昔、サヤが怪我をしたことがあった。
病弱でベッドから動くことが殆どない妹が、それでも些細なことで怪我をした。
ハサミは危ない、ナイフも駄目だ、大人しくしていろ、血が出るのは痛いんだぞ…などと、その時の兄さんの心配加減が異常な気がして、騒がしい兄の隣に座りながら、僕は疎外感を感じたものだ。
だから翌日、薪の細かい枝を剥ぐ用の小さなナイフで、腕を刺してみた。
兄さんは泣き叫ぶ僕に驚いて、サヤの部屋から裏庭までやってきた。
兄さんはサヤの看病に忙しそうだから、自分一人で薪集めを終わらせようと思ったのだと泣きながら告げると、兄は大声で僕を叱った後に、僕へ謝罪し、慣れない手付きで包帯を巻いてくれた。
僕をイスに座らせ、横に屈んで処置をしてくれる兄の姿が、うっかり継続せねばならない泣き真似を忘れてしまうくらい嬉しかった。
妹が"病弱"を心得ているように、僕は"怪我すること"を覚えた。
慢性的な妹のカードよりも、一時的突発的な僕のカードの方が兄の注意は引けるようだった。
ざまあみろ、と…思ったものだ。
そう。兄は僕が怪我をする度に案じてくれていた。
大丈夫かと問いかけて、患部を処置して、撫でてくれた。
痛いの飛んでけとか根拠のない愚か極まりない呪文を唱えている兄は殊更に好きだった。
兄は優しい。
次は怪我をしないようにと何度も言われ、その度に僕は頷いた。
…だというのに。
「…っ」
ずきりと打ち込まれた脇腹が痛んだ。
肋骨が何本かイったらしい。
今ので肋骨が折れたのなら、まだ内臓は無事だろう。
同じ場所に今一度喰らったら今度は致命傷だ。
兄の攻撃は重くて強くて、憧れる。
…けど。
「立つなよ」
「…ッ、が!」
力の入らない身でそれでも何とか起きあがろうとした僕の背中に、上から太刀の柄が落とされる。
刀身が重い兄の太刀は、直に背骨に響いた。
あっけなく再度地面に頬を落とす。
…痛い。
何故こんな風になっているのだろう。
兄が僕を虐めるなんて…これは現実なのだろうか。
苦痛に歪む顔の下で首を竦め、身体を折る。
前髪の間からそっと双眸を開くと、僕の脇腹に片足を乗せた兄を見上げることができた。
…いつ見ても、格好良いな。
下から見上げると特に大きく見えて大好きだ。
普通にしていたら、兄さんいつも逃げてしまうから、こんな近距離はなかなかない。
「…にい、さん…」
「そこで大人しくくたばってろ。テメェはこれ以上来んじゃねえよ」
「嫌だ…っ。行かないで…っ。行かないで兄さん…!」
「…」
ユキアネサが少し離れた場所に転がり、打ち据えられた身体が思ったように動かない。
どうしても僕を置いて行ってしまうと言うのなら、すぐにでも立ち上がってその両足を切断することが確実なように思える。
しかし現状で無理なのだから仕方がない。
力尽くで引き留めることができないのなら、今僕に出来る最良は情に訴えかけることだ。
動かない身体で顔を顰め、涙目で縋ってみる。
微かに動く指先を兄の足に掛けた。
勿論蹴り払われると覚悟していたが、兄はそれをしなかった。
暫く佇んだまま、無言で僕を見下ろす。
実際傷は痛んでいるが、それより僅かに大袈裟にして目を伏せる。
「痛い…痛いよ…」
「…。ジン…」
「酷いよ…兄さん…」
元々傷と感情の高ぶりで目元は湿っていた。
一際強く目を瞑ると、案の定涙となって真横に伝う。
兄は本気にしたらしい。
僕の身体から片足を引くと、代わりにその足の膝を地面に着き、傍へ屈み込んで僕を覗いた。
グローブで覆われた片手が、上からそっと僕の頭へ置かれた。
思わず力が抜けて、身体に走る快感を霧散させるため僅かに身動ぐ。
兄さんに触ってもらえたのは何年ぶりだろう。
添えられた指を少し動かされるだけで、溶けそうになる。
それまでの強張った固い表情を不意に緩め、兄は哀しげに僕を見た。
