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「…あ、そうだ。冬馬」

ダンスレッスンが始まる前のロッカー。
レッスン着に着替えようとトップスを脱ぎ、ネックレスを外す為両手を首の後ろに伸ばしたところで、ひとつ空けた隣のロッカーを開けた北斗が、ぴらりと少し細めの横封筒を取り出して指の間に挟んで俺に見せた。
茶封筒じゃなく、結構しっかりした印刷の封筒だ。

「これ、いる?」
「あ?」

指に挟んでいたそれを持ち直し、北斗が俺に片手で差し出してくる。
ネックレスを取るのを一時中断して、一先ずそれを受け取った。
俺の方に面していたのはデザイン的な表面だったんで、目の前でくるりと裏へ返す。

「"SOCCER J1 LEA…"、…んっ!?」

封筒の片隅に控えめに印刷されている英字を読んでる途中で気付き、ばっ…!ともう一度封筒の表を見る。
そういえば、この封筒のカラーリング…。
慌てて中を開けて確認すると、厚みのある紙製のチケットが2枚入っていた。
普通に取る時と印刷用紙の厚さもデザインもが全然違うからぱっと見気付かなかったが、これは…。

「サッカーJ1のチケットじゃねーか!」
「なになにー? サッカーのどの試合??」
「来週のだぞ、来週の!すげえな。この組み合わせもう完売で手に入……って、うわっオイ!お前これVIPチケットじゃねーか!?」
「へえ…」

顔を上げて北斗に突っ込んだら、いつの間にか俺の背後にいやがったんで、肩越しに振り返るみたいになった。
チケットに夢中になっていた俺後ろからネックレスの留め具を外してたらしい北斗が、今俺の首から取り外したネックレスを肩越しに片手で俺の方へ差し出しながら、少し瞬いた。

「そうだった?」
「おう、サンキュ…――って、違う!そうだった?、じゃねーよ!激レアだぞ!? どうやって手に入れた!?」
「たまたま撮影を見に来ていたスポンサーの上の方と、少し話をする機会があってね。その時に」

そのあまりの興味のなさに俺の方が驚いて、ネックレスを受け取りながら、手に持ったチケットをぴらぴら振りながら声を張った。
J1の完売チケットだぞ!
しかもVIP席!
どんだけレアだと思ってんだ!
片足引いて北斗へ体ごと振り返ろうとしたところで、反対側のロッカー使ってた翔太が横からチケット持つ俺の手首に両手を添えたと思ったら、自分が見やすい位置にぐいと下ろした。

「見せてっ」
「おわっ…!」
「VIPルームに入れるサッカーの観戦チケットってことでしょ? へ~。すごいじゃん、北斗君!」
「オイ、翔太!急に引っ張んな!手首捻ったらどーする気だよ!」
「だって見たいんだもん」

危ねえなと思って突っ込んだが、翔太は悪気ゼロで人の片腕にくっついたまま、目が合うとにかっと笑顔になる。
ったく…。
一旦北斗から翔太へ体の向きを変えて、腕を少し下に下げてやった。
二人してチケットを覗き込む。
ついさっきまで気にしなかった紙質や封筒まで、まじまじと見ちまう。
この高級感。

「道理で見たことねえ袋に入ってるはずだぜ…。用紙も印刷も普通のと全然違うしな…」
「VIPルームいいなあ~。特別室からフィールド見てみたーい」
「北斗、お前これ今"いるか?"って言ったよな? まさか、行けねえのか?」

こんなにいいチケットもらっておいて行けねえとか、残念過ぎるだろ。
同情の眼差しで北斗の方を見たが、上着を脱いでハンガーに掛け終わった北斗は、腕をクロスさせてインナーに手をかけながら、他人事みたいにぼんやりと応えた。

「気持ちは嬉しいし確かに頂いたけれど、冬馬とか翔太の方が好きだろうなと思ってね」
「…翔太!」
「そりゃ僕だって行きたいけどさ~…」

ば…!と反射的に翔太を見たが、隣の翔太は片頬を膨らませて半眼で俺を見上げる。

「ざんねーん。僕、この日のこの時間帯、撮影入ってまーす」
「何ぃ!?」
「ていうか、冬馬君空いてるの?」
「空いてる。…つーか、この日は元がオフで、お前だけCM撮影入ったんだろ!」
「えー!そうだったの!? あーあ~、もー。僕が人気者過ぎちゃうからーぁ」
「オイ、北斗!お前、この日空いてはいるのか!?」
「俺? …まあ、空ければ空くけど」

空ければ空く? 何だそりゃ。
要するに、急ぎとか絶対行かなきゃいけねえ用事じゃねえってことだな?
翔太が行けねえのは残念だが、仕事じゃ残念だが仕方ねえ。
次に俺が何を言うのか分かってるだろうに、北斗はどこか素っ気ない感じで俺たちのやり取りを見ている。
あんまりスポーツ観戦とかにそこまでの興味がねえのは知ってはいるが…。

「なあっ!じゃあ、俺とこの試合見に行こうぜ!」
「それはいいけど…。俺でいいの? 翔太は残念だけど、そんなにレアなら折角だし友達とかと行った方がいいんじゃないか?」
「元々お前がもらってきたんだろ。ヒマなら付き合えよ。それに、スポンサーだってお前が使ってくれたってのが分かれば嬉しいんじゃねえのか? そりゃ嫌なら別の奴誘うけどよ」
「嫌?」

乗り気じゃなさそうに見えたんで引いてみると、今度は北斗が意外そうな顔をした。
レッスン着のジップを上げてから、右手を上げてウインクしやがる。

「俺が冬馬の誘いを嫌がるわけないだろ?」
「はあっ? なら最初っから来いよ、面倒くせーな。行ける友達探すのも手間だし、暇なら付き合え!」
「それじゃあ、お言葉に甘えて当日はエスコートさせてもらおうかな」
「よっし、決定だ!」

俺には必要ねえキメ顔は流して、ぐっと拳を握る。
行ってもいいんなら、さっきの「他の奴と行けよ」的なくだりは何だったんだっつーの。ったく。
北斗がもらったチケットだが、もうすっかり自分のみてえな気持ちで両手で大切に持って、改めてその二枚を見詰める。
…く~っ。
もう既にわくわくしてくる。
フィールドが見渡せる場所で試合が見られるなんて、最高だぜ!

