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「平穏無事な本に潜書しちゃあ、駄目なもんかね?」

談話室。
まあまあ悪くない家具の趣味。柔らかい朝餉後の日差し。
数多ある空席の中、何故か向かいの席に座った牧水が、大欠伸をしながら言う。
嘘か真か確かめようのない外の出来事を綴った今日の新聞の頁を捲り、聞き流していれば諦めるかと思いきや、向かいの男は態々膝を打って呼びかけてくる。

「な、白秋」
「申し訳ないけれど、知らないね」

は…と短く息を吐きながら文字を追う。
潜書とは、僕らにとって戦場に行くようなもので、今まで何冊もの本へ潜ってはきたが平穏無事な本に潜ろうだなんて奇天烈な発想は抱いたことがない。
そもそも、浸食する本を食い止めるために潜るのであって、問題のない本に潜ってどうするというのか。
相変わらずの奇抜な視点だけは、褒めるべきかもしれないけれど、相手にすべきかはまた別の話だ。

「誰も確かめたことがないのか? そんなら、俺がいっちょネコに聞いてくるかな」
「一応、義理で聞いてあげるけど、平穏無事な本に潜ってどうする気なんだい?」
「酒を飲む!」

布擦れの音。腕を組んだのだろう。
きっぱりと言い切る牧水の顔は、見る価値もないというか見なくても鮮明に想像が付くから余計に見る労力が惜しい。
顔を上げず、新聞の次の頁をさらりと捲る。

「妙な理窟だね。酒ならバーで飲めるだろう。バーが嫌なら部屋で飲むがいいだろうよ。どこでも飲めるだろうに…。わざわざ潜書とか言い出す理由を聞いてあげてもまあいいけれど」
「おう、聞いてくれ。実は、ある銘酒を手に入れたんだ」
「ふうん」
「これだけで飲んでもいいだろう。だが、この銘酒の名が『春容(しゅんよう)』という」
「……うん。いい銘だ」

『春容』という美しい響きに誘われ、ようやく顔を上げる。
視界にちらちら入って来ていた牧水の顔を改めて見、その瞳を見詰めて頷いてから、新聞を折りたたんだ。
そうだろう、という顔で彼も頷き、再び膝に手を置いて身を乗り出す。
僕は酒に詳しくないが、万物において名は体を表す。
具現化はできずとも、少なくともその理想とするところを示す。
春の名を付けられたその酒を僕は知らないが、察するに柔らかい飲み口なのであろうことは予想できる。

「これはもう、春景色の中で飲まねば酒も可哀想だろ?」
「ふむ…。まあ、そうかもね」

話が見えてきて、ふと広い窓を見上げる。
昨夜の晩から降り続く雪は止み、今朝は美しく輝いていた。
雪は美しい。春夏秋冬それぞれにそれぞれの美しさがあるが、冬の美の代表格だ。
文明の進歩というやつで館内は暖かいが、どうにも四季の美とは距離が出るものだ。
眺めるだけでしか感じられない四季は寂しさもあるが、雪は眺めるだけでも良いものだ。
窓の外は美しい冬景色。
…で、君の懐には季節外れの春の酒、というわけか。

「気持ちは分かるけど、生憎、今は冬だね」
「春まで待てというのは酷だ。そこで、平穏無事な春の美しい本に潜って酒を飲みたい」
「具体的には?」
「おめえさんの詩集に潜らせてくれ」
「お断りだね。どうしてそんな、自分の私室を貸すような真似をしなくちゃならないのさ。自分の詩集に潜ってくればいいじゃないか」
「俺の本に俺が潜ったところで、楽しくないだろう?」
「楽しい楽しくない程度の理由なら、尚更お断りかな。僕の本だとこの僕が不愉快だよ。…ああ。そう言えば、この間何人かが『桜の森の満開の下』に――」
「ストップストップ。間違ってもあの本は花見に適さないって、誰だって分かるだろ? それに、小説ってのはどーにも長ったらしくてこう……むず痒いっつーか、ぐずぐずとややこしくてな~」

