一覧へ戻る


「ジン。来週の誕生日、飯何がいい?」
「…え?」

それは二月の第二週の休日だった。
テーブルを挟んだ兄さんが、夕食中に不意にそんな疑問を僕に投げる。
思わず箸を止めた僕と対照的に、兄さんは箸を持った右手を上げて、宙で軽く振って笑っていた。

「ほら、テメェの誕生日だって。14日だろ? 何かリクエストしていいぜ。外食い行くか?」
「あ…。ごめん、兄さん。その日はキサラギの家で会食があるんだ」
「…キサラギぃ?」

養子になった家の名を出すと、兄さんは露骨に嫌悪感露わに表情を歪めた。
イスの背に片腕をかけ、鼻で嗤う。

「ふん…。クソ家の分際で、ジンの誕生日を祝う心がけはあんのか」
「一応誕生会って話だから、流石に僕は出ないといけないと思う」
「ふーん…。んじゃ、夕飯は無理だな。残念だが」
「ごめんなさい。…夜遅く帰るから、兄さんは先に寝てていいからね。次の日仕事でしょ?」

兄さんからの嬉しい提案を断らなければいけない身の上が辛かった。
誕生会…?
僕の?
…あの家の一体誰が僕の誕生など祝うものか。
家長とその跡取り候補の誕生日を盛大に祝うのは十二宗家の仕来りらしいが、そんなものは建前だ。
連中は名刺の交換と近状の報告、それからある程度の悪巧みの相手探しができれば、下層の路地裏だろうが馬小屋にだろうが蛆虫の如く湧いて集うのだろう。

「嫌なら体調不良とか言って、とっとと帰ってきちまえよ?」
「うん。ありがとう」

向かいに微笑みかけ、兄とは別の、肉を省いた夕食を静かに口に運んだ。

 

そして当日。
覚悟はしていたが、アルコールの臭いに形だけの挨拶、疏らな拍手。
時折、記憶の片隅の何かがフラッシュバックして、目眩が起きた。
まるで洗濯機の中に思考を放り込まれたように、自分が何処にいるのか不意に分からなくなる。
ああして度々会場の外に出て風に当たらなければ、恐らく嘔吐していたことだろう。

「車を出せ。養父には許可を得た。帰宅する」
「若。頂いた贈り物は…」
「僕の部屋に運んでおけ。後程返礼するので名だけは控えるように。お前の欲しい物があればいくらでも持っていってくれて構わない。名のリストができたら取りに行く」

世話役にぴしゃりと言い放ち、一切のプレゼントには見向きもしなかった。
ツバキに貰った小さなチョコレートだけを受け取り、それ以外は捨てる気でいたが、会の冒頭にステージ上で渡された花束だけは持ち帰らざるを得なかった。

場がお開きとなり、"帰って良い"の許可を得てすぐ、僕は逃げるように送迎の車に乗った。



A Good dream Nightmare




兄さんのマンションに着く頃には、既に日付も変わっていた。
明日は仕事だから、恐らく兄さんは眠ってしまっただろう。
なるべく音を立てぬよう貰った合鍵を差し込んでドアを開け、鍵を掛ける。
それでも、奥にあるリビングの灯りは着いていた。
たぶん、僕が帰ってくるので兄さんが付けておいてくれたのだろう。
そのまま少し玄関で佇み、リビングに繋がる短い廊下をぼんやりと眺めていた。
エアコンを着けておいてくれているのか、暖かい。

「…。ただいま」

ぽつりと呟いてから、小さく息を吐いて靴を脱ぐ。
リビングへ向かう前に廊下途中にあるバスルームへ直行した。
まず手と顔を洗いたくて洗面台へ向かい、眼鏡を一端外して棚に置く。
それから、持っていた花束を隣のゴミ箱に放り捨てるも、大きさがそれなりだったので放り込むと言うよりは箱の上に乗った状態で、素直に中へは入らなかった。
かさばるので上から勢いよく片足で踏みつけると、花々の茎が折れ、それで何とかゴミ箱に収まった。
蛇口を捻って水を出す。
…まだ頭が少し濁っていたが、排水溝を見詰め流れる水の音を聞いている間に、じわじわと身体に染みついた汚物が流れていくような気がした。
背を屈め、両手で水を掬って冷水で顔を洗っていると、不意に廊下が小さく軋んだ。