「っしゃあ!俄然、今週の仕事に気合い入ってきたぜ!!」
「いいなあ、二人とも。冬馬君、お土産買ってきてー」
「それはいいけど二人とも、急いで着替えないと。間に合う?」
「え? …おわっ!もうこんな時間か!?」
「うわ、ぼーっとしすぎた!」

壁に掛かっている時計を見ると、もう時間ぎりぎりだ。
一人だけ着替えが完了している北斗が、一足先にロッカールームを出て行く。
慌ただしく着替えて翔太と部屋を出る時に、翔太が横で分かりやすく片頬を膨らませた。

「あーあ。行きたかったな~」
「残念だったな。…ま、俺と北斗で楽しんできて、土産話をたっぷり聞かせてやるよ」
「でもさ、北斗君とデートできてよかったね。僕が人気者なお陰だね、冬馬君。感謝してよね」
「…はあ?」

ばたばたと足早に廊下を進みながら、後ろから付いてくる翔太を振り返る。
で…。
…。
予想もしなかった単語を突然使われてビックリする。

「…お前、馬鹿だろ。サッカー観に行くのが何でそんなのにカウントされなきゃなんねーんだよ」
「一般的に嫌いじゃない人と二人で出かけたらデートでーす」
「ばっ…。あ、あのな!そんな認識はお前だけだからな!?」
「そーかなぁ。普通はそう思うと思うけど。少なくとも、北斗君は二人で出かけるって段階でそう思ってると思うよ? デート慣れしすぎてるから」
「ねーよ!」
「あるある。聞いてみたら?」
「ねーよっ!!」

速攻で否定しとく。
「二人で出かける=デート」にされちまったら、俺はもう何人もと何回も行ってることになる。
勿論、そんなことはねえって分かっちゃいるが、そんな単語放り込まれちゃ変に気になり出す。
で、デートって…。
…。
…いやいやいや。ねえよ。
そんなわけがあるかと翔太の言葉を振り切って、手摺り片手に階段を駆け上がった。


Date





"デート"なんてことあるわけねえだろ!と、その話が出た日は一日変に意識しちまって、場合によっては北斗に「違うよな?」と確認しようかどうかとかも迷ったが、結局レッスンしてる間にその妙な焦りは頭の中からすっぽ抜けていた。
帰り際に思い出しはしたが、そんなくだらねえことを聞くのも何だし、いいやってことで流しちまって、当日が近づくにつれて単純にサッカー観戦の楽しみだけが残った。

「…うっし。こんなもんだろ」

適当に目立たねえ服を着て、ニット帽を被るいつものスタイルを確認し、最後に伊達眼鏡をかけながら鏡の前を離れる。
…いよいよ当日だ。
にやけそうになる頬を引き締めながら、ぐっと一人また拳を握る。
正直、スタジアムでのサッカー観戦なんてひっさしぶりだ。
小学の頃まではクラブに入ってよくやってたし、中学だってお袋が体調を崩すまではやってた。
クラブの仲間と観戦も年に何回か行っていたが、黒井のおっさんに声かけられてからは外出自体を控えろって感じだったし、そこからはずっとテレビでくらいしか見てねえからな。
すげえ楽しみで、昨日はよく眠れなかったくらいだ。
試合自体は午後からだが、結構早くスタジアムには入れてくれるらしくて、待ち合わせは午前の終わり頃って感じだ。
時間まであと数分…。

「…お!」

スマホを片手にそわそわと待っていると、やがて北斗からLINEが入った。
アウター片手に部屋を出て、エレベーターでマンションの一階に降りる。
玄関から表に出ると、少し離れた場所にタクシーが一台停まっているのに気付いて、すぐにそれに近づく。
距離が近くなると中で片手を上げる北斗が見え、俺も片手を上げた。
自動で開いた後ろのドアを少し屈んで覗くと、シートの奥に北斗が座っていた。

「よう!」
「やあ。こんにちは、冬馬」

挨拶しながら乗り込もむ俺の腕から、奥に座っていた北斗が手を伸ばして持っていたアウターを取った。
小さなことだが、厚みがあったアウターが腕からなくなり、一瞬手空きになって乗り込みやすくなる。
そのまま反対の手で俺の手をごく自然に取ろうとするが、女の人空いてじゃねえんだぞ。
それはやんわりと片手で払うと、北斗自身が気付いたらしくバツが悪そうにその手を引っ込めた。
乗って、シートベルトを締めたところで、持ってもらってたアウターを受け取って膝に横に置いた。

「サンキュ」
「どういたしまして。出てくるの早かったな。少し早く着いたから、どうかと思ったんだけど。もしかして待った? ごめんね」
「何で謝るんだよ。寧ろ時間ちょい早いくらいだろ。つーか、俺すげー楽しみでさ!準備完璧にして、お前からの連絡待っちまったってだけだ。LINEもらって速攻出てきた!」
「そう。なら、早く来ておいてよかったかな。…では、すみませんが先程お伝えしたスタジアムまで」

北斗がタクシーの運転手に伝え、車が走り出す。
見慣れた街でも、日中に車で移動ってことになるとまた違う印象だ。
そりゃ、仕事ではあちこちミニバンで移動したりするが、当然だが"仕事"なわけだ。
休日の日中に移動すると、同じ車移動でも気分が違う気がする。
乗ってすぐは窓の外を眺めていたが、ふと気付いて隣に座っている北斗を見た。

