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もやもやとした心地好い微睡みと、多少の体の違和感。
安息を求めて、無意識のまま見当を付けて、温度に触れようと片腕を横に伸ばす。
寝ている間、身を寄せて何度も安心した体温に触れられず、別の方向に見当を付けて再び伸ばすが、空を切る。
二度三度それをして、嫌な予感に微睡みから起こされ、重い瞳を開けた。
俯せで、独りベッドに寝ていた。
無論、俺の部屋ではない。知っている。
頭はしっかり枕にあった。
その枕の下に左手を入れ、右手は先程から空を切っている。
布団はしっかり肩までかけてあったので、下着一枚でも寒くはない。
ベッド横にある小さな台に、俺の衣類が几帳面に畳まれていたが、愛用している外套はそこにはなかった。
ぼうっとそれを眺める。
畳み方が明らかに自分のものではないので、それで昨晩の流れを思い出した。
…。
……で、だ。

「…。……檀~…?」

俯いて目を擦りながら、身を起こす。
いつも編んである部分の前髪が垂れて来て、いつもより視界を覆う。
返事はない。
目を擦るのを止め、テーブルなどがある次の間にいるのかと、立ち上がりもせずそちらを向いて、先程よりも声を張る。

「おーい。だーん」

返事はない。
数秒待って、もう一度声をかけてみたが、誰も何も反応しない。
窓の外を、小鳥が囀って横切ったくらいで、それ以外は静かだ。物音もない。
次の間に向けていた顔を戻し、無心でそこに折りたたまれている自分の服を見詰める。
…。
再び数秒待って、やはり静かで、この室内に自分以外は誰もいないのだと知る。
左手が、枕から離れ、横髪を掴むように自然と左のこめかみに行く。

「……。……ほ――」

ひく…と、喉が震え、

「――ッらあーっ!こーなるじゃんかーっ!!」

続く言葉は、気付けば滑らかに出て来ていた。


悪食




感情が生まれるより先に言葉が外へ向かって逃走し、独り大声で叫く。
右手も左手の仲間に加わり、両手で頭を抱え、天を仰いだ。
隣に、檀がいなかった。
隣どころか部屋にもいない。
その事実が、これ以上なく俺の胸を引き裂く。
…て言うか普通に酷くね!?
マジでいないんですけど!

「ほらぁこーなった!いないじゃん!檀いないじゃん!!初夜明けで既に置いてけぼりってどゆこと!? くっそ騙されたああ!檀の馬鹿野郎ーっ!出だしからコレってアリ!? ああもうホント信じらんねー!何だよ男は初めてとか言ってたからあーもーんじゃマジでヤんなら教えてやんなきゃじゃんちょっと面倒いかも~…とか思ってたのにッ!全ッッッ然余裕っつーか余裕の上にがっついてんじゃねーかっ寧ろ俺があちこち痛いし恐かったわッ!手慣れやがってー!突っ込みながら陰茎触りまくるとかソレ絶対男と経験あるヤツじゃん!少しは躊躇え!第一何すんなり指突っ込んでくんだよオカシイだろ!抵抗あんだろ普通野郎未経験者はさあ!ああそーだよ思い出したっ大体アイツが隣にいると女は適当に俺を褒めた後十中八九そっちに流れるんだった!…ってゆーか知ってたッ!俺こうなること知ってた!!絶対こういうオチだってああそうだよ大体検討ついてたじゃん!? だから嫌だったのにああああーっ!もう駄目だ嫌だ!うわああ俺の馬鹿ーっ!!――……。………あ…駄目だ…。もう嫌だ…。死にたい……死ぬしかないもう俺には何もないんだっあああああ誰か俺を殺してくれーッ!!」

布団の端を握って、飛び込むようにまたベッドに伏す。
頭まで布団を被り暗闇に包まれ、さめざめと泣いてみせようとするも、包まれた闇にあるのは檀と雄の匂いばかりで変に心地好く、気が狂いそうになる。
布団の端で口元を押さえ、目を伏せた。涙はいまいち出て来ない。

「うっうっ…。…あーもーっ!これだから嫌だったんだああっ!檀と寝るのはーっ!!」

布団の中で叫ぶと同時に、ドタバタガラシャン、とドア音のような足音のような陶器のような音が聞こえた。
待ち望んだ他者の音にはっとして、布団から這い出て様子を見ようと思ったけど、行動するより先にバッサと布団がはぎ取られる。

「うわ…っ」

一応端を握っていたはずだが、あっさりと掌の中からそれは抜けて、次の瞬間には布団は宙を飛んでいた。
その投げ出される布団を背景に、檀が、ベッド横に両腕を挙げた布団をぶん投げた後の姿でそのまま立っていた。
放った腕そのままに、驚いたようなその顔を、こっちも驚いて思わずベッドに伏せたまま見上げる。

「あ…?」
「…。嫌だったのか?」

呆然と呟く檀の背後で、布団が床に落ちた。
サイドテーブルには、盆に載せられた土鍋が現れていた。いい匂いだが、少し零れている。
同じく呆然としていたわけだが、檀の方が先に動いた。
両腕を下ろし、真面目腐った顔で俺を見詰めて問いかける。

「それは最初だけだっただろ? 俺は二度聞いたぞ。止めるなと言ってくれたじゃないか」
「た、確かに最中は嫌じゃなかったけど!なかったけどよ!? その代わり!今すっげえ嫌だよ!」
「今? ああ……何だ。体調が悪いってことか?」

胸に片手を当てて、ほっと檀が息を吐く。
いやいやいや。何その勝手で安直な安堵。違う違う。

「下すって聞いたことがあるから、腹の中は粗方掻き出したんだがな…。どれ」
「ちょー!いいってッ!どれもこれもない!!」

しれっと腿に触れようと腕を伸ばされ、空かさずその手を払った。
本当は布団の中に再び丸くなりたかったが、払われてしまったので肌も隠せない。
せめてもと左右の腿を密着させ、昨晩のように間違っても足を開かれて腹の中を曝かれぬようには警戒した。
俺に手を叩かれ、檀は片眉を寄せる。

「? 熱っぽいってことか?」
「ぶ…」

さっと檀が俺の額に掌を置くも、掌が大きいので目元も微妙に押さえられた。
その手首を掴んで、叩き落とす。

「ちっがーう!起きてお前がいなくて驚いて焦って鬱ってたの!」
「…俺?」
「フツー先に起きてどっか行かないっしょ!最初なんだからさあっ!」

両手をわきわきさせながら力説すると、一拍置いて、檀が場違いにも破顔した。
改めて片手を伸ばして、人の髪をわさわさ撫でる。

「そうかー。そりゃあ悪かったなあ」
「絶っっっ対悪いとか思ってないだろ!」
「まあな」
「言っとくけど、安吾はそんなことなかったからな!」
「………へえ」

ビシリと言ってやると、それまで笑っていた朗らかな表情のまま、檀の声が低くなった気がした。…ん?
けど、その違和感を尋ねる前に、勝手に気を取り直したようで、俺の頭に置いていた手を下ろした。

「どうだかな。アイツの場合は、ただごろごろしているだけな気がするが……。まあ、いいさ。俺が悪かったよ。次からは太宰が起きるまで横にいることにする。…でもな、太宰。安吾は、寝起きの朝飯なんぞを作ってくれたことがあったか?」
「う…」

