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館の廊下にある大時計の鐘が拾弐回から壱回に減った時に、無理矢理にでも部屋に行けばよかった…。
思い切りの悪い自分に辟易して、小さく息を吐く。
入れた白湯はすっかり水になっている。
こんなに寝付きが悪いのは、久し振りだ。最近はなかった。
ここに招魂された当初は、時代の違いや無理矢理集められたメンバーが、酷いストレスだった。
当然の如く食欲不振と睡眠不足に陥り、気分が優れないことも多かったが、そんなことを言っていられない程度にこの仮初めの肉体は、館長と司書によって半ば強制的に最良の状態に整えられてしまう。
それが悪いわけじゃなし、必要なことだということも分かるが、生来と比べればなまじ短時間で肉体は回復してしまうから、精神的な疲労の回復が、肉体回復に追いつかない印象がある。
疲弊した精神だけが、最近は昂ぶっている気がする。
…まあ、いいさ。
静かな時間は嫌いじゃないんだ。
特に、図書館に来てから、静かな時間なんて探さないと無いのだから。
初めの頃は数人程度だったから気にならなかったけど、この所、招魂される人数が増えてきた。
知り合いに会えるのは嬉しいけれど、当然、会いたくない人もいる。
鏡花が来るなんて、僕は運が悪い。
でも、当然と言えば当然だ。彼の紡ぐ物語には力がある。そこは否定などできない。
…ここに居るのも飽きたし、部屋に戻るか。
部屋に戻ってもすぐに眠れないとなると、何か書かなきゃ病が発病して鬱になるだけなんだけど…。
そんなことをぼんやり考えていると、ふと背後の床が軋んだ。

「……秋声」
「ん?」

振り返る。
僕が今座っているソファ頭上にある必要最低限の明かりしか着けていなかったから、ここと、距離がある廊下側の明かりの間の闇の中から、すうと浮き上がるように、声の主が姿を現す。
寝間着なのだろう。浴衣に淡い紫の肩掛けを羽織り、島崎が床を滑るような独特の歩き方で明かりの下へ入って来る。
僕は度々眠れないこんな日もあるが、夜中に島崎を見かける機会は今までなかった。
日中もいつもどこかふわふわとしていて眠たげな様子にも見えるし、てっきり夜は早く寝る方かと勝手に思っていたので、意外なものを感じる。

「やあ、島崎。こんな時間に君がふらついてるなんて、珍しいな。…どうしたんだ? 眠れないの?」
「うん…。今夜は、上手に眠れないから…、いっそ起きていようと思って」
「…寝ない気?」
「何でだろうね…。朔だからかな?」

他人事のように、ぼんやりと島崎が言う。
確かに、今夜は月はないが、そんなものは口実だろう。
いっそ起きていようなんて、簡単に口走るところが呆れる。
バーに行って酒を飲んだり誰かと語らったりするには、夜は長ければ長い程良い。
だが、酒もなく本当に独りで夜を耐え抜くことは、至難の業のはずだ。色々と良くないことを考えることが多い。
島崎の悪い癖だ。
自分を、まるで他人のように外側から眺めて、実の他人程大切にしない。

「お茶を飲みに来たの?」
「…温まるかな?」
「魔法瓶にまだ熱い紅茶があるけど、余計に目が覚めるから、止めた方が良いんじゃないか?」
「別にいいよ…。起きているもの…」
「少しでも眠れる可能性を取っておいた方が良いよ」
「…。秋声は、何を飲んでいるの?」
「白湯。…と言うか、もう水だけど。逆に体が冷えたみたいだ」

淡々と告げると、島崎は「じゃあ、僕も…」と飲み物一式が揃っている給仕台へと向かっていった。
紅茶のカップに透明な湯を湛えて持って来ると、立ったまま軽く首を傾げる。

「秋声は、何をしているの? 独り?」
「そうだよ。何をしているかと問われれば、寝る前の休憩ってところかな。君と違って、眠らないつもりはないよ。ただ、眠れないのさ」
「鏡花さんは?」
「鏡花?」
「一緒じゃないんだね」
「どうしていつも鏡花と一緒にいるイメージなんだよ…。いるわけないだろう。こんな夜中に、あいつとなんて」
「夜中だからだよ」
「はあ?」
「イメージ、なのかな…。…だとしたら、実際に一緒にいる時間が多いからだと思うけど」
「…」