両手を前に出して、牧水が僕を制する。
半眼になり、再び小さくため息を吐いた。

「悪いけれど、僕の詩は君の為に認めたものではないのだよ。それに――」
「うん?」
「――。いや、何でもない」

万能型の僕の句の中で、春の詩歌が一際秀でているかというとそういうわけでもない。
春の句が得意な者は他にいる。
それに、僕の春の句の中で最も有名であろうそれは、夕暮れ時を詠んだものだ。
僕に春は似合わない。
それは、自分で識っている。
牧水の求めるものではなかろう。
無論、春景色を詠んだものもあるけれど、影響力として専ら大きいものが表に現れてくるに違いない。
詩集は、小説と違い一冊の中に複数の作品を詰め込んであるものだ。
もし潜ったとして、中の世界の土台となるそれは、その詩集の中で最も世間に認知されているものということになるだろう。
僕の春の句は、確かに有名であるかも知れない。
しかし、時間が悪い。寂しさが表立つ。
直感だが、僕の詩集に潜ったとして、上手い具合に彼の望む春景色を引っ張り出せはしないだろう。
そのことを教えてやるが、牧水はからりとしていた。

「だから、おめえさんにも一緒に来て欲しいんだよ。詠み手であるおめえさんが来れば、求める空間を生み出せると思わないか?」
「それこそ自分の本へ潜っておいで。そもそも、ネコが許さないと思うね。そんなことを許したら、僕らはみんな自分の世界に引き籠もるだろうから」
「そうか? 一時は良くても、俺はそんなのすぐに飽きると思うがなあ。自分の世界は勝手知ったるで楽しいし何より楽だろうが、だからこそ、詰まらねえもんさ」

 

 

 

「――自分の本に潜りたい? ふむ。別に構わんが?」

館長代理のデスクの上に鎮座するネコが、尾を揺らしながら快諾する。
事情を説明すると、僕の予想に反した反応が返ってきて、呆れてやろうと思っていたがそれもできなくなった。
牧水が、ネコの顎下を指先で撫でる。

「おー。話が分かるなあ、ネコ。よ~しよしよし」
「む…。気安く我輩の顎下を撫でないでもらおうか」
「ふむ…。どうにも解せないね。任務でもなくそんなことをしていいのかい?」

納得がいかなくて、腕を組んで右手の指先を顎に添え、頭を上げて牧水に顎を預けているネコを見下ろす。
ネコはどこか心地よさそうな不愉快そうな微妙な顔で牧水に顎を許したまま、瞳を僕へ向けた。

「自分の本を巡視したいということだろう? 何か違和感があったり異常があったら、すぐに知らせてもらおう」

なるほど。見回りだと思っているわけか。

「丁度、最近焦臭い本があるのでな。『近代詩歌』という全集のうちの一冊だ。確かお前達の詩歌も収められているから、巡視隊としては打って付けだ」
「それは、侵蝕者が僕らの作品を収めた本にいるということかい?」
「いいや。まだこの本は侵蝕を受けていにゃい。…が、似たような書が被害を受けているようでな。見回ってくれればこちらも有難いというわけだ」

今度はぽふぽふと牧水に頭を一定間隔で軽く叩かれながら、やはりまんざらでもない様子でネコが言う。
…利害の一致というわけか。
まあ、それならいいんじゃないかな。
叩いていたネコの頭を今度は指先で擽りながら、牧水が尋ねる。

「そんでなぁ、ネコ。いっこお願いがあるんだが」
「何だ?」
「コレを持って潜りたいのよ。いいか?」

片手で持っていた瓶の首を持ち上げ、牧水が笑顔でネコに酒を見せる。
一瞬の間の後、はあぁ…とネコはため息を吐いた。
気怠げに尾を揺らす。

「…酒盛りする気か?」
「仕事はちゃんとやるからさ。今回だけだ。いいだろ?」
「…。仕方がにゃい。まあ、いいだろう」
「おおーっ。嬉しいねえ~」
「いいのかい? そんなことを許したら、この後大変だよ」