「…おい。お前、今日も眼鏡とか持ってきてねえのか?」
「隠す必要がないからね」

帽子は膝の上に置いてあるが、北斗は俺や翔太みたいに休日や街中移動中に伊達眼鏡を掛けたりはしない。
それは元々だし、大丈夫なのかよと思うが、移動の仕方が上手いのか丸め込め方が上手いのか、ファンに取り囲まれてどうこう問題になるようなことは今まで一度もない。
俺は…一度、囲まれちまってどうにもならなくなって周りに迷惑かけちまったことがあったから、ああいうのを避ける為に、なるべく私用で外歩く時は帽子と眼鏡をするようにしている。
まあ、確かに隠す"必要"はねえのかもしれねえけど…。
今だけは取ってもいいか…と、帽子と眼鏡を取って膝においてあるアウターの上に乗せた。
少し乱れた髪を、片手で一度適当に梳いてから、改めて北斗を見る。

「チケット忘れてねえだろうな」
「大丈夫。持って来てるよ。心配なら、冬馬が持ってたら?」
「いいのかっ?」

一緒に行くと決めてから、チケットは北斗に返した。
コートの内ポケットから取り出した封筒を俺に手渡してくる。
中を空けて、何度目かになるが中のチケットを取り出し、しげしげと眺めた。
ダメだ、にやける。
行こうぜって話になってから検索したら、やっぱり大口の株主とか協会の偉い人とか、そういう奴らしか普通は手に入らねえチケットらしい。
そんな所に特別に入らせてもらえるだけでも、嬉しすぎてわくわくが止まらねえ!

「にしても、食事まで付いてくるとはな。入口も違うし、食事もセットだし……本当に特別なんだな、このチケット。すげえぜ!」
「そうだな。…でもね、冬馬。そういう場所だから、必要最低限のドレスコードは少し考えた方がいいかもしれないよ?」
「は? ドレスコード?」

唐突な単語の登場に、疑問符を浮かべて北斗を見る。
ドレスコードって、あれだろ? パーティとかだとラフな服着てくんなよ、ってやつ。

「着てっちゃいけねえ服があるってことか? …あっ。もしかしてこのフードか?」

はっと気付いて、両手で膝の上に乗せてあるアウターを握って軽く持ち上げる。
気に入っている冬用のアウターは、確かにフードが付いてる。
やばい。ダメな服だったか?
いや、けど、所詮アウターだ。

「だったら、受付済ませる前にどこかのロッカーに入れておけばいいだろ。入る前に入れてくる。それならいいだろ?」
「アウターはたぶん受付時に預けると思うから、気にしなくていいかな。冬馬は小顔だしスタイルがいいから、どんな服も大体は似合う。今日の服も活発な冬馬らしくてとても似合ってるけど、難を言えば一点だけ」

人差し指を立てて、北斗。
その指先が、ぴっと斜め下を向く。
丁度俺の膝に指先は向いていて、やっぱりアウターのことを示しているのかと思ったが…。

「ジーンズ生地は控えた方がいいかもね」
「…あ?」

膝上のアウターの、その下。
北斗の指先は、俺の穿いていたジーパンだった。

 

 

 

 

「……なあ。お前、絶対これ高いやつだろ」
「随分ご厚意をいただいたし、そんなにしないよ。似合ってるんだからいいじゃない」

そんな会話をしながら、スタジアムの敷地内にあるロータリーに停まったタクシーから降りる。
降りた自分の足下が、見慣れない靴とパンツ生地で、どうにも気になる。
ジーンズ生地はドレスコード的に止めた方がいいだろうって話になって、ここに来る途中に北斗の知り合いのショップに立ち寄らされた。
飛び込みだってのに、すげー好意的に三、四人でスタイリングしてもらって、焦ってる間に終了しちまって「いってらっしゃーい」と追い出されるみてえに見送られた。
慌ただしい十数分間で、一体今のは何だったんだ…って感じだ。
移動してすぐに事情を伝えて用意してもらっていたとはいえ、そのショップに立ち寄ってから出てくるまで十五分くらいの足止めだったんで、確かに余裕持って来てた受付時間に影響は全くねえけど…。
何て言うんだろうな…。
大人っぽいっつーか……自分じゃ、あんまり選ばねえタイプの服になっちまった。
北斗が着てりゃ違和感はないデザインな気はするが、俺だと変な気がする。
この服にニット帽はおかしいから、眼鏡だけ一応かけちゃいるが…。

「これ、スポーツ観戦する服かぁ…?」
「似合うんじゃない?」

チケットと一緒に同封された地図では、専用の入り口があるとかで、車でそのすぐ傍まで横付けできるようになっていた。
誰かに見られる心配もあまりなく、すんなりとささやかだが人混みの全くない裏玄関みたいな所からスタジアムに入る。
たぶん、関係者とかが入る入口なんだろう。
簡単な案内板があって、エレベーターのボタンを押し、指定された階で降りた。

「つーか、自分で払うって。いくらだったか言えよ。いつの間にか勝手に会計済ませやがって」
「気にしなくていいってば。それに、急いでいるならって後から連絡するって話だっただろ? 俺もまだ払ってないし、知らないよ」
「パンツだけ変えりゃよかっただろ。この手の服はキツいんだよな」
「パンツを変えたら、トップスも変えないと違和感が出るから仕方ないだろ。デザインシャツも似合ってるけど?」
「ったく…。サッカー観に着てるのに、こんな服着てる奴なんていねえっつーの。いいか、北斗!折角だがな、他の奴がラフだったら、俺もすぐ着崩して――…」
「ようこそ、お越し下さいました」
「…!」