途中少しムッとしてみても、島崎には通じない。
どこ吹く風で微妙にずれた感覚で答える彼に肩透かしを喰らって、早速疲労を覚える。
これ見よがしにため息を吐いてやった僕を、島崎がじっと見詰めていた。

「他に誰もいないなら、一緒にいてもいい?」
「ん? ああ…。別にいいけど」

断る理由もないので承諾する。
一個人として考えれば、島崎は物静かだし、喧しい輩ではないから、傍に居てもさして気分を害することがないことは承知している。
親しくない仲でもない……と、思う。たぶん。
とはいえ、てっきりテーブルを挟んで正面に来るかと思いきや、僕の座るソファの背を周り、僕の隣へティカップを置いた時には瞬いた。
そして、想定外の近さに然も当然という顔で座る。
殆ど真横に座る島崎の向こう側には、当然長椅子として十分な空間があり、密着する島崎には一種の奇抜さからくる空怖ろしさすら感じる。
…。

「…。島崎」
「何?」
「近い」
「うん…」

会話が一旦終わって、島崎が湯気を立てる透明な液体へと口付ける。
まるで砂糖水を啜る蝶のような音の無さは、流石だ。
…て、いやいや。
そんな様子をここで描写する必要はないし、会話を終わらせるつもりはない。僕は再び口を開く。

「もう少し離れてくれる?」
「…」

言うと、ちらりと僕を見てから、す…と島崎が素直に身を引いて、カップをテーブルへ置いた。
だが、高々伍陸センチ離れたところで何になろう。
まるで暖を取る猫の子の様に、いっそ無粋とも言える程に人の傍に来るのもまた、島崎の悪い癖だ。

「…君さ、前々から言おうと思っていたけど、人との距離の取り方を、少し考えた方がいいよ」
「距離…?」
「近すぎるんだよ。そっちに余裕があるんだから、もう少し離れて座るだろ、普通は」

どう考えても、島崎の座る位置はおかしい。
善意の助言のつもりで片手で島崎の向こうの空間を示しながら言うと、僕の手の示す先を、やはり他人事のように一度眺めてから、彼は僕を見上げた。
濁っているような澄み過ぎているような瞳で、不思議そうに瞬いて尋ねる。

「僕が近いと、邪魔になるってこと?」
「いや…。邪魔とまではいかないけどさ…」
「なら、いいんじゃないかな…。秋声と二人だけでいられるのは、とても久し振りだから。今は、なるべく近くにいたいんだ」
「は…。何、その言葉。面白いね。まるで君が僕のことを好きみたいに聞こえる」
「…? 僕は、ずっと前から、秋声が好きだよ。君の視点と思慮と描写と、文字も好きなんだ。…生きている頃にも、言ったと思うけど」
「…」
「地味だけど」
「い……ま、最後の付け加える必要あった?」

言葉遊びのつもりが、真顔で返されて虚を突かれる。
あまりに流暢に人の瞳を見て発するものだから、驚く間も赤面する間もない。呆けるしかなかった。
反応鈍く、しかしそれでも何とか言い返すことができた。
ある種の冗談めいていた。
そして、今の今まで忘れていたけれど、確かに、生前その様なことを言われたことがあるような気がした。
島崎は物静かで人当たりが悪いわけじゃないけど、常に他者と距離を取っているような奴だった。
そのくせ赤裸々というか勇敢というか、文字を通して誰かに自分の本性を知ってもらうこと、そして、その本性を知った上で接してくれる誰か探しに、特別熱心だったように思う。
寧ろ、島崎にとってはその"誰か探し"の道具として、"小説"があったのかもしれない。
僕はそんな彼を、確か、特別好きでも嫌いでもなかった。

「…」

片手を、こめかみに添える。
だから、そう……確か、言われた時は、意外に思ったものだった…。
僕の隣で、島崎が周囲をゆったりと見回す。

「誰も居ないから、今は、隣に座って話をしても良いかなと思って…」
「別に…話くらい、いつでもすれば良いだろ?」
「ダメだよ。鏡花さんや、花袋たちが来るもの…」
「…?? ごめん。言っている意味がよく分からないんだけど」
「…そう?」

