、冬馬が口を開く。

「……なあ。結局、お前のソレは何でなんだ?」
「何で、か…。あまり考えたこともなかったけど、とにかく気がついたらこうだったんだよ。悪く取らないで欲しいんだけど、女性に冷たくできないんだ」
「だからって誘われたこと全部にほいほいくっついていくことねえだろ。食事なら食事、挨拶なら挨拶、出かけるならぶらついて夜はちゃんと帰れって。お前、優しいの基準がおかしいぞ」

言葉の一言一言が、溌剌と胸を突いてくる。
相変わらずのストレート…。
…まあ、確かに。
その通りなんだろうな、と思う。
"優しい"の基準がおかしいというのは、過去にも何人かに言われたことがあった。
俺自身はというと、そもそも自分を"優しい人"だとは思ったことがないのだけれど、どうも人によっては俺は優しい人であり、且つそれが多少なりとも異常な優しさであることがあるそうだ。
とはいえ、受け取り方なんて様々なわけだから、あまり人からの意見を信用はしていないところもある。
俺が少し黙っていると、冬馬は舌打ちしてため息を吐いた。
コンビニの袋から雑にペットボトルを一本取り出し、それを片手にどかりと俺の隣に座る。

「まあ、翔太曰く、お前から誘うことはあまりねえって話だけどよ…。考えりゃ、さっきのも向こうからだったしな」
「最近は忙しいからね」
「分かってんなら、無意味に付き合ってやってんじゃねーよ。『忙しい』って、断りゃいいだけだろ。お前が疲れるだけじゃねえか。…ったく。相手も相手だけどな」
「まあまあ、冬馬。そう邪険にしなくてもいいだろう? 実際、俺の方も助かってるんだよ。前にも少し言ったことがあると思うけど、夜に一人でいることが、あまり好きじゃないんだ」
「…」

声のトーンを少し落として白状すると、ボトルに口を付けて飲んでいた冬馬から、苛々としていた空気が一瞬にして消え去った。
変わらずどこか不満そうな顔だけれども、もう俺を責めるような雰囲気はない。
腰掛けている脚の間で両手の指を合わせ、目を伏せる。

「変な意味に取らないで欲しいんだけど…。何となく、夜は誰かといたくてね」

確かに、快楽もある。
けれど俺にとってそれは二の次で、誰かといること自体が重要な要素だ。
ピアニストを諦めなければならなくなった時は、自分は落ち込んでなどいない、何てことはないのだ、という強がりのような気持ちと、自分は大丈夫だということをアピールして、周りの人たちを安心させたい気持ちがあり、毎晩優しい女性方と過ごしていた。
彼女たちも俺のことを相手にしてくれるので、自分は求められている、一人ではない、存在意義がある、と自己主張を繰り返していたんだと思う。
そんな日が続くと、一人で夜を過ごす日が少なくなり、本来はそれが当たり前であったはずなのに、希にあるその夜が"孤独な夜"となってしまう。
そうなると、慌ててまた誰かを探し出す癖がついた。
冬馬に恋をしてからは、この"孤独な夜"が特別厄介で、同時に怖くもなってきた。
どうしたって、彼を想う夜になってしまう。
Jupiterを続けていく上で、そんな夜は少ない方が絶対に良いに決まっている。
そんな日を減らす為に、また付き合ってくれる相手を探す。
俺からしてみれば、本来、ただただ夜に共にいてくれれば十分だ。
けれど一方で、俺と一夜を過ごしてくれるのであれば、相手の求めることを少しでも叶えてあげたいという気持ちもあって、大体はそれが"一夜の関係"であることもある、という話だ。
勿論、飲み歩くだけだったり、特定の店で静かに話をするだけの相手だっている。
毎晩そういう関係をふしだらに続けているわけではないけれど、経験上どうも女性は、同じ部屋で夜を過ごすにあたり体を求められないと、その方がショックであることが多いらしい。
折角俺の為に時間を使ってくれているのに、哀しい気持ちにさせるわけにはいかない。
様々な気持ちや考えが計算高く重なり、結果、体を重ねた方がお互いに最も良いことが多いというわけだ。
…けれど、そんなことは、冬馬にとってはただの甘さに他ならない。
母親を病気で亡くし、父親とは仕事で離れ、彼にとっては一人の夜なんていうものは、本当に"日常"だ。
驚くことに冬馬は、俺よりも若いタイミングでそこを乗り越えて、自分の力で消化してきた。
今もそうだ。
孤独を感じる夜がないなんてことはなかったと思う。
それでも、誰に逃げることもなく、縋り付くこともなく、ただただ自分の力で乗り越えてきたんだ。
そんな彼に「一人の夜は苦手」だ…なんて、分かってもらおうと思うこと自体に情けなさを感じる。

「冬馬には、あまり理解できないと思うけど…。まあ、そんなところかな」
「…お前、たまにそういうとこあるよな」

俺の呟きを聞いていた冬馬が、持っていたボトルをテーブルの上に置くと、立ち上がってキッチンの方へ向かった。
呆れたような声がそちらから飛んでくる。

「まあ、そういう時もあるんだろうぜ。…けどな、だからって今のお前が取ってる行動が正しいとは、俺は思わねえ。今の所は何もねえけど、プロデューサーが困ることだってあるだろ。黒井のおっさんにだって、散々言われてたじゃねえか」
「そうだな。彼は情報の扱いが上手だったけれど、今のプロデューサーはそういう感じではないからな。そうならないように、気を付けてるよ」
「そーじゃねーだろ!」

バンッ…!と、勢いよく冬馬が冷蔵庫のドアを閉める。
再び苛立ち始めながらもグラスを一つ取り出して、そこに何か飲みものを注いでいく。
きっと、俺の分のお茶か何かなんだろうなと思いながら、どこか他人事の気分でその姿を見詰める。

「そうじゃなくて、いい加減止め時だって言ってんだよ」
「止め時って言われてもね…」

今日から止めます、で止められたら楽なんだけどね。
ポケットからスマホを取り出し、時間を見てから立ち上がった。
元々、今日はあまり冬馬の家に長居したくない。
今自分が座っていた場所を振り返り、忘れ物や落とし物がないことを確認してから、ソファから離れてキッチンが覗ける位置まで歩を進めた。
案の定、グラスに注いでいたのはアイスのブラックコーヒーで、俺が傍までくると、冬馬が無言でそれを差し出してくれた。

「ありがとう。いただきます」

立ったまま飲むのはいささか気が引けたけど、帰り際のつもりで早めに喉へ流し込んだ。

「帰るのか?」
「ああ。…まあ、今日は特に約束もないし、きちんと帰るよ。誰かさんのせいで、チャンスもひとつ逃がしてしまったしね」
「泊まってけよ」

突っ慳貪な言い方であまりにあっさり言うから、一瞬言われたことが理解できずすぐに反応できなかった。
グラスに再び付けていた口を離し、ワンテンポ遅れ、俺も俺であっさりを意識して、片手をシンクに、もう片方を腰に添えて冬馬へ聞いてみる。
ひらりと片腕を振るって、ウインクしてみせた。