どうだとばかりに、檀が片手でベッドサイドに置いた例の土鍋を示す。
うん俺もずっとそれ気になってた。めちゃいい匂いだし絶対旨いやつね。知ってる。

「見ろ。土鍋で出来たて」
「ぐっ…」
「しかもカニ雑炊!」
「おおっ!」

言いながら、檀がぱかっと土鍋の蓋を開ける。
朝霧のような湯気の向こうに、黄金色に卵とじされた雑炊が現れた。
豊富に投入されているカニが、茹でたことで赤く美しくしい刺し子のように主張している。
ついさっきまで食欲なんてなかったはずなのに、芳しい香りに一気に胃が動き出す。
感情のままに、両腕を伸ばして横から檀に抱きついた。

「お前最高っ!」
「だろ? 喜んでもらえてよかったぜ。…まあ、驚かせて悪かったな。昨晩は俺も結構無茶した自覚があるから、お詫びにな」

朗らかに俺の謝を受け取って、檀が背を屈め、片腕で俺の肩を抱いて親しみを込めて額にキスをした。
…おお。
――などと思って顔を上げた俺の口を、不意打ち狙うにしたって完璧な角度で吸ってくる。
初めて親友から受けるその行動に驚く。…いや、昨夜以外でという意味ではあるが。
驚くが、殆ど反射的にふわふわとした唇の感覚に負け、数秒間好きにさせてしまった。ぬるぬると粘っこい舌を絡め合う。
一線越えた感がまた浮いてくる。
あと、自覚あんのね。よかった。
次は是非もっと優しくして頂きたい。
優しくっつーか、優しすぎて辛い。優しくないのも嫌だが、怒濤のように快感の与えすぎも絶対良くない。
程々を狙ってこーよ頼むから。もっと適当でいいよ疲れて眠れりゃそれでいいの。ガチなんだもん、檀。
…ああ、だが何故だろう、俺に執着する友が嬉しくもあるが、早々と胸が哀しみを招く。
この哀しみが杞憂であることを願う意味も込めて、檀の腰あたりの服を何となく片手で握って押す。
それを引き際の合図とでも思ったか、檀が顔を離す。
他者に無理矢理合わせた呼吸のせいで、頭がぼーっとする。
彼が何かに気付き、指先で、ぴょんと俺の横髪の上の方を弾いた。

「寝癖。ついてるぞ」
「え…、マジ?」

両手で髪を押さえてみるが、自分で触る分には跳ねた場所は分からなかった。

「後で水つけて梳いてやるよ。…ああ、そうだ。そこも、編み込まないとな」

頭を抱えるように押さえていた俺の隙を突くように、檀が前髪に指を通す。
まるで撫でられることに慣れた飼い犬のように、その指に身を任せ、俺の髪を通り過ぎていくのを待っていた。
檀の言動は、いつも通りだ。
とても嫌がる俺を組み敷いて神経衰弱を狙い蹂躙した挙げ句、起き抜け不在とか重罪かました奴には見えない。
無駄な足掻きなのだと分かってはいても、俺もなるべく今まで通りの関係でいたくて、"今まで通り"を狙って食に視点を向ける。

「あー…っと…。そうだそれ!うまそ~だな~。よそってよそって!」
「勿論。どれくらい食う?」
「取り敢えず普通盛で。でもお替わりするから宜しくっ!」
「土鍋なんだ。少なくとも三杯分はあるさ」
「え?檀は? 食うっしょ?」
「俺はいい。お前が腹いっぱい食えよ。細いからな。驚いたよ」
「あー…。感想とか言っちゃうタイプ…?」

あっさりと体の話をされ、心に虚無感の風が吹く。
安吾は、言動の話はすれども素材である肉については一切触れない奴だから、話題として馴染みなく居たたまれない。
貧相な体だ。肉付きが悪いのは自分で分かっている。
骨と皮。分かりやすくできている。
体力は、昔からなかった。幸いと言うべきか不幸にもというべきか、労働とも縁遠い人生だった。
盛り上がった二の腕や太股など、俺にはない。
醜男なのも自覚している。
この潰れた鼻を、怖いもの見たさのように鏡で覗き見る日々は、憂鬱でならない。
自慢できることなど、何一つ有りはしないのだ。
その点、檀はいい。
背も高い。顔もいい。肩幅もあるし足も長い。
よく、女が彼の後ろ姿や背中に見惚れていたのを知っている。
昨晩目にした、彼の体が思い出される。
触ると固い肉と筋。密なる肉体は、自然熱も高い。
腕に包まれると、それだけでぬくぬくと温かかった。
体中を愛撫される快楽は、心を許した分だけ膨れあがる。
褥では、受ける奴と与える奴とで自然と分かれるものだが、年長たる俺が一体彼に何を与えてやれたというのか。
結局、指導もまるっきり要らんかったしな!
一握りの後悔さえなければ、きっと最初から最後まで、もっと昇天の如き快楽を味わえたのだろう。
しかし、どんな溺れた人でも、常にその快楽の中に居るわけではない。俺とて、腹上死をしたいわけでもない。
快楽が終われば、朝が来る。
一時の、まやかしの間柄、朝が来れば終わりの仲だと覚悟のない善き夜が明ければ、来るのは無論後悔の朝である。
これは現実への帰還でもある。不安定で未知なる現実への。
あーすればよかった、こーしたらよかった、これから一体我らはどういう関係へと変じるだろうか、という後悔の渦と数々の失敗は、どんな女と寝ようが男と寝ようが、どんなに昂揚し我を見失った夜であろうが、例え今死んでも良いと思える程の愛らしきものに包まれていようが、決まって、翌朝には俺を苦しめた。
それは当然、昨夜も同じだ。
今はいい。
だが、ここから檀は俺に飽き出すだろう。
離別への道だ。
体を繋げたために、俺は、大切な友人を一人みすみす失うのだ。

「…男は骨と皮だけで、詰まらなかっただろ」

半ば自棄に入っていた。ぽつりと呟く。
檀は、俺が思うよりずっと自然と返してきた。

「そりゃ無論質感は女と比べりゃ固いが、そんなものは承知の上だろう。寧ろ、思っていたよりも柔いと思ったぞ。細くて軽くて、掴みやすかったし持ち上げやすかったしな」
「…。いやっでもさでもさっ、膣があるわけじゃねーから、突っ込む方は別に愉しくなんかないだろ!? 野郎は抱かれる方はいいが、抱く方はそうでもないって言うし!」
「誰が言ったんだ、誰が。余程心ない、さもしい交わりしか経験ないんだな、そいつ。そう思うなら、その程度だ。男は諦めて、素直に女にすりゃあいいだけの話だ」

雑炊の入った椀を俺に手渡しながら、檀が笑いかける。

「俺は、お前と寝られて嬉しかったぞ」
「はっはーっ。嘘だねー。いいっていいって、そういうの。俺相手にそういうのいらないってー」
「どうして。お前だからこそだろう。本当だぞ」
「はいはい、どーもどーも」
「太宰」
「…。…マジでいいんだよ、そういうの。寝起きに面と向かって『お前は最悪だった』なんて言う奴、いないんだからさ。大体はおべんちゃらじゃん」

檀は、困ったように笑って、大袈裟に肩を竦めた。

「証明が必要そうだな。…そうだな、なら、今俺に『もう一回』と言ってみてくれよ。お前が許してくれさえすれば、今すぐにでもまた抱きたいくらいだ。太宰が、飯や休憩は要らん、後でもいいと言うのなら、俺は正直そっちの方が嬉しいんだがな」
「…」
「ほら。証明してやるから、言ってみろよ」

