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「…テルミを出せ」
「外出中ですよ」

言った瞬間、向かい合う相手の横にいた人形が猛烈な勢いで腕を振るい左頬を叩かれた。
一撃を察して避けようとしたが反射が負け、中途半端に喰らって身体が右に飛ぶ。
恐らく広さとしてはある方だが、とは言えマンションはマンション。
壁に背をぶつけて床に落ち、身体を折って咳き込む私を見て、仮面の男…レリウス博士は緩やかに腕を組んだ。
可愛げ無く些かの機械音も立てずに、人形が腕を下ろす。

「ふむ…。今の一撃が避けられないとなると、本当に不在か」
「っ…、失礼な…方ですねぇ…」

痛む左頬に手を添えようとしたが、指先が触れただけでビリッと走る痛みがあった。
押さえることを諦めて次に口を手の甲で拭うと、左の端が切れて血が出ていて嫌になる。
…本気で来られたらたぶん"私"では勝てないのだが、精神的な反逆心で私と彼の間に漆黒の蛇を一匹喚び出しておく。
こんな中途半端飼い主でも…というか、寧ろ同胞に近いのですが…誠意を見せてくれる大蛇は少しうねって床から顔を出し、私の代わりに真黄の双眸で相手を睨んでは、同色の口内を見せつけるように大きく口を開いて威嚇してくれた。
しかし博士は特にそれを意識せず、詰まらなそうに私を見下ろす。

「何処へ…行ったんだ」
「テルミさんですか? 生憎知りません。行き先も告げずによく悪戯しに出られますから」
「いつ帰ってくる」
「伺っていません。…戻られたら連絡しますよ。それで如何です?」
「…」

床に手を着いて腰を浮かせ、立ちながら提案してみると、博士はいきなり黙り込んだ。
この人は非常に読みにくい。
完全に自分のペースで動くので、一緒にいてかなり疲れる。
始めは逆だった。
こんな人でも造り手だ。
私の奥に刻まれているテルミさんの名程ではないが、それなりどころか好感を持っていた気がする。
しかし、テルミさんを迎え入れた後は、彼があまりこの方をお好きではないことも関係して、相手がどんな性格だろうが、生きてようが死んでようがさして気にしない私にしては珍しく、いつの間にか苦手意識が付いていた。
…とはいえ、良好なビジネス関係は保たなければ困りもの。
このまま大人しく帰っていただければ幸いなんですが…。
だって邪魔ですし、自宅に他人を招き入れることは好きではないですし。
それに人形やら研究やらに没頭しているせいか、この方どことなく黴臭くて厭なんですよねえ。
小さくため息を吐き、威嚇を続けている大蛇の頭に片手を置いて宥めるように撫でた。
敵に意を向けていた蛇は床を滑って私の足下へ戻ってくるとぐるりと私の周囲へ緩く蜷局を巻く。
始めの一匹の他、気になったのか影から顔を覗かせる他二匹の顎下を爪先で軽く撫でながら、いつまでも佇んでいる無言の仮面男をどう追い払おうかと考えていると、不意に仮面男が組んでいた腕を解いた。

「では貴様で良い。来い」
「…はい?」

思わぬ発言に聞き返す。
意図せず顔が苦笑気味に歪んだのが分かった。

「私へ用事ということはないでしょう。テルミさんが戻られましたら参りますので」
「メンテナンスだ」
「…ああ」

曖昧に頷いておいた。
肉体的な健康診断と運動診断。
性能に異常がないかどうかの定期的な…まあ、魔導構造は別としても、肉体自体を彼に造られた私にしてみれば必須な予定ではある。
ただの診断であれば、なるほど、私だけでも可能といえば可能だ。
今日は偶々不在なだけで、いつもは先に日にちの打ち合わせがあってから足を運ぶのだが、今月は随分と突飛だ。
ええ本当に、目の前のこの男は完全に自分のペースで動くので、一緒にいて非常に腹立たしい。
一応嫌悪を出さないように気を付けながら、私は横髪を耳にかけた。
率直に言ってしまえば嫌だった。

「んー…。ですが、私ですと運動機能の数値が随分違うでしょうし、また改めて伺いますよ」
「運動機能は後日行う。本日は…肉体の検診のみで良い」
「…」

再三断ってんだから嫌だと拒否っているんですよ、何故分からないんですかねこのお馬鹿さんは。
思わず舌打ちが出そうな所をなんとか押しとどめる。
…さて、どうしますか。
私に予定がないといえばないのですけれど…。
組み込まれている深層指令コード部に相手の名も乗っている為か、最終的に博士の言うことも聞くようにできているのかもしれない。
他の方であれば、嫌ですよ無理です残念でしたねお生憎様はっはーで終わるところが、妙に断り難かった。
んーまぁ…私が今日ヘルス面の検診終わらせておけば、後日はモーター面検診だけで、早く終わりますかねえ。
ウロボロスの額を撫でながら少し考え、やがて私は顔を上げた。

