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音も光も何もない。
耳に膜が張ったような無音の閉塞感。

暗闇の中に立っている、ただそれだけの夢だった。



それでも月は太陽を追う




ふわりと風が前髪を撫でた。
双眸を開けてもいないのにそれが夜風であると知り、目を覚ますよりも先に深く空気を吸い込んだ。
閉じていた口を僅かに開いて呼吸すると、微かな煙草の匂いが鼻孔と口内へ流れ込み、何となく、傍に奴がいるであろうことは察せた。
…すぐにでも飛び起きて捕まえたいはずが、どういうわけか、起きようという気が一切生じなかった。
身体が重い。
いや、それ以上に、まるで精神が深い沼にでも捉えられているかのように沈殿していた。

「……ソル」

目を伏せたまま小さな声で名を呼んでみる。
返事はなかったが、人の気配が空気を揺らした。

「今……何時だ……」

声を聞きたくても何を話して良いか分からず、結局そんな言葉しか出てこない。
声を出すだけで、鉛を入れられたように酷く胸が重い。
…間を置いて、低声が返ってくる。

「…夜だな」

ぶっきらぼうな声に思わず口端を緩めそうになった。
いい加減な答えだ。
彼らしい。

「暫く寝てな。坊や」

硬い掌が私の頭部に触れる。
撫でるでも叩くでもなく、ただ置くだけのその手に命じられるまま、再び私は眠りについた。

 

 

 

 

"ギアが出た"。
そんな情報が国際警察機構に勤めていた私の耳に届いたのは、私が死亡する数日ほど前だったか。
今では少々記憶が薄い。
近い過去の脅威であり絶望でもあったギアの存在は、マザー的であるジャスティスを討ってからというもの急速に減少していった。
指令者を失ってからというもののギアの動きは統率がなく疎らで、強力とはいえ個体個体の各個撃破を地道に続けていくことにより、随分数も減り、時折目撃される残数を我が国際警察機構や腕に覚えのある賞金稼ぎなどが削っていくという段階だ。
最後の確認個体ではないかと認識されていた、強力なギアの残党にして森の少女、ディズィーさんが快賊団に預けられ平和的解決を見てからというもの、久しく入ってこなかったギアの目撃情報だった。
直近の前例が彼女とその傍らに控える死神であったことから、私は此度もそれに近い、平和的な解決ができたらと期待していた。
そうでなくても、聖戦から時が進むにつれ、発見されるギアたちの力は弱まる傾向にあった為、先ずは歩み寄る姿勢で現地へと向かった。
今尚稼働しているとしたら、それは自立型ギアであって、程度の差こそあれ意思を持っているはずだ。
力にはそれなりの自負があり、一人でも問題はなかろうと、森へ向かった時と同じように単独で目撃情報があった別の森奥へと進んだ。
油断していたと言う他がなかった。

 

「…おい。坊や」

湖の畔。
赤く染まった草の上に倒れて虫の息の私の傍に立ち、ソルは剣を肩に掛け淡々と見下ろしていた。
私が不意を突かれ負傷した後、とどめを刺されるその前に偶然に彼が何処からか駆けつけ一撃を払い、ギアが水中へと逃げていったことはしっかりと見ていた。
…水に薄く溶けた血は出血量以上の量で周囲を染めており、濡れた身体は急速に体温を奪っていく。
しかし、部分によっては灼熱が生じていた。
腹部と片足をやられた。
片足が喰われたのは間違いないが、腹部はどうなっているのだろう。
生憎己の身体を見下ろせる力はなかったが、開いた腹から内臓のいくつかを持っていかれたのかもしれない。
見るも無惨な状態だったが、私は比較的落ち着いていた。
正直、聖戦に参加した時から、いつかこうなるだろうと覚悟はしていた。
走馬燈は見なかったが、思いの外余裕があることに寧ろ驚愕があった。

「ソル…。…助かった。ありがとう…」
「助かってはいねェみてぇだが…。どうした。やけに素直だな」
「はは…。最期…だろうからな…」
「…」

声を嗄らして笑う私に、ソルは無反応だった。
どうせ心の中では、馬鹿な奴だと思っているのだろう。
だから言っただろう、などとも思っているかもしれない。
腹部と片足に宿っていた灼熱が徐々に温度を下げていく。
凍りそうに寒いこと以外は、疲れすぎて眠ってしまう感覚に似ていた。
死がいよいよ迫る。

