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「おい、藤村。温泉に行こう!」

朝。
国木田と食堂で朝食を取っていると、花袋が突然後ろから僕の両肩に手を置いて、真上からそんなことを言った。
顎を上げて、暫くその双眸を見上げる。
昨晩、本に潜ってきたのだろう。花袋の顔には、いくつかの傷があった。

「………うん。いいよ」

答える。
具体的に何処へ行くかは知らないけれど、花袋が行きたいのなら、着いていく。

「いえ~い!そんじゃ、決定な!…あ、独歩も来るか?」
「何なんだよ、そのオマケ感は。…確かに悪い話じゃないが、生憎、俺は次に潜書予定があるからダーメ」
「マジか。じゃあ、今回はオレと藤村で行ってくるからな。また後で、三人で行こうぜ?」

花袋は、僕の隣の椅子を引いてそこに座りながら、向かいで箸を止めていた国木田と会話する。
その横で、食べかけのサンドイッチを消化するべく口へと運んだ。
斯くして、温泉に行くことになった。
どうせ行くならと、今の温泉事情の取材を兼ねて、覚え書き用の手帳を一冊持参した。


花が咲くには




温泉は、当然だけれど図書館から最も近い温泉地のみが許された。
そもそもは、ここ最近潜書が多い花袋の養生の為だ。
花袋は温泉や旅行が好きだから。
基本的に僕らの行動は図書館に限定されているが、国の管理が行き届いている近辺の小さめの町なら許される。幸いなことに、その中の一つに温泉が湧いているそうだ。
行ってみると、いい温泉地だった。
けれど、今の世ではどちらかというと寂れている温泉地らしくて、僕の期待していた"今の温泉"の取材はできなそうだ。
木造の宿も、岩で出来た露天風呂も、浴衣や帯も、僕らの生きている頃と、あまり変わらないように思える。

「へーえ。あんまり変わり栄えしないもんなんだな~」

夜の石段を、カラコロと下駄を鳴らして歩く。
左右を見回しながらそう言う花袋は、頬が赤い。
近くの酒場で、少し飲んできたからだ。
…正確に言うならば、酌をしてくれるような可愛い女の子を探していた。
たぶん、花袋はそういう子とお近づきになれたらと思ったに違いない。
けれど残念なことに、若い女性はいなかった。
この町が政府の管理下だからなのかどうかは分からないけど、花袋の目論見は大いに外れたみたいだ。

「そうだね…。あまり、僕らが生きていた頃と変わらないみたい…」
「お。藤村もそう思うのか?」
「うん…」

少し後ろを歩いていた僕を振り返る花袋は、女の子が見つからなかった割には、いつにも増して陽気だ。

「そーか。オレらの中じゃ、藤村が一番長生きだったからな。それじゃあ、本当に大して変わってないんだろうな~」
「僕は良かったと思うけど…。温泉が変になっていたら、嫌だもの…」
「んー…まあ、そうだな。確かに、一理ある。うん、温泉は変わってなくてよかった。いつだって心の潤いだ」

顎に片手を添えて、うむうむと何度も花袋は一人で頷く。
…。

「…ねえ、花袋」
「ん~?」
「ぶつかるよ。後ろ」
「んごっ!」

丁度良く、花袋が片足と後ろ腰を、石段中央にある金属の手摺りにぶつける。
階段で言うところの"踊り場"にあたる平たい場所を歩いていたけれど、次の石段にさしかかったところだった。
花袋はその場にうずくまり、僕はその横を追い抜いて、同じペースで次の石段を上がっていく。
てくてく数歩進んだところで、復活した花袋が、大股で段飛ばししながら傍まで追いついてきた。