再び不思議そうに僕を見上げてから、島崎が何かを少しだけ思案する。
それから、手持ちぶさたなのか、徐に指先でテーブルの上のカップの縁をゆったりと撫でた。

「秋声は、鏡花さんや騒がしい場所や、大勢の人の中にいることがが苦手なのを、僕は知ってるもの…。僕が君と話していると、鏡花さんが来るし…」
「鏡花が? 偶然だろ」
「偶然だとしたら、確率の高い偶然になるよ。一定以上確率の高い偶然なのであれば、それはもう何らかの要因の一つで、必然だから…」

主張する島崎。
そこは譲れないらしい。そんなことはないと思うが。
ただ、鏡花は僕を見かけると、確かに寄ってくることが多い。
他者と話している間でもお構いなしで、突然会話に割り込み、油を売るなとか、いつ先生のところに来るのか、等と、今も紅葉先生の傍に常にいるよう求めてくる。
僕としては、もう一度死んだのだから、今も引き続き派閥だ流派だなんてこと気にしなくていいと思っているし、寧ろ生前に交流を持てなかった人や死後に活躍した人の話を聞きたい。
それが、鏡花にはまるで派閥から離れて行く裏切りの様に見えているのだろう。自分の価値観を押しつけないでもらいたいものだ。
…いや、待てよ。
ふと片手を口元に添えて考える。
でも確かに、僕が一人でいる時に鏡花が横を通っても、がみがみ言われることはないな…。
鏡花は、僕が独りでいることは良くて、他の派の奴と交流していることが気にくわないのか…?
何だよそれ。
高が兄弟子に、どうしてそこまでされなきゃならないんだ。

「花袋は…。…うん。僕は、花袋の明るいところが好きだけど、騒がしいか静かかと言われれば、前者だから…。君みたいに苦手な人も、多いみたい…」
「ああ…うん。悪いけど、今の田山はちょっと煩わしい」

鏡花から思考を飛ばし、頭の中にぽんと田山の姿が現れる。
確かに、田山の才と社交性は認める。
しかし、それが僕自身にとって好意的か否かは別の話だ。
彼はうるさいし、常に裏表無く本心に忠実な性で、何気ない会話や議論の中でこちらは不意打ちの傷を負うことが多々あった。
元々島崎が言うように、彼はその場にいるだけで周囲を前向きにさせるような独特の雰囲気を持っている。
生前の記憶にはもう少し貫禄ある大らかさがあったけれど、今は若い姿をしているせいか、余計に纏う空気が騒がしい気がする。
致命的だったのは、いつだったか田山が書いた旅行記を返そうと部屋のドアを開けた時に、いきなり枕が顔面に飛んできたという出来事だ。
島崎や国木田と枕投げをしていたらしいけど、「していた」というよりは、「勝手に始めた田山に二人が巻き込まれた」という様子だった。
ああ…。コイツは苦手だ…、と思った。
旅行記は目を瞑れば情景が浮かぶくらい素晴らしかった分、尚更だったな…。
良い人格が、良い物語を生み出すとは限らない。
また、良い人格が、個人にとって好意的とも限らない。
要は、人は好き好き、といったところだ。
片手の指先を額に添えて、はあ…とため息を吐く。

「…つまり、僕の苦手な鏡花や花袋が寄ってくる心配がないから、今は僕の傍に居てもいいだろうって事?」
「そうだよ。今だったら、秋声の邪魔にはならないと思うから」
「邪魔じゃないってば。…元々君一人だったら、僕だって一緒にいるのが嫌なわけじゃないよ」
「知ってる。…だから、いいかなって、思って…」

島崎が僕の右肩とソファとの間に鼻先を寄せるように寄りかかってくる。
ちゃんと理由があるっていうのなら、この距離感は暫く治りそうにないな…。
…まあいいけどさ。一応島崎なりに相手を選んでいるのであれば。
目を伏せるその呼吸が深くゆったりとしており、その様子は微睡みに似ていた。
何だ。やっぱり眠たいんじゃないか。
人と距離を置くくせに、知っている相手だと人懐こい奴だな。心配になってくる。
第一、人目を忍んで会うなんて、これじゃあまるで逢瀬みたいじゃないか。
約束なんかしていない、偶然のはずなのに。
…。
…偶然?