檀を見上げても、彼は正面から俺の視線を受けて立つ。
何の気負いも嫌味もなく、きっぱりと言い切る檀に感動する。
…ああ、いいさ。例えこの先が離別でも。
それに、一夜寝てしまったからにはもう何を言っても無駄だ。
しかし、檀が俺に飽きるまでの時間は、きっと側にいてくれるはずだ。
檀の興味が失われないように滑稽に踊れば、その時間は長くなるだろう。
もしかしたら、この閉鎖的な環境ならば、俺に飽きたとしても外と違って友達くらいは続けてくれるかもしれない。
気心知れる相手ということもあり、胸のわだかまりがくしゃりと崩れる。

「…うううぅ。檀~!」

俺は湯気立つ椀を受け取らず、再び、檀の腰に抱きつく。
ぽんぽん、と檀が俺の肩を叩く。

「うあ~。俺もうマジで安吾じゃなくてお前にするわ~!」
「おう。そうしろそうしろ」
「でもカニ雑炊は捨てられないから先にそれ食わせてくれええ~っ。あと起き抜けに二回目とか連続はちょーっと無理だからっつーかもう少なくとも二回は終わってる気がしなくもないっつーか、とにかく次回があるとしてももうちょっと優しくスローリイに抱いてくんないっ? 昨日すっげー怖かったんだけど!」
「ん? …おお、そうか。悪い。やっぱり痛いもんなのか?」
「いやもぉめちゃくちゃ弄り倒して慣らしてくれたから痛かなかったんだけど!だけども!?やってる途中圧が凄いからお前!何かもうがっついてくるしっ!こっちは狼に食われる幼気な赤頭巾の気持ちだからな!」
「そうか。気をつけないとな。肉体がこうも若いし、気力も精力もまあ比例しちまってる感じはあるが…。それに、安吾の件を聞いたから、無意識に張り合う気持ちが生じたことは否めねえな」
「安吾はンな若気ないから!ねちっこいエロ中年だから!」
「俺たち、そこまで年齢離れてないと思うがな」
「イヤもう奴は駄目だね!精神的に永遠の中年だ!アイツに青少年的純真さは期待できない!」
「そうか? 結構持ってると思うけどな、青少年的純真さ」
「いやいやいや、アイツの絡みしつっこいんだからな!お前も一回寝れば分かるって!」
「安吾とか?」
「そう!」
「んー。どうだろう。果たして勃つかどうか…」
「…。何ちゅー会話しとんねん、お前ら…」

不意に乱入した関西弁に、檀の腰に抱きついたまま寝室の出入り口を見る。
俺と檀の視線の先には、いつの間にか入って来たのか、右肩をドア縁に寄りかかせて気怠く立っている織田が腕を組んでいた。

「あれ、オダサクじゃん」
「おうおう。昨晩はお楽しみやったみたいやなぁ。仲睦まじくてええこっちゃ。檀クン、借りてた本、そっちの部屋のテーブル置いたで。言うとくが、一応ノック済みやからなー」
「しまった…。習慣付いていないから、錠をかけ忘れたな」

不意の来訪者に、檀が顔を顰める。
取り敢えずくっつくのを止め、ベッド上に胡座をかいて座り直しした俺の手に、檀がてんと椀と蓮華を渡した。
受け取った掌が、雑炊の熱でじんわりと温まる。
そういや、個室のドアには一応錠と鍵が付いているが、使っている奴がどの程度いるだろうか。

「べっつによくね? 俺、部屋はいつも開けっ放しだけど?」
「そりゃ、俺もいつもは気にしないが…。…昨夜はどうだったか記憶がない。ひょっとして、開けっ放しだったか…」
「男二人が懇ろになっとる間くらい、しっかり錠かけぇや。こっちも最中にうっかり入りとぉないわい。…あと檀クン、飯もええけど、太宰クンにはまず服着せたらなアカンよ。風邪ひくでー」
「ん? …ああ、そうだな」
「まあ、ひかんかも知れんけどなぁ?」
「何それ。馬鹿ってことかよ」

言外に『馬鹿は風邪引かない』と言いたげなっつーかほぼ言ってる織田が、俺の座るベッドの目の前へ、爺臭く屈み込む。
屈んだ片膝に右肘で頬杖を付き、くりくりとした面倒見のいいツグミのような瞳が、湯気を吹き吹き雑炊を頬張る俺を見上げた。
つーかめちゃ旨…。
檀の雑炊の味だ。
実際に檀の雑炊だから、当然だけど。

「何や太宰クン。次は檀クンにしよったん?」
「ほお。ほーあんほほは寝なひはは、ほへ」
「あー。捨てられたかぁ、安吾。…ま、ええんちゃう? どー考えたかて檀クンの方がええわ。せやけど、その素っ裸でうろちょろする癖止めぇや。起きたら自分で服着ぃて逐一言うとったやん。まだ直ってへんのかい」
「んー?そうだっけ? …て、ああーっ!俺のカニ雑炊ー!」

ひょいと、屈んでいた織田が俺の隣に座る。
…と思ったら、息で風を送って冷ました蓮華上の一口分を、俺の手首掴んでそのまま口に含むという強奪を働いた。

「ちょっとおお!俺のなんですけどー!?」
「ええやんか、一口くらい寄こしても罰当たらんで。…しっかし、ごっつ旨いやんこれ!」
「俺の!俺の雑炊ですから!せめて一口許可を取ってからにしてよ!」
「ちっさいわー、檀クン…」
「頭ぽんすんなー!つーか俺のが年上じゃん!?」
「そんなん死んだ後なんやから、関係あらへーん。寧ろ今の今で言うたら、先に転生しとった俺のが年上ですぅー」
「……おい。ちょっと待て」

ベッド横に畳んであった俺のシャツを広げていた檀が、ふとその作業を止めて俺と織田を交互に見た。

「どうにも聞き捨てならないんだが…」
「あ?」「何がや?」
「"逐一言うとったやん。まだ直ってへんのかい"…の部分が」
「…?」

俺と織田が聞き返すと、真顔で檀が返してきた。
檀が何を言っているのかよく分からなかったが、織田には分かったらしい。俺の隣で、頬を軽く掻いた。

「んー。そない言われてもなぁ。ワシ初期組やしー」

思い出すように織田が目を伏せる。

「後から太宰クンが来よったんやで。当時の太宰クンいうたらアンタ、破れかぶれもええトコやったで~。まあ、いっちゃん先に佐藤センセおったしなぁ、ンなとこ喚び出されてただでさえ混乱のとこ、人間関係ゴタゴタのグチャグチャで、どーにもしんどかったのは分かるけどなぁ…。ま、ホンマ最近はマトモになって良かったわー」
「ふ…。まあね。大人ですから、俺」
「大人は自分で服着るっちゅーねん。どーせ下着も穿かせてもろたんやろ」
「うっさいなあ」
「…。太宰」
「ん?」

檀が、滑り込むように織田とは反対側の隣へ腰掛け、俺の脇に両手を差し込んだ。
蓮華を咥えたところ、ぐっと子供をそうするように一度持ち上げられ、くるりと九十度回転の末、横向きに座る檀と向かい合う。
仕方なしに、口から蓮華を抜くと、当然という感じで、檀が食器と蓮華を横のテーブルに置いてしまった。