「…またな」
低く囁き、立ち上がってしまう。
爪先にかかった僕の指を外し、背を向けた。
ザクザク…と、道の砂利を踏みながら歩く音が、地面に付けている僕の片耳へダイレクトに響いて幾重にも反響した。
すいと内面が冷える。
…なんだ。
行ってしまうのか。
仕方ないな…。
酷使した身体から熱い息を少し吐いて、僕は地面から顔を浮かせた。
少し離れた場所に横たわっている、ユキアネサへ手を伸ばす。
震える指先は一度その柄に掛かって滑って外れたが、少し這って再度腕を伸ばすと掴むことができた。
ぐっと柄を握ると同時に従順なアークエネミーに向かって命ずる。
最後の一撃。
引き留める為の一撃だけでいい。
僕は横たわりながら、ユキアネサの切っ先を立ち去っていく兄の背へ向けた。
長い刀身はカラカラと乾いた音を立てて土の上を滑る。
「…っ」
ずきりと傷と背骨が痛んだが、構っていられない。
握った柄を逆手に持ちかえ、兄の背へ向けて、ユキアネサを地表面で真横に、いくつかの砂利と砂を巻き込んで斬るように横へ払った。
太刀筋などとは呼べない弱々しい一振りではあったが…。
従順な氷剣は、僕のこんな一振りでも、何十倍と増幅していつもの氷波を創り上げた。
いつもの"氷狼"の三分の一程度の大きさと威力ではあったが、僕の放った角度に忠実でスピードが落ちなければ、それで十分だ。
打ち出された氷の弾は、真っ直ぐ兄の背へ飛んでいき……。
「…ッ!?」
背後からその胸を貫いた。
間違いなく貫いた。
…距離は開いていたけれど、視覚で十分認識できる。
貫いた後に霧散する氷弾を背景に、兄が僕を振り返る。
血は勿論流れ出ているのだろうが、目立つコートの赤と混ざっていてこの距離ではよく見えない。
再び地面に頬を付けた状態で、そんな兄に微笑んで見せた。
兄が膝を着いて倒れる。
…嗚呼。
僕が先に起きるか兄が先に起きるか、そこが勝負だ。
絶対に早く起きてやるんだと自分に言い聞かせつつ、僕は意識を手放した。
可能性は低かったように思うが、僕は勝利した。
ぼんやりと開いた双眸で顎を上げ、確認した先の兄は未だに横たわっていてほっとした。
…気絶している間に少しだけ体力が回復したらしい。
身体が動いた。
「…っ」
地面に四つん這いになって身を起こし、それからひと息吐いて勢いをつけて立ち上がった。
何とか両足は立ってくれたが、その上に乗っている上半身は不安定に揺れ、少しバランスを崩して一歩分後ろへ後退した。
片手を額に添え、軽く首を振る。
…しっかりしなければ。
時間がない。
兄さんが起きてしまったら、兄さんはまた屑を追うだろう。
また離れるなんて真っ平だ。そんなの許さない。
絶対許さない。
ずっと一緒にいていいのは僕だけだ。
ユキアネサを拾い上げ、握り、離れた場所で血を流して倒れている兄の元へよたよたと歩いていく。
「…」
兄さんの傍まで行くと、先に兄がそうしたように、僕も傍に屈んで両膝を付いた。
一旦ユキアネサを置いて、右手をそっと兄の胸の上に置いて顔を覗き込む。
血は乾いていており、指先が触れると小さなガラスが欠けるような音を立てて肌や衣類から剥がれ落ちた。
血液が少し流れたからか、どこか青白い気がしたけど…それでも、愛しい兄だった。
「…兄さん」
そっと呟いて、癖の強い髪を少し撫でて、胸の上に添えた手を押さえるように少し下へ押す。
とくとくと心音が存在し、何だか奇跡のようだった。
顔を詰めて軽くキスをする。
…深いキスは後々するとして、今は唇の表面の柔らかさだけで耐えて顔を離した。
血で濡れた唇を軽く舌で舐めながら、肘まである左の手袋を外す。
それを丸めて、兄の口の中へ押し込んだ。
それから、すらりとユキアネサを持ち上げ、座ったまま兄の両腿を横断するように添える。