驚いたのは僕の方だ。
てっきり、却下されるとばかり思っていた。
そもそもは本の中にものを持ち込めるのかという話だが、身につけている衣類も小物も同じ"物体"には変わりないのだから、恐らく可能か否かでいったら可能なのであろう、ということは想像が付く。
しかし、それを許可するか否か、はまた別の話だ。
どうにも甘く青臭い感のある館長や司書ならあるいは気の迷いで許すかもしれないが、この小さな館長代理はそういったことに最も抵抗があるのではないかと思っていた。
ネコは僕を一瞥し、その碧い目を伏せる。

「今回だけだ。若山には、貸しがあるからな」
「…貸し?」
「ああ…。北原は知らにゃいか。先日、侵蝕が確認された本が発見されてな。緊急性が高かったが、お前を始め大部分が潜書中だったので、階級的には多少困難かと思ったのだが、若山始め4人に潜ってもらったのだ」
「いやあ、頼まれ事はしておくもんだなあ~」

ネコから手を離し、その手で後ろ頭を掻いてぼんやりと牧水が笑う。
初耳だ。
緊急性が高いということは侵蝕が速いということで、つまりは強敵だったということだ。
メンバーにもよるだろうが、僕より階級が低い男だから、それなりの危険があっただろう。
案の定、ネコが牧水に問う。

「遅くにゃったが、怪我はもういいようだな」
「お、心配してくれるのか~。ありがとな。一日も寝たら治るからな、何てことはない。この体は便利でいいねえ」
「…」

一日は、なかなかな修復時間だ。
一日……活動時間と考えて、6・7時間程度だろうか。

「苦労をかけたな。だが、お陰で助かった。今日はその礼だ。見逃そう」

机からネコが飛び降り、先導する。
ネコ、牧水、僕の順で歩いて行き、礼の錬金術とやらの叡智が詰まった部屋へ通される。
問題が発見された本が部屋の隅にいくつか並んでおり、ネコに指示された通りの本を牧水が機械へ置く。
機械から登る一筋の光が本に差さり、万華鏡のように周囲に屈折し、光の筋が魔方陣のように本を取り囲む。
目にも見える光の波紋が空気中につくられ、遠い耳鳴りのような違和感が生じる。
平穏無事な本に潜書して酒盛りなんて、最初は何を言い出すのかと思ったが、労働に対する適した慰労としてならば、たまにはいいのかもしれないね。
両肩を落としてため息を吐く。

「侵蝕者は確認されてはいにゃいが、油断はするにゃよ。それから、酒は巡回が済んでからにするように」
「へいへーい」
「まあ、程々にして適当なところで返ってくるんだね。泥酔で戻ってくるなんて、醜い真似はよしてくれよ」
「…うん?」

ネコの後ろで見送るつもりでいた僕へ、牧水が驚いた顔で振り返る。

「おめえさんも行くだろ?」
「誰が行くなんて言ったんだい?」
「はあ!?」

眉を寄せる彼。
その、然も同行当然という反応と考え方に、僕の方もかちんと来る。
誰が一緒に行くなんて言った?
誓って言ってない。
間にいるネコが、顎を上げて僕と牧水を交互に見上げる。

「そりゃないだろう。おめえここまで来たら普通付き合うもんだろうが」
「勝手に決めないでもらえるかな。行くなんて言った覚えは全くないよ」
「こりゃ絶品なんだぞ? 銘酒だ、銘酒。俺がもう随分前から館長に頼み込んでだなあ――」
「僕は君程酒が好きではないからね。悪いけれど、魅力はそこまで感じないんだ」
「おいおいそう言うなって。な、白秋。盃も、いい焼き物をしっかり2つ持って来たんだぜ?」
「ああそう。ご苦労様。けれど、それと僕とは関係ないよね?」

二言三言やり取りをして、無論口では僕には勝てず、結局牧水はぱくぱくと金魚のように口を開くばかりに留まった。
呆気に取られたような顔の後、まるで僕を気遣うように様子を覗ってくる。