「……島崎」

何となく嫌な予感がして、ぽつ…と眠たげな島崎に声をかけてみる。
日頃伏せ目がちの長い睫の下で、億劫そうにやはり猫のような金色の瞳が僅かに開く。

「何…?」
「さっき眠れないみたいなことを言ってたけど…。もしかして、僕を探してたとか言うんじゃないよね」
「…」
「…どうして黙るのさ」
「…。秋声、部屋にいなかったから…」

それを聞いて、がくりと脱力する。
約束などしていないが、この状況は、まるっきり偶然じゃないわけだ。
僕の部屋まで来たのか。
少し待っていたのかもしれないし、中庭やバー辺りに探しに行ったのかもしれない。
莫迦だな。嘸や無駄な時間を費やしただろう。

「どうして突然僕なんだよ…。何か話したいことがあるなら、普通に声をかけてくれれば聞くよ」
「…今夜はね――」

するりと僕の片腕に腕を絡ませ、僕の指先へ手慰みのように触れる。
弓引くはずの指は、どうしてか小さく細く美しい。

「別々の本だけど、珍しく花袋も国木田も、二人とも潜書してるから……秋声に会いたいなって思って」
「……」

島崎の両手の指が、僕の親指を包むように撫でる。
若々しい容貌のせいもあり、それらは酷く妖艶に見えた。
…が、ここで流される程、僕の精神は脆くはないし若くもないし、第一彼に欲情など感じない。彼もそうだろう。
僕らの間にあるのは、ただの好意だ。
しかし、これに流される輩は決して少なくはないのだろう。
胸の昂ぶりよりは、心からの呆れと不安を感じる。

「君のそれ、勘違いされることが多いだろう。まるで遊女の誘いのようだよ」
「遊女? ……僕?」
「そう」
「ふーん…。…何でだろう。別に美形でもないし、華やかな服も着てないし…そんなつもりは無いんだけどな。…でも、秋声がしたいなら、僕は別に構わないよ」
「それ、止めなよ」

耐えかねて、島崎を睨む。
自分を安易に貢ぐ島崎自身にも腹が立ったし、彼に、僕がそんなことで悦ぶのだと思われているのも嫌だった。
島崎は不思議そうな顔で、不機嫌露わな僕を覗き込むように僅かに長椅子から背を浮かせた。

「…怒ってるの?」
「怒ってるよ」
「えっと…。…ごめんね?」
「理由なんて解ってないくせに、謝るんだな」
「だって、僕は君に嫌われたくないもの。特に今夜みたいに幸運な夜には。…それに、君を不快にさせたのなら、謝る気持ちがあることは本当だよ」
「…」
「けど、君の言うとおり、理由は…よく分からないや。秋声が嬉しいなら僕も嬉しいし……良いことだと思うけど」
「従属的過ぎるし押しつけがましい。僕は、そういった君の側面が好きじゃない」
「…? "嫌いだよ"って言った方が、秋声は嬉しいってこと?」
「ちーがーう!」

相変わらず不思議そうな島崎に、ほとほと疲れてきた。
こんな夜中に何をやっているんだろう、僕たちは…。
眠れないはずだったけど、これ以上妙なことになる前に、彼をさっさと部屋に押し込んで、ベッドに寝せければいけない気がしてきた。眠そうだし。
たぶん、僕が「寝る」と言い出さなければ、島崎はずっとここにいる気だろう。
それが分かるから、すっくと僕は立ち上がった。

「部屋へ戻るの?」
「ああ。僕は部屋に戻って寝る」
「…一緒に寝ていい?」

長椅子に座ったままの島崎が、ぼんやりと尋ねる。
いつもの単調な発音だけど、その声と瞳には乞うようなものがあった。
彼の発言には、深読みは不要だろう。
島崎は自分の近しい人を常に許容するから、変に歪曲して都合の良いように受け取って、甘える輩もいるだろう。
だが、僕はそうじゃない。
形ばかりの慰め合いや一方的な捌け口を、友人である君に求めない。
僕が君に求めるものは、君という人格のあるがまま、君の思想と肉体が、ただただ自由であることだけだ。
僕はそうだと解ってもらいたい気持ちもあって、ぴっと人差し指を立てて言い放つ。

「良いけど、君は長椅子だからな!」

島崎は眠そうに目を擦りながらも、ふらふらと僕に付いて来た。

 

