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朝に連絡していた通り、定時になった時計を見て書類を束ねる。
端をクリップで留めて机の引き出しへ入れ、忘れず鍵を掛けてから部屋の端に掛けてあった外套を羽織った。
鞄の留め具を重ね、帰宅の用意を整えてから電話機で内線する。
数回の呼び出しの後、受話器を一度落としたのか、小さい悲鳴とやけにガタガタと鳴る雑音の後で別室の少尉が出る。

『す、すみません…!お待たせしました、ヴァーミリオンです!何かご用でしょうか、少佐!』
「…」

クズ。
内心ぽつりと呟いてから、馬鹿は相手にしても仕方がないと一呼吸置いて口を開く。

「朝礼で伝えたとおり、今日僕は定時で帰る。後処理は頼む」
『あ…はい。でも…終業報告は如何致しま…』
「火急でなければ明日で構わない。以上だ」
『あ…!お、お待ちください少佐…!』

受話器を耳から離そうとした直前、彼女にしては比較的大きな声で止められた。
別段彼女の予定に僕が合わせる必要はないが、その声に呼び止められて再度受話器を耳に添える。
眉が寄ったのは不可抗力だ。
僕は僕以外の都合で僕の予定が狂うことが死ぬ程苛立つ。
その罪人が彼女であれば尚更だ。

「何だ」
『あの、今日はバレンタインで…。その、少佐のお誕生日とも伺っていたものですから…ささやかですがプレゼントを』
「…。僕に?」

一呼吸置いて思わず聞き返す。
予想外の発言だった。
尤も、彼女の立場からは上司への義理を立てて然るべきなのかもしれない。
下らない世間のイベントだが、浸透しているが故無視は難しいのだろう。
わざわざ用意してもらったのならそれはご苦労なことだと思いもするが、これ以上彼女の為に時間は割きたくない。
鼻で笑って目線を下へ流した。

「それはご苦労なことだな。…だが結構。時間もない。気持ちだけもらっておこう」
『え…っと…。お忙しかろうと思いまして、少佐の執務室のドアノブへ掛けておきました。お帰りの際にお持ちいただければと…思いまして』
「…」

否定に続いた彼女の言葉に、今度こそ僕は数秒間硬直した。
問答無用で電話を切る。
鞄を持ったまま、少し足早に応接ソファを横切って内側からドアノブを握り、執務室を出た。
ドアを開けてすぐ握っているドアノブの反対側…外側のノブを見下ろす。
するとそこには、リボンの掛かった小さな小箱が袋に入って金色のノブへ垂れ下がっていた。
…。
いつから掛かっていたんだ…。
ここを通る人間は決して少なくはないだろう。
一体何人に見られたのか、その可能性を思うだけで頭痛がし、一度右手の指先を眼鏡の中央部に添え目を伏せた。
我に返った後は舌打ちしながらノブに掛かっていた袋を取り外す。
金具に袋の一部がかかり、すぐに引き剥がせないのがまた僕を苛立たせ、最終的に袋の取っ手部分を引きちぎる形でノブから剥がした。
まさかこんな女々しさ全開の下らない菓子袋をぶら下げて帰るわけにもいかない。
外袋ごと片手で小箱を握り潰し、そのまま鞄の中へ放り込んで革靴を鳴らして廊下を進んだ。
正面玄関へ至る渡り廊下を渡り、別館の角を曲がったところで、不意に進行方向から来た誰かとぶつかる。

「…!」
「おっと…!」

とん、と軽く相手と触れるような些細な衝撃ではあったが、その拍子に相手の持っていた荷物が一つ床に落ちたようだった。
小物が床を叩く小さな音に引かれて、まずは相手よりも先に床に落ちた者を見下ろす。
此方も此方で、趣味の悪いピンクだとか赤だとかでラッピングされた菓子箱であった。
落下物を見下ろした僕の視界に、見覚えのある相手の革靴が映る。
…さて。嫌な奴に会った。
上げたくない顔を渋っていると、正面からのんびりとした粘着質な声がかかる。

「おやあ。これはこれは。キサラギ少佐ではないですかぁ。ご機嫌よう」

声を掛けられれば、流石に顔を上げぬ訳にはいかぬだろう。
観念して目線を上げる。
僕よりも僅かに背丈のあるハザマ少尉が、両腕にかなりの数の荷物を抱えて僕の行く手を塞いでいた。
左腕に提げている黒の鞄はは任務関係の書類であろうが、左腕に掛かっている洋菓子ブランドや手に持っている小箱や袋の類は見るからに贈与されたものだろう。
彼の為に道を譲る気のない僕は、その場から動くことなく息を吐いた。