不意に、女の人の丁寧な声が響く。
廊下を矢印の方向に進んでいくと、両開きの扉の前に受付のテーブルがあり、ぎくりと足を止めた。
俺の中のイメージにあるサッカースタジアムのスタッフとは全く違う。
どこかのオフィスか銀行かみたいなその女の人の前に、すっと北斗が出ていき、チケットを見せる。
…ん?
あ、あれ…?
ばっと自分の片手を見下ろす。
気付けば、俺が持ってたはずのチケットが北斗の手にあった。
いつの間に取ったんだ!?
驚く俺の数歩前で、妙に愛想を振りまくいつもの少し大袈裟な丁寧さで、受付の女の人へ笑顔を向ける。

「お招き頂きありがとうございます。先日仕事でお世話になりました、315プロダクション所属の伊集院北斗です。今日はご厚意に甘えてお邪魔させていただきます」
「恐れ入ります。本日お伺いいただけると、社内の者から伺っております。どうぞ、中へお進みください。お食事のご用意をさせていただきます。本日は協会の方々の大半は別スタジアムで会議がありまして、来賓も少なく、ごゆっくりお楽しみ頂けるかと思います」
「ありがとうございます」
「…ぁ…いえ…」

いつもの調子でにこっととびきりの笑顔を向け、受付の人がぽーっとどっか上の空になる。
…いつもいつも、よくやるな。
呆れて一歩後ろで眺めていると、別のスタッフが北斗に近寄ってきて席へ案内しようとする。
そのタイミングで、ふと北斗が俺を振り返った。

「冬馬、行こう」
「あ? …おう」
「ぇ…!」「えっ!?」

眼鏡といつもとちょっと違う服くらいしか変わったところはないつもりだが、目の前の北斗にしか気付いてなかったのか、遅れてその場にいた二人のスタッフの視線が俺に来る。
…人気もなさそうだし、騒がしくねえしな。
いいか。
伊達眼鏡を取って、胸ポケットに適当に差す。

「こんにちは。今日、俺もすげー楽しみにしてました。北斗共々、俺もお世話になります!」
「わぁ…」
「ぁ、その…天ヶ瀬さんもご一緒でしたか…」
「ユニット内では、彼が一番サッカー好きでして」
「本日はJupiterのお二人でお越しいただけたんですね…。…あ、あの、宜しければ後でサインを頂けないかとお願いを言付かっておりまして…」
「構いませんよ。光栄です。…冬馬。一緒に書いてくれる?」
「ああ。勿論だぜ!」
「じゃあ二人で寄せますので」

にこりといつもの笑顔を受付の人に向けてから、北斗ともう一人の別のスタッフが俺の方へ戻ってくる。
「こちらです」と案内されたフロアは、まるでホテルのロビーだ。
絨毯が敷いてある床に、見栄えのする天井の照明。
円形のテーブルが並んでいて、いくつかの席には既に人がいて目線も合ったが、にこりと笑顔を向けてくれたり軽く挨拶を交わすくらいで、結局、席に着いた俺たちが書いたサインといえば、その招待してくれた人に頼まれたっつースタッフの持って来たスタジアムチームのフェイスタオル一枚だけだった。
そりゃ、いつも紛れ込むスタジアムの席とは違うだろうなとは思っていたが、ちょっと座席が広いくらいだと思ってた。
こんなに綺麗なもんなのか…。
それに、誰も俺たちに進んで声を掛けてこねーし…。
今日は休みっつったって、何枚かサイン書いたり話したりすることになると思ったんだがな…。
もう一度周りを見回してから、ふと自分の格好を見下ろす。
…フード止めてよかった。
北斗が大袈裟だと思ったが、今日に限って言えば北斗のアドバイスに感謝だ。

「なあ、北斗」
「ん?」
「服、サンキュな。確かにこれフードで来ちゃダメな所だ。危なかったぜ…」
「どういたしまして。念のために着替えておいてよかったな」
「ああ。つーか、ここサッカースタジアムっつーより、いい所のレストランみてーだな」
「そうだね。でも、食事の後にそこのドアから外の観戦席に出られるみたいだよ。食事のマナーは大丈夫?」
「あ? 俺?」

テーブルにセットされていたコースメニューのカードを眺めているところに、不意に北斗の声が飛んできて視線を上げた。
アイドルやってると楽曲関係とか映画とかCM関係でかしこまった会場に呼ばれることもある。
以前、スポンサーに招待された食事会でぎくしゃくしたことがあったから、北斗はその時のことを言ってるんだろう。
何を期待しているのか知らねーが、残念だったな!
微笑している北斗に、ぐっと右手で拳をつくって答える。

「任せろ!あの後、お前から借りたのも含めて、食事のマナーは一通り勉強したからな。完璧だぜ!二度と同じヘマはしねえからな!」
「だろうと思った。そういうところが素敵だよ」
「へへっ。だろ? サンキュ!」
「…」
「…ん?」

普通に応えたつもりだったが、丸テーブルの向かいの席で北斗が一瞬無反応に見えた。
…いや、無反応っつーか、何か返してきてもいいかなって思った会話のリズムで急にストップがかかったというか…そんな妙な感じだ。
違和感を感じて、拳を作っていた腕を下ろす。

「何だ? どうかしたか?」
「…いいや」

聞くと、北斗が目を伏せて小さく笑ってから、また目を開けた。
小さく首を傾げて言う。

「そういうところが、冬馬はいいね」
「…何で二回褒めた?」

マナーの勉強が幸いしてか、食事中に作法で困ることはなかった。
始まってみりゃ、結構簡易的だったしな。
大きな貝の入った料理とかもあったが、フィンガーボールとかが出てくるまでじゃなかったし、これくらいだったら普通に問題ないぜ。
食後のコーヒーの頃になってくると、気持ちフィールドの方がわいわいしてきた気がする。
人がたくさんいる気配だ。
まだ外に出ちゃダメなのか?
食事は終わったが、他のテーブルの連中はまだ話し中って感じで、まだ誰も外へは行かない。
サッカー観に来てるのに、いまいち誰も動く気配ねーな。
俺なんか早く外に出たいってのに…。