「…ていうか! 藤村ってさ、結局何歳まで生きたんだったっけ?」
「僕? …どうして?」
「いやさ、老成したお前も見てみたかったな~って思って」

酔っ払った花袋は、そんなことを言う。
…確かに、僕はそれなりに長生きをした。
けれど、また与えられた体は、こんなに若い。
最初は、戦闘に最も適した肉体年齢を与えられているのかもと思ったけれど、そうじゃない人も多い。
次は、文学的全盛期の時の肉体かと思った。
けれど、これも違う。それにしては若すぎる、という人も多いからだ。
未だ正確には把握できていない。
どうして、僕はこの歳の頃の姿で招魂したのだろう。
まさか統一性がなくて、完全に運任せ……なんてことはないだろう。
今のところ、調査と取材でぼんやり立てられる仮説としては、与えられる肉体は、"書いた作品の中で、最も魅力という力が強い、その主格登場人物の年齢の反映"。
或いは、人生の中で最も感性と感受性が高く、その後の"作風の芯を決定づけた年齢"。
もしもこの仮説が正しいとするならば、僕の姿がこれである以上、老年の僕の作品は、あまり心と力がなかったのかもしれない。
そして、自然主義である僕にとって、それは老年の僕自身の視点と感受性が、力なく、また鈍っていたであろうことの証明に他ならない。
確かに、若い頃の方が感覚が鋭かった自覚はある。
きっと、そういう人が多いと思う。驚きも感動も喜怒哀楽も、"初めて"が最も強い刺激だからだ。
"初めて"は、年齢を重ねるごとに少なくなる。慣れてくる。
多くの人がそう。だから、恥じることはないのかもしれない。
…だとしても、天寿が長かったというのなら、その分だけ、老年の僕は"そう"だったのだろう。
そんな僕を、花袋や国木田に見られなくてよかった……と思うのは、やはりこれも陰鬱な性からだろう。

「別に…。普通の老人だったよ」
「その普通が見たかったんだって」
「…。花袋は、今の僕の姿は、あんまり好きじゃないの?」
「好きじゃないてゆーか…生きてた頃に会った時も、今の姿とそう変わらなかっただろ? 知らない藤村を見てみたいって意味だよ。…あー。でもまあ、確かに生きてる頃に会った時よりも、今の方が若いといえば若いか?」
「そうだね」

若いって言うか、今の姿はどちらかというと、幼さが残るくらいに若過ぎる気がする。
でも、若い頃は良かった。
何もかもが輝いていた。
良いものも、悪いものも、美しいものも、醜いものも、それぞれに輝きの強さがあった。
何より、花袋や国木田たちがいた。

「ちょっと背が低くて若いんだから、今のもなかなかいいじゃないか」
「花袋だって、生きていた頃に会った時より、今の方が背が低いよ」
「仕方ないだろ。そういう時の姿で引っ張り起こされたんだから。…でもまあ、独歩とも話したことがあるんだが、こうして現世に戻って来て、オレたちが死んだ後に書いたお前の小説が読めたってのは、最っ高に幸せなことだよな!」
「…」

さらっと言い放つその言葉は、胸を打つ。
花袋は、嘘を吐かない。
嘘を吐かないから、敵も多かったけど、信頼してくれる人も多くて人気者だった。
皆、"嘘を吐かない"ことは、本当はとても難しいって、知っているから。
少し、視線を下げる。
確かに、それは通常では有り得ない幸運とも言える。

「うん…。…僕も、読んでもらえて、感想を聞けて……嬉しい。…夢みたいだって、思うよ」
「…」

ぽつりと呟いた言葉は、思った以上に静かに響いて、消えた。
消えたところまできちんと意識ができたのは、花袋が静かだからだ。
そのことに気付いて、花袋から何の反応も返ってこない、ということが珍しくて、顔を上げて横を見る。
てっきり、酔いが回って聞こえていなかったかと思ったけれど、花袋は、ちゃんと僕を見ていた。

「…なに?」
「え? …いやいやっ!何でもない何でもな――」

ぶんぶんと片手で思い切り何かを否定する。
ところが、否定をしている途中で、ぴたり、とその手を止めて、下げた。

「…いや。やっぱ、何でもなくない…かな」
「…?」
「今、笑っただろ?」
「? ……僕?」
「珍しいじゃん。オレ、藤村の笑顔好きなんだよなー。レアだし? 何か今、すっげえ可愛かったから、見惚れちゃったな~、なーんて」
「…」

ぐっと、花袋が僕へ一歩踏み込む。
ぶつかりたくなくて、一歩横へ引いて距離を取った。
浴衣の袖で、口を覆い、ため息を吐く。
その手の言葉は、あまり聞きたくないし、求めてない。

「…そういうの、別にいい」
「え、何だよその反応…。おい、藤村。褒めてんじゃん!」
「そうかもしれないけど、いい。いらない」
「ええ~…。マジで言ったのに…」

目に見えて項垂れる花袋から、視線を反らして横を向き、もう一歩距離を取る。
手摺りに片腕をかけ、花袋がぐったりと体を預ける。

「ちぇー。折角独歩がいないから、お前と二人で夜を愉しめると思ったのにさー」
「そうなの?」
「そうだよ!」
「…。花袋、さっきは可愛い女の子を探してたのに…」
「あれは、酒の席で文学と政治の会話を愉しめるような、高尚な話し相手としての婦女子を探していたんだ。美少女は、いてくれるだけで肴になるだろ?」
「しなびた温泉街で、それは難しいと思うけど…」
「なあっ、藤村!」
「わ…」