「泊まっていっていいの? 魅力的なお誘いだな、冬馬。もしかして、俺と一緒に寝てくれる?」
「いいぜ。寝てやるよ」
「…。…あのね、冬馬」

どこか喧嘩腰の態度ではあるものの、あまりに安易な言動に、思わず目を伏せ、軽く肩を落とさざるを得ない。

「気持ちは嬉しいけど、その言葉をすぐに出してしまうのはどうかと思うよ。自分が何を言ってるか解ってる?」
「分かってるに決まってんだろ。いいって別に。泊まってけよ」
「うーん…。絶対解ってないと思うけどな」
「だから寝てやるって。寝られんだろ、もう一人くらい」
「…」

コトン、と飲み干したグラスを流しに置きながら、一歩キッチンへと踏み込む。
いつもと微妙に違う空気を察したのか、冬馬が珍しく一歩後退した。

「あ?」
「簡単に、『一緒に寝てあげる』なんて、言っちゃいけないよ。冬馬」
「……は?」

敢えて甘く囁いて、手の甲でするりと頬を撫でてみる。
ぱち…と冬馬が瞬いた。
驚いている間に、もう片方の手を彼の後ろ腰に添え、女性にそうするように接近してみる。
指の背で意味深に冬馬の喉を撫で上げ、細くて整っている顎を取った。

「…!」
「万一、言われた相手が本気にしたらどうする気? 『ありがとう。それじゃあ、遠慮なく冬馬と寝さえてもらおう。今夜は宜しく』と言い出したら? 責任は取れないだろう?」

親指で、そっと唇を撫でる。
少し、脅かしてあげないといけない。
俺がどうこうという話もあるが、それ以上に、こんな調子で他の人相手に冬馬が情をかけて、無警戒に近づいてしまっては、いつか取り返しがつかなくなるのは目に見えている。
…ところが、ここまで来てもまだ冬馬に危機感はなく、呆けていた目つきを鋭くすると、音を立てて顎を取っていた俺の手首を掴んで払い落とした。

「はあ? 何でだよ。取れんだろ。お前が誰か傍にいねえと眠れねえっていうんなら、遠慮はいいから泊まりに来りゃいいだろ。その時は俺が一緒に寝てやるっつってんだよ」
「へえ…。そう?」
「決まってんだろ。それが一番いいじゃねえか。俺んちだったら殆どいんのは俺だけだし、変に気を使うこともねえだろ?」
「一緒のベッドで寝てくれるの? ありがたいけど、寝ぼけてうっかり冬馬にも手を出してしまうかもしれないな」
「馬鹿。俺相手に冗談はいいって。…とにかく、それなら解決だろ? ああいうの止めろよ」
「解決ね…。…」

腰の後ろに添えていた俺の腕を掴み、冬馬が離させながら呆れた調子で告げる。
体温から離れた手を戯けて軽く振りつつも、ひやりと胸の内が冷えていく。
…残念だ。
ちくりちくりと胸が傷む。
これだけ意味深な行動をしてみても、冬馬にそういうイメージはつかないらしい。
つまり、冬馬にとって俺は…当たり前なのかもしれないけれど…端から、恋愛対象外というわけだ。
注意のつもりが……何なら、どさくさにまぎれてアプローチじみたつもりが、結果はといえばその事実だけを突きつけられるだけだった。
これだけ近くにいるのに、今のように詰め寄ってみたとしても、冗談だと思われる。
何をしても、欠片も意識されない存在。
…。
いや、その分、信頼を置いてくれていると思えば…。

「…」

俺から視線を外し、冬馬が流しのスポンジを片手に取って、グラスを軽く洗って濯ぎ始める。
水が流れる音を聞いて、濯いだそれを水切りのケースへ置くのを、何をするでもなくぼんやりと横から見送っていると、両手を拭いたばかりの冷たい手を伸ばし、ぽん…と冬馬が、自分よりも身長のある俺の頭を叩きながら、横を通過してリビングへ向かう。

「お前、あんま無理すんなよ?」
「…そうだな。ありがとう」

声だけで何とか返してみる。
ざわざわと、言葉にできない熱のようなものが、体内で波打っていることが自覚できていた。
…当然だ。
これが普通だ。
いや、いいことじゃないか。
俺だって、そう思わせるつもりで動いてきているのだから。寧ろ、いい具合に結果が出ているということだ。
俺が一方的に彼に惹かれているだけだということはもう長い間分かり切っていることで、それを覚悟してここまで付いてきたはずだ。
…話題が良くないな。
何か他のものに変えよう。
試験勉強は大丈夫そう?…とか。

「…」

とはいえすぐに動く気になれず、水滴の落ちる蛇口を眺めて佇んでいると、背後から冬馬の声が飛んできた。
不意打ちの一撃だった。

「それにお前、ちゃんと他にいるみてえじゃねえか。大切な奴。…そいつの代わりなんて、本当はいねえんじゃねえの?」
「――」

まるで処刑台の刃のような、力と速度と鋭さを持つ言葉で、それが俺に下りてくる。
何かを感じる前に、ふらりと体が揺れるように動き出し、気付いたら、キッチンを離れて足早に彼の元に向かっていた。

「あ? 何――…」

時間にして、ほんの数秒だ。
さして広くはないマンションの一室。
キッチンからリビングへの歩幅など高が知れている。
少し歩いて、ソファの上に投げっぱなしだった財布とスマホを拾っていた冬馬の手首を取って、不思議そうに振り返った彼の頬へ手を添え、キスしてしまった。

「――」

フレンチキスにならなかったのは、せめてもの理性だったんだろう。
何の心構えもなかった体は、唇を離すまで驚くことも、緊張すらできなかったらしい。
顔を離しても、真正面から俺の目を見詰めてくるくらいだから、本当に何かを思う暇もなかったんだと思う。
驚いたというよりは本当に極々普通の顔で、鼻先にいる俺の瞳を怖れることなく見てくるから、逆に俺の方が逃げ腰になってしまった。

「……ごめん」
「…」

頬を一撫でし、そのまま指の先で耳裏をなぞるようにしながら、反対の手の親指で彼の唇を端から端へ拭うと、すぐに体を離した。
ここにきてようやく少しの驚きと緊張がやってきたみたいで、俺が離れても、冬馬はそのままついさっきまで俺がいた斜め上を見て固まっていた。

「…………は?」
「帰るよ」

手早く自分の荷物を取り、ぽんと冬馬の肩を軽く叩くといつものように微笑んだ。

「じゃあね。コーヒーご馳走様、冬馬。テスト勉強頑張って」
「ぇ…。……ぁ、お、おい…」

後ろから声が飛ぶが、聞き流す。
急いで、けれど慌てて見えないように細心の注意を払いながら、靴を履いて部屋から逃げ出す。
どうか冬馬が追ってこないようにと祈りながらエレベーターのボタンを押し、やってきたそれに乗り込む。
まさかないとは思うけれど、今追ってこられたら、どうしていいか分からないのは俺の方だ。
中に誰もいないのは幸いだった。
下へ降りていくボックスの中で、壁に寄りかかり、片手で顔を押さえて俯いた。
思い切り眉を寄せて、目を伏せる。

「………飛んだ」

はぁ…とため息を吐きながら、苦笑して呟く。
理性が飛んだ。
視線が奪われる、とか、言葉が出ない、とかは何度か経験したことがあるが、飛んだのは初めてかもしれない。
本当に、体が勝手に動くものなんだな…。
…静かに目を開ける。
殆ど真下を向いていたから、格好つけて磨かれた、自分の靴の爪先が見えた。

「…」

泣きたい気分だ。
鼻の奥がツンとする…。
今すぐ誰かに会いたい。
会って優しく接し、接されたい。
俺を肯定してほしい――…なんて、またそうやってすぐに誰かに逃げようとする自分なんてとても愛せないし、愛される権利も価値もないと思う。


――…代わりなんて、本当はいねえんじゃねえの?


