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今日は、騒がしい。
談話室の片隅。いつもの場所に腰掛けたまま、何となくそう思う。
一見、何でもない一日だ。
朝食を食べ、潜書予定がある奴は潜書し、修復している奴は見かけないし、そのほかはのびのびと自由に過ごしている……ように、見える。
だが、静かなるざわめきというか、雰囲気が落ち着かない。
かといって、目に見えて騒いでいるような奴もいない。
この静かなるざわめきの正体を知らず、朝から違和感ばかり得ていて、どうにも落ち着かない。
読んでいた本が一区切り付き、栞を挟んで、閉じる。
ふう…と一息吐いたタイミングを見計らったように、ちょんちょんと後ろから肩を突かれた。
ぽん、でも、とんとん、でもないこの突き方は存外希で、もうこの時点で相手が誰か、察しを着けながら振り返る。
案の定、僕の座る長椅子の背の後ろに、島崎が立っていた。

「秋声。こんな所にいたんだね」
「何だい、島崎」
「うん。あのね、口を開けてくれないかな?」
「あ~……って、そうすんなり開けるわけないだろ!」

一瞬だけ素直に従う振りをして口を開けて見せ、後ろ手にしていた島崎が手にしたそれが眼前に出てきたところで、その手首を掴む。
目の前で、今まさに僕の口に放り込まれようとしていたものは、流石に毒物とかそういうのではないにしても、違和感のある物ではあった。
小さな立方体。
飴色に輝く西洋菓子。

「…何だい、これ」
「チョコレートだよ」
「いやそれは見れば分かるよ…。どうして、チョコレートをいきなり人の口に放り込もうなんて画策しているのかって聞いてるんだよ」
「今日は、聖バレンタインの日なんだ」
「ああ…えーっと…。ローマの聖人だっけ? 西洋では祝日なんだろ?」
「うん。鳥が番う日なんだって」
「…で? 鳥が番う聖人の祝日に、何でチョコレートなんだ?」
「僕らが死んだ後の話だから、あくまで資料と取材からの推測なんだけど…。今では、身近な人に、チョコレートを食べてもらう日なんだってさ」
「ああそう…。どこをどう捻って、そんな日になったんだろうね」

半眼で問いかけると、島崎は軽く首を傾げた。

「うん…。正直、僕も疑問は多いんだ…。西洋では確かにバレンタインの日はあるみたいだけれど、夫婦とか恋人のお祝い事で、身近な人なんて広い括りではないし、チョコレートじゃなくて、赤い薔薇とか他のプレゼントが主流みたい…」
「じゃあ何で今ここにあるのはチョコレートなんだ?」
「日本独自の文化に変化したみたいだね…。日本では、チョコレートを片手にすれば、女から男へ告白が許される唯一の日って認識だったみたいだよ。時を経て、今は、好きな人やお世話になっている人への贈り物をする日ってだけみたいだけど、定番がチョコレートなんだって」
「…へえ」
「一通り取材してきたから、試してみたくて。…ねえ、食べてよ」

淡々と、島崎が僕の目を見て告げる。
間に押さえてある手に力が入って押しつけるとかいうわけではないが、有無を言わさぬいつもの調子だ。

「毒は入ってないよ」
「入ってたら困るよ。…アレじゃないか? 田山とかにあげた方が、喜ぶんじゃないのか?」
「花袋と国木田には、もうあげたよ」

あげたのか…。
それなら、少なくとも本当に毒は入っていないだろうな。さっき、二人が中庭で騒いでいたのを見ている。

「僕は別に、特別君の世話をしているつもりはないよ。お茶もないのに甘いものを食べたくはないし、他の人にあげておいでよ」
「でも、僕は秋声が好きだから、あげなきゃ」
「好…」

臆面もなく至極当然とばかりに断言する島崎に、圧し負かされる。
特段な意味のない、彼にしてみればおそらく「親しい」程度の意味合いでの「好き」なのだろうが、この単語を日常会話に使えてしまうところに、彼の恐ろしさがある。
島崎は、もう片方にチョコレートの入った瓶を持っていた。
察するに、彼にとって好ましい相手に渡して歩いているのだろう。
この場に多くいる人間たちの中で、その洋菓子の限りある数の中に僕を選んでくれているのは嬉しく思う。
目の前に差し出されている一粒は、紛う方なき彼の好意だ。
食べる、という動作一つでそれを受け取れ、また示せるのは、言葉で彼に好意を返したり、喜びを伝えるより、僕にとっては容易く思えた。

「…分かった。食べる。食べるから」
「そう? よかった」

軽い、淡々としたいつもの声だが、微かに彼の肩から力が抜けたことに気付いてしまった。
…ああ。何故気付いた、僕。
知らない方が気が楽だった。

「お茶があった方がいいなら、淹れてこようか」
「いいよ。それだけもらうよ」

突きつけられているそれを持とうと、僕も利き手を上げる。
…が、島崎がチョコレートを離さない。

「…島崎。食べるって言ってるだろ。寄こしなよ」
「口に運んであげるよ」
「はあ? どうして。いらないよ!」
「…? 花袋が、その方が皆嬉しいって言ってたんだけどな…」
「田山の言うこと全部を、真に受けない方がいいって言ってるだろ」