「任務帰りか。ご苦労だな、大尉」
「いえいえ。任務はいつものことなので何の苦労もありませんがねぇ…。こっちが邪魔で邪魔で」

相変わらず嫌な微笑みを湛え、大尉が腕に抱えたカラフルな袋の類を軽く持ち上げる。

「少佐は自宅に郵送するようにしているんですよね。私もそうしようかなぁ。…まあ、組織に所属している以上は義理も必要なんでしょうが…。いやまったく、嫌な日ですよ。ええ嫌な日です」
「…」
「おっと…。失礼。そう言えば、少佐は今日がお誕生日でしたっけ? いやぁ、すみません。気付きませんで。どうぞ気を悪くしないでくださいね」
「別段気にしてなどいない。貴様には関係ないことだ。寧ろ忘れてもらいたいくらいだな」

露骨な嫌味はある程度嗤えるものだが、彼の場合は反応すら面倒になって久しい。
両腕を組み、僕は大尉を睨む双眸を細めた。

「酷いなぁ。お祝いくらい言わせてくださいよ」
「いい加減に退け。邪魔だ」
「これは気付かずに。…でもほら。貴方がぶつかってきたから、荷物が一つ落ちてしまったでしょう? 拾っていただけませんかねぇ」
「自分で拾え」
「そうしたいところですが…。私、ご覧の通り両手が塞がってしまっていますから」

眉を寄せて困り顔をつくり、飄々と彼が言う。
僕がぶつかってきたという意見に反論したくもあったが、時間を取られたくないが故に流すことにする。
だが、狭い僕らの間に落ちているゴミを拾う気は更々無い。
まさかこの僕に屈んで足下に伏せというのか。
冗談じゃない。
腕組みを解いて目線を流し、軽く失笑した後、僕は右足の爪先で何処の誰が作ったか買ったか知らないゴミを、横へ蹴り飛ばした。
磨かれた床を滑り、ゴミは廊下の端へ行くと壁に当たって止まる。
眼鏡越しに、改めて大尉を睨み据えた。

「自分で拾え」

再度同じことを言ってから、片手を相手の二の腕辺りに添え、横へ押し出した。
道を開けさせ、空いた正面の廊下へ足を進める。
背後から愉快そうな…実に趣味の悪い笑い声が聞こえてきた。

「あははは。お誕生日おめでとうございます、しょーさ。どうぞ良い日を~!」

耳障りな声に、横髪を一度耳にかける。
機構の持つ駐車場に迎えに来ていた家の者は、僕の不機嫌に些か驚愕したようだった。
自宅へは戻らず、そのまま指定されたホテルへと足を運んだ。
洋装よりは和装の方が動きやすく好いているのだが、着ろと義父に言われ、ホテルの一室に用意させておいたスーツに袖を通す。
襟元のタイを結ぶ度、まるで誰かに首を絞められているように思う。
やはり洋装は好きではない。


Observe my Birthday



「ジン兄様」

花束片手に会場のホテルから出て送迎の車に乗り込もうとした僕を追って、ツバキが出てきた。
着物姿では小走りさえ難しいだろうに。
…送迎の者に片手を上げて無言のうちに待機を命じ、今下ってきた正面玄関の階段数段を上って迎えてやる。
僕の傍へある程度近づくと速度を緩め、ツバキは身なりを気にしながら寄ってきた。
日頃流している髪を今は着物ということで結い上げていた。
それだけでいつも以上に大人びて見える。
根がしっかりしているその性分が、外見や衣類小物の趣味にも現れているのだろう。

「お探ししておりました。なかなかお話できる機会が見つけられなくて」
「そうか。下らない連中が群がっていたからな」
「お誕生日、おめでとうございます。謹んでお祝い申しあげます」
「…。花束、ありがとう」

片手に持っていた花束を少し上げてみせる。
会合の冒頭、ツバキにもらった花束だ。
だがそれ以降は彼女と話す機会は殆どなく時間が進み、今に至る。
この花束を誰が作ったのか聞いてはいないが、恐らく彼女が選んだか、若しくは作ったのだろう。
以前、華道の練習中に話をした時、僕のようだと告げた花が中央を飾っていた。

「もうお帰りになるのですか?」
「ああ。僕はこういう場所は好きじゃない。知っているだろう」
「本日の主役はジン兄様でしょうに」
「主役? …ふん。主役などいるものか。連中は名刺の交換と近状の報告と、ある程度悪巧みの相手が見つかるような場所なら何処へでも参加するだろう」