冬馬の言葉が胸に刺さる。
鼓膜が彼の声を覚えてしまった。暫くは、苦しめられるだろう。
…全くだと思う。
勿論だ。代わりなんていない。
そんなことは俺が一番分かっている。
けれど、その言葉をその口から聞きたくなかった…。
どうしていいか分からない程混乱している頭の中で、それでも無意識に右手の指先を静かに唇に添えた。
キスは親愛の挨拶だと思っているから、数は決して少なくない。
けれど、あまり感じたことのない、ふんわりとした甘い痺れた感覚と香り。
恍惚とする。
体が火照ってどうしようもない。
たったこれだけで、冗談のような格差がある。
けれど…。
…。

「……可哀想なことをしたな」

それら全てをぐるりと罪悪感が包み込む。
一方的に奪うこと自体がマナー違反だし、それを少しでも喜んでしまっている自分へも嫌悪感を覚える。
…エレベーターが一階に着く。
待っている人はいなかったけれど、それでもぱっと壁から離れ、片手で軽く服の襟と裾を整えてから、見栄えの角度を意識して帽子を被り直した。

 

 

冬馬へ、実のところキス自体は何度かしたことがある。
何なら、雑誌やグラビアでも証拠写真が公に残っているくらいだ。
同様に翔太へもだけれど。
けどそれは常に頬や額や首で、唇は当然ながら一度もなかった。
冬馬はきっと、キスを大切にできるタイプの人間だ。
親愛の挨拶だからと、あちこちにすることは、きっとできない。
そんな彼の唇を一方的に奪ったことは重罪だ。
重罪であることが分かるからこそ、冬馬の為に、なるべく軽く対応しなければならない。
「伊集院北斗にとっては、いつものこと」として、冬馬に怒鳴られるくらいで済ませないと。

「――冬馬」
「…!」

翌日。
事務所の入口で呼びかけた瞬間、ビクッと冬馬の肩が跳ねた。
振り返らない彼の背中に歩み寄り、横を通りがてら、ぽんとその肩を叩き、表情を覗き込んで微笑みかける。
冬馬は少し視線を下げたまま、俺の方を見ない。
怒鳴られるかと思ったけれど、考えたら昨夜すぐに電話が来なかったのだから、対応に困っていて怒れないのか。
…まあ、そうだな。
翌日だしな。
流すにしても怒るにしても、どう反応していいかまだ迷っているんだろう。
怒られるのも、きっと少し先になるかな。

「昨日はごめんね。少し人恋しくなってしまってさ」
「あ、あぁ…。……別に」
「流石にちょっと甘えすぎたから、何か奢るよ。今日仕事が終わったら、翔太と三人で食事にでも行かない? 好きな――」
「ふぁ~…。冬馬君、北斗君、おふぁふぉ~」
「…!」

更に俺たちの後ろから、翔太が欠伸をしながら入って来た。
途端、冬馬がバッ…!と、勢いよくそちらを振り返る。

「来い、翔太っ!暑いからアイス奢ってやる!!」
「ん?」
「えー。アイス? 別に今いらな――…うわ、ちょ…何っ?」

冬馬がすれ違い様翔太の片腕を掴んで、今さっき入って来た事務所のドアから、二人して外へ出て行ってしまう。
ぽつん…と、一人俺だけが廊下に残された。

「…。流石に意識されてるか…」

ふう、と息を吐いて肩を落とし、勢いよく閉まったドアを眺める。
意識されてるというか、警戒されているというか…。
いつもは真っ直ぐ人の目を見て話すのに、露骨に視線を反らせるところが可愛いなと思う。
…まあ、せいぜい今日一日。
長くて明日くらいまでかな。
俺の方が普通に振る舞っていれば、仕事上がりくらいには冬馬もペースを取り戻すだろう。
後を追うかどうか少し考えたけれど、今は冬馬に近づかない方が彼……と、本当は俺自身もだけれど……がいいだろうと思って、そのまま事務所への階段を上がることにした。

ところが、だ――。

 

「ねえ、冬馬。次の…」
「おい、翔太!今いたトコ片付けてから移動しろよ!!」
「え~?」
「…」

 

「冬馬。この後…」
「俺、今日用事あるから先帰る。じゃあな」
「お疲れ様です、天ヶ瀬さん」
「あれ? 冬馬君、今日も早いの? 昨日今日と何か急いでるね」
「テストなんですって」
「へー。北斗君、振られちゃったね。ざんねーん」
「…だな」

 

「冬――」
「あ…!天道さん!お疲れっす!」
「おー、冬馬っ。よーっす!お疲れ!」
「今日はドラスタどこ行くんっすか?」
「……」

 

 

 

 

…で、三日後。

「ねー。そろそろ止めたら~?」

今日最後の仕事である音楽番組の収録が終わった楽屋。
さすがにというか何というか、冬馬が不在の隙を見計らって翔太が呆れた様子で口を開いた。
収録の後、冬馬だけが映画の雑誌取材が入っていて移動だ。
今日はもうJupiterとして合流はしない。
既に私服に着替え終わっている彼の方を振り返り、衣装の上着を脱いだ上半身に、俺も私服である白いシャツをまといながら、彼を振り返って聞いてみる。
楽屋中央のテーブルセットに座っている翔太は、退屈そうに頬杖を着きながらスマホを操作している。
一見すると避けているのは冬馬の方だろうから、「そろそろ止めたら」という言葉が俺の方に投げられたことに、内心少し驚いた。

「俺が悪いんだと思う?」
「んー…。両方かな。今の態度は冬馬君が悪いと思うけど、原因は北斗君な気がするから。冬馬君があの調子じゃ、仲直りするのは北斗君からじゃないと無理なんじゃない? 今は仕事に影響してないからいいけど、し出す前に落ち所見つけて止めさせてよね」
「さすが翔太」

翔太は本当に観察眼が鋭いな…と感心しながら、ボタンを留めていった。
冬馬が俺を避け始めて、今日で三日目。
当初は、当日か翌日には冬馬なりに消化して、彼からお説教を喰らうだろうと思っていたけれど、未だ怒られてすらいない。
とにかく、事あるごとに俺を避けている。
仕事中は目に見えて俺のことを避けたりはしていないけれど、それでも当事者である俺や翔太が見れば、「いつもと違う」という些細な変化は山ほどあった。
Jupiterを始めて、短くはない。
一緒にいる間に、勿論意見の不一致からぎすぎすすることもあったし、言い争いになるようなこともなかったわけじゃないから、たまにあることではあるんだけれど…。
頭ごなしにガツンと説教された方が楽に済んだはずだけど……やっぱりキスかな。引っかかっているのは。
軽さは伝えたつもりだけど、ここから先できることといったら限られている。
やっぱり一度ゆっくり話さないといけないな。
着替えたシャツの襟を整えて、鏡前に置いていたネックレスを手に取ると、首にかける。