「…。何か言い残すことはあるか」

ソルの声が上から降ってきて、口端を緩めた。
そう。死は覚悟していたが、後悔がないわけではない。
まさかずっと追ってきた相手に最期を看取ってもらえるとは思えなかったが、その一方で決定的な死という別離が訪れる。
幸せと呼べるのか不幸と呼べるのは、分からなくなっていた。
最期に一瞬でも偶然でも逢えたことは間違いなく好運であるが、この男にもっと言ってやりたいことは山ほど残っている。
それが果たせないのが惜しい。
……。
…いや、違う。
そうではない。
ここで意地を張る必要があるだろうか。
どうせもう私は終わるのだ。
力のない片腕をソルの爪先へ伸ばす。
指は既に曲がらず、片掌をそのままその爪先へ乗せた。

「…」
「……死にたくない」

喋れば血の味がして、胃液が上ってくる。
我ながら実に見苦しい遺言だ。
しかし、私が死ぬことで、目の前のこの男の罪が一つ増してしまうであろうことは理解しているつもりだ。
例え私がその罪を否定したところで無意味だ。
これ以上彼が苦しむ必要はないと、少しでも軽くしてやろうとその背中を追ってきたのに、思っていたのに、この様な醜態を恥じる。
死にたくなかった。
傍にいて、いつか光の方へ導いてやろうと思っていた。
温かい紅茶を楽しめるような、そんな日もあるのだと教えてやりたかった。
振り返ると涙が出てきた。
いよいよ女々しくなってきて、いっそ愉快になってくる。

「……ソル」
「んだよ」

視界はとうにぼやけていて何も見えなかったが、たぶんこの当たりだろうといういい加減な予想を付けて、血と水で濡れた髪の間からソルを見上げる。

「貴方の傍に……いたかった…。ずっと……」
「…」
「…わた、しの…クロスを……。貴方に…」

胸から下げている十字架を取り出そうとソルの爪先に乗せた手を持ち上げようとしたが、既に微塵も動かなかった。
後はそのまま。
そのまま、ゆっくりと……麻酔でもかけたかのように動かない身体の内側で、私は沈んでいった。

 

 

 

音も光も何もない。
耳に膜が張ったような無音の閉塞感。
今日も暗闇の中に立っている、本当に、ただそれだけの夢だった。
神の迎えは来ぬままに、天国の灯りも見えず、鳥たちの唄も聞こえない。
胸に下げている十字架が、闇の中だというのに鈍色に反射して見えた。

何となく状況を察せた頃に、ばさりと羽音がした。
振り返ると遠くに人影が、闇の中、とてもぽっかりと浮いて見えた。
輪郭だけの…左右に翼を持つその白い人影が、とても哀しげに首を振ったのを見て、私は曖昧に微笑みを返した。

子供の頃から何度か見たことのある神の御使いは消え、そうして二度と現れなくなった。

 

 

 

ふわりと風が前髪を撫でた。
双眸を開けてもいないのにそれが夜風であると知り、目を覚ますよりも先に深く空気を吸い込んだ。
閉じていた口を僅かに開いて呼吸すると、いつもは流れ込んでくる微かな煙草の匂いがなく、そこで漸く私は双眸を開いた。

「…」

自分が仰向けに横たわっていることは分かっていた為、目を開けて正面にあった古ぼけた高い天井は、大方予想通りではあった。
壊れた一部分から夜空に広がる星々が覗ける。
だが、その独特の天井の造りに気づき首を僅かに動かして横を見ると、奥に壊れた祭壇があって少しばかり意外に思った。
廃墟と化してはいるが、どうやら元教会のようだ。
ここまで来ると皮肉ではなく運命と例えたい。
…ゆっくりと寝ていた長椅子に手を着き、身を起こす。