今日この場所で行われた会合は、間違いなく僕の誕生会と銘打っていた。
しかし、そんなものは建前だ。
誕生日を祝うという行事は決して僕だけの行事ではない。
十二宗家の家長とその跡取りはそれぞれ誕生会を称して会合が開かれる。
頼みもしていないのに事務的に当然招待状が作られ、端から見れば大層な顔ぶれが揃うが、主旨はというと何処へやらだ。
招待された連中は僕への祝言とプレゼントの贈与が終われば任務終了といったところか。
後は、各々私利私欲、または自己都合を収めようと話し相手を選んでは寄っていく。
形ばかりの会合だが、そういう政的な意味では重要なのだろう。
僕の名前が使われるのは些か不愉快だが、主旨が伴わない為、主役であろうと後半途中で消えたところで然したる問題にならないという利点もある。

「ツバキは帰るのか。ならば家まで送るが」
「ありがとうございます。…ですが、家の者がまだおりますので、もう暫し待つつもりです」
「そうか…。悪いが、僕は先に帰る。ご両親へ宜しく伝えてくれ」
「…花束だけですか?」

僕の身軽を見て疑問を抱いたようだ。
ツバキは少々戸惑った様子で僕の持っている花束を見た。

「他の頂き物はどうされたのです。あのように多くの…」
「業者に預けた。明日にでも家に届くだろう。持ち帰る必要などない。これだけで十分だ」
「左様ですか。…光栄です」

ふんわりと春風のような柔らかさでツバキが微笑む。
釣られて、僕も僅かに口元を緩めた。

「それじゃあ、僕は行く。また後日。…今日は参加してくれて感謝する。気を付けてお帰り」
「ありがとうございます。ジン兄様もお気を付けて。お休みなさいませ」
「ああ。おやすみ」

見送ってくれたツバキへ背を向け、待たせていた車へ乗り込むとそのまま養父と家の者を置いて帰宅を選んだ。
夜の街道は華やかだが静かなもので、渋滞に足を取られることもなかった。
ふと窓の内側から空を見上げると、忌々しい月が今宵も昇っている。
家の着くまでの間、膝の上に置いた花束を何度か指先で弄る。
…僕の帰宅は伝えるよう言っておいたが、養父や家の者も、今は何処で誰と話しているのかも知れない。
人数の多さや場所の華やかさに何の意味があるというのか。
世間ではバレンタインなどと持て囃されてはいるが、それとは無関係な、僕の今日という日を心で祝ってくれるのは、結局ツバキくらいなのだろう。
それからきっともう一人あってくれるのだろうが……やはり暫くは、会えないのだろう。
こんな上層の町を歩いていたら、それこそ瞬く間に通報されてしまうだろうから。

「……」

音を出さずに静かに息を吐く。
贈り物の値段などに価値はない。
ただ頭を撫でてくれるその片手だけでいいのに、それはどこまでも遠く思えた。

 

 

帰宅後の家はというと、実に静かなものだった。
養父を始め家の者は未だ会場であるし、深夜近いこともあり使用人たちは殆ど休んでいる。
数名の者が残っていたが、この時間まで振り回すつもりは毛頭無く、僕付きの者へは早々と今日の終業を告げ、後は自分でやるからと休ませた。
平屋の造りである母屋は奥に行く度大凡の部屋が広く造られている。
どちらかと言えば広く、また奥にある自室へ向かい、ツバキからの花束を片手にしたまま右手を庭に面して外廊を歩く。
遠巻きに自室へ繋がる次の間の障子が見えてきた頃、ふとその異物に気付いた。
…障子の前に小さな野花が一輪と、赤く薄い手紙のようなものが見えた。

「…?」

使用人のうちの誰かからかと思いもしたが、寄ってみると赤い手紙のように見えたものは市販の板チョコだった。
野花は小振りの白菊で、季節外れであるが故に少し撓っている。
断言してもいいが、この家で働く使用人らが僕へ何か品を渡すとしたら、このように内容物を露出した状態で渡さない。
普通に考えても、誰かに何かを贈る際は、せめて袋に物を入れるものだ。
しかし、僕はそれを"面倒臭い"の一言で片付ける人物をよく知っている。
僕が数多の花の中で比較的白菊を好きなことを知っているのも、相当に限られた人物であるから、これを置いていってくれたのが誰なのか、予想はつきやすかった。
全身から一気に緊張が解れ、背を屈ませて腕を下へ伸ばす。
…障子の前に置かれた些細なプレゼントをそっと拾い上げ、チョコの箱を裏返してみるが、メッセージの類は何処にもない。
数秒後、面している庭の方へ顔を向けてみた。
人の気配がない夜の庭に、僕は常々不安よりも安寧を覚える。