「うええ~…? …なあ、どうしたおめえさん。随分不機嫌だな…」
「そう?」
「なあ、白秋。頼むから駄々を捏ねねえでくれよ。俺はおめえと二人でと飲もうと思って――」
「……一つ聞くが、若山」

足下にいて僕らを見上げていたネコが、いつの間にか機械の一部を足場に牧水の肩に飛び乗った。
彼の右肩に前足を置き、まるで耳打ちのように耳元へ語りかける。
それはとても小さな声だったが、生憎距離を置いた僕にまで辛うじて聞こえた。

「お前、正式に北原を酒盛りに誘ったか?」
「んあ?」
「…」

聞こえないふりをしている僕の耳には、牧水の間抜けな聞き返しの声だけが大きく入って来る。
半眼で見ていてやると、くるりと背を向け、一人と一匹がぼそぼそと臨時会議を始める。

「いやいや、そんな訳あるか。ちゃんと誘った……と、思う…んだ、が…。…あれ?」
「覚えてにゃいのなら、怪しいものだな」
「んんん~? いやいや、あいつも良い酒だって乗り気だったぞ。最初に俺言わなかったかあ?」

言ってない。
良い銘だと言っただけだ。
こちらに垂れるネコの尾が気怠げに揺れる。

「我輩が知るか。…だが、面倒な輩が多いお前らの中でも、北原は殊更プライドの高い面倒な輩だからな。どうも端で聞いていると、お前にきちんと誘われていないからと意固地ににゃっているように見えるが」

ふ…。
目を伏せ、腕を組む。イラッとしたが、鋼の精神で沈黙を続ける。
プライドが高くて面倒で悪かったね…。
ネコ如きにそこまで言われるとは。
変な受け取り方をしないで欲しい。僕は、ただ礼儀のない誘われ方が嫌いなだけだ。
まるで僕が着いてくるのが当然とばかりの牧水のこの態度をここで許しても、如何なものか。後々の彼の為にもならないだろう。
これは、僕の友に対する親切だ。
彼にはそういうところがある。
さらりと自分中心にものを考え、自分の好む方へ意気揚々と道を作る。人を中途半端に誘うくせに、待たない。
それに、僕は君のものじゃない。
この僕の時間を得たいというのなら、きちんと誘って然るべきだろう。
それが嫌なら、まず僕をものにしてからその態度を取るんだね。
プロセスは重要だ。
プロセスのない結果は、美しさに欠ける。
苛々しながら待っていると、最終的にはパンッと景気よく柏手を打って、牧水がくるりと僕を振り返った。
まるで今日初めて声をかけるかのように、軽く片手を上げて、白々しくあっけらかんと語りかけてくる。

「なあ、白秋」
「何かな?」
「こいつは良い酒なんだ。おめえさんと飲もうと思って、盃も二つ用意してある。ネコのお許しも出たし、一緒にちょいと本に潜って、いい場所で俺と酒を飲もうぜ」
「…さて、どうしようかな」
「最近は忙しくて、人も増えた。俺はそうでもないが、おめえさんは顔が広いし、最近じゃどうにも取り巻きが多くてゆっくり話なんてしてなかっただろ? 付き合ってくれると嬉しいんだがなあ。どうだ? …なっ?」
「…」

今更ながらに笑みながら両手を合わせ、片目を瞑り、請うように誘いかけてくるのを、半眼で見返す。
僕とゆっくり話す気が君にあったことに驚きを隠せないよ、僕は。
取り巻きとはまた違うかもしれないが、いつも特定の飲み仲間から離れず、僕のことなどすっかり記憶の彼方だろうに、時たまふと時間が合えばこうして如何にも親しい様子で寄って来るその態度も気に食わない。
腕組みを解き、横髪を耳にかけながらそれを聞いていた。
…とはいえ、まあ、妥協点かな。
後先だし、取って付けたようなものだけれど、まあそこは昔馴染みの誼みで見逃してあげよう。
はあ…と息を吐く。