「おう、ジン。お帰り」
「…!」
「遅ふぁふぁはぁ~…」

無造作にかけられた言葉に吃驚して、濡れたまま顔を上げ、廊下と繋がっている洗面所の入口を振り返る。
寝間着代わりのスウェット姿で、兄さんが大きな欠伸をしながら引きドアに寄りかかっていた。
起きたばかりという様子に、僕は慌ててタオルで口元を押さえながら背を正す。
顔から滴る水が顎を伝って首筋に落ちたが、冷たさは構う程ではなかった。

「ただいま。…ごめん、兄さん。起こした?」
「ああ、いや。ソファでうとうとしてただけだ。まだ寝ちゃいねえよ」
「…待っててくれたの?」
「はあ? ったりめーだろ」

そっと問うと、兄さんは下らない質問だとばかりに眉を寄せた。
寄りかかっていた身体を離し、廊下をリビングの方へ進んで行く。

「疲れただろ。何か飲むか?」
「あ、ううん。お腹一杯だし、遅いからいい。…でも、疲れたのは確か」
「だよなー。お偉方の会合なんて、俺なんか想像しただけで御免被るぜ」

タオルを持ったまま、僕はその背を追って灯りの着いたリビングへ出た。
二人掛けのソファに先に腰を下ろして、漸くひと息付けた。
…さっきまでここで横になっていたのだろう。
枕にしていたのか、ソファの端にクッションが集まっていた。
ソファに座った僕を見下ろし、兄さんが横に立って腕を組む。

「誕生会どうだった?」
「別に大したことなかったよ。そもそも集まりってだけで、僕が知らない人の方が多いし」
「何じゃそら。意味ねえなぁ。何のために来んだよ」

兄が馬鹿にしたように吐き捨てた。
つくづく僕もそう思う。
ただし、会合の主旨が当初から"僕の誕生日"ではなく"近状の報告会"であるのならば話は別だ。
そういう意味では、恐らく連中にしては意味ある会合の日であったのだろう。
…初めからそういった名で集まればいいものを、僕を理由に銘打つ所が気に食わない。

「ぐったりしてんな」
「うん…。疲れた。早くシャワー浴びて寝ることにするよ」
「そーしろそーしろ。でもお前、そーしてっと随分大人っぽく見えるぜ?」
「…え?」
「やっぱスーツってすげーな。俺全然着ねぇし。…っと。そうだ」

不意打ちの嬉しい言葉に、すぐに反応できず呆けてしまった僕の前で、兄がジャージのポケットから何かを取り出す。
じゃん、と効果音着きで取り出されたのは市販の板チョコだった。

「ほら。やるよ、ジン」
「…チョコレート?」
「誕生日がバレンタインだと、やっぱ何となくチョコやりたくなるからな」

差し出された板チョコを受け取り、両手で持って膝の上に置く。

「ちゃんとしたプレゼントと飯は明日な。一日遅れで悪ぃが」
「…。ううん」
「ん?」
「嬉しいよ、兄さん。…ありがとう」
「…」

どうやら今日は本当に、心身共に疲れているようだ。
当たり前だと思っていても、他人との意味のない会合や会話は疲れてしまって、どんなに仰々しい挨拶よりも高価なプレゼントよりも、兄さんからの菓子一枚の方がよっぽど胸に来る。
俯いてじっとチョコレートを見下ろしていると、兄さんが横に腰掛けた。