「え、何?」
「お前、寝ているのは安吾だけって言わなかったか?」
「は? 安吾だけだけど?」
「オダサクが、お前と寝たことがあると言ってるぞ」

オダサクを指差して、檀が言う。
指の先で、オダサクが片手を挙げた。
…え、言ってた?
てか、今その確認必要? いらなくね?
一度織田を見て、檀を見る。

「それはさー、ずっと前の話っしょ?」
「せやなぁ。ずーっと前の話やなぁ」
「……」
「今は安吾だけだし」
「安吾が来てからは、アイツにパスしたったんや。中也クンとの仲裁しとったんやけど、飲んだくれ組とちごて毎晩毎晩あそこに長時間はおられへんもん。程々のところでええ加減飽きるわ。太宰クンの後に安吾が来てんねんけど、安吾も最初は淡々と不安定やったからなー。アイツもあー見えて自分大切にでけへん奴やし、誰かに寄っかかられる方がシッカリするタイプやしなぁ…。ほんなら丁度ええわ、また薬始める前に太宰クン投げたれーってな。我ながら名案やったわー」
「まあな。否定はしねえよ。……んで、暫くは俺が面倒見てやってたってワケ」

不意に低い声が乱入した。
体を傾け、正面にいる檀の横から顔を出すと、寝室のドアの所に安吾が行く手を塞ぐように片手を伸ばして立っていた。

「あれ? 安吾まで。どうした?」
「檀がお前の為に朝飯作ったって聞いたからな。そろそろできたかと思って、ご相伴に与ろうって魂胆だ。酒も飲み終わったし。…あと、ヤられたお前の様子を見にな」
「えー? ううっわ。引くわー」
「完っ全に悪趣味やな~。デバガメ根性丸出しやんけ」
「何とでも言え。しかしまあ、朝っぱらからわーわー叫いて飯食ってるようじゃ、心配無用だな。あと服着ろ、お前。風邪引くつってんだろーが」
「あーそれワシも言うたわ」
「だーもー着るってーうっさいなー」

二人に言われると、さすがに肩身が狭い。
檀の腕に俺のシャツがあったので、それを預かってもそもそと袖を通し、ボタンを上から留めていく。
室内に入ってきた安吾が、織田を見た。

「…んで? そう言うオダサクは何でいるんだ? お前だってデバガメじゃねーか」
「ワシはまるっきりの偶然やで。変態のオマエとはちゃうねん」
「馬鹿言え。誰だって自分以外は皆変態だよ……と。…おお、カニ雑炊か。いいね~」

ベッド横のテーブルに置かれた土鍋を見つけた安吾が、我が物顔でひょいと取っ手を握って持ち上げた。
そのまま、さっさとテーブルやイスがある隣の部屋へ持って行こうとする。
織田がそれに便乗し、跳ねるように立ち上がった。

「ワシも!めっさ旨いで、それ。こんなん作ってもろて、贅沢なやっちゃなー」
「皿と蓮華足りねーな。持って来るか」
「あーっ。おいおいおいそれ俺のだからな、俺の!」

シャツのみ着終わったところだが、そんな調子で二人と土鍋が移動を始めてしまったので、盗られやしないかと、胡座を解してベッドを降りかける。
俺の愛しのカニ雑炊!
あいつらのことだから、油断してると全部食いかねん俺まだ小盛一杯しか食ってねえのに。

「なあ!ちょっとならいいけど、少なくとも半分は俺のぶ――」
「太宰」

片脚下ろして立ち上がろうとしたところに、再び脇下に両手を差し入れられ、また檀と向かい合わされる。
苛っとし、勢いよく檀を見上げた。

「ちょ、何!? 俺のカニ雑炊のピンチなんだけど!」
「後でまた作ってやってもいい。それより、他にはいないな?」
「他ぁ? 何が?」
「現実具体的に、ここに来てから寝た奴だ」
「ねたやつ…?」

檀が妙に真面目に問うてくるが、やっぱり言っている意味がすぐに分からなくて、一拍置いた。
やがてそれが、「今までに関係を持った奴」という意味であることに気付いて、ぽんと左手の拳を左手の受け皿に落とす。

「ああ、寝た奴? ……え? 何。それって"今までの"って意味?」

檀は、否定も肯定もしなかった。
ただ、俺の返答を待っている。
う…。圧が…。

「えええええ~…。ちょっと待って。なー。俺ってお前ら以外と寝てたー?」

檀の視線が痛くて、首を伸ばしてドア付近で取り敢えず足を止めていた安吾と織田に聞いてみる。

「知らねーよ。お前のが先にここに居るんだから。オダサクに面倒見てもらう前はどうだったんだ?」
「んー? ワシがおったし早々あちこち寝とらんやろ。まず芥川センセに行かせへんでーいうて目ぇ光らせとったわけやし、菊地センセがめっちゃ気にしとったしなぁ。まあ、端から相手にされとらんかったからええにしても…」
「そんなことない!芥川先生と俺はここの顔よ!? 会えなかった現世の頃を思えば、めっちゃ仲良くなったし心の師だけじゃない現実的な師として今尚崇め奉――」
「それに佐藤センセとはそれどころやあらへんかったやろし」
「オダサクが知らねえんじゃ、いねえんじゃねえか?」

ガン無視…。
淡々と会話を続ける安吾と織田のあんまりな反応に、ぱたりと俺はベッドの上で横に倒れた。
倒れる直前、檀が片腕で下を支えたんで、勢いよく倒れるということはなかったが、そのまま横に寝っ転がる。
泣き真似をしようかしまいか考えているうちに、織田がパチンと指を鳴らした。

「…ああ。せやけど結局、井伏センセはどうやったん?」
「井伏先生? お前、太宰の周辺よく見てたんだろ。何でそこだけ知らないんだ?」
「いやー、あの人やったら任せといても変なことにはならんやろ。何なら安吾来んかったら任せとこー思とったくらいやし」
「ああ…。それでノーマークな」
「太宰クン自身が覚えとらんかったら、なかったんちゃう?」
「……んー。どーだったかなー…」

寝てないと思うが……うーん。酒に潰れて先生の部屋で介抱してもらった時はあった…。
えー…? でも酒の勢いなんてノーカンじゃね?
そんな昔のことなんて覚えてないんですけどー。
呻り出す俺の助け船じゃなかろうが、織田がのんびりと言う。

「せやけどなぁ、檀クン。そっこまで遡って考えることもあらへんとちゃうかー? 経歴なんぞ関係あらへんやん。確かに太宰クンは誰かおらんとっちゅー性質もあるけどなぁ、ここに来てからは他の一部のセンセらみたいに、同時に二人三人ってワケやないんやから、まぁまぁ可愛いもんやで」
「だな。過去の奴まで浮気だ二股だなんて気にしてたら、人間誰だって多淫になるぞ。お前だってどうなんだ? 生前、細君いただろう。それはいいのか?」
「そういう表面的な話じゃない。そうじゃなくて……」

織田の助言と安吾の意見に反論するも、檀の圧が薄らいでいく。
さっきまでの獅子のような雰囲気は、まるでこれから叱られることが分かっている犬の様になった。
檀が少し気分を害していることは分かるが、俺にはそれが理解できない。
…いや、何に対して害したのか、は明白だ。俺が、織田と寝ていたと聞いた時だ。
他にもいるかもしれない、という疑い自体にも害していた。話をしている間、じわじわと眉が寄っていった。
檀はそれが気に障ったようだが、果たしてそれが彼にとって何の落胆となるのだろう。
人は、一人で誰かを産み育てることはできない。
子を一人成すには、それだけで男と女が要る。
他者は、必ず誰かの手垢で多少なりとも汚れているものだ。
生娘さえも、その肉の内側にある精神は、誰かに溺愛され嬲られ愛され貶され完成された。
無垢なる赤子はオギャアと生まれた瞬間から、時と共にあらゆることに染まり蝕まれ毒されて、いつしかそれを「成長」と呼び、死へと向かっていく己の気を紛らわせる。
一生涯を終えた俺たちが、一体何を清らしいと誇れるだろうか。
沈黙する檀が哀れで、また、これから用済みになるであろう俺自身もまた哀れで、怖々と声をかける。