「そうだね…。まずは、それだろう」

人差し指を立てた右手を、軽く振る。

「僕だって、君がどうしてもというのなら付き合ってあげないこともないのだよ」
「よーし!」
「けれど、親しき仲にも礼儀あり。…大体君は、頭から当然とばかりに僕を数に入れていたようだけれど、いいかい? 僕は君のものではないのだから、まずはきちんと誘うべきなんだよ。君はねえ、昔からそうやって自己中心的なところがあるから――」
「よーし、ネコ。頼むぞ~!」
「…聞いてるかい?」
「おう。聞いてる聞いてる!」
「ああそう。それじゃあ、今僕が言った言葉を反芻してご覧よ」
「え? あ~…。んまあ、あれだ。俺が『一緒に飲もう』ってちゃんと言わなかったのが引っかかってたんだろ? 悪い悪い。次から気を付けるって。な?」
「違う。僕の感情がどうとかでなくて、君の欠点について、君自身に気付いてもらおうとしたのだよ、僕は」
「お~。そうかそうか。…まあまあまあ。その辺は酒を飲みながら話そうぜ。おめえさんの説教も、銘酒があればいい話の種になる。いかにもおめえさんらしい議題だ」
「説教? …へえ? 君にとって僕の親切な助言は、煩わしい説教って認識というわけ……ちょっと。気安く肩に触らないでくれたまえ」
「いてっ」
「…いいコンビだな、全く」

牧水の手を叩き落としている間に、ネコが牧水の肩から飛び降りる。
機械の上に浮遊している分厚い本が光を強める。
それと同時に、僕の四肢と、突き飛ばして距離の空いた牧水の体からも光が充ちていく。
ネコが忠告する。

「これは詩歌集で、しかも全集の一部だ。お前たちの作品ばかりではにゃい。侵蝕者がいなくとも、中は思想と感情の坩堝のようなもの。理想的な空間を構築するのは、極めて難しいぞ」
「なあに。大丈夫だろう。たぶん」
「ほう…」
「そういう根拠のない自信は控えたまえよ」
「根拠無しってワケじゃあないぞ。俺らはお互い相手をよく知っている。きっと、矢印の向きは同じだ。盤上の針が同じ方向にさえ向いてりゃ、迷子にはならねえさ」

何て楽観だ。
呆れてため息を吐いた。
もう慣れたもので、意識と体が軽くなり、光の粒子となる。
そのまま心身が本の中へ溶けていった。

 

 

 

闇の中、下へ下へと落下していく。
足場はまだない。
見えないが、下の方に無数の感情が蠢いているのが分かる。
侵蝕者のいる本の場合は問答無用でどこかの場面に引っ張り出されるものだが、牧水の言うところの平穏無事な本だと選択肢があるのかもしれない。
光源のない闇の中のはずが、ぽっかりと色彩が浮いている僕らの姿。
少し離れたところで、似たように浮遊しているような落下しているような格好で下を覗き込みながら、牧水が脳天気に口を開く。

「さーて。じゃあ、一先ず俺かおめえさんの一句に出てえわけだが…」
「僕の句も詩も貸さないよ」

きっぱり言ってやる。
やはり春の句を取り出すのは気乗りしない。
顎に片手を添え、牧水が存外あっさり方向を変える。

「あー。…んじゃあ、俺んでいいか。仕方ねえ。俺はおめえさんのが良かったんだがなあ。…うーん。だが、俺もたぶん、春男ではないんだよなぁ」
「君は初夏だろうね」
「花もいいが、青い空と若葉が好きだなぁ。雨もいいし、夜もいい」
「春夏秋冬に悪いだけのものなどないさ。要は、何を視、何を想い、どんな言葉を使ってそれを形にできるかだ」
「おめえさんが言うと、大層なことをしている気になるな」
「大層なことをしているつもりでいるよ、僕は。一つ一つ、真剣に創っているからね」