「ぁ…」
「…ジン」

狭くてはいけないと、端に少しずれようとした僕の頭へ、兄さんが手を置いた。
対峙する相手に手を上げられると、何故か反射的にびくりと全身が強張る。
一瞬そのように肩に力が入ったが、相手が兄さんであることですぐに和らいだ。
…無意識に閉じかけていた双眸の視線を上げて兄を見上げる。

「誕生日おめでとう。お前が弟として生まれてきてくれて、俺はすげー幸せもんだな。…所属がどうとか地位がどうとか、そんなん家族にゃ関係ねえだろ。これからもずっと一緒にいようぜ」
「…」
「それから、しんどかったら溜めねえで言っとけ。俺にできることならしてやるからよ」
「……うん。ありがとう」

低い声が鼓膜を揺らす。
大きな手が頭を撫でる感覚に、僕はうっとりと目を伏せた。
数秒間そのままでいたが、できることなら何でもという兄の言葉に甘えてみようと、双眸を開いて上目に見詰める。

「…兄さん」
「あ?」
「僕今日疲れたから…。ぎゅってしていい? 何だか甘えたい気分なんだ」
「引っ付くのなら、お前いつもやってくんだろーが」
「いつもよりもっと」
「もっと? よく分かんねーけど…。ほら」

疑問符浮かべたまま、兄さんが身体の向きを僕の方に向け、僕の頭上から手を離すと無造作に両腕を広げる。
あまりの無造作具合に、少し笑ってしまった。
…昔から思っていたことだが、兄さんってあざとい女共からすれば実に扱いやすいタイプなのだろう。
兄さんに寄って集る女は性悪に決まっている。
兄さんが哀しい目に遭わないように、僕がしっかり見ていないと。
そう思いながら右腕を伸ばして、兄さんのスウェットの金具を抓む。

「…ちょっとチャック下げるよ?」
「は? 何……っうお!」

スウェットの前を半ばまで開いてから、その内側へ両腕を伸ばして差し込んだ。
少し勢いを付けて遅れて上半身を密着させると、兄さんが後ろへ蹌踉けたが、押し倒すまではいかず、少々残念ではある。
…鎖骨に額を寄せて、さっき撫でてもらった頭で顎を下から軽く押し上げると、鼻孔に兄さんの匂いが通った。
いつも以上に素肌に近い場所に顔を寄せ、首に耳を寄せると脈打つ音が微かに聞こえた。
この脈拍も心拍も、体温も血液も筋肉も細胞も、全部僕のものだったらいいのに。
こんなに愛しいのに、兄弟という束縛と離れて暮らさなければならない環境に僕らというパーツを据え置いたこの世界が、僕は心底嫌いだ。
何故僕らに安寧は与えられなかったのだろう。
…両腕に力を込めた僕に気付き、頭上から呆れたような吐息と苦笑が漏れた。
体温の高い手でくしゃくしゃと髪が乱される。

「おいジン…。お前今年で一体何歳になったんだ?五歳くらいか?」
「さあ。何歳だろう。…幼かったら、兄さんに面倒みてもらわなくちゃ」
「ったく。ほんっと甘え癖が抜けねえ奴だな。そんなんじゃ同僚連中に馬鹿にされんじゃねえか? …おら。スーツ脱げよ。着てっと余計疲れんだろ」

抱きついている僕の肩に手を掛けて、兄さんがスーツを脱がせてくれようとする。
それでも僕自身が離れようとしないので、結果、肩は脱いだが肘から先の袖だけが残った。
兄さんの手がシャツの肩にかかり、上着を着ている時よりも高温を感じた。