「…えーっと。…ごめん、ちょっと解んないんだけどさー…。オダサクとも寝たことある俺と寝るのは、やっぱ嫌だったな~、ってこと? だよな?」
「…! いいや、違う!」

驚くことに、この質問には檀は即答した。
しかも、驚愕した顔で視線を上げた。まるで、冗談じゃない、とでも言いたげに。
…え、違う? 違うの??
俺が安吾以外とも寝てたのが嫌なんじゃなくて?
じゃあ何にそんなにがっかりしてんの。マジで全然解んねーんだけど。
檀はぐっと右手を拳にして、疑問符浮かびまくりで鼻の奥が早くもツンとしている俺に詰め寄ってくる。

「違う、太宰。そうじゃない。そうじゃなく…」

勢いよく言って、尻が窄まる。
彼には珍しく、はくはくと何かを言おうとしては止めを二回ほど経て――、

「ただ……。ただ、悔しい…っ」

ぐっと瞑った檀の目尻から、一筋涙が流れた。
ぎょっとして、驚きに肩が跳ね上がる。

「え、なん――」
「うん?」
「何や?」
「わー!わー!?ちょっ、ちょーっとお前ら向こう行っといてくんない!? 頼む!」
「雑炊食ってていいか?」
「だー!ええい好きなだけ食っとけ畜生ーっ!」

檀の腕にかかっていた俺のベストを取り上げ、それを檀の頭にかぶせた。
かぶせてみるも、小さすぎて全然隠れませんけどね!
仕方なく、ぎゅっと檀を抱き締めてその顔を俺の肩にかける。
檀も男だ。涙なんぞ、無論なるだけ見られたくないだろう。
安吾と織田は察したらしく、思ったよりすぐに隣の部屋へ行き、ついでにドアを閉めてくれた。
どきばくしながら、俯いて涙する檀を抱き締める。
…いつも慰めてもらうのは俺の方だから、吃驚した。
自分より大きい背中を、温めるつもりで精一杯腕を回す。
さめざめと涙する檀は意外で、どうすればいいか狼狽えてしまう。

「よーしよしよしっ、いい子だな~檀~。急にどしたのよ?」
「……俺が…、もっと早くに…、来られればよかった…」

片手で目元を押さえ、檀が零す。
正直、意味が分からない。

「いやいや、何言ってんだよそんなんいいってー。もうこうやって再会出来たんだからさぁ~。昨晩もそうだったけど、何でソレそんな気にしてんのさ」
「…俺の…招魂の順序が遅かったのは…、きっと、文学に対する貢献や大衆の認知が低かったからだろう…。俺の小説が……お前を書いた小説が、きっと、力不足だったんだ…っ。……自分が不甲斐ない!」
「はああ!? ンなこと無いって!何気弱になってんだよ!順番なんて、あんなの適当だって!あぁホラ館長とか猫とか司書とかがさぁ、テキトーにぱぱーっとやってんだよその時の気分か何かで!だから偶然!たまたま!!」

ばしばしと檀の背中を叩く。
だが、彼は俺の肩で弱々しく首を振った。

「お前が…苦しんでる時に、俺はいつも傍にいない…。気付いた時には酒に溺れていて、お前の暗い穴は見えていたのに、かといって一緒に死ぬこともできず、巧く並べもせず、ただ、お前から与えられるお前の内面が欲しくて……けど少し距離を置いたら、いつの間にかお前は死んでいた…」
「――」
「お前は、いつかきっと死を選ぶだろうと思っていた…。そして、誰かと死ぬだろうということも解っていた。……そこまで解っていて…、俺は……ふらふらと…」

すっと己が冷えたのが分かった。
まるで俺ではない別の、人間めいた何か別の本性が、珍しく深淵から浅瀬に現れ、檀の声に耳を澄ませていた。
傲慢だな、と思った。
この男は何故、俺が死を選ぶ時に、傍にいさえすれば、何の疑いもなく自分を連れて逝くだろうだなんて思っているのだろう。
そんな選択は、初めから有りはしなかった。
生前、彼の、俺に対する好意の証明に、俺は一定の満足をしたのだ。
であるから、もう連れて逝く気は更々ない。
そんなことをしたら、俺を真に愛していたかもしれない数少ない人間が、更に一人、地上から差し引かれてしまうではないか。
そんなものは、俺にとって、損害に他ならない。

「……あのさあ、檀」

檀を抱いたまま、口を開く。
声は、やはり別人のように落ち着いていた。

「俺は、ここに来て、お前の書いた俺の小説を読んだよ」

檀が息を詰める音が聞こえた。
誰も、何も言わなかったから、俺はそんな本があることを知らなかった。
それでも、俺の死後に書かれたその本は、背表紙だけが並ぶ古びた純文学の棚の中で、声を上げているようだった。何の目印があったわけでもないが、棚の前を通った瞬間、足を止めた。目が合った。
勢いに任せて読み耽った一晩。
恥ずかしいような、みっともないような、しかしそれに勝る感動があった。

「お前は、俺が思うより、ずっと俺の深いところまで承知してたんだなって、驚いたんだ。…で、だ。皮だけじゃなくて、そこまで解っていて、解った上で俺のことを慕ってくれてたんだって知った時の俺の感動は、お前なら、予想が付くんじゃないか?」
「…」
「俺の方がずっと、檀の皮と表面ばかり見ていた。俺を慕ってくれるけど、それは俺の皮ばかり見ているからだって、ずっといい仲でいる為に、たぶん、考えて動いていた。人間は皆、理解し合うなんて無理だと思ってたし、今も思っている。誰も俺を理解はしてくれない。愛してくれるような素振りはするが、それじゃあそれが偽りではない証明をしてみせろと言いたくなる。誰かに解って欲しくて、どこまで俺を信じてくれるのかを試したくなる。孤独は、生きている限り付きまとう。結局、誰にも理解されない苦しいだけの生なら、もうここぞという時に終わらせるに限ると思った。…人は善きもので解り合う。そうであったらいいと思うけど、どうにも信じられない。…俺は、悪しく醜く浅ましい」

檀の肩越しに視線を上げて、正面を見る。
ベッドの横に、薄ら笑いをしているもう一人の自分が立っているような気がした。今度は、檀をどうやって試してやろうかと、常に残酷で意地悪なことを考えている。
また、一緒に死のうよと言ってみようか。
名案のようでそうではない。檀は、もうそこはとっくに飛び越えたのだから。
もう彼の命は生前に一度貰ったことがある。それに、今のこんな場所では、死は何の証明にもならない。
もっと、死以上に、彼を試せる名案はなかろうか…。
そんなことを考える、もう一人の自分だ。
最悪過ぎる。

「…けどさ、檀はさ、そんな俺でもいいんだろ? それでいいんだって、皆に広めてくれたんだろ? それはもう俺、識ってるんだよ。…んでさぁ、今俺がそれ識ってるのって、檀がちゃんと書き遺してくれたからじゃん? お前は、俺にとっての偉業を成したわけよ」