真剣に創り、数を増やしていった結果、いつの間にか"多く詠むもの"が出てくる。
詠み手の本質のうち強い部分が、自然と表に数という形で出てくるものだ。
僕は寂しさと虚しさ。牧水は自由と栄枯盛衰。
だが無論、そればかりを創ってきたわけではない。

「君にだって、悪くない春の句はたくさんあるだろう。桜を詠んだものでいいじゃないか」
「そりゃあな。…けどなあ、春の花ってのは、どれもこれもそれだけで揃っているからな。なかなか俺の手に掴まっちゃくれねえのよ。お呼びじゃねえと振られることが多くてなぁ」
「…まあ、そうかもね」
「けどま、喚んでみるとするかー」

パンと手を打ち、両腕を軽く開いて牧水が念ずる。
周囲の気が流れ、渦巻く。
僕らが落ちているのか、周囲が上がっているのか不明だが、何かが勢いよく動いていく。

「さあっ。芽吹け山、花よ時間だ。郷よ、お前の美しさを、どうか俺たちに見せてくれ!」

とっぷりとした闇に落ちながら、片腕を振り高らかに牧水が言い放つ。
まず、底から風が吹いた。
春に感ずる花の匂い。
闇から光が差し上り、散らばった大小の文字が、風に吹かれて僕らを迎える。
"春の日の ひかりのなかに つぎつぎに 散りまふ桜 かがやきて――…"。

「…ねえ」

通り過ぎた「か」の字を横目で追いながら、口を開く。

「これは美しいけれど、君にとっては哀愁の風景なんじゃないのかい?」

通り過ぎていく文字たちを見送りながら、牧水に尋ねる。
彼は飄々としていた。

「そうさなあ。だから、おめえさんが傍にいてくれると、本当にただの良い景色になるだろうよ。俺の句の中なら、今日はここで飲みたい気分だ。そりゃあ見事なもんだったからな。きっとこの酒に合うだろう」
「…」
「さーて。一等客連れだ。頼むぞ~!」

へらりと傍で彼が陽気に笑うのを一瞥してから、下を見る。
僕らの意識が、その一句へ集まっていく。
その句を詠んだ時の桜の美しさ、比例する寂しさ、虚しさ。
日は昇り、沈む。
花は咲き、いずれ散る。人は美しさを見つけ、手にし、そして失う。
…嗚呼。
ずっと忘れかけていた悔しさが、刹那僕の胸に生まれる。
だが、生まれてすぐに刺し殺し、劣等感に蓋をする。
…名声を求めたわけではなかった。
僕は、洗練された感情を、純度の高い宝石のように形にしたかっただけだった。
一瞬の感情を封じ込め、形を与えて取っておくには、文字が要る。
場凌ぎに稼いだことはあったが、いつの間にか立場があって、地位があり、椅子が用意されていた。
悪くなかったと思っている。
けれど、いつから僕は、自由でいることに、束縛されないことに、必死になっていたのだろうか。
一冊の雑誌に句が載る。
翌日、良くやったと素直に褒め称えたり、悔しがったり、嫉妬をしたり、不愉快になってみたり、一緒に批評をしたり、添削をしたり…。
その些細な幸福に、この男と一喜一憂していた頃が、最も自由だった。
僕は、早々とそれらを失った。
気付けば、道は別れていた。
狡いと思った。僕は、あんなにも雁字搦めだったのに。
…いや、狡い、ではない。彼に非はない。
だからこれは、きっとある種の憧れだったに違いない。それは認めよう。
だが、好むものを好み、行きたい場所へ行き、過ぎた道は振り返らず、自業自得であっさり消えた君の、そういうところが――…