「そうだな…。ちゃんと冬馬と話すよ。…けど、何があったかは聞かないの?」
「話したいなら聞いてもいいけど、できればもうちょっと静観してたいかな~」
「そう?」
「うん」

上半身を前に倒し、テーブルに顎を乗せ、翔太が気怠げに答える。
彼の気持ちを知らないわけじゃない。
冬馬にキスをしてしまったのは、一方的な俺の落ち度だ。
今回は意見の不一致という名のケンカというわけではないし、罪悪感が生じて白状しなければいけない気にもなってしまう。翔太には、知る権利がある。
…けど、静観したいというのなら、あまり事を広める必要もないかもしれない。
この後のフォローはするつもりだし、いつもの"Jupiter"の関係に戻るだろう。
だとしたら、最初から波風は少ない方がいい。
どうせ、何事なく終結するのだから。
終わって、いつもの関係に戻って少し時間が経ったら、笑い話として翔太に話すのが一番いいかもしれない。
そうしたら、ひょっとしたら話の流れで翔太も「北斗君がしたのなら僕もする」という流れになって、俺が踏み出してしまった一歩分もまた均せる。

「迷惑かけちゃって悪いな。翔太の為にも、これ以上ウチのお姫様の機嫌を悪くさせておけないな」
「機嫌悪いっていうか、きっと対応に困ってるんだよね、冬馬君。色恋沙汰本当ダメだもん。まして北斗君じゃな~」
「…色恋?」
「え? 予想できてないと思った?」

テーブルの上に伏せていた体を起こし、翔太が両手で頬杖を着く。
丸い大きな瞳が、淡々と動きを止めた俺を見詰めた。

「そりゃできるよ。だって、北斗君を避ける冬馬君、顔真っ赤なんだもん。すごく可愛いよ。幼稚だけど、まあ予想通りだよね。案の定っていうかさ」
「…」
「まあ、何がどこまでかは知らないし、探るなんてことしないけどさ。今の所逃げてるみたいだし、僕は冬馬君の逃げ所になってた方が得な気がするから見てる~。…けどさ、博打打つなんて、北斗君らしくないね。なーんか予定外のことがあって、事故っちゃったんでしょ、きっと。仕方ないよね。時間は巻き戻せないもんね~」

どこか冗談めいて笑いながら、翔太がぴょこんと席を立つ。
一緒に出るつもりだったけれど、あまりのことに動けない。
俺を避ける冬馬の反応は見ていたつもりだけど、避けられて俺の視界から消えた彼がその後どんな反応をしていたかまでは分からなかった。
俺の返事を待たずに、翔太はテーブルの上に置いてあった自分の荷物を肩にかけた。

「僕、先に帰るね。おつかれ~」
「……翔太」

ドアから出て行こうとする翔太を、思わず引き留める。
けれど、何て言っていいのか…。
迷った挙げ句、また曖昧に微笑みかける。

「…ごめん。そんな気はないんだ。少し長丁場になっているけれど、冗談で落ち着かせるから、心配しないで」
「へえ…。冗談にしちゃうんだ? 勿体なーい。二度目はないと思うけどな~。まあ、北斗君がそれでいいならいいんじゃない? …やだな、怒ってないよ。大丈夫。挑むのは僕たちの自由だけど、結局選ぶのは冬馬君だもん。…けどさ、北斗君」

少し開けたドアのノブに片手を添えたまま、本当にいつもの何気ない穏やかな表情で、翔太が肩越しに振り返り俺を見た。

「分かってると思うけど、一回でも冬馬君が僕に泣きついてきたら、僕だってもう渡さないからね。お互い、チャンスは一回だけだと思うし、見逃さないよ、僕」
「…」
「そこんトコよろしく!じゃ、おつかれー!」

明るい声色で、翔太が出て行く。
ドアを閉める金属質な音だけが、困惑し出す俺の佇む部屋に残った。

 

 

 

…結局、一番幼稚なのは俺なのかもしれない。
冬馬のマンションの前で、星の見えない夜空を見ながら、ぼんやりとそんなことを悟る。
どうも考え詰める癖があって、気付いたらいつの間にか目的の場所へ辿り着いていた。
マンションの正面入口は二段構えになっており、一枚目は通れるけれど、二枚目以降はキーがないと開かない為、入口横の柱に寄りかかって彼を待つことにした。
彼のスケジュールは分かっているから、大体の帰宅時間を予想して来てみたけれど、思ったよりも冬馬の帰宅は遅いようで、既に四十分以上経っている。
…が、俺にとってはこの時間が長ければ長い程いいような気がした。
胸の中がまだもやもやしていて、とても整理がつかない。
…俺に声をかけられると、顔が赤かった?
意識されていたのだろうか。
…て、当然か。
意識されただろう。強引に唇を奪った相手として。
冬馬はまさか俺があんな行動に出るとは思っていなかっただろうし、俺も思っていなかった。
しかし、翌日くらいまでは俺を避けるのは分かるけど、確かに三日は引っ張りすぎている気がする。
説教されないというのも、少し違和感がある。
撮影の時に遊びで頬に始めてキスした時は、楽屋に入るなり「北斗ーっ!」と顔を真っ赤にして指を突きつけられたっけ。
ああいうノリで来ないっていうのは、よっぽどショックだったか、それとも…。
…。

「…有り得ない。止めよう」

片手を首に添えて、一度ため息を吐く。
本気に取られるわけがない。
取られたら困る。
翔太は俺の気持ちを知っているから思うことがあるようだけど、とにかく、今夜冬馬に会って、改めて先日の俺の行動を謝らないと。
廊下で一度謝罪したけれど、響いていない感じだったからな。
今の所うまく隠れているけれど、俺を避けていることを、他のスタッフに知られるわけにはいかない。
穏便に収め……。

「…ん?」

一人でいる時の癖で、ついつらつらと考えていると、サクサクとアスファルトを踏む足音が聞こえてきた。
颯爽と歩くこの特徴的なリズムにはもうすっかり聞き覚えがあり、歩道からマンションの玄関口に入って来た人影へと顔を向ける。
帽子を被って眼鏡をした冬馬が、こちらに向かって歩いてくる。
理想的な程よい細身と、すらりと細く長い足。
綺麗な肩、高い位置にあるウエスト。
小さな顔と顎。それから少し垂れた甘い目元。
モデルの歩き方ではないけれど、それでも歩くだけで、やっぱり他の人とは少し違う。
今声をかけたら逃げられる可能性があるから、相手が気付くまで待っていると、マンション前にある数段の階段に片足かけた途端顔を上げ、ビクッとその場で固まった。

「やあ」
「……」

片手をあげて挨拶してみる。
冬馬の驚いた顔が、見る見る不機嫌顔になっていく。
翔太が言うように顔が赤くなったりということは、やっぱりない。

「待ち伏せか? …タチ悪ぃことしてんじゃねーよ」
「誰かさんがここ最近会話してくれないから、さすがに寂しくなってね」
「…」
「帰って来たところ悪いけど、夜カフェにでも行かない? 少し話がしたいんだけど」