「そのまんまじゃ皺が寄っちまうぞ」
「別にいいよ。…タイも外して」
「自分でやれ、自分で」
「解き方忘れちゃった…」
「嘘吐け!」

冗談交じりでぺちっと額を掌で叩かれたが、その後言われた通りにタイも取ってくれる。
密着していて狭い襟元に手を入れられると、それだけで背中がぞくぞくした。
頭の片隅で悪い気が頭を擡げる。
このままどうにかならないだろうかと日々思っているが、それは難しいのだろう。
理性も常識もモラルも捨てられたら、どんなにいいだろう。
…いや。そこまで深く考えずとも、兄さんがもう少し鈍感でなかったら、僕らは発展しただろうに。
他の連中ならなまじ落とせる自信がある分悔やまれるが、その分安堵を得るのも確かだった。

「…ねえ、兄さん。もう一回言って」
「あ?」
「おめでとうって。…兄さん以外は誰に言われてもピンと来なかったんだ。兄さんに言ってもらえると、僕すごく嬉しいよ。何度でも僕に生まれ直せる」

抱きつく両腕を強め、肩に頬を寄せて甘えると、兄は今度こそ苦笑ではなく笑い出した。
僕はこんなに真面目に伝えているのに、爆笑の域だ。
少々むっとして眉を寄せる。

「ばーか! …ったく。テメェはホント、とんでもねーブラコンだな。そのうち女になるとか言い出すんじゃねぇか?」
「そ……っわ!」
「そんで俺と結婚するとか言い出すんだろ。…つか、昔散々言ってたか?」

言いながら、兄さんが僕の脇下へ両手を差し込むと、まるで子供を抱き上げるように僕を抱き上げ、向かい合って膝に置いた。
時々忘れがちだが、兄の腕力は相変わらず人間離れしている。
…いや。今はそんなことはどうでもいい。
あまりの理想的な体勢に、僕は心底驚いて、珍しく動揺した。
心音が煩い。
別に何か真意があるわけでないのは分かり切っていることなのに、恥じらいに自然と顔に熱が集まる。

「だ、だって…!それはすごく小さい頃の話じゃないか。小さい頃は兄弟だって結婚できると思ってたんだ…!」
「あー。何かそんなこと言ってウゼェくらいにわんわん泣いてたなー。結婚以前に兄弟で男だろうが。無理だっつーの。そんくらい俺でも知ってたぜ?」
「…過去の偉人は近親相姦も多いし……衆道だって珍しくないもん」
「もんじゃねーよ。ガキか」
「兄さんの傍にいられるなら、ずっと子供でいいよ」

両腕を伸ばして、兄に正面から強く抱きつく。
移る体温が温かく、冷えた身体は兄さんから熱を奪い、その熱で僕は生かされる。
そのうちに睡魔が僕を襲い、脳に靄がかかり始めた。
日頃余り、睡魔に襲われることはない。
何だか唐突な気がして、怖くなった。

「ジン? …どうした。やっぱ眠ぃか?」
「…うん」
「軽く寝てろ。風呂は起きたらでいいだろ」
「…。ねえ、兄さん…。僕…眠りたくない……」

兄の胸に顔を埋めて縋り付いて目を伏せる。
夜は嫌いだ。
夜を象徴する月も星も嫌いだ。
人々が皆眠ってしまうから。
万人の意識が途絶えてしまえば、夜に何が起ころうと、僕らには知る術がない。
…幼い頃からの癖で夜を不安がる僕に、兄さんが笑って頭を撫でてくれた。

「何馬鹿なこと言ってんだ。疲れてんだろ? ゆっくり休めよ。お前はいつも頑張りすぎっからな。無茶すんな」
「…兄さん。何処にも行かないでね」
「あ?」
「ずっと僕を抱いててね。僕から離れないで。離れたら許さないから」

直情を訴える僕の真摯さは、恐らく伝わっていないのだろう。
兄はソファに寛ぎながら、苦笑しつつ僕の肩に片手を置いた。

「へいへい。…ったく。お前は心配性だな。家族だろ? 他人じゃねえんだから、そー簡単に離れたくても離れねえだろ。もし離ればなれになったとしたら、俺が迎えに行ってやるよ」
「…本当?」