俺は陸でもない男だ。反吐が出る。
けど、この陸でもない男だということを、驚くべきことに、檀はすっかり解っていたのだ。解った上で、俺が好ましい、美しいと言っていた。
その衝撃といったら、言葉に出来ない。
こんな醜い男の感情を喰らい、それを包括する檀の懐こそ、怖ろしいものを感じもする。
何という悪食だろう。
偏に悪食以外の何ものでもないように思うが、それでも、彼に書かれた小説によって、多くの人々に俺の内面が察せられた。
多少、理想的解釈がないでもなかった。いやいやそこは違うぞと赤字入れてやりたい箇所もいくらかはあった。
だが、俺は、檀のお陰で、多くの人にこの醜く浅ましい心を知ってもらえ、内何割かは、この歪な心を理解してくれたかもしれない。
全て、俺の死後だ。ここに来なければ、俺はそれを知らなかった。
でもきっと、俺が死ななければ、檀はあれを書かなかっただろう。
檀が書いたから、俺の孤独は、間違いなくそれで和らいだ。
俺が死んだ後に書いたあれこれは、もう俺には届かない……ということを、解っているはずなのに、檀は書いた。
あれは、檀の主張だ。
俺に対する想いというよりは、世間様に「太宰治はあれでいいのだ!」と、声を大にして真っ向から言い切った。
決して俺自身には届かない主張だからこそ、余程おべっかではない、彼の本心だと解る。
浅ましき俺の死が、小説家としての檀一雄の肥やしとなれたのなら、それもまた、この上ない幸いに思う。
循環端無きが如し。
死が生を活かし、生は死を癒やす。
檀が書き遺してくれて、俺は癒えた。
円環の如きこの因果は、きっとこの男と出会った瞬間から今まで、一つとして誤ったら完成されなかっただろう。
俺たちは、きっとこれが正解だったのだ。

「……おお!てゆーか、そーだそーだ!小説のお礼を、言おうと思っててすっかり忘れてた!」

辛気くさい雰囲気は御免だ。
さも思い立ったかのように大袈裟に言い、俺は俺を取り戻し、檀の背中を叩いた。
檀が、控えめに顔を浮かせる。
ぎゅむ、と改めて己より大きなその体を一度強く抱き締める。

「小説!ありがとな、檀。俺の真の理解者がいるとしたら、間違いなくお前だよ」
「…。太宰…」
「いやもぉ確かに手垢つきまくりかもしれないけどさー。まあまあ、男の初めてなんて面倒いだけだし、逆にラッキーくらいでいいじゃん!順番なんて気にすんな。文学的貢献度なんて、ンな小難しいこと考えてるのはお前だけだって絶対。そう自分を貶めるなよ……て、俺が言えたモンじゃないかもしんないでーすーけーど?」
「…」
「ほーら、顔上げろってー。よしよーし。檀は、ちゃんと選ばれてここに来てんだからさ、もう細かいことはいいじゃん。もうさ、暫くはお前にしとくから俺。な?」

俺から体を離し、涙の残る、まるで少年のような瞳で檀が俺を見た。
いい雰囲気ではあったので、これは口吻だろう。
任せろ。空気読める男ですから、俺。
…と思って見守りながらも待っていたが、彼は片腕で豪快に目元を拭い、すっくと立ち上がると力強い足取りで隣室へのドアへ向かい、それを開けて見えなくなった。

「う…?」

え、ここで立ち去る?
……と思ったが流石にそんなことはなく。

『悪いが帰ってくれ。すぐに』
『うわちょ、雑炊零れるて!』
『何だ何だ。盛り上がっちまったか?』
『そうだ。もういい、その土鍋ごとやる。とにかく出て行ってくれ』
『おーおー。若いねぇ』
『ほな今回はしっかり錠かけぇやー』

隣室からはイスの脚が床を滑る音や軽い食器音、会話が聞こえてきた。
どうやら檀が、織田たちを雑炊共々追い出したらしい。
…ああ。さらば、俺のカニ雑炊…。
芳しき香りだけを残して消えゆく…。
いやそれ以前に、二人を追い出すってことは…追い出すってことはさ……。

「…」

嫌な予感がして、さっさと着衣しようと試みる。
だが、さっき檀がぽいしたせいでベッド上へ散っている衣類をそそくさと集め、我ながらもたもたとズボンに片足通したところで檀が寝室へ戻り、さーっと俺の隣に座ると同時に俺を膝に横抱きにしやがり、穿きかけていたズボンは抜けた。

「げえっ!いやいやいや檀!!ちょっと待って俺今む――んぶっ!」

あっさりと口が塞がれる。
昨晩の間に、檀はもうすっかり俺の舌の形と厚みを覚えていた。
苦しいくらい気持ちが善い。腰を抱く片腕が触れるだけでむずむずとする。
何をしても許されるという抱擁感。もうどうにでもなれという快楽への誘い。
ただでさえ朝勃ちしているというのに、度重なる口吻でシャツの影に隠れた下着を持ち上げ始める。

「…ありがとう、太宰」
「ふ……へ? あぁ、小説? うん……本心だし、いつか言わねーとと思ってただけで……て!待てーい!」

檀が股間に手を置き、それだけで腿がびくりと震えるが、それは快感からではない。
待ち望んでいる俺も確かにいる。いるけど!
体力の問題!
こんな草臥れた体で何ができるよできねーよ!筋肉痛になるじゃん確実にさぁ!
つーか今もう既に体がガチガチなんですよ実は!
ここから昨夜のような時間がまた訪れると想像しただけで、正直青くなる。
下着の中へ入って来そうな手首を、がしっと片手で掴んで力を込める。

「駄ぁ目だって馬鹿!キスだけキスだけっ!」
「悪いが俺も駄目だ。今だけは耐えられない。頼むから『もう一回』と言ってくれ」
「言わねーよっ!確かにいい雰囲気だったかもしんないけど、やる気はないから!よしよしするだけなんですー!だって俺もうくたくたなの!あと腹減ってるから!俺のカニ雑炊もっかい作って来てよ!?」
「後でな。それより、言ってくれないと強姦になっちまうぞ」
「恐ぁあっ!それ俺が何言っても止める気ないやつじゃん!」
「ああ」
「ああとか言っちゃう!?」
「お前を丸ごと喰えたらいいのにな…」
「ちょっとおお!カニバは絶対止めてよ!? 趣味じゃないから俺そういうの!」
「分かってる」
「何、本気!? マジで即行二回目したかったの!?」
「さっき言っただろう。できればそうしたいって」

済し崩しに押し倒され、シャツと下着のみという情けなく中途半端な着衣のまま再び揃ってベッドへ倒れる。
もうすっかり檀は興奮状態らしい。まだ幾分柔らかいが、昨夜に近い。
びしびしと動きを封じる圧が強く、感覚の全てがこっちを向いてることが分かる。
俺の一挙手一投足を見逃すまいという瞳だ。
例えば、俺が逃げだそうとしても捕まるだろうし、同時にその瞳は、俺が善いと微かでも感じれば、それもまた見逃しはしないだろう。
いつの間にか脚の間に胴体を滑り込まれ、閉じられもしない。
半ば恐怖、半ば諦めの心境で、転がったまま両腕で顔を覆った。