「…っ」

ずきりと胸が強く痛んで顔を顰めたが、その後は落ち着いていた。
額に添えた手を下ろしながら、状況を観察する。
穿いている制服は喰われた方の足の布地が千切れていたが、その内側の無くなったはずの片足は素知らぬ顔でそこに横たわっていた。
上半身は何も纏ってはいなかったが腹部に傷はなく、暖を取る為には殆ど意味のない赤く丈の短いジャケットが、傷があったであろう場所にかかっている。
それから――。

「……」

起こした自分の胸元を見て呼吸を止める。
いつか見たソルの額の紋章と酷似した青い紋章が中央にあり、それを覆うように紋章の真上で十字架が静かに揺れていた。

 

 

ジャケットを折り畳み、手近にあったマントらしき古布を(何故こちらを私へ掛けないのか)身に着け、とぼとぼと壊れた礼拝堂を出る。
教会から外へと出ると、そこは何もない森の中だった。
梟が何処かで鳴いている。
出入り口を出てから数歩歩いて回りを見回してみるが、夜空の下にソルの姿はない。

「……。ソル」

何気なくそっと名を呼んでみても返事はなかった。
風が吹いて、孤独感が募る。
…中で待っていればそのうち戻ってくるのだろうかと、堂へ戻る為踵を返し、ふと視線を上げると教会に隣接している講堂か何か、平たい屋根の上から、組んだ足の膝下がぶらりと垂れているのが見えた。
一気に冷えていた身体に体温が戻った気がした。
ぼんやりしていた意識も妙に冴えてくる。

「あ…。そ、ソル…!」

ばたばたと慌てて声を張りながら、そちらの屋根へ寄っていき、下から見上げる。

「ソル…!聞こえているのでしょう?」
「…」
「ちょっと降りてきてください。話があります。聞きたいことも」

話しにくいでしょうし、こちらとしても聞きにくいことだろうが、明確にしておかなければならない。
そう思って声をかけたというのに、反応はいつまでもなかった。
…。

「…~っ、ソル!!」

思わずもう一段声を張る。

「こっちに来なさいと言っているんです!さあ、早く降りて!」

いくら言っても完全無視を決め込んでいるようで、戯けるように組んだ足の爪先がひょいと動いた。
かちんときて、私はいつものように唇を噛み締め、憤る。
まったく、この期に及んでこの態度とは…!
周囲を見回してみると、死角に屋根へ上る為壁に設置されているハシゴを見つけ、それに爪先をかけて急いで登る。
平面の屋根の上に上ると、端の方でソルが両手を頭の下で組み、仰向けに寝そべっていた。
横に彼の封炎剣が無造作に突き立てられていた。
その傍にいくつか吸った後の煙草と、もみ消した際に付いたであろう焦げが見える。
靴を履いていないので靴音は立たなかったが、私は彼に大股で歩み寄った。

「ソル!何ですか貴方、今の態度は…!」
「…っせぇなァ」
「人が呼んでいるのですからすぐに来なさい!…大体、私を放置してこんな場所で夜空の鑑賞とはどういう了見ですか!介抱するならしっかりと最後までしてください!急に容態が変わったらどうする気です!?」
「知るか。死んでりゃいーだろーが…」
「何てことを…! 折角助けてくださったのに、何て言いぐさですか!!」
「…。言ってることおかしいだろ、テメェ」

仰向けに横たわっていたソルが顎を上げ、憤りに任せて吠える私を半眼で見上げる。
それから心底馬鹿にするような嘲笑をした。
その言葉に自らの最後の一言を振り返る。
…確かに、通常"助けてあげたのに"のところを"助けてくださったのに"に置換すると聞き慣れないかもしれない…が、使い方としては正しい使い方のはずだ。
折角、助けてくれたのだ。
それは間違いない。
…目を伏せて一時的に感情的になっていた自分を落ち着け、改めて双眸を開いた。
ソルは既にこちらを見てはおらず、ヘッドギアの影に隠れた目元は私からでは見えない。
そろりと忍ぶように距離を開けて彼の隣へ腰掛けた。
両足を屋根からぶら下げて顔を上げると、正面に月が見えた。
満月だ。
今夜の月は殊更美しい気がした。