最早頭を上げる気はなくなっていたが、伏せていた双眸を僅かに開いて兄を見上げた。
朗らかに兄さんが笑い、漸く僕の中でも安堵が不安を勝り、少し微笑みを返す。

「じゃあね、僕も兄さんに会いに行くよ」
「おお。そーしろそーしろ。そん方が早ぇだろうしな」
「絶対見つけに行くよ。絶対だから」
「ははっ。迷子になって泣いてそーな気がすんのは俺だけか?」

兄さんが朗らかに笑い飛ばす。
そんな反応もいつも通りなのに、酷く不安を覚えた。
しかし、その不安を打ち明けることを、睡魔が許してくれない。

「…ごめんね兄さん。もう眠いや…。…おやすみなさい」

疲労よりも兄の体温が僕を眠りへと誘う。
す…と落ちていく意識の中で、兄が額へ口付けてくれたのが分かった。

「おやすみ、ジン。ゆっくり休めよ。そんで明日は――」

 

兄さんの声を遮るように、プツン、とテレビの電源が落ちるような音がした。

 

 

 

 

 

 

ヴン…と、同じくテレビの電源が着くような音を聞いた気がする。

魔素が食い散らかされ退廃し荒れた領域の中で、どうやら僕は長い間座り呆けていたようだ。
そうだ。僕は此処に座っていた。
だというのに、僕の精神は何処へ出かけていたのか。
何だか長い時間の旅をしていたように思う。
今の映像は"走馬燈のような"と表現すべきなのか。
否。
傷があって血が流れていても、死にはまだ時間がある僕がそう表現することは奇妙が過ぎる。
俯いて固定していた視線には、兄の顔があった。
血色の悪い肌の色と服が、赤く染まっている。
同じく毛先が紅く染まっている、今は"蒼"に犯され白髪となってしまった兄さんの髪が、僕は決して嫌いではなかった。
仰向けに横たわる兄の腹部に跨ったまま、どれくらいが過ぎただろう。
周囲に広がっていた血は、殆ど乾いていた。

「……」
「いやあ。見事ですねえ。流石はキサラギ少佐」

背後から拍手がした。
それがハザマ大尉であることは声で即座に識別できたが、振り返る気力はなかった。

「ソレは私で回収しますよ。どうぞ少佐は戻ってください」
「……」
「聞こえてますか? …それとも、死体すらも愛おしいんですか? あはははは。だとしたらイイ趣味してますねぇ。実に貴方らしいですよ、英雄殿。そうそう。古来より英雄は、虐殺趣味か死体趣味でなくては務まりませんからねえ」

場に不釣り合いな柔らかな微笑が背中と近づいてくる。
何故だろう。その微笑に重なり、とても品の良くない、響く下卑た嘲笑が聞こえる気がした。

「…!!」

振り返らない僕の頭部が、不意に背後から鷲掴みにされ、身体をぐんと前へ押し倒された。
血濡れの兄の胸に右頬を押しつけられ、乾いた血が、それでも僕を汚す。
兄の胸と横の大地にそれぞれ手を着き起きようとはしたが、着くだけで腕に力は入らず何故か反発はできなかった。
掴まれた頭蓋骨が軋んでみしみしと脳内に音が鳴る。

「がっ……ッく…」
「ほらほら、少佐。愛しの兄君ですよ。キスでもしたらどうです? 生き物から貴方が創った、貴方だけの人形だ。絶えたのなら、ほら。萎えないうちに咥ておくのもいいんじゃないですか? お手伝いしましょうかあ?」
「…っ、離……」
「萎えたら二度と咥えらんねェぜ。オラ、しゃぶれよ!しゃぶらせてやっか!? それとも肉食っとくか?あ!? ヒャーッハハハハハッ!!」
「…、…ぁ」

大尉の声で、今更ながらに兄が死んでいることを理解した。
兄の胸に顔を押しつけられたまま、視界が濁って何かが頬を横に伝った。
十年来も泣いていないと、それが涙であることに気付くまでに数秒を要した。