急に、ぐいっと花袋が僕の肩に片腕をかける。
近くなった距離で、内緒話のように、こそこそと花袋が耳打ちした。
…酒臭い。

「独歩がいないと、やっぱダメか…?」
「別に。…国木田は怒りそうだけど、僕は最初から気にしていないし、それは二人が喧嘩するから二人で決めたルールであって、僕はそのルールの中にはいないもの。…怒るのなら、後で、国木田にも同じ機会をあげたらいいんじゃない?」
「…」

花袋は複雑そうな顔をして、耳打ちをしていた手を下げた。
相変わらず肩を組んだまま、はあぁ…、とため息を吐かれる。

「……藤村はさー、自分からは全っ然欲しがらないよなー」
「うん…。花袋たちが欲しい時に言ってくれれば、それでいいよ」
「それじゃあ、詰まらないし、ちょっと寂しいだろうが。オレたちが。…ていうか、オレが!独歩は知らん!」

詰まらない? 寂しい?
花袋は、今だって友達も知り合いも、たくさんいるのに。
片頬を膨らませる花袋を、横から見詰める。

「…そうなの?」
「そうだよ」
「へえ…。そうなんだ……」

正面へと視線を移しながら、相づちを打つに留める。
カラコロと、下駄の楽しげな音が耳を善くする。
寂れた温泉街独特の、提灯明かりが目を癒やす。
言われた時に付き合った方が、花袋がいいのかと思っていた…。
偶に欲しがった方が花袋が愉しいというのなら、偶にそうしてみよう。
…けれど、その"偶に"の頻度は、一体どの程度なのだろう。
後で詳しく聞いてみよう。彼にとって、最適の"偶に"の頻度があるはずだ。
…でも、今は少し機嫌が悪いようだし、言葉から察するに、正に今、花袋はその"偶に"を欲しているのだろう。
…。

「ねえ、花袋。…じゃあ、もし今僕が、花袋に接吻を頂戴と言ったら、花袋は嬉しいってこと?」
「お、おお…っ。今? 急に大胆だな藤村…。あー、今は外だから何だけど、嬉しいは嬉しい」
「ふーん…」
「そうそう。そーゆー事だよ。分かる?」
「ちょっとね…」

ばしばし背中を叩かれる。
鬱陶しいしふらつくから、そっと腕を払って一歩横へ離れた。

 

 

 

館長さんと司書さんが予約してくれた宿は、僕らの正体のこともあってか、政府管理下の割と立派な洋風の宿だ。
部屋は広いけど、建物としては小さい。きっと、客室としては数室もないのだろう。
雰囲気としては、迎賓館のようでもある。
広い部屋に戻って、もう殆ど習慣になっている手記を書こうとした僕の片腕を取り、花袋にずるずると寝室へ連行される。

「ダメだよ。折角温泉に来たんだから、手記を書かなきゃ」
「後でな、後で!」

抱き合うようにして寝台に倒れ込む。
花袋が、僕を捕まえたままそうしたからだ。
埃が立って、少し咳き込んだ。
掛け布団が少しよれてしまったけれど、機嫌のいい花袋は気にしない。
飛び込んだ拍子に浴衣の袷が緩み、左肩が出てしまったので右手で引っ張って直す。
それなのに、花袋は手慰みのように横から僕の帯の端を抓んで、引っ張ってしまった。

「なあなあ、藤村っ。言って言って」
「…? 何を?」
「さっき、外で言ってくれたやつ。ほら、言ってくれたらオレが嬉しいぜーって言っただろ?」
「……………。ああ…」

一瞬思い出せなかったけど、思い出せた。

「"接吻を頂戴"…?」

言って間もなく、唇が塞がる。
口付けは久し振りな気がした。
夜気で冷えていた体が、熱を持ち始める。
足を絡め、つばきを交わす。
たったこれだけの仕草でも、女と床入りするにはない、花袋の押しの強さがある。
唇を離す頃には、何でもなかった一分前から、体を交える前の独特の空気へと、部屋のそれは変わっていた。
花袋を見上げる。
機嫌良く笑っているけれど、瞳の奥の光が強い。
きっと、僕はすぐに食べられてしまうだろう。
けれど、花袋が食べたいというのなら、それでいい。