「だああもう嫌だあぁ~。回数多いと飽きも早まるじゃん絶対!ここ来てからこんっな若造みたいな頻度で抱き合ったことないから俺!いーんだよっ、鬱ってる時にだけちょろっと適当に相手してくれればさあ!」
「まだそんなことを言ってるのか…」
「いや真理だから!最初だけなんだってその瞬発力は!ずっと続いていけるなんて思ってんのも今のうちだけだから!肉欲なんて絶対そんなもんだって!」
「肉欲が終わっても、他のものが残るだろう。飽きは来ないと思うぞ」
「来るよっ!……て、あーあーあー…」

てきぱきと折角留めたシャツのボタンを上から順に外されていくのを、腕の間から怖々見下ろす。
確実に乗り気ではない俺の表情に気付いたか、檀が俺の腕を退かし、首を伸ばして再び口を吸う。

「っ、ぅ~…」

舌を嬲られ、顎や首筋にへあやすように口付けされ、元々勃っているその場所を手で刺激されれば、気分じゃなかったとしてもどうしても抵抗できなくなる。
実際、気持ちはいい。
それに、先述するあれこれの諸事情により乗り気じゃないが、一方で、求められて嬉しくないわけではないのだ。
檀の左肩に右手を置き、檀の唇を顔を背けて逃れる。

「…や、止めよーぜ~、檀。な? 触ってもいいけど突っ込まないでよ…。あっ、てゆーか俺がやるって!手でやったげるからさ!出せればいいじゃん!?」
「いや、いい。乗り気でないお前にそんなことはやらせられないし、俺がお前を抱きたいからな」
「散々やったじゃん!? 頼むよマジで!じゃないとホント俺馬鹿になる自覚あんだから!何も思考せずぐずぐずのどろどろでお前にしがみついて腰振るしか出来ない俺なんて見たかないっしょ? 無様すぎるじゃんそんなの!お前の理想たる俺は何かもっとこーホラ、賢く格好いい違う感じの俺的な俺じゃん!?」
「どんなお前になろうとも、その時の太宰が、太宰的な太宰だろう。…いいか、太宰。もう俺からは手放さない。お前はもう、どうしようもない晩には、俺の所にくればいいんだ。誰かを殴りたければ俺を殴ればいいし、お前の糧になるのなら殺してみてくれても構わない。抱擁して欲しければいくらでもしてやる。狂いそうな時や泣き喚きたい時も、ここでいいんだ。安吾や織田や、他の先生方も含めて、顔色なんぞ伺わなくていい。それが俺の喜びでもあると知ってくれ」
「ぐ…っ、くううぅ…っ」

断言され、ただ狼狽える。
反論も肯定も待たず口吻。
重!…とも正直思ったが、同時に、その重さが、俺には丁度いいようにも思われた。
檀曰く、ふらふらとどうにかなりそうな不安定な夜の、俺の寝床はもう決まったらしい。
今この瞬間は、別に不安じゃないし寂しくもない。
それは勿論、目の前に檀がいて、こうして俺に暑苦しく迫ってきているからだ。

「だってお前俺が起きる前にどっか行くじゃん!」
「悪かった。もう絶対行かない」
「第一その原因たるカニ雑炊も結局オダサクたちが持ってっちまったし!」
「お前が起きたら、また作ってくる。今度は卵焼きも付けるぞ。それとも、オムレツにするか?」
「あ、それいい。チーズ入れて……て、いやいや!筋肉痛酷くなるし!」
「一日中寝てたらいいじゃないか。筋肉痛になった後は、新しい肉の層ができるんだ。悪いことじゃないぞ」
「そもそも俺気分じゃないんですけどー!?」
「分かってる。だからこそ、そこは俺の腕の見せ所だよな」
「怖っ!ポジティブ過ぎて怖っ!ちょっと誰かああああ!!…ちょ、弄るなってえっ!勃つじゃん!」
「勃たせてるんだろ。…どうする?独りで収めるのか? だったら、俺にやらせちまった方が良くないか?」
「つ…、っん……」

檀の片手が竿を握る。
しかしその手は緩く、動かずに焦れったい。もう片手は対照的に、べたべたと皮膚を嬲る。
檀の手を止めようと己の手を重ねたり手首を握ったりしてみるが、まず手の大きさからして断然に負けていて、止められるはずもない。
ともすれば、自分から腰を動かして筒を作る掌に擦りつけたくなる。
檀が上体を屈め、首筋に吸い付いてくるので縮こまる。
少し待ってみても、唇と手の愛撫は止まる気配無く続くが、一方であやすような他愛もないものから進まない。

「ほら。どうする、太宰」
「どーもこーも…ぁ…、ヤる気、満々…じゃん……っ」
「ああ。お前が好きで、その証明をしたいんだ。…なあ。頼むよ。同意がないのは辛い」
「いやいや、お前これどこが同意求める態……どっ」

唸る俺を宥めるために、のど仏を舐め上げられ、ベッドの上で顎を上げて背が反れる。
気持ち善いのと同時に、服従させられる些細な恐怖心が感覚を高める。
女と寝るのと違って、男相手はこの力負けの些細な恐怖と敗北感が快感に数滴混じって麻薬となる。

「ぅ…やだってぇ、檀…。やだ…」
「そう言うなよ。頼む」
「っ…。うぅー…」

葛藤に苦しむ。
肌を撫でる大きな掌が気持ちいい。撫でられていない場所の皮膚が、こちらも撫でろと乞うている。
そうでなくても、昨晩散々弄り倒された腹の奥が、檀の低い声に期待してじくじくと疼き出す。アヌスが女のように収縮する悍ましい感覚。
左右に開かれたシャツの中央で腹を見せる俺は、捌かれた魚の様だろう。
羞恥よりは、息づかいだけの沈黙に耐えられなくて、やがて根負けし、目を伏せ、叫いた。

「……だーっ!んじゃーもーいーよっ!そんなにやりたきゃもっかいやれば!?」
「よっし!!」

ぐっと片手で拳を作り、檀が破顔する。
邪気のないその言動に呆れつつ、この心底悪食な男を呆気にとられて見上げていた次の瞬間には、あからさまに改めて押し倒されて、小娘相手のように撫で回され、雨霰と接吻が降る。
…失敗した。
げんなりと目を伏せる。
この男は駄目だ。割り切れる男ではない。
安吾は、一晩委ねるには格好の相手だった。アイツは割り切っているから。
けど檀は駄目だ。きっと駄目だ。
その無邪気な笑顔を見て思う。
果たして、コイツは己の感情と俺との関係を割り切れるだろうか。切れまい。
俺の肉を覚えたら、暫くは味をしめて喰い続けたがるだろう。それこそ、若造の時分のように。
だが、いずれ満腹が来る。
そうでなくても、その内に、きっと腹を壊すだろう。
俺を喰い続けて、良いことなんて一つも無かろうに。
ああ、輝いていた友情が遠く霞み行く…。
友情ってそもそもなんだっけ?