「――嫌いだね、僕は」
「うん? 何だってー?」

光が膨張し、暖かく優しい風が通った後は、無数の桜花と、それに従う桃色黄色の名もない花びらが、若葉と共に風に乗って吹き上がった。


春容




風が吹く。花が舞う。
舞わない花は、地に踊る。

「…ねえ」
「うーん?」
「煙草を持ってないかい?」

満開の桜の山々を前に、隣へ尋ねる。
斜面の野に腰を据える僕らの頭上を、青空を背景に雀が数羽仲睦まじく飛んでいき、それを羨むように目白が一匹追っていく。
地味な美声の持ち主である鶯は姿を見せぬが、声は程々に近しい場所から響いてきている。
…彼が酒を持参したのと同様に、僕も気に入りの一箱を持って来るのだった。
聞くと、牧水は笑い、腕一本差し出して僕の持っていた盃に春容を注いだ。
まだ残っていた透明な液のかさが増え、なみなみと品なく盃を満たす。

「旨い酒に、煙草はいらねえだろ?」
「言っておくけれど、僕の好みが君と同じだと思ったら、大間違いだよ」
「まあまあまあ。それでも、やっぱりこいつは旨いだろ? おめえさん、味は分かる方だろうが」
「…」

じと目で横を見てから、盃の中へ視線を向ける。
清く澄んだ酒。
清水と見紛う美しさ。柔らかい飲み口。鼻腔を擽る春の花と風の薫り。
肯定してやるのは癪なので、黙ったまま、再びちびりと口を付ける。

「…。旨いから、余計に口寂しくて一服したいよ」
「そいつは強欲な口を持ってるなあ。…お、そんじゃあ、キスでもしてやろうか? そういや、ここんとことんとご無沙汰だしな」
「…"してやろうか"?」

盃に口付けたまま、声のトーンを落として聞き返してやる。
こういうところだ。ああ、嫌だ。

「断固拒否する。一体、誰の許可を得て、そんな巫山戯た提案をする気になってるんだい?」
「何でえ。ノリが悪いな。…んー。まあ、いいか」
「…」

"ノリが悪い"。"まあ、いいか"…。
張り倒してやろうかどうか迷っているうちに、牧水が隣で大きく伸びをし、ついでに大口開けて欠伸をする。
気持ちよさそうに背伸びをするネコのようなその様子に、苛立ちが不思議と引いていく。
全て、この美しい景色のせいだろう。
風景へ視線を移す。
選び取って形成した一句の景色。
出会いと別れ、継続と変化、再生。全てを包む和やかさを持っているのは、春の特徴だろう。
はらはらと、桜の花が身を崩して死んでいく。
それでも、深刻ぶった感傷で独り眺めでもしなければ、こうして散りゆく桜は美しいと、素直に思える。
僕が盃の中身三分の一程度減らす間に、牧水は早々と空にして、胡座の内側に抱える銘酒を再び傾ける。

「巡視してないうちから飲んで、ネコに怒られても知らないよ」
「ああ…。そういや、見回ってから飲むって約束だったか? すっかり忘れちまってたなあ」

注ぎながら、今思い出した様子で彼が言う。
…が、無論反省などしやしない。

「まあまあ。共犯だ、共犯。な?」
「まったく…」
「飲んだら、ちゃんと見て回るさ」
「どうだか」

盃を持ち上げ、横から馴れ馴れしく僕の背を叩きながらわははっと牧水が笑い飛ばす。
片腕を振るってその腕を払ったその後で、差し出された盃を打ち合わせた。
僕の為に出してきたという名のある陶器は、カツンと鈍い土の音を立てた。

 

桜舞う。
盃に、花弁でも落ちてきたならば。
彼と酒盛りをしている間そんなことを考えながら、それとなく盃傍に来る花弁を気にしていたけれど、ついぞ来てはくれなかった。
その代わり、僕の隣で着々と飲み進めている男の盃へ、ひとひら進んで落ちてきた。
ああ、ここは彼の世界なのだなと再認識し、それが僕にはどうにも喜ばしいようで、掲げた盃越しに映る野山の桜に目を細めた。

君の臨み得た春は美しい。

 



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同級生コンビ。
うちの若北は攻めがぽやっとしているので女王様の方の片想い気味。
もう春ですが、冬頃に書いたものでした。
2021.4.4





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