「…。…兄さん?」

返事はなかった。
人の気配は以前もないが、微かな希望を持って僕は障子の前から離れ、庭へ下りる階段の前へ佇んだ。

さっきよりも些か声の量を張る。

「兄さん。いるのなら返事して。…一言でいいから、おめでとうって言って欲しいんだ」

それでも呟くような声量に変わりはなく、僕の声は夜の庭に虚しく流れていった。
風が声を掻き消すように吹き、木々の葉が揺れる。
…。
返答はない。
帰ってしまったのだろうか。
もう少し早く帰ってくれば会えたかもしれない。
そう思うと、会場で僕を引き留めた連中に嫌悪感とは別に憎悪が滾った。
存在自体が煩わしい虫螻共め。
小さくため息を吐いて、手に持ったチョコと花を見詰める。
…これ、大切にしよう。
庭に背を向け、改めて次の間に入ろうと障子に手を掛けた瞬間――。

「…おめでと」

「…!! そこかッ!!」

ぽつっと鼓膜が低声を捉え、僕は弾かれたように瞬時に両足を肩幅に開き、真横に地中からユキアネサを召喚すると柄を握り、居合いの応用で振り向き様抜き放った。
刃を振り抜くと同時に刃先から飛び出た氷弾が、庭の奥にある木々の連なりに突き刺さるその前に、赤い影がそこから飛び出す。
たん、と軽く玉砂利の上に足を着いた姿に、僕は歓喜の声で呼んだ。

「兄さん…!」
「テメェはっとに……殺す気かッ!!」

僕の三倍くらいの声量で兄さんが青筋立てて怒鳴ったが、まさか殺す気なんてない。
位置が分かったからちょっと出てきてくれればと思っただけで。
久し振りに対峙した兄の姿に、僕は傍にユキアネサを突き立て戦闘の意思がないことを示した。
張り詰めていた兄さんの気が、それを見て少し緩む。

「どうやって此処まで来たの? すごいね、兄さん」
「あ? …あぁ。まあな。ついでだ。ついで」
「チョコレートありがとう。…僕の誕生日、覚えていてくれたんだね」
「け…。…ばーか。あったりめーだろ」
「嬉しいよ…」

一応敵陣と呼んでも間違いないようなこの場所で、兄さんは両腕を組んで庭に仁王立ちした。
来ることはないとは思うが、使用人が来てはまずい。
背後にある障子に片手をかけ、兄さんに提案する。

「ねえ、兄さん。お茶でも飲んで行ってよ。外は寒いし…。今日くらいいいでしょ?」
「嫌だね」
「…? どうして?」
「俺ぁこの後用事があんだよ」
「…」

兄の言葉に急激に温度が冷めていく。
…用事?
今日は僕が最優先の日のはずだ。
何処の誰が兄と先約したというのか。
兄の回りには邪魔な輩がごまんと在る。
相手が誰なのか知りたいが、聞いても答えてくれないのだろう。
以前しつこく聞いたら頭部を叩かれて叱られた覚えがある為、ぐっと押さえて左手を持ち上げ、腕時計の時計を確認する。
時刻は十一時三十分を回ったばかりだった。
左手の時計を距離のある兄へ突き付けて哀願する。

「あと三十分は僕の傍にいて!」
「ああ~?」
「だって今日僕誕生日なんだよ? いつも全然会えないじゃないか。兄さんと一緒に過ごしたいんだ。お願いだから」
「いいっての。…もうプレゼントもやったし、おめでとうも言ってやっただろーが。お互い顔も見られたし、俺は帰るぜ」
「あ…ま、待って…!!」

背を向けた兄を追って、慌てて庭へと繋がる数段の階段を飛び降りる。
下にあった外履きの草履に履き替え、兄に駆け寄ってその袖を掴んだ。
面倒臭そうに兄さんが振り返る。

「あんだよ。ウゼェな…」
「頭撫でて!」
「……はあ!?」
「昔は毎年してくれてたじゃないか。撫でて額にキスしてくれたでしょ?」
「おいおい。ざけんな。冗談だろ? 何歳児だよ、お前」
「僕はあの頃の兄さんとの想い出を大切にしているだけだよ…!」
「…」

必死になって訴えると、兄は少々面食らったようだった。
呆けた後に眉間に皺を寄せ、いくらか呻ってから、漸く縋り付いている僕の頭に片手を置いた。
…大きな掌で雑に髪を乱され、思わず双眸を閉じ、僕は尚のこと兄の腕に擦り寄った。
疲れもあってか、一気に眠くなる程の心地よさに恍惚とする。