あいつ、いい加減島崎に甘えすぎだろう。
ぐぐぐ…と、力尽くで島崎の指からチョコレートを奪い取る。

「僕は必要ないから。自分で食べる」
「そう…?」

主張すると、どうやら納得してくれたらしく、すんなりと指を解いた。
紆余曲折の後僕の指先に来た洋菓子を、ぽいと口の中に放り込む。
強い甘味と、油の舌触り。
正直、好みではない。僕は餡子の方が好きだ。
もごもごと口の中で融解するのを待っている間、島崎は立ったまま僕をじっと見下ろしていた。

「おいしい?」
「…まあまあ」
「秋声には、和菓子の方がよかったね」
「でも、悪くはないよ…。ありがとう。ご馳走様」
「ううん。お粗末様です」

島崎が言う。
目元が、微かに和らいだ。
例えばこういう些細なことに気づけなければ、僕は彼とここまで親しくならなかっただろうと思う。
けれどどいういうわけか、彼の、一般的には些細すぎる微かな変化は、それがどんなに小さくとも、どうにも僕の目に留まる。
ようやくチョコレートを舌の上から追い出し、ふと思い立って、僕は彼を見上げた。

「…これって、僕も何か返した方がいいの?」
「強制参加なわけじゃないから、別に構わないんじゃないかな。それに、僕は秋声が好きだけど、秋声が僕を好きにならなきゃいけないわけじゃないもの。親しみなんて、そんなものでしょ?」

温かくもなければ、冷たくもない。
他人事のように言い切る島崎に虚を突かれ、僕の中に咄嗟に謎の苛立ちが生じる。

「それだと、僕が恩知らずみたいじゃないか」
「…? そんなことないって、僕は解ってるよ。人の好意や嫌悪なんて、縛れるものじゃないもの」
「ちょっと座ってくれ。部屋から大福を持ってくるから。チョコレートじゃないけれど、僕も君にあげるよ」
「大福を?」
「そう」

言うが早く席を立って、僕は部屋に戻った。
戸棚から大福の入った箱を取り出す。
三個入っていた。先生のお使いで行って帰って、余りをいただいた。
中途半端だから、元々、機を見て島崎を誘ってみようかと思っていたことは確かだ。
こんなに意味深にするつもりはなかったけれど。
…談話室へ戻ってくると、さっきまでいた長椅子に、島崎が腰掛けて待っていた。
テーブルには、二人分の湯飲みが湯気を立てている。
向かい合わせでなく、横に二人分置くところが、島崎らしい。

「はい。余りだけど」

彼の隣に腰を下ろしながら、テーブルの中央へ大福の箱を置く。

「おいしそうだね」
「紅葉先生の贔屓になさっている和菓子屋だから、味は保証するよ」
「…。大福の分だけ、一緒にいられるね」
「…」

じっと大福を見詰めた後で、島崎がぽつりと呟いた。
…そう。
大福を食べようなんて言い出さなければ、さっき僕にチョコレートを食べさせた時点で、島崎は立ち去っただろう。
引き留めたのは此方だ。
彼が調べたように、渡すものが洋菓子やら花やらであるのなら、渡す物自体に大した意味はないはずだ。
僕は、彼のように言葉を味方にできない。
改まった言葉なんて伝えられない。
今日という主旨が"好意を示す日"であるのなら、僕にできるのは、せいぜいこうしてお茶に誘うくらいだ。時間を引き延ばすという、情けないだけの足掻き。
それも含めて、彼は解ってくれるだろう。
特別長くはないけれど、深い付き合いだ。

「ありがとう、秋声」

感情のこもってなさそうな平淡な声で、島崎が礼を言う。

「…別に。ただのお返しだよ」

そんな澄ました投げやりな返答しかできなかった。
けれどもやはり、彼の目元が和らいだのが目に留まった。


聖バレンタインの祝日




「ちなみに、バレンタインデーのお返しの日として、日本では三月にホワイトデーっていうのがあるらしくてね、本来はお返しは、その日にするんだって」
「ねえそれ、先に言ってくれてもよかったんじゃない…?」

そんなわけで、必然的に、一ヶ月後のその日にお茶の予定が入った。
本来の目的など見失っているが、先述したが、この日とそのお返しの日が"好意を示す日"であるのなら、西洋菓子が理由であろうが何であろうが、時間を共有することは、強ち間違った過ごし方でもないような気がした。

 



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バレンタインの頃に書いた話。
そのうち、対のホワイトデー話もアップします。
毎度恒例の時期はずれ整理。
2021.4.27






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