顔を背け、少しの間沈黙した。
即断即決即反応の冬馬にしては珍しい。
彼の言葉を待っていると、不意に足音が響いてきた。
どうやら、道の方から他の住人がやってきたようだ。
俺も冬馬も一度そちらへ顔を向け、間を置かず、冬馬が俺の横を通りながら袖を引く。

「…来い」

あまり気乗りはしないけれど、道側から人が来るのなら仕方ない。
申し訳ないが、冬馬に促されるまま、いつものように自宅へお邪魔させてもらう流れになってしまった。
解錠してずかずかと部屋の奥へ歩いて行く冬馬の背後で、ドアを閉めて鍵をかける。
少し遅れてリビングに入らせてもらうと、冬馬はこの間と同じように、帽子を取って、他の少ない荷物と一緒にそれをソファの片隅に雑に置いた。
片手で後ろ髪を軽く梳きながら移動し、キッチンの流しで簡単に手を洗う。
そんないつもの一連の流れを、しかし傍へは行かずにリビングの入口で足を止めて見守る。
翔太がいないと、こんなに空気が張り詰める。
思い出させて嫌な気分にさせてしまうだろうから、今夜部屋にお邪魔するつもりはなかったのに。

「悪いね。外で話をしようと思っていたんだけど…タイミング悪かったな」
「いや…別に。…人に聞かれなくて逆にいいだろ」
「それもそうか」
「…何か飲むか?」
「ありがとう。けど、すぐ帰るからいいよ」

キッチンの内側にいる冬馬に微笑む。
なるべく近づかないように、長居しないようにその場で手っ取り早く話を済ませようと切り出した。

「ここ最近、冬馬俺を避けてるだろう? 上手くできているとは思うけど、流石に翔太や他の近しい人たちが気付き始めている感じがするから、そろそろ清算しないといけないと思うんだ」
「わ、分かってんだよ、そんなことは…。…で? そりゃ誰のせいだよ?」
「俺だね」

軽く片手を放ると、冬馬が俺を睨んだ。
けど、その鋭い瞳に怨みは入っていないから、ただただ凜々しいだけのような気もする。

「本当に悪かったよ、冬馬。もう二度と、急にあんなことはしない。許してほしいな」
「…」

少しの間俺を睨んでいたけれど、すぐに冬馬はため息を吐いて目を伏せた。
気怠げな様子で右手をあげ、指先で少し長めの横髪を耳にかける。

「いや…。お前だけじゃない。俺も仕事中の態度にでちまってたのは、良くなかった…。仕事外のことで、翔太や他のスタッフに心配かけちまうのは最低だ。…悪ぃ」
「誰が悪いのかは、俺が一番知ってるよ。冬馬は謝らなくていいはずだろう? 俺がそうさせてしまったんだから」
「いや、長引いたのは俺のせいだ。…悪かった。その…よく分かんなかったんだよ…。お前と会う時、どういう顔していいか。今までどういう顔してたのか、何話してたのかも、急に分からなくなっちまって…」
「そうなの? にしては、今随分普通に見えたけど?」
「…そ、そうか?」

ほんの少し誇らしげに、冬馬が顔を上げる。
不意打ちで瞳が合って、ぐ…と一瞬次の言葉がどこかへ飛んで行ってしまう。

「そっか…。それなら、まだよかったか…」
「…」
「仕事には…そういうの持ち込みたくねえんだ。…けど、難しくてよ」

言うだけ言って、どこか照れた様子でまた視線を下げた。
ずっと伏せていたり睨まれたりしていたから気付かなかったけど、確かに言われて見れば耳や頬が赤く染まっていた。
確かに、翔太が言うようにとても可愛らしい。
今まで逃げられてしまっていたからあまりこうして正面から見ることはなかったけど、俺が声をかける度に密かにこんな反応をしてくれていたのなら、それだけで心が潤う。
けれど、ここでまた話に出したら良くない路線に行くような気がして、俺の今の感情を含め、そのまま流すことを選んだ。

「とにかく…。先日はごめんね」
「…ああ。それはもういい。……あー…、と。そんで――」
「うん。もうキスはしない。ああいう冗談は、もう絶対にしないと誓うよ」
「――」

言った瞬間、冬馬がすっと顔を上げた。
直前までのどこか逃げていた伏せ目がちな視線が消え去り、真っ直ぐこちらを見る。
ぴり…と、空気に妙な緊張が奔った。

「……おい。ちょっと待て。…冗談?」
「ん?」
「今冗談って言ったか? …この間、コンビニ前で会った時のだぞ?」
「…? だから、キスしたことだろ? もうしないよ」
「するしねえの話じゃねえよ。だから――……は? だってお前、いつもベタベタ頬だか額だかにしたりする時はあるが、それとは……べ、別モノだっただろ? 今までそんなことしたことねえし、それに――」
「…」
「…」

どうも噛み合っていない感がある。
一方で、うっかりすると"噛み合ってしまう"感覚も、俺にはあった。
「違う」という否定が欲しくて……いや、表面だけでそう思っているだけであって、本当かどうかは自分でも分からないけれど……おかげで、覚悟して尋ねなければならなかった。
場が静かになり、心臓の音がうるさい。
血が沸騰しそうだ。馬鹿みたいな夢を見ている。

「……ねえ、冬馬。もしかしてだけど――」

それでも、こんな時でも、俺の声は全く震えず、流暢に、余力を持って出てくる。
だからきっと、俺の緊張は冬馬には一切伝わってくれないだろう。
こんなに動揺しているのに。

「あの時のキス、本気にしてくれた……とか?」
「――」

さ…と、冬馬の表情が変わる。
言ってしまった瞬間、自分でも「しまった」と思った。
冬馬相手に、切り返しとしてほぼ最悪に近い言葉だった。
しかも、微妙に笑ってしまった気がする。
今の切り返しを「やってしまった」と確かな失態に感じているのに、一方で、その理由として整理されていてもいいはずの頭が、現状の把握に着いてきてくれない。
混乱する。
…ちょっと待って。
ちょっと待って。時間がほしい。
落ち着いて考えたい。
何故、俺が「キスは冗談だよ」と言って冬馬が困るのか。
何故、俺が今この瞬間、「しまった」と思っているのか。
何故、さっきまで頬を赤らめて可愛かった冬馬が、手近にあったらしい布巾を流しに叩き付けているのか。

「………………あ゛?」

頬が緩むのに、嫌な汗が首の後ろを流れる。
せめて口元を隠そうと、片手を口元に軽く添えた。
"そんな理想的なことがあるわけない"。
そう思うのに、冬馬の据わった目での視線と苛々を詰めたような声がリアルで、白昼夢だと否定することも難しかった。
…キッチンを脱してくる冬馬。
真っ直ぐ俺に向かって歩いてくる彼に取り敢えず殴られないように、片手を前に出して制止のジェスチャーをしながら、無意識に俺も横へ逃げた。