「…。私、死んだんですか?」
「さァな…」
「真面目に聞いてください」
「…!」

傍まで延びていたソルの髪先をぐいと引っ張ると、頭部が僅かに横へずれた。
舌打ちしてから、片手で髪を掴んでいた私の手を弾く。

「知るかよ。ウゼェな…。戻って寝てろ」
「…どうやったんですか?」
「何が」
「ギアに成ったのでしょう。私は」

横を向いて単刀直入に聞くと、ソルは黙り込んだ。
どう処置をしたのかという私の質問に対し、彼の返事は角度違いだった。

「…そのクロス、当分外すんじゃねェぞ」
「? これか?」

右手をマントの襟から入れて、日頃首から提げている十字架を引き出す。
何てことはない、私の愛用のクロスだ。
言われなくても常に掛けている。
ひょっとしたら、もう意味はないのかもしれないが…。
神に失望された私には、持つ資格もないのかもしれない。
しかしそれでも、私は神を信じているし敬い続けるつもりだ。
引き出した十字架を暫し眺めてから、再びマントの内側へ仕舞う。
そして、今更だが身体を捻り、背中や腕など、己の肉体を見下ろした。
…ソルの額にある紋章と同じ物が胸にあるのなら、私は恐らくギアを含まれたのだろう。
しかし自覚はというとあまりない。
もっと、あの死神のように禍々しくなるのかと思いきや、外観的変化は見受けられなかった。

「…。案外平気な顔だな」
「え…?」

己を見下ろしていた私へ、ソルが空を見上げながらぼんやり呟く。

「もっとびーびー泣き喚くかと思ったが…。若しくは俺を責めるか」
「…」
「感情の起伏の…特にマイナス面が顕著に出る。まずは確実に暴走するだろうと思って、飛びだしてきたら…」

まるで鉛の身体を起こすように、ソルがゆったりと立ち上がった。
横に突き刺さっている封炎剣を掴むと、大きく振りかぶって……ビュッ!と強い風音を立て、剣を礼拝堂の入口の方へ投げられた。
速度そのままに、銀色の刃は私がついさっき出てきた入口中央の地面に突き刺さる。
例えば私が彼の言うように錯乱状態で飛びだして来たとしたら、左首を直に狙えた角度だ。
…反応できないでいる私へ、ソルは肩越しに冷笑した。

「こーしてやろうと思ってたんだがな。…優秀だな、坊や」
「…!」

言った直後、ソルは膝を軽く追って屋根から飛び降りた。
ぎょっとして身を乗り出しその姿を追ったが、当然、見事に着地しては剣を地面から引き抜き、礼拝堂の中へ入っていく。
私も慌てて立ち上がり、ハシゴを使って下りると礼拝堂へと戻った。

 

 

私が堂の入口へ到着した頃には、ソルは荷造りをしていた。
荷造りといっても、その辺りにある小物をポケットに入れるようなそんな手軽さだが、それが確実に荷造りであると察した私は慌てて長椅子の間を祭壇の方へ足早に詰め寄る。

「…此処を離れるのか?」
「ああ…。元々長居するつもりはねェよ」
「私も行く」
「ざけんな。邪魔だ」

ソルが軽く息を吹いてランプの火を消すと、礼拝堂は一気に暗転した。
それでも空いた天井の屋根から星々の光が注ぎ藍色を為す。

「お家帰りな、坊や。…普通にしてりゃバレやしねえ」
「…ッ」

歩き出した彼が一瞥もくれず私の横を通過する。
足音が遠離ることに耐えられず、感情が内側で爆ぜ、片腕を振って勢いよく振り返った。

「何故だ…!これで私は貴方と対等のはずだ!!」

精一杯声を張ると、冷ややかな堂にまるで悲鳴のように響いた。
ソルが足を止める。
その背中に今叫ばなければ、訴えなければ、二度と会うことはない。二度と届かない。
そう直感した。

「もう貴方一人で何もかもを背負い込む必要はない!もう隠す必要もないだろう!? 貴方が何を背負い何を成し遂げようとしているのか、知りたいと思うことさえそんなにも罪なのか…!!」
「…」
「貴方は私が必要であるからギアを与えたはずだ!違うか!!」