「…なあ、北斗。もう外出ていいと思うか?」
「いいんじゃないかな。聞いてみる?」

北斗が手を上げると、さっとスタッフの一人が来てくれた。

「いいみたいだよ」
「っしゃあ!じゃあ俺、外行ってくる!」
「俺も行くよ」

飲み物も飲み終わってたし、すぐに席を立とうとナプキンをテーブルに置いた俺の前で、北斗も同じようにナプキンを置いた。
いつも食後ゆっくりしてることが多い奴だから、少し意外だ。
別に嫌ってわけじゃねえけど、一緒にドアの方へ向かいながら聞いてみる。

「お前もっとゆっくりしててもいいぜ? 迷子になるような所じゃねーしな」
「俺も外を見たいだけさ」

もやっとした違和感を持ちながら、外へ繋がっているドアを開ける。
部屋の外には観戦席が並んでいるが、やっぱ他の所と全然違う。
映画館みたいに左右に肘掛けがあるし、飲み物を置くホルダーなんかもある。
まだ殆どの奴らは中で食事をしていたから、外に出てきたのは俺らが一番手だった。
ぱっと北斗から離れてくだりになってる席の間の階段を足早に降りて、手摺りがある最前列まで行ってみる。
両手で握って身を乗り出すと、斜め下は丁度フィールドの横ど真ん中って感じだ。
このエリアの左右には壁もあって、他のサポーターは視界に入らないが、フィールドは本当によく見える。

「おおー!すげえ!本当に特等席じゃねーか!」
「よかったね」

振り返ると、遅れて階段を降りてきた北斗が苦笑する。
ガキくさいって思ってるんだろ? 分かってんだよ。
けど、実際浮かれてんだ。ちょっとはしゃぐくらいいいだろ。
VIP席なんて、ホント滅多に手に入らないんだからな!

「フィールドがスゲーよく見える!」
「始まるのが楽しみだな。…何処に座る?」
「その辺がいいな。二段目三段目辺りにしようぜ!」
「ここにも飲み物のメニューがあるな…。何かお願いしようか。俺はまたコーヒーにするけど、冬馬はどうする?」
「何があるんだ?」

座席に座ろうとしていた北斗が、サイドテーブルにある小さなスタンドを見つけて手に取った。
どうやら飲み物のメニューらしい。
外でも頼めるようになってんのか…。
ふと見れば、さっき俺たちが入って来たドアの傍にスタッフが控えていた。
外に客が出たからあの人たちも出てきたんだろう。手を上げれば、すぐにオーダー取りに来てくれそうな感じだ。
サービスもやっぱすげーんだな。
北斗の傍まで行って、同じように隣に座りながら差し出されたメニューを覗き込む。

「そうだな…。どうせ叫ぶから、冷たいのがいいな。ウーロン茶だな」
「じゃあ、頼もうか」

北斗が片手を上げると、スタッフがすぐに傍まで来てくれた。
オーダーした飲み物を受け取る時に、北斗がいつもの調子で女の人だったスタッフの手を握ってウインクをするのを呆れて見ていたが、相手はそりゃあもう嬉しそうに戻って行った。
いつもの北斗のそれに、いつもの反応でこっちも半眼で肩を落とす。
いい加減止めろっつーの、それは。
何百回言ったって治らねえから、もう諦めてるけどな。
脊髄反射並によくやるぜ…ったく。
飲み物、中から取って来んのかな…とスタッフの女性が立ち去っていくのを一瞥してから視線を戻すと、丁度北斗が片手に持っていたメニューのスタンドをくるんと指先で器用に一回転させてたとこだった。
…へえ。
何だか、妙に虚を突かれる。
翔太なんかはよくやるが、北斗はこういう手遊びみたいなのは珍しい。見たことねえ。
俺が隣でじっと見てたことに気付いたのか、北斗が何もなかったみてえにスタンドを置いて、俺を見返す。

「何?」
「いや…。お前、今日めちゃくちゃ機嫌いいな」
「そう?」
「今、くるって回したろ、それ。そんなこと滅多しねえだろーが」
「え? …ああ、これ? そうだった? 無意識だった。ごめん」
「別に謝ることじゃねーけど、珍しいからな。機嫌いいのかと思って」
「そうだね。自覚はあるよ」

ゆったりと足を組んで、北斗が眺めるように目の前に広がるまだ無人のフィールドを見渡す。
反対側には他のサポーターが既に入ってきていて、応援の準備をしているのが見えた。
会場自体は随分ざわざわしてきたが、日が当たる綺麗なライトグリーンのフィールドは、試合前はまるでただの大きな絵画みたいにも見える。

「けどよ、俺は好きだが、お前本当はサッカーそこまで興味ねえだろ?」
「まあね」

さらり、と北斗が肯定した。
まあそうだろうなとは思ってたから、別に驚きゃしねえが…。
ライブとかイベントは盛り上がるし俺たちも仕事として好きだが、それ以外はというと、北斗はどっちかって言や静かな環境が好きだ。
事務所のみんなで騒いでる時だって、あまり中心にはいない。
気付けば端の方で女の人と話してるか、大人組に入ってるか、みんなを見てるかって感じだ。
会話を避けてる感じじゃねえからそうは見えないんだが、他の奴が喋っていたり、言いたいことがあるなって時は割り込んで来ねえし。
わーわーと、既に盛り上がっているスタジアムの歓声が、周囲に響いている。
けど、まだ周りの席には殆ど誰もいない。
エリア内にいるにはいるが、離れて座ってるから気にならない。
不思議な感じだが、これなら北斗もそこまで苦手じゃねえだろうと思う…――が、サッカー好きじゃねえんなら、ここからのプレイタイムが辛いんじゃねーか?
結構長ぇぞ。
あと、俺が燃えてうるさくなる自覚がある。