「おい…。どーゆー意味だ、そりゃ。…冗談?」
「いや…。ごめん。ちょっと待って…」
「何で笑ってんだよ!!」
「いや、これは…」

近づかれると絶対に胸ぐらを捕まれる気がして、距離を取りながらリビングの反対側へ移動する俺に声を張り、冬馬が手近なソファのクッションを掴み取った。

「っこぉんの…ッ、ナンパ野郎――っ!!」
「…! っと…」

振りかぶったクッションが、勢いよくテーブルの反対側に立っていた俺の顔面を狙ってきたので、さっと半歩横に引いて避ける。
後ろの白い壁に当たって、クッションはぼとりと床に落ちた。
近くにあるテレビに当たらなくてよかったなと見送った矢先、次が飛んでくる。
落下地点的に、棚の上の小物の上に落ちそうな勢いだったので、キャッチできるものはキャッチすることにしてみた。
ぽす…と両手で受け取って、また向かいの冬馬の足下に軽く放って返してやるも、間を置かずに更に次のクッションが飛んでくる。
再びキャッチした俺の横を、今度はティッシュボックスが飛んできた。
耳どころか、顔や首を真っ赤にした冬馬が、それはもう怒って、乱雑に俺目がけて物を投げてくる。
…ダメだ。
顔が勝手に緩む。
冬馬が激怒しているところ申し訳ないけど、どうしても表情を引き締められない。
それが冬馬には、ますます不誠実に見えているんだろう。

「男相手だろうと何だろうと!好きでもねえ奴の口に!!いきなりっ、キ……いや、なんだっ、だからっ!ぁ…ああいうことすんじゃねえええっ!!」
「ごめんごめん。まさか本気にしてくれていたとは思わなくて…」
「するだろ普通!!人を何だと思ってんだ!何が冗談だ、ふざけやがってッ!この数日間の俺の無駄な時間を返しやがれッ!!」
「そんなに真剣に受け止めてくれていたとは…。これはもう責任を取って本当に付き合ってみるしかないかな?」
「付き合うワケねえだろッ!!」
「冬馬にその気があるなら、俺の方は大歓迎なんだけど?」
「絶っっっ対ェ、もうッ、金 輪 際ッ、考えもしねえ!!」
「残念だな…。俺は冬馬なら、心から愛せると思うんだけど」
「ウソだろッ!?」
「嘘じゃない。お互いもう隠すようなこともないだろ? 信用ないなぁ」
「お前が落としてんだよっ、お前が!!」
「これでも、誰かと付き合ってる間は浮気はしない主義だけど?」
「信じるワケねえだろッ!! その辺の女にも男にも、犬にも猫にもカエルにもオケラにも見境なくああいうのできんだろ!?」
「ちょっと待って、冬馬。リモコンは危ないから止めておこう」
「っ…!」

ぽいぽい俺に向かってクッションを投げて俺が返していたが、返すのが追いつかなくなって周囲から柔らかい手頃なものがなくなったらしく、ガッ…とテーブルの上のテレビのリモコンを冬馬が掴んだところで、クッションを片手にぴっと冬馬に右手の掌を示して制止した。
片足をソファの上に乗せて今にもそれを投げようとしていた冬馬が、びくっと一瞬止まる。
そんな彼の傍に、持っていた大きめのクッションを投げ返してやった。

「ほら、こっちならいいよ」
「~~…っ!!」

持っていた固いリモコンをソファの上に投げつけ、悔しそうな顔をして今投げ返したクッションを冬馬が掴むと、両手で再び大きく振りかぶる。

「こぉンの…、クソナンパ野郎――ッ!!」

 

 

十数分後…。
気が済むまで冬馬に言わせてやらせておいた結果、十分近く物が投げつけられた。
やがて彼の方でも粗方言い終わったのか、最後に両手に持ったクッションを上手に使って時差投げし、俺の顔面にヒットさせて満足したのか、ぼとりとソファに倒れ込んだ。
今は、何もかも投げ出して俯せでソファに横になっている。
次の弾として持っていたクッションに顔を埋め、さっきからあまり動かない。
ポケットミラーで自分の髪が変に乱れていないかを少し確認してから、散らかった部屋を片付けることにした。
随分長く出入りをさせてもらっている家だから、物の配置はよく覚えている。
最後に、冬馬が横たわっているソファの足下に、彼の邪魔にならないようにクッションを置いたけれど、全部は置ききれなくて、俺の顔面にヒットした二つは床に置かせてもらった。
そのまま、ソファの肘置きに腰掛けて、横たわっている冬馬を見る。
…茶色い髪から覗けるうなじや掌が、今尚真っ赤で少し心配になるくらいだ。
こんなに無防備だと困る。
今すぐに「本気だ」「好きだ」と伝えて、このまま体を添えるのはとても簡単で、その容易さが、まるで甘い花の香りのように俺を誘う。
けれど、彼が容易く手に入るなんて思っていない。
…奇跡が起きそうなのだから。
ここからは、一手だって間違えられない。

「…………」
「少しは落ち着いた?」

横たわっている冬馬に、柔らかく声をかけてみる。
顔を上げもせず、投げ出した体を少しだけ身動ぎするだけで、ぼそぼそと声が帰って来た。

「……お前な…お前…。本当に…いつか刺されるからな……」
「俺はね、冬馬。ここ数日俺を避ける冬馬を見て、突然キスしてしまったから怒っていると思っていたんだ。気持ち悪かったり、嫌だったろうなと思ってね。…違った?」
「……」

たっぷり沈黙して、のそのそと、冬馬がクッションに埋めていた顔を横に向けてくれた。
赤い顔で、ちらりと足下の方にいる俺を不愉快げに一瞥し、また視線を適当な所へ反らす。

「…気持ち悪ぃとか、怒るとかは……あんまり思わなかったな…。…つか、あの日はお前が変で、何かあったのかって心配になってたし…。けど、いつもみたいにすぐ連絡は……何か、できなかったっつーか……」
「心配してくれたんだな。ありがとう。…で? 俺にすぐ連絡できなかったっていうのは、俺が本気だと思ったからなんだろう?」
「っ…、そーだよ!悪いかよ!!」
「っと…。取り敢えず、足癖が悪いのはよくないかな」

俯せだった体を横にし、片足を上げると、冬馬が俺の腿を一度軽く蹴る。
二度目に蹴られないように、微笑みながら足首を手に取ると、ソファの上に戻した。
ため息を吐いて、冬馬がくしゃりと片手で自分の前髪をかき上げる。

「あのなぁ…。お前、たまにベタベタしてくるけど…。く、口に…されたのは、初めてだったし…。あの時は、直前にお前の好きな奴の話してただろ? 俺だってそりゃねえなとは思ったが、あれじゃタイミング的に勘違いするだろ、普通!…それに、何つーか…。お前の瞳が…」
「瞳?」
「……いや、よく分かんねえけど!」
「俺、どういう瞳をしてた?」
「…。どうって…」

少し考えた後、冬馬がゆっくり身を起こす。
俺から一番遠い距離…ソファの向こう隅に座り、枕にしていたクッションを雑に膝の上へ置いた。

「熱い、っつーか…。世界で、本当に好きなのは俺だけ…みたいな瞳に、見えた……つーか…、まあ……」
「そう?」
「……そーだよ」
「…。そう…」
「あ、あのな…、お前な…。あんな瞳で見られたら、見られた奴はマジで全員勘違いするからな!いいか、俺がそう思うんだからよっぽどだぞ!?」