「分かりました。では、ヘルス面のみで宜しければ」
「付いてこい…」
「あ、待ってください。書き置きしますから」
「必要ない」
「はあ…」

ひょっとして、テルミさんには既に伝え済みなのだろうか。
ここに来る前に彼に許可を得ているのであれば、私に逆らう道理はない。
承諾したことによって、一匹だけ酷く威嚇した後大蛇たちは再度私の影に渋々身を潜めた。
外出時に羽織る上着に袖を通し、帽子を目深に被ると、レリウス博士の後を追って部屋を出た。


Swear allegiance you




薄暗い室内に機械的且つ魔導的な灯りが僅かに灯っている。
いかにも狂気の研究室然とした室内の倒したイスに横たわり、ひっそりとため息を吐いた。
こんなにも趣味の悪い部屋を好むはずはないのだが、どこか母体の内部に回帰したような安堵があるのも確かだった。
少なくとも、自室と同等のリラックスを覚えてしまう。
そんな愚鈍な自身へ付いたため息だった。
上半身を脱衣して無防備に寝そべるところをべたべた触られるのは、例えそれが触診と分かってはいてもやはり気持ちの良いものではないどころか、嫌悪感しかない。
すぐ傍らに設置されている診察椅子に腰掛け、私の左手を両手で開いている博士をなるべく視界に収めたくなく、極力目を伏せていた。

「先に、イグニスから一撃を受けた際…頬に痛みを覚えていたようだが…。痛覚の遮断はしていないのか」
「ああ…はい。以前、日常時の些細な怪我で咄嗟に痛みを表現することを忘れ怪しまれましたので、それからは。ですが戦闘前には発動しますので、戦闘時肉体的な痛覚は基本的にありません。反射や俊敏は肉体が傷ついた分低下はしますが、精神的な引けは微少かと」
「…」

私の返答に、博士がメスを手にする。
予想がついて、私は体内の中の痛覚遮断機能を発動した。
間を置いて、私の左二の腕へ、メスが勢いよく突き立てられた。
そこから肘まで、ツ…となぞるように刃で皮膚を裂く。
二の腕から肘まで、縦一文字に裂かれた皮膚はぱっくりと開き、瞬く間に鮮紅の液体が腕を染めた。
だが痛みはない。
べとべととした絵の具をぶちまけられたような、嫌な感覚だけだ。

「問題ありません」
「…ふむ」

メスを置き、博士はサイドテーブルのストップウォッチを押した。
何分何秒で傷が修復するかを測るのだろう。
恐らくこの程度の傷であればカップラーメン待ちといったところでしょうか。
自分でも時折時計代わりにする節があるので、傷の回復速度は何となく分かる。
検診は最早後半に差し掛かり、博士は器機を揃え始めた。
椅子を横へ向ける彼に安堵して、私も椅子へ背を預けて息を吐く。

「テルミはどうだ」
「…? どうだというのは?」

傷口が塞がってきた。
その場所だけ時間を早めたように肉が固まり瘡蓋ができはじめる。
自らの腕を見ながら疑問符を浮かべてみた。
調子のことを聞いているのだろうか。
それとも、蒼の魔導書に対する進捗度を聞いているのだろうか。
促すことで彼の質問をより明確なものにできるかと思ったが、角度を変えた、しかも思いも寄らぬ言葉が飛ぶ。

「…奴は、貴様の扱いが雑だな」
「…。はぁ」

淡々とした言葉であったが、博士は確かに侮蔑を含んでいた。
雑…。
そうだろうか。
私は全く問題ないのだが。
寧ろたかが一時的な道具にそれなりに構ってくださっているので、悦ばしくすら感じている。
更に言ってしまえば、テルミさんを雑だと吐き捨てた目の前の製造主に対して軽い憤りすら感じた。