振るった手で己の胸元を掴み、詰め寄る。
必死に想いを訴えかけ、Yesであることにそれなりの自負もあった。
…が。
緊迫した私の悲鳴が消えた頃、場に響いたのは嘲笑だった。
…鼻で一笑したソルが、気怠そうに振り返る。

「…自惚れんなよ、坊や」
「何だと…?」
「対等? …ふざけんな。真逆だ。テメェは永遠に俺の下だ」

唯の卑下かと思いもしたが、やけにそれが真実みを帯びていた。
いつものように憤りは生まれず、寧ろ鎮火された。
胸元を掴んでいた腕を下ろし、尋ねる。

「…どういう意味だ」
「聞いた通りだ。…そうほいほいとギア細胞を持ってるワケねェだろ。俺が持ち歩いてる細胞は手前のだけだ」
「それは分かっている。お前のギアを私に分け与えたということなのだろう」
「…。母細胞と娘細胞ってのは知ってるか」
「それくらい知っている。一般常識だ。…それがどうした。私という存在がお前の娘細胞に当たるという話なら理解しているつもりだ。だからこそ共にいても問題はないはずだ。…そっ」

思い切ってそのまま続けようとして吐き出した言葉は、やはり一文字目で止まった。
勢いを失って僅かに俯くも、ここで止めてはならないと両手を握りしめて拳をつくる。
意を決して、唇を開いた。
言葉を絞る。
今はもう、紡いでもいいはずだ。

「…。…傍に…いたいんだ」
「……」

私の告白は、酷く虚しくそして細く、礼拝堂に広がった。
…沈黙が引き、ふうーと深く息が吐かれる。
心底面倒臭い時に吐かれるため息は、胸に痛かった。
…逃げられるか向かってくるか。
逃げるなら捕らえて無理にでも話を聞かせてやるし、向かってくるのならそれこそ力づくで止めてみせる。
両足を開いて剣を持たぬまま構える私へ、ソルが距離をそのままに、左手を無造作に伸ばした。

「"待機"だ」
「……は?」

命じるかのように一言。
ソルが呟く。
…この場での唐突な言葉に違和感を持ち、私は瞬いた。
その後に顔を顰めて相手を睨む。

「…ふざけているのか?」
「別にふざけちゃいねェさ。…すぐ分かる」
「…!」

教会を出ようとしていたソルが踵を返し、コツコツと私との距離を詰めた。
急な心変わりに驚いて、退く必要はないはずなのに一歩後ずさる。
距離が近くなり、やる気なのかと接近戦の構えに体勢を直した途端――。

「え…。わっ……!?」

マントの襟首を掴み上げられ、踵が浮いた直後、顔が詰まって唇が触れ、息が止まった。
双眸を見開き、自分が口付けされているのだと気付いた瞬間、全身に熱が奔る。
悪臭であり、だが甘さの残る独特の煙草の残り香が舌に広がり、苦みまであった。
覚悟する間もなく舌が口内へ入り、熱を持った身体から力が抜けていった。
思わずソルの腕を両の手で掴むが、突き飛ばそうという考えは起こりすらしなかった。

「っ…、ふ……。…っは!」
「…ドヘタクソが」

呼吸の仕方が分からず苦しくなってきた頃、突き飛ばすように襟を掴む手が私を解放した。
拍子に二 三歩、ふらつきながら後退する傍ら、そんな気はないのに反射的に唇を手の甲で拭ってしまった。
猛烈に羞恥が込み上げそのまま距離を取ろうかと後退しかけたところを、片手を掴まれ、一気に引き寄せられる。

「…!」

倒れるように前に踏み込んだ私の身体を、ソルが抱き留めた。
息どころではない。
心臓が止まるかと、本気でそう思った。
何もできず唖然とする私の頭部へ、抱き留めたソルが後ろから右手を置く。

「…悪ィな。坊や」
「…ソル?」
「だがまあ安心しな。テメェ自身まで奪う気はねェよ。生きてりゃそれでいい。…好きにな」

耳元であっても聞こえるか聞こえないかという、そんな声量での謝罪が聞こえたが、彼が何を言っているのか、私には分からなかった。
しかし態度が尋常ではないことを察し、今更ながらに得体の知れない、何か漠然とした不安が足下を這った気がした。
それを振り払う意味でも、私は口を開いて肩越しの彼へ告げた。