恐る恐るというか、いじけたような調子で冬馬が呟くのを、両脚の間で付けたり離したりしている自分の両手の指を見下ろしながら、信じられない気持ちで聞いていた。
俺自身が伝えることを諦めていた言葉にもできない気持ちを、そんなに的確に感じ取ることができて、しかもそれをこうして表に引っ張り出すことができるのが、天ヶ瀬冬馬だ。
例えば俺は、「彼を手に入れられれば、自分は必ず幸せになれる」という確信がある。
けれど、逆もそうだとは限らない。
冬馬にはもっと、ずっと似合う人がいるだろう。
素敵な女性。可愛らしい相手…。
同性だって構わない。
けどそれは、きっと俺じゃない。
それでも…。
自分の手元から顔を上げ、ふて腐れている冬馬を見詰める。

「けど、合ってるよ」
「…? 何が?」
「"世界で、本当に好きなのは君だけ"ってやつ」
「…」

俺を見て数秒沈黙し、冬馬が思いっきり顔を顰める。

「……はあ?」
「合ってる。他の人への心配は、そんなに必要ないよ、きっと。…さすがだな、冬馬。感性が豊かだ。本能と直感で生きてるね。うん」
「いやだから…。それはもういいって。うるせえな。それが冗談なんだろ?」
「冗談に"しなきゃいけない"と思って来たんだよ」
「お前何言っ――…!」

冬馬が起きたので、スペースができたソファへ腰掛ける。
極々普通の距離を取ったつもりだけど、びくっと肩を震わせて、冬馬が片手を肘置きに着いて、警戒するように体をこちらへ向けた。
とはいえその警戒にも緩みがあって、完全に拒否されているわけではないことが手に取るように分かる。
明るい色をした、瞳孔まではっきりと見えるような茶色い瞳が、真っ直ぐに俺を捉えている。

「…」
「…」

探るような、けれど心地よい沈黙が場を満たす。
彼が何かを言い出す前に、先に口を開いた。
お陰様で、少し強気で押していける。
本当に格好付けだな…と、自分で思う。

「好きだよ、冬馬」
「おい…。止めろよ。それをまた俺が信じるとでも――」
「今までずっと、君だけを見ていた。…あの日、自分で言ったことを覚えてる? 冬馬の言う通り、俺にとって冬馬の代わりなんて、どこにもいない。俺の一番大切な人は、その人に出逢ってからはずっと一人で、今、目の前にいる」
「――」
「嘘じゃないよ」

見つめ合い、返事を待っていたけれど、反応はイエスノーの応えじゃなかった。

「……………は、ぁ…?」

大した間を置かず、ぼっ…と冬馬の顔が再び真っ赤になった。
湯気が出てきそうなくらい、また耳も首も、シャツから覗ける鎖骨まで赤い。
赤くなったり青くなったり、忙しくさせてしまって申し訳ないな。血圧が心配だ。
怒ったように眉を寄せているけれど、困り顔のようにも見える。
突然震え出す唇に、今すぐキスをしたくなる。

「……ぇ。だから……じょ、冗談なんだろ?」
「冬馬の迷惑になるなら振ってくれ。仕事には絶対に持ち込まない。けど、俺が本気だってことは伝えておきたいな」
「おま…っ。ちょっと待て!結局どっちなんだよ!? ワケ分かんねー奴だな!!」
「どっちだと思う?」
「俺が聞いてんだよ!!」
「俺は本気だよ。冬馬にはどう見えてる?」
「ど、どうって…っ」
「冬馬は、今の俺を見て、どっちだと思う? まだ冗談だと?」
「……」

ここに来てもまだ飄々と微笑しながらそう聞くのだから、自分は本当に情けないと思う。
俺の切り返しに冬馬は少し驚いたような顔をしてから、一瞬居もしない誰かに助けを求めるみたいに狼狽え、けれどすぐにぐっと赤い顔のまま俺を直視する。

「……。…ま…マジ、だと…思う」
「だったらどうする?」
「……」

俺を見上げながら、じり…と、冬馬が狭いソファの上で、更に後退する。
赤い顔とその逃げ腰が、どれだけ俺を刺激しているか全く分かっていない。
ソファの端でこちらを警戒しながら、目つき鋭く俺を睨んだ。

「……殴る」
「…。うん…。まあ、権利ではあるような気がする」
「…。……っ、……あぁーもー…。んだよ~…クソ…!」

本当に殴られても可笑しくないようなことをした自覚はあるから、少し覚悟してみたけれど、そのまま殴りかかられるようなことはなく、冬馬は下ろしていた足を引き寄せると、珍しく背中を丸めてうずくまった。
膝に額を押しつけ、髪の下に両手を差入れ、首の後ろで組む。

「…」
「一発くらいなら、いいよ。殴っても。…顔以外でお願いしたいけどね」
「……悪い」
「ん?」
「お前が本気だとしたら……俺、すげえ無神経なこと言った…。お前に…」
「謝ることじゃないだろ? 気付いていなかっただけだし、俺がそう見せていたしね。ずっと隠すつもりだったけど…やっぱり難しくなってきていたんだと思う。けど、どんな理由があったにせよ、一方的にああして奪ってしまって、本当に悪かったと思ってる」
「…」
「冬馬は悪くないだろ?」
「いや…。お前が、普段気を使いすぎだってくらい相手の気持ち尊重する奴だってのは、俺だってよく知ってる…。……流せなかったってのは、たぶん、それくらい傷ついたってことなんだろ」
「…」

否定の言葉がすぐに見つけられなかった。
はあ…と深く息を吐いて、冬馬がうずくまるのを止めた。
首を動かし、俺の方を見上げる。
顔も耳も首も赤く色づいたままだけれど、直前までと比べれば、随分落ち着いた感じだ。
…「待て」を命じられた犬の気分だ。
今すぐ抱き締めたい衝動が、体の内側を奔って焦れる。
目の前にお腹を空かせた狼がいることなんて、冬馬は露程も思っていないらしく、また無防備に横髪を耳にかけた。

「お、お前な…。あんな、冗談みたいにしねえで…。は、早く言えよっ…そういうことは!」
「そうだな。ごめんね、俺に度胸がないから。…けど、こういう結果になれたのなら、俺たちにはこれがベストなタイミングだったんだと思うよ」
「面倒臭ぇんだよ!」
「俺もそう思う。…けど、ねえ冬馬。そろそろちゃんと返事が聞きたいんだけどな」
「っ……ちょ、ちょっと待て!!」
「ん?」

静かに距離を詰めていたのがバレてしまい、ぴっ…と右腕を伸ばされて、それ以上近寄るなとばかりに制止されてしまう。
怖がらせたくない気持ちは勿論ある。
いかに今夜が俺たちにとって奇跡的な夜であったとしても、今夜すぐにどうこうということは冬馬の気持ちを考えてしたくないし、自分にはそれができるはずだと自負している。
一瞬、大人しく止まってみたはみたけれど…。