「に…にい、さ……っ」

振り絞る声は震えて、嗚咽でしかない。
目を伏せて泣きじゃくる僕の前に、大尉が兄の右手を取って突き付けた。

「ほーら、少佐。ご覧なさい。これが"蒼"ですよ。貴方方を狂わせた元凶だ。…そして、貴方のお兄さんの大切な一片です」
「…ッ!?」
「そうでしょう? …ねえ?」

表情を歪めて泣いていた僕の口に、兄の指がぐっと奥まで突き入れられた。
血と土と死と兄の皮膚の味がする。
元々嗚咽で収縮を繰り返していた喉にそれは辛い異物であり、嘔吐にも似た感覚で僕を責めた。
咳き込む僕の喉に、兄の硬く冷たい指が口内を爪で引っ掻きながら出し入れされる。
…そのうちに錯乱してきた僕は、動く指の下に舌を添えて迎えることにした。
奇妙な感覚だ。
錯乱しているのが分かっているが、錯乱している自分を止められない。
頭の中が冷静に狂いだしていた。
動かない兄の胸に落ちたまま肘を着き、首を伸ばして顎を上げ、涙目を伏せて硬直を始めている指へ必死に奉仕した。
僕が狂いだしたのが分かったのか、心身に苦痛を与え責め立てるような指の出し入れは収まり、性的行為のような、水音を響かせ舌を嬲るような、実に淫猥な鈍い速度になった。
…不意に汚い手が僕の髪へ指を通した。

「イイコですねぇ、少佐。…ラグナ君は私が精錬しますので、今日からは私の言うことを聞きましょうねえ」
「…」

上からゆったりと頭を撫でられ、閉じていた双眸を薄く開けた。
涙で濁ってすぐ傍に屈む人物がよく見えない。
…が、それは兄であるような気がした。

「……うん」

撫でる手が横髪の先から滑り落ちた頃、僕は小さく静かに同意した。

「兄さん…もっと頂戴。…兄さんの指…気持ちいい……」
「ええ。あげますよ」

強請って開けた口へ、次に入ってきた指には温度があった。
血の味も無く、土の味も無かった。
さっきよりも些か細く長く感じる指へ舌を絡め、皮膚を濡らしては兄さんの味に酔い潰れた。
このままでは駄目だ。
頭の端で理性が怒声を上げたが、

「そのまま堕ちなさい。…可哀想な人。貴方は狂気の中にいた方が幸せになれますよ」

そんな言葉に絡め取られ、理性は消え去り狂気が残った。
…指を舐めながら肘付いていた場所に手を置き、のたりと半身を起こす。
口から指が抜け、唾液で湿った手と乾いた手が、僕の頬を左右から包んだ。

「愛してますよ」
「……本当?」
「ええ。本当です」
「ずっと一緒にいてくれる…?」
「勿論。…貴方も、もう私から離れてはいけませんよ? 私には貴方が必要なんですから」
「…!」

ぐっと顎のラインを挟むようにして首が上へ引っ張られたかと思ったら、そのまま横へ身体を落とされ押し倒された。
乾いた砂と土の冷たい温度が背中に敷かれる。
…少し首が痛かったけど、嬉しくて僕は両腕を伸ばした。
僕の腕が伸びきる前に、唇が重なる。
舌を噛まれ、ちょっと酷いと思ったが、歓喜が勝って両腕でその身体をぎゅっと抱き締めた。
キスが唇から下へ下りていったから、やりやすいよう顎を上げて首筋を伸ばした。

イイコだと褒めてくれる兄の言葉の後ろで、やはり誰かが下品に嘲笑している声が聞こえた気がした。



一覧へ戻る


兄さんも勿論ですが少佐とジン君もかなり好きです。
テルミさんを攻めさせるとジン君というよりはハクメンになるから…。
“ジン君”ならやっぱりハザジンでしょうね。
2013.5.31





inserted by FC2 system