 

 

普通なら、客人に寝台を譲るところだろう。
だが、僕はしないぞ。島崎の方が小柄だし、第一この部屋は僕の部屋なんだから。
色々と自分が礼儀無しではない理由を頭の中で羅列しながらも、枕と掛け布団を長椅子に置いて整える。

「寝る準備が整ったなら、さっさと寝る。ほら、横になって」

島崎の片腕を引っ張り、枕を添えた長椅子に横たえて布団を掛ける。
枕の上に広がる癖毛が柔らかそうだ。
思わず、幼子にそうするようにぽんと最後に前髪を叩くと、やはり羽毛のように柔くて軽い。
叩かれた島崎は、顎を上げて僕を見上げる。

「もう少し、君と話したいような気がする」
「君がそう思っても、僕は眠いんだ。もう君と会話する気はないよ」
「…そう」

きっぱりと断ると、残念そうにしつつも汐らしく掛け布団を首まで持ち上げた。
僕も自分の寝台へ横たわる。
枕がないのは寝心地が悪いから、長椅子にあったクッションを枕代わりに頭の下へ置いた。
掛け布団代わりは、自分の外套だ。

「おやすみ」
「おはすみ。……ねえ。眠ったら、明日になっちゃうね」

明かりを消そうとしたところで、島崎がぽつりとそんな当然過ぎることを呟いた。
ため息を吐いて、言ってやる。

「今度僕と話をしたいと思ったら、約束をすればいいよ。君、今夜は僕を見つけるまでにどの程度の時間をかけたの? 無駄だろ、そんなの。約束をすれば、僕は何処にも行かないし、君のために時間を作れる。話も出来る。僕は田山と国木田がいる時でも構わないけど、君が気にするっていうのなら、また二人がいない時があると分かった時に声をかけてくれればいいよ」
「…」
「あと、言っておくけど鏡花はどちらかと言えば早寝だから、夜はまず間違いなく僕の所になんか来ないよ」
「そう…。…分かったよ」

聞こえるか聞こえないかの返事が耳をかすめたので、明かりを消した。
部屋が闇に包まれる。
視覚が塞がれた中で、それでも部屋の中にある他者の気配が、冴え冴えとした夜の雰囲気をいつも以上に温めていた。
元々夜が遅いこともあり、俺自身うとうとと微睡んでいく。
眠れない夜だったはずが、今はその影もない。
このまま眠りの中へ落ちていこうとする矢先に、ギィ…と間近で床が鳴った。

「…ねえ、秋声」
「うわっ!?」

島崎の声が近くで聞こえ、驚いて上半身を飛び起こす。
暗がりの中で見当を付けた位置を凝視すると、長椅子で横たわっていたはずの島崎が、寝台の傍まで来ていた。
両手に、それぞれ枕と掛け布団をやる気無く抓んでいた。布団などは引きずっているようだ。誰の布団だと思ってるんだ。
幽霊のような覇気の無い登場に、心臓がばくばくと音を立てる。

「横で寝てもいい?」
「来てから言う言葉じゃないっ!」

慌てて明かりを細く着ける。
ここまでされたら、流石に折れるしかなかった。
無論、彼相手に枕を交わす気など毛頭無い。先述したが、それらの類だと思われるのが嫌だ。
だがまあ、隣寝くらいなら、逆に全力で拒否する理由があることも可笑しいように思われた。
嫌な顔をしながら奥へ詰めてやると、島崎は枕を置き、引きずってきた掛け布団を丁寧に僕に掛けた後で、自分も入り込んできた。
喜怒哀楽が見えにくい奴だけど、今は不思議と機嫌が良いことが分かる。
素直に喜ばれれば、勿論僕とて不快ではない。呆れはするけど。
…再び、明かりを消す。
さっき感じた他者の温かさが、より生々しくはっきりと隣接していて、今度は逆に落ち着かない。