「ぃ…言っとくけどな!」

びし…!と、冬馬が突きだした手で俺を指さす。

「男だろうが女だろうが、俺はフラフラされんのは我慢できねえし許せねえんだ!いいか、北斗!!俺が好きなら、そのナヨった根性叩き直せッ!今後一度でも他の奴に流れてみろ。速攻別れ――…っう、わ!?」

――もうだめだ。
くらりと脳が揺れ、突き出されていた冬馬の腕を掴み、同時に彼の後ろ腰に手を添えて、引き寄せた。
腕の中に入ってきた体を、まるで縋るように強く抱き締める。
甘い香りが鼻腔を擽る。
温かい彼の体温を全身で感じる。
ライブ上がりにこうして強く抱き合ったことなど、たくさんあったはずだった。
けれど、全く別ものだ。
腕の中の体が、一回り小さく感じる。
ライブの時は、逆に俺が冬馬の勢いに圧され気味で、逆に抱き締められる側が多かった。
飛び込んでくる冬馬や翔太を抑えるような役目もあったと思うし、それが今までの自分の最も幸せな時間だったけれど…。
こうして冬馬を捉まえて、腕に抱き締められるなんて、夢の中でしか思っていなかった。
すぐに腕の中から体を引こうとする冬馬の肩を後ろから抱き締め、ぐっと抑える。

「…! て、て…てめ…っ。は、はなっ、は……」
「もう少しこのままでいさせて…」
「っ――」

耳元で囁くと、分かりやすく冬馬が震えた。
反応が可愛すぎて、脳が蕩けそうだ。
指先にかかる彼の髪を少し捉まえて撫でながら、目を伏せる。

「俺の気持ちを受け取ってくれるなら、俺の背中に手を回して、冬馬。それで返事をもらうよ」
「~…っ。こ、このっ…キザ野郎…!」
「そう、格好つけなんだ。…よく知ってるだろ?」
「…っ」

冬馬の両腕が、少し彷徨っているのが気配で分かった。
すぐに添えてもらえなかったけれど、ここまで来るともう断られることは殆どないはずだ。
特に、自分に正直で曲がったことが嫌いな冬馬の場合は、ここで自分の気持ちを翻すということはしないだろう。
冷静に、落ち着いて状況を整理すれば、冬馬は俺がキスをしてから俺との関係を真剣に考えてくれていて、しかも受けてくれるつもりだったみたいだから。
それを変に茶化して誤魔化そうとして、いつもみたいに笑って逃げに走ろうとした自分が、また少し嫌いになるけれど…。
きっと、この瞬間に辿り着くには、それら全てが必要だったんだろう。
それに、今までと違って、自分を嫌ってなんていられない。
冬馬が俺を選んでくれるというのなら、釣り合って見せなければならなくなる。
冬馬に、今以上に近しくなるというのなら、彼の輝きを濁らせるなんてことがあってはならない。

「――っ」

…たっぷりの沈黙の後、ぐっと冬馬が自分から更に俺の肩に額を押しつけた。
背中に両腕がかかり、シャツの襟が少し後ろへ引っ張られる。
――ほ…と安堵の息を吐いたところで、ぽつりと耳を澄まさなくては聞こえないくらいの声がした。

「…ふぇ、フェアじゃねぇから、言っとく。――…俺も、お前が好きだ」
「――」
「フラフラすんなよ…。俺が好きなら、最初っから俺にしとけばいい話だろ」

雷を受けたような衝撃で、さすがに肩が強張った。

「……そうだな」

同じように、小声で返す。
正直に言えば、喉が震えてそうなってしまったというだけだけれど。
…信じられない。
嬉しすぎて、まだいまいち実感がない。
…ああ。
どうしよう。
みんなが見上げる、輝く星を手にしてしまった。
傍で見ているだけで、傍にいるだけで、一緒に歩けるだけで満ち足りたつもりだったのに。
もう絶対に失えない。

「…」
「……おい」

感動して動けない俺に、腕の中から冬馬が不機嫌そうな声をあげる。
ようやく我に返って少し腕を緩めてみるけど、まだまだ離す気なんてない。
一先ず、密着するのを止めてみたけれど、彼の後ろ腰に手を添えて捕らえておく。
冬馬が俺の背中から手を離し、片手をこちらの右肩に置いて俺を一瞥する。

「…絶対、浮気すんなよ?」
「しないよ」
「ホントだろーな? 信じるからな!?」
「絶対にね」
「…!」

見詰めながらそっと顔を寄せると、俺が寄せた分だけ、冬馬が顔を引いた。
少し驚いて、思わず瞬く。

「…?」
「……」
「キスしない?」

まさかこのタイミングで避けられるとは思わなかったけど、冬馬だしな。
微笑って軽く首を傾げながら聞いてみると、しどろもどろで嫌そうな顔をする。

「あ、後ででいいだろ…?」
「今したいな」
「あのな…!そう何でもかんでも思い通りになると思うなよ!?」
「誓いのようなものなんだから、そう構えなくていいだろう? 目を閉じているだけでいいよ。少し顎を上げて」
「…!」

細い顎に指先を添えて、軽く上げさせてもらう。
やっと正面から近距離で顔が見られた。
名残惜しいけれど、彼を抱き締めるのを止め、もう片方の手でもっとよく顔が見えるように頬を撫で、サイドの髪を左右に流した。
掌に馴染む肌の感触を大切にしながら、片手を握って少し困った顔をしてみる。

「嫌じゃなかったんだろ? …この間は本当にごめんね。やり直しさせてもらえると、格好つけとしては嬉しいんだけど?」
「…」

一度鬱陶しそうな顔をされたけど、間を置いて、冬馬が目を伏せる。
俺の腕のシャツを握り、ぐっと俺へ委ねるように顎を上げてくれたけれど、その唇がしっかり閉ざされてしまっていて、声を立てないようにほんの少し笑ってしまった。
…そうだな。
今は触れるだけのキスにしよう。
Jupiterという、用意され、求められ恵まれた環境があって、俺たちは信頼から始まった。
厳密に言えば、たぶん冬馬の今の気持ちは恋でも愛でもなく、一緒にいる時間で培われた、俺に対する"信頼"だろう。
恋をする暇なんて、彼にはきっとなかった。
既に自覚があり、且つ溺れている俺と違い、冬馬が"恋"をするとしたらここからのはずだ。
君にとって素敵な"恋"ができるように、君に大切に触れていきたい。
…顔を寄せて、目を伏せる。

「好きだよ、冬馬…。――これからも、どうぞ宜しく」


恋をはじめよう





静かに短く、触れるだけのキスをした。
それでも、あの日確かに感じたふんわりとした甘い痺れた感覚と香りが、また奔る。
この特別な感覚が本当の"恋"だというなら、今まで多くの女性や一部の男性にしてきたキスは全て親愛のそれであって、きっと俺にとっても、先日のあのキスが、本当の意味でのファーストキスになるのだろう。

そう思うと突然気恥ずかしさが出てきて、それをまた誤魔化すように、わざと余裕を気取って、続けて冬馬の額に唇を落とした。



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閲覧者リクエストいただいた北冬、前半分です。
告白して恋人になるまで。
本当は浦用でしたが、北斗様が初日で襲ってくれませんでした…。
浦は後日、そっちの本棚にアップします…;

2018.9.2





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