「飽きたら中でお茶しててもいいからな?」
「そうしたら、ここで飲むよ」
「会場まで入れてくれたんだ。無理に付き合うことねえぜ。…いいか、北斗。俺の好きなものとお前の好きなものは違ってて当然だ。今日だって俺に付き合ってはくれたが、本当はそうでもねえだろ?」
「いや? 冬馬が行くなら、俺も行きたいと思ってたよ」
「あ? さっきサッカー興味ねえっつってただろーが」
「サッカーにあまり興味はないけれど、来たかったし今は楽しいよ」
「…? ホントかよ…。いまいち嘘くせーんだよな」
「そう? じゃあもう少し言葉を使ってみようかな。…俺にとって、サッカーの試合自体はテレビでも十分だけど、スポーツを観て楽しそうにしている冬馬を傍で見ていられることは、とても嬉しいってこと」
「…。…はあっ?」

軽やかにウインクしてくる北斗に、思わず大きな声で聞き返しちまった。
こんな場所でそういうこと言うなよとか、何なんだその軽さはとか、色々言いたいことはあるのに咄嗟に言葉で出て来ない。
何だその急過ぎる口説き文句は!
やんなら他の奴にやれ!!

「ばっ…かじゃねえのか…それ…」
「本心なんだけどな」
「ほ、本心…」
「仕事も休日も、殆ど俺たちはいつも一緒にいる。…けど、簡単そうに見えて、外で二人きりで出かけるのは難しい。連れて行きたい場所はたくさんあっても、現実的にはなかなか叶わない。だけど、今日は堂々と隣を歩けるし、何より冬馬が楽しそうだ。だから…」

つい…と、北斗がイスの背から体を浮かせて、少し前屈みになって俺の方へ顔を寄せる。

「俺は、今日の"デート"は、とても楽しみだったよ」
「…」

控えめな、けど囁くという程小さくない妙に丁寧な声が、この距離にいる俺だけに届く。
例えばさっきのスタッフが喜ぶような、いわゆる"甘い仕草"ってやつなんだろうが……何なんだ、さっきウインクされた時と比べれば、もっとずっと本音だってことが分かった。
すんなりと言葉が俺の中に入ってくる。
…つーか、やっぱ、北斗は今日は「デート」だって思ってんのか…。
じわじわと、顔が熱くなってくる。
二人で出かけるって事実は変わらねえのに、ただそれだけってのと、「デート」って名前をそこに貼り付けることには、雲泥の差があるような気がする。
実際、ただ出かける日と何も違わねーのに、変な感じだ。ムズムズする。
けど、嫌じゃねえ……かな。
ちゃんと聞いた北斗のその言葉にどことなく安心して、茶化すことなくポスッと俺の方がイスの背もたれに背中を預け、左右の肘起きに両手を置いた。

「…で?」
「ん?」
「お前マジで楽しいんだな? 今」
「すごく」

北斗も体をイスに沈めて、リラックスした様子で足を組み替える。
それを見てから、何となく片手で軽く自分の頬を擦った。
信用してねえわけじゃねえけど……たまに改めて思うが、北斗は俺より大人だ。
大人ってのは、分かりにくい。

「…そう見えねえんだよなぁ」
「よく言われる。何だろうね。機嫌の良し悪しが表に出にくいのかな。…けどね、冬馬。そもそも論だけど、俺が冬馬に嘘を吐くと思う?」
「ああ…。まあ、そうだよな」

それもそうだ。
そう言われると、すんなり「違うな」って思える。
…てことは、やっぱ北斗は今ちゃんと楽しいのか。
突然さらっと納得した俺に、隣で北斗が苦笑する。

「何も特別なことじゃない。近しい人が楽しそうだと、何となく自分も楽しいし、嬉しくなるだろう? それだよ」
「ふーん…。なるほどな。…そうか。サッカーそんなに好きじゃねえんだったら、ちょっと強引に誘っちまったし悪ぃなとか思っちまったが…。確かに、俺もピアノとか全然分かんねーけど、お前がピアノ弾いてるの見てんの好きだしな」
「…。俺、嬉しそうに弾いてる?」
「あ?」

顎に片手を添えて考えてると、北斗が意外そうな声で聞いてきたんで顔を上げた。
そりゃ、たまにしか見かけねえけど…。

「ロケとかで現場にピアノあると、お前すぐ寄って行ってメーカー見たり年代見たりしてるし、こっそり弾いてんじゃねーか。好きなんだろ?」
「…まあ、嫌いじゃないけど」
「だから、好きなんだろ。…あのな、北斗」
「ん?」
「理屈は分かった。お前の言う通りだ。それなら問題ねえな。俺が楽しいとその分お前が楽しいってんなら、試合が始まるともっと楽しくなるぜ!俺がスゲー盛り上がるからな!」
「…」

ぐっと片手で拳を作って言うと、間を置いて、北斗が小さく笑いながら肘掛けに片肘立てて頬杖を付く。

「キスしたくなりそう」
「はあっ!? おまっ……何でそこに繋がるんだよ!したらぶん殴るからな!?」

身を乗り出して北斗の肩を一度拳で軽く叩いたが、そのタイミングで飲み物がやってきて、直前の会話を聞かれてねえかドギマギしながら慌ててその腕を引っ込めた。
北斗も悪い気しねえっていうなら、今日はサッカーの魅力を存分に教え込んでやろうと思ったが…。
試合が始まって暫くしちまえば、やっぱり俺が白熱してきて、仕舞いには北斗を最初座ってた座席に置いて一人最前列の手摺りを握ってめちゃくちゃ声を張り上げていた。
勿論仕事に影響ない加減を心得ちゃいるが、前半終わって座席に戻って飲み物を一気飲みする俺を、北斗がくすくす笑いながら隣で見ていた。
すっかりすっぽ抜けてた北斗の存在をそこで思い出し、後半こそは選手の紹介をしてやろうと思っていたが、やっぱり前半と似たような感じで途中から試合に夢中になっちまう。
試合が終わり、一頻り喜んでイスに座っていた北斗やその辺の人たちとハイタッチした後、はっとそれに気付いた。
色々説明してやろうと思ってたのに…!