「そうか…。ああ…太宰にあの小説を読んでもらえていたなんて、それこそ夢だった…。今のお前に読んでくれと言う度胸は、俺にはとてもなかったんだ。…そうか。読んでくれたのか」
「えー? ……ん。まあ…。つか、お前そっから出てきた訳だしね。読んでなくても、どのみちそこで読んだって、俺」
「後で、感想と添削を是非頼む」
「いや、今更それしたところで…。つーかっ、読んだ上で言わせてもらうけど!」

ばっと片腕を伸ばし、檀の片頬を抓る。

「お前、ホンット趣味悪いよ!」
「そうか?」

頬を抓る俺の手を外側から包み込み、愛おしそうに頬擦りしながらふわふわと檀が笑う。

「俺は、とてもいい趣味をしてる自覚があるぞ」

そのまま、俺の指と己の指を絡ませ、飴でもそうするように柔く食む。
思わず、遠い目になる。
恍惚と俺の名を呼ぶその声は、嘘偽りではなさそうで、どうにも巧く拒めない。
俺の黒い内臓を知って尚喰わんとしているのだから、心配してやる義理などないだろうが。
…果たして檀は、いつまで俺を好きでいるのだろう。
信じてやれよ、と誰かが囁き、信じれるものか、と誰かが嘯く。
生前に、命はもう賭けてもらった。
あの小説があったことで、俺の醜い部分を知った上で尚、俺を好いているのだと識ってしまった。
だから確かに、他の連中よりは、檀は深く俺という人間を想ってくれているだろう。
どうかしているとしか思えないが、きっと、今まで出会った誰よりも、檀が一番"俺"を許し、好きでいてくれている。
まるでその気持ちが本物であるかのように求め慕ってくれるが……まさか、そんなわけがないだろう。
仮にそうだと認めたとして、認めた後に万が一にも檀を失ったら、俺は一体どうしたらいいのだ。それこそ新たな絶望だ。
この世に絶望なんてたくさんあるのに、また一つ自ら生み出すなんて馬鹿げている。
今のこの環境に、余程でない限り死という逃げ場はない。
さあ、どうする。
どうやって、この男の愛を試そうか。
「お前なんか」と言われて傷つきたいが、どうすればいいのか皆目見当も付かない。
時間が経てば、本当に俺に飽きて離れてしまうだろうか。
檀に限っては、あまりそうは思えない。
「あまりそうは思えない」……と自然と思える自分に、愕然とする。

「…」

快感だか苛立ちだか解らぬものに顔を顰める。
嘘だ。幻想だ。
真実の親愛が、こんな身近にあるものか。まして、俺の手になんぞ入るものか。
これは絶望に至る罠だ。今まで何度もかかってきては、その度にどん底に落ちてきた。
信じて、裏切られる。起き上がっては倒される。狂い切れそうなところに来ては、あと少しというところで真っ当に戻ってしまう。
そうやって、足下覚束無く生きてきた。
学習しない自分に、ほとほと愛想が尽きる。

「そう言えば、昨夜はどうだった? 要望があるなら善処するが」

内心打ちのめされている俺に、檀が飄々と聞いてくる。

「えー? …いや、いいよ。十分過ぎるから。気持ち善かったし…。ただし一回だけにしてくんない? 疲れるんだもん」
「一回か…」

しょぼん、と檀が少し眉を寄せる。不服そうだ。
いやいやいいでしょ、一回で。何が不満だ。十代のガキか。

「一度達した後からが、特に魅力的だったんだが」
「いやだからそっからのぐずぐずのどろどろが嫌なのよ俺はっ!疲れんのもそっからなのよ!…つーかその辺は正直どうでもいいんだけどさ、大切なのは、俺が起きるまで横にいて、起きたらカニ雑炊作ってくれってことなんだよ。俺的重要度はそこなの。分かる?」
「ああ」
「一緒に寝たのに独りで起きんのってさー、寂しくて好きじゃないんだよ。夜に燃えても、何も残らないみたいじゃん。その程度の縁しかないっちゃーないんだろうけどさー」
「悪かったよ」
「皆そうやって、段々浅くなるんだ。俺を待たなくなる。それでさ、気付いたらいないんだ」
「そうなのか?」
「そうだよ…。朝になりゃ、誰だってもう、大事なのは自分のことなんだ」

俺の体を抱き締め、弄り撫でくりまわしながら耳元で逐一に相づちを打つ檀へ、呟く。
一回と言ったせいか、突然触り方が緩やかになりやがった。引き延ばす気満々か。
ただただ人肌が気持ちがいいだけで、快感めいてはなくなった。
性器を握られれば下半身は熱を持つが、上半身にある心臓は冷えていく。
弄られている割りには一定以上にあまり勃つ気配のない自分の下半身を、他人事のように傍観していると、

「つまり」
「へ……どわっ!」

不意に俺の腹に両腕を回し、どかっと檀自身もベッドに横たわった。
背後から抱え込むように俺の裸体を抱き締め、まるで動きを封じるかの如く脚を絡める。
後ろから、そして上から覗き込むように檀が俺を見た。

「お前はこれから、こうやって目覚めればいいわけだ」
「…」
「だろう? 任せろよ、太宰」
「…とか何とか恰好付けて思うのかもしんないけどさ、何回かすれば、檀だってこんな約束忘れるって。人間って、そういうもんだろ。ずっととか永遠なんざ、実際にはありゃしないんだよ。頻度ってのはさ、その都度真価を落としていくんだ」
「それじゃあ、もしかしたら俺は、人間じゃないのかもな」

からりと檀が笑い飛ばす。
驚いた。
そんな簡単な話なのか。
これは、そんなに簡単な論題だろうか。

「お前はこれから、俺と寝る時はこうして起きるんだ。心配するな」

俺の髪を片手で掻き上げるように撫で、目を伏せて、顎を上げて見上げる俺の額へ逆さに口付ける。
その場所だけが酷く熱い。
今胸にあるこれが、何という名の感情なのか、己でも皆目見当が付かないが、鼻の奥がツンとするあの感覚が再び俺を襲った。
……嘘か真か、次に起きた時に、確かめてやろう。
いや。次に起きた時は流石に傍にいるだろうが、果たして何回目で俺との約束を忘れるか、数えてやろう。
いつの間にその気になったのか、再び愛撫に感じ始めた体の内側で、密かに決意する。
冷めてしまった瞳を読まれたか、檀が意味深に笑う。

「何回目で俺が裏切るか、数えてやろうと思っているだろ」
「げっ…。…え? べ、べっつにぃ。そんなこと俺全然ちっともこれっぽっちも思ってないんですけどっ。やっだなー、檀。何言ってんだよ!」
「解るさ。いいじゃないか。数えてみたらいい。…そうだぞ、太宰。その考えは悪かない。この先数える程、俺と寝るんだ」
「そー繋がんの!?」
「そう繋がる。それでその内、お前は飽きて数えることを諦める。諦めた時が、お前の内に巣くう疑念の敗北だ」
「んぶっ」

無抵抗なところを腕の中であっさり転がされ、向きを変えて正面から口付けを交わす。
毒のように甘く痺れ疲れ果てる、とても太刀打ちできぬ圧倒的な時間が来ることを、体はすっかり解っていて、ぞくぞくと背筋が震えた。

 

 

学ばない愚鈍な俺は、再びこうして人道の罠に陥る。
道化は、今日も我が皮膚の上にて健在だ。
罠だと知っていて罠にかかる。滑稽に踊るのが道化なのだから仕様がない。
けれど、道化たるこの俺が腹の黒い陸でもない男で、檀が確かに他にないような悪食ならば、もしかしたならば、一縷の望みを持ってもいいのではないか、とも思われた。
与えられる情愛に似た快楽に、思考が酩酊を始める。
致命的なのは、この酩酊した俺をも好いていると評されてしまったことだ。

はてさて我が疑念はこの男相手に真に敗北するのか否か、実に見物である。
当面、様子を視ようと思う。
件の結果が判明したら、是非とも諸君らにご披露致す意向である。

 



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檀さんと太宰さん、初夜後。
喧しいかまってちゃんに打って付けのゆる束縛家CP。
檀さんが旦那で、坂口さんが間男だといい。
2022.1.15






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