さあ、斬ろう…と思ったその前に、いざ兄が目を覚まして抵抗しようとした時に投げ払われないように、先に手を拘束しておくことが最善だと思い立った。
兄の力ない両手をまとめて、その手首を凍らせる。
凍結した両手を腹部の上に祈るように乗せ、さて、それから…と再びユキアネサを宛がった時に、兄の身体が大きく揺れた。
「…あ」
「…!!」
「起きた? …おはよう、兄さん」
顔を見ると、丁度寝起きでぼんやりしていた双眸が、状況把握を済ませてびくりと見開かれるところだった。
赤と碧の違う色した目に、僕が写っている。
兄にまたおはようを言える日が来るとは。
嬉しすぎて笑い出したい気分だった。
やはり、先に両腕を抑えておいて良かった。
「ちょっと待ってね…。今、両足落とすから。…膝はいらないよね?」
「ふ…ッぐ!!」
「心配しないで。…綺麗に落としてあげる。僕巧いんだよ…」
兄が身動ぎして身を起こそうとするが、中途半端に拘束しているせいかバランスが取れないようだ。
陸に揚げられた魚のように無力に跳ねる。
心底疲れていたけど、そんな兄の様子を見て僕は微笑した。
「胸の傷…ごめんね。…すぐ医者に連れて行くから」
叫く兄の両腿にユキアネサを添え、右手で柄を握り左手を刀身の背へ当てる。
膝立ちになって身を乗り出し、体重を掛け、一気に――落とした。
骨を断つ瞬間は、ごきんと小気味良い音がした。
手袋を押し込んだ兄の絶叫は曇っていたが、響いた瞬間には背中が震えた。
できればクリアで聞きたかった。
嗚呼、随分と惜しいことをした。
舌噛んじゃったりしたら危ないけど…もし次に何処か斬る時は、口内に何も入れずに聞こう。
兄は僕を抱き上げることができるが、僕では体格差から兄を抱き上げられない。
再度気を失った兄の後ろ首を左手で掴んだまま、ずるずると引き摺っていく。
長い兄のコートが大布の代わりになり、実体重を引き摺るよりも比較的楽ではあった。
一応止血はし、僕のベルトを二本外して切断面より上部をきつく結んでみたけど、それでも完全に止まるまではまだ時間が足りない。
兄の両足から流れ出る血が、地面に二本の赤い線を引き、線路のように後方へ続く。
「兄 さ…。これから、は…」
ず、ず…と引き摺る兄は重く、時折両手に持ち替えて、力の入らない身体で懸命に引っ張った。
呼吸も荒く腕の力だけでは引けない。
全身を使って、一歩一歩引き摺っていく。
「僕と、ずっと…、一緒に…っいてね……」
帰ったら何をしよう。
持ち帰ったら、何をしよう。
どうしよう、わくわくする。
兄さんがサヤの面倒を見ていたように、今度は、僕が兄の力になってあげるんだ。
その為には、より兄が非力であり愚かであり、欠落している方が尚良い。
より僕の存在意義が増す。
より僕の、兄の為にできることが増える。
当時僕が"怪我"を覚えて兄がその間だけ傍にいてくれたように、構ってくれたように、兄が欠ければ欠けただけ、僕は兄の傍にいられるんだ。
きっとそうだ。そうに決まっている。
「…。ぁ…は、はは」
気付けば、口元が緩んで小さく口内で笑っていた。
次第に、歓喜が音を得ていく。
嬉しくて嬉しくて、涙が出てきた。
…絶対あげない。
もう二度と離さない。
兄は、僕だけのものだ…!
もう諦めていた夢が叶う。
世界中に言い触らしたいくらいに、この世の幸福を全部得たように感じた。
「ふ…ははっ。はは…。……あ、は は は は は は!!」
笑い声が周囲を踊る風に融ける。
今の家は下らない家だけど、兄と一緒に何処かへ帰るのは何年ぶりだろう。
その過程の貴重さを考えれば、目的点が何処であろうと、そこへ辿り着くまでの道は長ければ長いだけ良いような気がした。
家に帰ったらまずは、足の断面の処置よりも胸に空いた処置よりも――顔を綺麗に拭いて、気持ちの良いキスをしよう。