「まったく…。君は長椅子だって言ったのに」
「うん…。ありがとう、秋声」
「はあ…。…で? これで満足?」
「うん」
「……普通に腕と脚を絡めないでくれる?」

布団の中で自然と僕の片腕を取り、遊ぶように脚先を擦り寄せてくる島崎の四肢を、ぐったりとしながら剥がしていく。
これが彼の本性なのか、それとも過去に誰かから求められてそれを良しとしてしまった経験によるものなのかは知らないが、何にせよこれでは、勘違いする輩の方を全面的に理性の無い愚か者だと責められはしないだろう。
何だか、腹が立ってきた。
誰だ、島崎にこんな行為を推奨した奴、若しくは、自発的な彼のそれに目に見えて悦んで見せた奴は。
四肢を剥がされた島崎は反発するでもなく、素直に普通に横たわってくれた。
僕が密着を求めていないことを察したためだろう。
途端に今度は、両足を折り、僕に接しないよう心がけているようだった。

「あのね…。改めて言っておくけど、君の距離感は本当、どうかしているからね」
「そうかな?」
「そうだよ」
「…誰だって皆、自分以外はどうかしていると思うけど」
「ああそう。大層な意見だね。…と言うことは、君からすれば、僕もどうかしているわけだ」

暗がりの中で、そんな会話をする。
少しの間があり、やがて、島崎が答えた。

「…そうだね。僕からすれば、秋声は……特にどうかしているよ」
「はあ? どうして?」

不愉快露わに聞き返す。
表情は見なくても、声の調子で僕のそれは伝わっただろう。
君には言われたくない、というのが本音だ。
しかし、それで臆する島崎ではない。
彼は、ただただ淡々と、静かに僕の不愉快に返す。

「だって、他の人と違って、特別難しいんだ。君は何も受け取ってくれないから、僕は、君が何をすれば喜んでくれるのか解らない。…上手くいかないんだ」
「…生前の賞金の事を言ってる?」
「あれは、邪魔した連中のせいだよ。そういうのも含めて、僕は君に何かをあげられた覚えがないんだもの…」

声には虚しさのようなものが滲んでいた。
今夜何度目かになるが、呆れ果てる。
仰向けだった体を返し、元々僕側を向いて横たわっていた島崎の方を向く。
この距離では、流石に相手の表情も見えた。

「島崎。僕はね、嫌いな奴や何とも思っていない程度の奴を、自分の寝台に上げて隣で寝かせたりなんて、絶対にしない。横に並べればいいだけの布団なんかとは違うんだから」
「…」
「僕は生来、天邪鬼なんだ。プライドが高くてね。長い間文字は僕の味方でいてくれるけど、文字以上に付き合いの長いはずのこの口はそうはいかない。島崎は、よく知ってるだろ?」
「…うん」
「僕がここに来てから、寝台に上げた奴は君が初めてだよ、――"春樹君"」

ぴくっ、と島崎がその単語に反応する。
驚いたように(彼にしては、という話だ)、双眸を瞬かせる。

「……覚えてるの?」
「少しだけだけど、今浮かんできた。…君には、その事実で十分なんじゃないの?」
「…。うん…」

視線を下げて、島崎は肯定した。
伏せがちの瞳が柔らかい。どうやら納得してくれたらしい。
ああ、全く以て面倒臭い奴だ。
それでも煩わしくはないのだから、僕は彼を、やはり嫌いではないのだろう。
僕に好意を示そうと常に様子を覗っているとしたら、それは健気でいじらしいような気もするけれど、逆に言えば、常にそんなことを考えたり観察したりしながら生活している彼は、意識無意識を別にしても、日々疲れ果てることだろう。
いっそ痛々しい。

「さあ、もういい加減休もう。さっきから、君は眠そうだよ」

仰向きに体を返して、僕も寝に入る。
一度目を伏せたところで、ふと布団の中で、島崎が僕の人差し指を緩く握った。

「…おやすみなさい」
「…。おやすみ」

横からの小さな声に、目を伏せたまま敢えて投げやりに返す。
こういうところがな…。
胸中でため息を吐く。
仕方ない。諦めよう。
これが彼の天性なのだろう。
彼の天性を僕にどうにかできるなんて、自惚れてはいない。
…しかし、自分で呆れる程、島崎に対する描写は筆に尽きない。
嫌な兆候だ。
先述した通り、僕は言葉が上手く扱えない。
その代わり、文字が僕の味方だ。字数は、意識しない僕の気持ちを明確に表に出してくる。
生前は、互いに何となく気になる存在ではあったが、僕らの間にはとても整った距離感があったはずなのに。
ここに来て、新たに知ることが愉しいなんて、まるで心を蝕む病の始まりだ。
もう、島崎に対する細小な描写は控えるべきだろう。
「彼は眠りについた。」……これで十分だ。これ以上は書かないことにする。