「おめでとな、ジン。…おら。これでいいだろ?」
「…キスは?」
「あー?」
「額でいいから」
「…額以外にどこがあんだよ」

袖を強く握って離さないまま食い下がる。
暫く嫌だ嫌だと繰り返していたが、仕舞いには優しい兄はため息吐いて了承してくれた。
両肩に手を置かれ、額に口付けられる瞬間はくすぐったさに身を強張らせた。
離れた後も、名残が額と肩に感覚として残り、僕は己を抱くように自分の両肩を緩く握った。
気恥ずかしさと高揚が背を奔り、思わず俯いてしまう。

「ありがとう、兄さん…。僕すっごく嬉しいよ。…僕、兄さんの弟に生まれて幸せだ」
「そーかよ。そりゃ良かったな。未だにそんなことを言ってんのはお前だけだ。…んじゃ、もう行くぜ。あんま長居してるとここの連中に見つかっちまうからな」
「ちょっと待って。お礼」
「…!?」

立ち退こうとする兄へ、背を伸ばして跳ねるように頬へ音を立てて口付ける。
あんまりくっついていると無理矢理引き剥がされるから、兄さん相手にはやることやってすぐに自ら離れるのがコツだ。
思い切り顔を顰め、兄さんは僕がキスした場所を手の甲で思い切り拭った。

「っの、馬鹿!…そーゆーの止めろっつってんだろーが!」
「兄さんだけだよ」
「俺相手に止めろっつってんだよ!」
「…あんまり騒ぐと人来るよ?」

後ろで両手を組んで小さく笑うと、兄は押し黙った。
舌打ちしてから木々の向こうの庭奥へ爪先を向ける。

「また遊びに来てね」
「ふざけんな。んなトコほいほい来てちゃ命がいくつあってもたんねーよ」
「素直に僕に捕まってくれれば、タイセツにしてあげるよ」
「はっ。冗談じゃねーや。……じゃあな、ジン」

吐き捨てるように言うと、僕の見送る言葉も待たずに兄は玉砂利を蹴った。
砂利が跳ねる音を残して、木々の間へ赤い影が消えたと思ったら、すぐに白塀の上の瓦に飛び上がり、そのまま向こう側へ消えてしまう。
言葉は伝わらないのだろうが、僕はその背へ別れを告げた。
…けど、また何処かで逢うだろう。
僕らは出逢うように出来ているし、仕組まれているのだから。

 

部屋に入ると既に布団が敷かれていた。
風呂へ向かう前に、疲労故に一度そこへ横たわる。
俯せになり枕に顔を埋めていたが、ふと顔を上げてさっき兄さんから貰った板チョコを両手に持って眺めた。
枕元にはツバキから貰った花束と、ついでに置いた鞄が倒れた拍子に、ヴァーミリオン少尉から寄こされた箱の中から実に形の悪いクッキーと、巷でちらちら視界に入ってくるクマのキャラクターマスコットが転がり出てきた(彼女は一体僕にこれをどうしろというのか)。
…結局、僕が部屋に持ち帰ったのはこの三点ということになる。
寝ながら物を食すなど、いつもなら行儀が悪すぎて間違ってもしないが、今宵ばかりは浮かれてしまってそのまま兄さんから貰ったチョコを開け、端を少し割ってみた。
いつもは食さないチョコレートは口に甘く、まるで毒物のように下手なアルコールよりも回りが早い気がした。
口内にむっと広がる独特の甘みに酔いながら、仰向けへと返る。
天井の照明を見詰めるのに飽きてきた頃、ゆっくりと目を伏せた。

「……」

いつもより呼吸が楽な気がした。
今宵も空には忌々しい月が昇り、今日という名を振り翳しながら踊り散らす愚鈍な権力者共は恐らく今も会合を続けているのであろうが…。
それでも、今日という日は僕の中では"良き日"として記憶に留めておけるだろう。
僕という存在が生まれてきて良かったのかどうか。
自身で深く問う前に、兄からの一言があれば、それで十二分に僕に価値が生まれる。
…仰向けになったまま、端の空いた板チョコの箱を高く掲げる。
逆光に陰り、輪郭が光って見えた。

「…兄さん。今日は特別だよ。…次に会う時は」

次に逢う時は…。
そう。
どんな状態であっても構わない。
世のサイクルが歪になっても知ったことか。
次に出逢えた時は、きっと、必ず。

「何処にも行かせないよ…」

無意識に恍惚とした声が漏れ、その声が僕の決意を尚のこと固くした。



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ジン誕生日。
兄さんとその他との態度の豹変が彼の魅力w
あの病的が可愛いです。
2012.11.29





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