「…。俺って、もしかしてすっげー馬鹿かもしんねえ…」
「集中力があるんだろう」

スタジアムから出る為に階段を降りながら拳にした右手を額に添えて、自己嫌悪に陥りながら呟くと、横で北斗が笑いながらそう言った。

 

 

 

夕飯には早すぎるし、かといって昼食は食べたし試合見ながらお茶も飲んでたし、微妙な夕方の時間帯だ。
男子寮とか、適当に何処かに寄ってもよかったが、結局腹はそれなりにふくれているし、人が多いこの時間帯に街中歩くのも危険な気がして、少し早いが来る時と同じようにタクシーでマンション前に送ってもらった。
スタジアム帰りにいくつかグッズや翔太やプロデューサーへの土産やらを買ったから、中身は軽いんだが大きな袋が三袋できちまって、北斗が部屋まで運ぶと言って聞かなかった。
「持てるからいいって」「いいから」の会話を二往復したところで馬鹿馬鹿しくなって、勝手にしろって話になった。
面倒くせえな。
こんなん、一人でも全然持てるに決まってんだろ。
そりゃ、別に持ちたきゃ持ってもいいけどよ…。
タクシーに待ってもらって、エレベーターに乗り込む。
片手に提げてた一つだけの紙袋を、人差し指一つでこれ見よがしに持ち上げ、残り二つを片手一つで持っている北斗に見せる。
中身といえば、タオルとかペンとか、そんなのばっかで重さがあるものなんてお菓子くらいなもんだが、それだって大したことねえ。

「この程度じゃねーか。見ろほら、北斗」
「それは分かるんだけど、どうも癖付いちゃってるみたいで持ちたくなるんだよな」
「ったく…。女相手にそんなことばっかやってるからだろ」
「嫉妬?」
「はあ!? ンなワケねーだろッ!呆れてんだよ!! やってろよ、勝手に!」

箱の中に誰も居ないのをいいことに北斗が持ち出してくるんで、声を張って言い返す。
馬鹿か!
乗った時は普通だった機嫌が、ちょっと不機嫌になってエレベーターを先に降り、ずかずか部屋のある廊下を歩く。
それなりの距離は一瞬空いたが、マンションの玄関を開けた所で普通に追いつかれ、北斗が手に持っていた荷物を差し出した。

「はい」
「おー。サンキュ」
「こちらこそ。今日は楽しかったよ」
「おうっ。俺もだぜ!チケット、マジでありがとな!」

二袋を受け取りながら、北斗に礼を言っとく。
マジで今日はすげー楽しかった。
喉痛めたりはしてねえつもりだが、久し振りに大声出したし、ケアだけはいつも以上にやっとかねーとな。
受け取った荷物なんて軽いもんだ。
…やっぱ持てたな、このくらい。
時間稼ぎにしたって、たかだか数分が限界だろうに、よくやる。
こんなくだらねえこと考えてる暇があったら、別に、普通に部屋上がればいいじゃねーか。
小さくため息を吐きながら袋を玄関端に置いて、振り返る。

「夕飯食べてけよ」

今の服に合わねーってのは分かってるんだが、また帰り道に身につけていたニット帽と眼鏡を外しながら振り返って聞く。
言うと、ふっと北斗が口元を綻ばせた。
その笑顔が妙に嬉しげで一瞬疑問が沸いたが、よく分からねえうちに澄ました調子で北斗が目を伏せ、軽く片手を上げる。

「ありがとう。嬉しいけど、タクシーを待たせてあるから」
「さっきも降りる時思ったが、断ってくりゃいいだろ。用事があるのか?」
「ないけど、寄らせてもらうと確実に居座る気がするし」
「何だよ、今更。用事がねえんじゃ泊まってってもいいぜ?」
「…」
「…?」

北斗が黙って、柔らかい目で真っ直ぐ俺を見詰める。
…何だ?
不思議に思っていると、ふい…と北斗が何かを考えるみたいに少し斜め上に視線を外して片手を顎に添えた。
そのまま数秒。

「………うん」

一人謎の納得をしてから、再び俺を見てウインクする。

「そこまで誘われたら、俺としては受けないとね。…じゃ、タクシー断ってくるから」
「…は? …――!? え、ちょ、ちょっ…っ。ちがっ、オイッ…!」

その反応に今更コイツが言ってることに気付いて、反射的にバッ…!と片手で出ていこうとする北斗の背中のアウターを掴んだ。
ちょっと待て!違うッ!
何か俺今スゲーこと言った気がするが、違う!!
普通に言っただけだ!普通に!!
俺に服掴まれた北斗が、冗談だと思ったのかそれでもそのまま空いてるドアから出ていこうとするもんだから、慌てて軽く握るだけだったそこから手を離し、ぐっと北斗の二の腕を掴んで引っ張り込む。
さすがによろけて一歩後退した北斗の横からもう片方の腕を前に出して、空いてたドアを全力でバン!と閉める。

「ぅオイ!!お前今絶対変に取っただろ!? 違ぇからな!? 普通にちょっとメシ食ったり泊まっていくならいきゃいいってだけで――」
「冬馬…。冬馬、ちょっと、ストップ。パーフェクト過ぎると逆にどう返していいか分からなくなるから…」
「はあっ!? 何が!」