数分も経たないうちに、隣から静かな寝息が聞こえてきた。
その寝息は僕にとっての睡眠剤となり、その晩は珍しく床に入ってからの寝付き良かった――…と好意的に取って表現してもいいかもしれないが、こんな時間なのだから、単に僕自身の中の睡魔に襲われただけだったかもしれない。


丑三つ時の蜻蛉




「とーそーん!たっだいまーっ!」
「ああ…。お帰り、花袋」
「聞いてくれ!俺、今回の潜書でMVPだったんだぜー。へっへー、どーだ。凄いだろ?」
「へえ…そう。良かったね。…国木田も、お帰り」
「おう、ただいま。…て、おい花袋。何でお前食堂に来てんだよ。お前が一番手でベッド使う順番になってるらしいじゃねーか。さっさと行ってこい。後が支えるぞ。…あーあ。腹減ったぁ。島崎、何食ってんだ? 美味そうだな」
「んん~? お、本当だ。いいモン食ってんじゃん」
「オムレツだよ。チーズを入れてもらったんだ…。中で溶けて美味しいから」
「一口くれよ。あーん」
「いいよ」
「良くない。だからお前は補修だっつーの!あーん、じゃねえ!! ほら、島崎も。止ーめーろ」

今朝の食堂は、朝っぱらから騒がしい。
夜間の潜書組が戻って来たからだ。
食堂の片隅で、他人事のようにその騒ぎに背を向け、箸で摘まんだ魚の切り身を口に運び、咀嚼する。
あちこちで何となく親しい連中が集うけど、その中でも特別うるさい一団が、あの三人……というか、田山だ。
国木田も島崎も、情熱家であるから火が着くとそれなりに熱いが、単体なら静かな方なのに、あいつがいると途端に賑やかになる。
面倒臭い奴は多いけど、その中でもうるさい奴は大体面子が決まっている。
太宰、織田、田山辺りは筆頭だ。近寄りたくない。

「…」

…と、そこではたと気付く。
なるほど。
確かに、僕は"そう"思うらしい。
どうやら島崎得意の人間観察は、今も形ばかりではないようだ。
自分の観察は下手なくせに、こんな疲れることばかりよくやる…。
もう少しゆっくりするつもりだったけど、もうこの場にいたくなくなったから、中庭にでも行こう。
飲みかけの湯飲みをそのままに、席を立つ。

「…んむ?」

食堂の出入口へ向かう途中、傍を通った僕に気付いた田山が、丁度オムレツを呑み込んだらしい口を開き、テーブル席に座ったまま片手を挙げて声をかける。

「よっ、オハヨ、秋声!何だか久し振りだな。最近会わなかったんじゃないか?」
「おはよう。…まあ、そうかもね」
「おはよう、徳田。もう朝食食べ終わったのか? 早いな。良いことだ」
「……おはよう」

国木田と島崎が、田山に続いて僕へ声をかける。
平然としている。なかなかの狸だ。

「おはよう、国木田、島崎。…相変わらず、君たちは仲が良いな」

そんな一言を残して、食堂を出た。
部屋へ戻ろうと、階段を登る。
一瞬揺れ動いた瞳を見逃すくらい、僕が鈍感なら良かった。
食堂を離れ、静かになるにつれて、ちくちくと胸が痛み出す。
…なら、言わなきゃ良かっただろうが。
それがどんなに鋭利に島崎の腹に刺さるか、解っているだろう。
どうして僕はこうなんだ。
自分で自分を罵る。ままならない己が憎々しい。
全て自業自得だ。
でも、これで――…。

「――…」

階段を登る足を止め、右手を開いて見下ろす。
昨晩握られ続けた人差し指に、まだ熱が残っている気がした。
こんなことでしか、気を惹けない。何て幼稚なのだろう。
…間を置いて、ハ…と独り自虐的に嗤う。

ああ。本当に。
僕は、嫌な奴だ――。

 



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秋声さんと藤村さんの親友組も好きです。
お互いバランスがいいというか安定しているというかラフでいられる感じというか。
あとアニメのOPの影響。
2021.3.30






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