「……嬉しいんだ?」
「へっへっへー。すっげー嬉しい!」
「へえ…。よかったね」
「藤村は?」
「…僕?」

髪を手櫛で梳くように撫でられながら問われ、答える。
猫にでもなったような気持ちで、ぼんやりと。

「花袋が嬉しいのなら、僕も嬉しいよ…」
「お前、いつもそれだよなー」
「…? ダメなの?」
「いや、別にダメじゃないけど…」

顔を詰めて、僕の首へ花袋が唇を寄せる。
温泉上がりの今は、きっと塩気があってしょっぱいから、嘸おいしいだろうと思う。
唇や舌、接する体の温かさが好ましく、大人しくじっとしていることにした。

「…なあ、藤村。お前さ、オレの他に"イイ奴"だなって思う奴は誰がいるわけ?」
「国木田は好きだよ」
「あー。だろうな。うん。…で? 他は?」
「秋声も好きだよ。後は…。……今図書館に来ている人では、そんなにいないかな。深く関わるような人も、そんなにいないし…」
「だよなぁ。…うーん。何か、それはそれで勿体ない気もするが……」

ぎゅ…と、僕を抱く腕に少し力が入った。
許されたようで、尚更、花袋の匂いに擦り寄る。

「なーんか、危なっかしいしなぁ。…お前にとって"イイ奴"は、少ない方がいい気がする」
「……うん」

花袋の鎖骨に鼻先を添える。
人間は、必ず美醜を抱えて生きている。
完全な美を持つ人間はいないし、醜のみの人間などいない。
美しく華やかで、名声に事欠かないときに寄ってくる人なんて、いくらでもいる。
そうじゃなくて……誰からも蔑まれ、醜く呆れられ、誰も見ていないようなその時に、その人の良さに気付いて声をかけ、何のメリットもないのに励ましてくれるような人だけが、主観的には最も美しく、本当の理解者と言えるんだと思う。
陰鬱とした自分の性格には、辟易している。
生前から、自分の性的倫理観が破綻している自覚はある。
でも、駄目だ。僕は、僕を好いてくれる人を好きになる。そこに美しさを見る。
それは嗅覚のようなもので、口先ばかりの輩とは違い、見分けが付く。
一体自分なんかのどこが良いのか、皆目見当たらないけれど…。
…けど、この性格のお陰で、僕は僕の大切な人を、きっと他の人よりも見付けやすかった。
髪を撫でる指を、体を探る瞳を、心地好いと感じる。
一度生を終えた僕は、生きていた頃よりも随分自由だ。
今の僕はこんなにも、まるで当たり前のような顔をして、僕の求むる好ましい人の傍にいられる。

「…」
「可愛いな、藤村…」

花袋の腕の中でじっとしていると、妙に格好付けた声が降ってきた。
微睡んでいた瞳を、そっと開ける。

「別にいいよ…。そういうのは」
「…素直に受け取ってくれてもよくね?」
「…。花袋は、趣味が悪いよね」
「おまっ…!何でこの空気でそういうこと言うんだよ!?」

花袋が怒る。
…何でだろう?
顎を上げて、近距離にある花袋を見上げた。

「褒めてるんだよ」
「どこが!?」
「本当だよ。…花袋が趣味が悪くて、僕はよかったもの」
「あのなあ…。一応、オレはセンス良しで通ってるし、藤村のソレが褒めてるんだとしても、素直に喜べねえんだけど…」

何とも言えない、微妙な顔をする花袋。
よく分からない。褒めているのに…。
花袋が、趣味が悪くて良かった。
そうじゃないと、僕なんかを、見つけないと思うから。
疑問符を抱いたままじっと見ていると、諦めたように花袋が肩を竦めた。
口の前で人差し指を立てて、真剣な顔で言う。

「…一応、独歩には言うなよ?」
「いいけど、バレると思うよ」

無理だと思うな…。
胸中で呟きながら、花袋の背中に両手を添えて、左の頬を彼の胸へ擦り寄せた。

 

 

才は種。
生まれは土で、経験が水。刺激は風で、良くも悪くも葉と茎を揺らす。
これに耐え伸び咲くか否かは、上から降り注ぐ大いなる陽の光を、見つけられるかどうかだ。

僕の傍には、身に余る光がある。
だからきっともう少し、僕は咲き続けることができるだろう。

 



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<アプリ『文豪とアルケミスト』>に登場する花袋さんと藤村さん。
最初は突っ込み所が多かったのですが、もう慣れました(笑)
藤村さんは尽くし系に見える天然女王様なので好きです。
最近、女王様タイプに弱い自覚が出て来ました。
2020.10.06





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