妙に困ったような哀れむような顔で、冷静に北斗が俺の両肩にぽんと手を置く。
いや、意味分かんねえから!
こいつ日本語通じ――…。

「っ…!」

続けて文句を言おうとした矢先、不意にぐいっと北斗が俺の後ろ腰を引き寄せた。
足下も上半身も、それに遅れて北斗の肩にぶつかるみてえに密着する。
急接近した顔を睨み上げながら、すぐさまガッ…!と両手で後ろ腰にかかってる北斗の手首を掴んで引き剥がそうとしたが、力任せに引き剥がそうとしても剥がれない。
くっ…。

「テメ、このっ…、離せ!急に何すんだ!」
「引き留めてくれるなんて、可愛いなと思って」
「フツーに毎回言ってる言葉だろーがッ!何で今だけ特別感出してんだよ!!お前頭沸いて――…っ」

意地でも逃げだしてやる!と狭い腕の中で身動ぎして、一度後ろを振り返った途端、左耳のすぐ傍からChuと湿った音が体の中に入り込んできて、びくっと全身が跳ねた。
実際に耳にキスされたかどうかなんて分かんねえし、音だけだったのかもしれねえが、それでもぐわっと体中に一気に変な熱が走る。
顔が赤くなった気がして、同じことされたくねえし、肩を上げて思いっきりその場で目を閉じて首を真下に下げるみたいに俯く……が、大した抵抗にはならねえし、北斗は離れねえし…。

「っ…オイ北斗。マジで止め――」
「そう言えば、スタジアムで俺が今日のことを"デート"って言った時、珍しく流してたな」
「だーっ!耳元で囁いてんじゃねええッ!」
「絶対反論してくるだろうなと思ってたけど…。もしかして、冬馬もそう思って意識してくれてた?」
「うわ…っ」

俺の言葉ガン無視で、北斗の右手がするりと俺の左側の髪を撫でる。
髪の間に指が入って首を撫でていく感覚にぞくりと背中が震える。
反射的に瞑った目を怖々開けると、北斗が少しだけ背を屈めて俺を覗き込むように見ていた。
熱い真っ直ぐな瞳に、反論する気が失せていく。
ふわふわして、変な感じだ。
うまく頭が回らない。
くそ、さっきやられたやつで耳がまだぞわぞわする…。
…デート。
デートってのは、あれだろ? 好きな奴同士が二人で出かけることで……てことはやっぱり、今日のはデートだったのか?
いやでも、普通に出かけただけって感じだったぜ…?
いつもと違うことなんて、何も――。

「気になるんだけどな」
「っ…。し、知るかよ…。俺、そういうのしたことねーし……お前が勝手に決めりゃいいだろ!…大体、一緒にいられるんならな、名前なんてどうでもいいだろうが…っ」

混乱しながら何かを口走る。
自分が今何て返したかもよく分からなかったが、俺の返事を聞いて、北斗がふ…と微笑んだ。
馴れ馴れしく髪を撫でていた手の指が離れ、被っていた気障ったらしい帽子を俺の頭にぽんとに被せてから、顎に添えられる。
次の瞬間には、斜め上を向いていて北斗と目が合った。
げ…、と思う間もなく――。

「そういう正直で飾らないところが――」
「ちょ…、待てって!止めっ…今そういう気分じゃ…!」
「好きだよ」

 

 

 

数秒後…。
バンッ!と音を立ててドアを開け放ち、北斗をマンションの廊下へ突き飛ばす。

「下らねえことやってねえでさっさとタクシー断ってこいッ!ドライバーのおっさん無駄に待たせてんじゃねーよ!!」
「あ、断ってきていいんだ? このまま追い出されるかと思った」
「帰りたきゃ帰れッ!!」

苦笑してる北斗に言い放ち、開ける時と同じ勢いで思いっきりドアを閉める。
気分的に、そのまますぐ鍵を掛けた。
ドアを向いて仁王立ちしたまま、ぜーはーと乱れた息を整える。
…ああぁんのキス魔野郎ッ!!
油断も隙もねえ!
何で急にああいうことすんだよ!? 今日一日普通だったじゃねーか!
北斗のスイッチがよく分からねえ。俺何も変なことしてねえはずだぞ!?

「…。ああ~…」

くるりと反転して今閉めた玄関のドアに背を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込む。
顎を上げて目を閉じて、落ち着こうとしてみるけど、やっぱ体の中がふわふわしてる。
顔が熱いのが自分で分かる。最悪だ。
…くそ。
今日はキスなんてしたくなかった…。
一回されると、まるで変な魔法にでもかかったみたいに、こうしてごっそりと俺の中で何かが変わっちまう気がする。

「………ったく」

片手で、勝手に頭の上に乗せられた帽子を手に取る。
やたらとしっかりした生地でできている気障ったらしい帽子を、人差し指で軽く回しながらため息を吐いた。
…どうせすぐ戻ってくるが、視界から北斗がいなくなって、一時やっと落ち着く。
大体いつも一緒にいる奴だし、二人で居るのが嫌ってわけじゃねえんだが、まだまだ心臓がバクバクして疲れる。
北斗は、こういうの…きっと慣れてんだろうが…。
ぐ…と右手で胸の辺りの服を握る。

「…。俺、デート好きじゃねえかも…」

目を伏せて、はー…ともう一度息を吐いた。
自分に呆れて、小さく独り言つ。
数秒そのまま暴れる鼓動を落ち着かせ、それから「よし…!」と気合いを入れて立ち上がると、まあどうせ帰らねえだろうし、北斗が好きそうなメシでも作ってやるかと、いつものように部屋の奥へ向かった。



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たまには公にデートっぽいことができたらいいですね。
2019.4.4





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