「何故謝る。私は後悔してなどいない。私は……っう、わ!?」

しかしそれも、言葉途中で投げ出される。
強い力で改めて突き飛ばされ、警戒の無かった私は受け身もバランスも取れずに見事に転倒した。
礼拝堂に敷かれる絨毯の上に尻を着き、咳き込む私へ、ソルは背を向けた。

「"一時間経過後解除"。…じゃあな、坊や。サヨナラだ」
「っ、待て!ソル…!」

余裕のつもりなのか引き留めて欲しいのか、別段急ぐわけでもなく、至って普通の歩幅と速度でソルが教会を出て行く。
私は慌てて手を着くと身を起こし、走り出した。
彼を追って教会の出入り口まで駆けたものの――。
どういう…本当にどういうわけか、出入り口前でぴたりと、爪先が留まった。

「…え?」

急にブレーキを掛けた自分へ心からの驚愕をもってして、己の足下を見下ろす。
次いで、教会と外との、扉のない境界を凝視した。
そこには何か、私の意思とは無関係に確かに何か…ある一定の"ルール"が定められていた。
今ここを踏み越えることは禁忌だと、重罪だと、無意識が私を咎める。
出られない。
出てはならない。

 イ チ ジ カ ン ハ タ イ キ ス ベ シ ――。

「…!」

…弾かれるように顔を上げた。
視力だけが自由だった。
見開けた正面の森の中へ、赤い影がゆっくりと遠離って行く。

「…ソルーッ!!」

悲鳴だった。
喉から出たのはこれ以上ない悲鳴であり、いつしか泣き声になっていた。
それでも影は徐々に木々の間に融けて遠くなる。

「ソル!待ってくれ…!行かないでくれ!! わた…私を…!私を置いて行かないで…!!」

あらん限りの声で叫んだつもりが、涙声では声量など高が知れていた。
見栄もプライドも無く、涙ながらに駄々をこねた。
一緒にいられると思っていた。
成ってしまえば、対等であれると思っていた。
心の何処かで、常に"もしもそうなってしまったら"と想像し続けるほど、希望してもいた。
光の方へ来てくれないのなら、私が堕ちていけばいい。
そうすれば、一緒に歩ける。
…そう思っていた。
心から。

「っ…一緒に在りたいだけなのに!ただそれだけだというのに!! どうして貴方はいつも私の手を拒むのか!!いつもいつも…!いつも…っ」

泣き喚いて涙目を開くと、もう影もなかった。
意味もなく暫く彼が消え去った方角を眺め、ふらりと覚束ない足取りで近くの壁へ寄り片腕を添えると、そこに顔を押しつけて声を上げて泣いた。

「……ソル…っ」

やがて膝が仕事を放棄し、その場に崩れ落ちて背を丸める。
項垂れた私の中心で、持ち主の意に反し、マントの留め具に当たった銀色の十字架が、どこか嬉々とした音を立てていた――。

 

 

 

一時間後。
呪縛が消え、そっと教会の外へ出ると、朝日が昇り始めていた。
ふと見上げると、昇る太陽の光に、あれほど輝いていた月が西の空で消えかけているのが見えた。
薄い膜のような輪郭。
朧気で淡く、脆い月。
何かの書物で読んだことがある。
太陽は月を恋い慕い、然るが故に彼女の輝きを失わせぬよう昼を選んだのだと。
…しかし、果たして月はそれを望んだのだろうか。
いくら輝いたとて虚しいだけで、孤独な夜の舞台を踊るよりも、空に紛れ薄く弱く、脆く拙く汚らわしく、不安定に満ち欠けしながらも傍に在れが方が、幸せであったかもしれない。

「……」

虚無感に包まれたまま、脆弱な朝の月を背に、それでも私は彼が消えた方へ足を進めた。



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珍しくギルティギア小説。
カイちゃんギア化はドリームですよね。絶対デザイン可愛い。
ギルティ2の王様カイちゃん格好いいですが「坊や」じゃなくなっちゃったのでちょっと残念。
あの青臭さが彼の魅力だったのに…!
2013.6.5





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