「雑ですかねえ。私は気にしていませんが」
「雑だ。雑の割りに、使い込んでいる」
「光栄ですね。…はい、傷、塞がりましたよ。…もういいですかぁ、服着ても」

他人に裸体を見せるのは好きではない。
例えそれが、製造者でもだ。
本人を前にしては言えないが、骨格の割りに軽すぎる体重と華奢過ぎる体格が、実は多少のコンプレックスを所有していた。
そんなものが無意味であることは、当然分かっている。
無意味で言うのなら、私のそんな感情や人格自体がそもそも価値などないのだ。
一応"私"という人格が存在してはいるが、どれもこれも対人社交用としての機能であるというだけで、制作者側や使役者側からすれば意味がないのは当然だ。
骨格が太く長身であり、筋肉には魔素が凝縮されている手前、戦闘要員としての肉体的能力は十分保てている。
柔軟性のあるしなやかな筋と攻撃力の底値を上げる肉、それらを保った上で瞬発と敏捷の為にギリギリまで下げられた体重。
意図的に、使役者の攻撃スタイルに合わせて極力使いやすく、最もバランス良く"使役者にとって有能"で"使役者にとってオールラウンダー"な肉体として造られているのだから、当然だ。
テルミさんが紫外線や赤外線に左右されない青白い皮膚と細身を気に入ってくださっているのでそこはいいのですが、他者の視線に収まるとなるとやはりどこか気が滅入る。
私の問いに対して、博士には妙な間があった。
この人は、人からの問いかけに対して反応が鈍い、独特の会話の速度がある。
遅い返答を勝手に肯定と受け取って、私は横に畳んであったシャツに腕を伸ばした。
袖を通した所で、漸く相手の口が開く。

「テルミは、貴様を随分と気に入っているようだ」
「あははは。ご冗談」
「その事に関して私は、気分がいい。私の、貴様という素体の性能は、何処ぞの獣とは違うからな。…貴様がテルミを懐かせれば、奴の良い餌にもなる」

そう言われた瞬間、妙に頭の中が醒めた。
餌…?
…私が?
表面上はいつもの微少を湛えていたつもりだが、何かミスをしたのだろうか。
私の動揺を的確に察した博士が、仮面越しにこちらを一瞥して口端を緩めた。

「弱点…と、言った方が分かり易いか」
「弱点…!」

は…っ、と思わず鼻で嗤ってしまった。
有り得ない!
冗談が過ぎて笑うしかない。
ボタンは留めぬままにシャツに袖と押した手の甲を口元に添え、くつくつと肩を揺らして嗤う。

「私が? 私がですか?テルミさんの? あははっ、弱点!」
「何故嗤う」
「いえ、失礼。嗤うつもりは…っああ…駄目だ。お腹が…っクク」
「何一つ愉快なことなど無いように思うがな」

一頻り笑っている私の横で、博士は真顔のまま器機の電源を切った。
空気が抜けるような停止音で、検診器機が絶える。
何故かその様子に親近感を覚えた。

「ふふ。だぁって、有り得ないじゃないですか。あのテルミさんに弱点? 私などはただの道具ですよ。愛着持ってくださっているようですけど、使わなくなったらお捨てになるでしょうし。私などは"蒼"を手に入れるまでの玩具ですから」
「理解しているではないか。詰まるところ、使わなくなるまでは、貴様の所に戻ってくる」
「ええ~?」
「奴の行動は…理解しきれない所が多い。勝手が過ぎる。何か企んでいるような気もしてならない」
「それで私を餌にしてテルミさんを釣る気ですか。有り得ませんよ。私が壊れても、どうせ次を造られるんでしょう? 気に入っているだけで大切にする必要はありません」
「むざむざ壊しもせんだろう。そもそもハザマという人格は――」

博士がそう告げた直後、研究室内に露骨なサイレンが響き渡った。
エラー音にも似た機械的なアナウンスが私では理解しきれない語学で流れる。
顎を上げて天井を見上げると、少し建物が揺れた気もした。
上階のこんな場所に不釣り合いなサイレン。
下層なら兎も角、この場所にサイレンを鳴り響かせるような危険が早々生じるとは思えない。
襲来者であるとしたらこの警備も装備も厚い建物内に考え成しに突っ込んでくる馬鹿で思い当たるのはラグナ君くらいだが、彼だとしたら生憎今日はハズレだ。
テルミさんが不在の今、彼の相手はするだけ無駄で、対峙するよりもテルミさんに知らせて差し上げたい。

「何でしょう。ラグナ君ですかね」
「いや。迎えだろう。…存外遅いな」
「…? っとと…!?」

博士が何か言った気がするが、耳に届かなかったそれを聞き返す前に、大きく部屋が揺れた。
今度は気のせいなどではない。
と同時に、ドアの向こう側を…まだ遠い気がするが…ガンッ…!と何かが何かにぶつかる音がした。
明らかにこちらへ来る…が。

「…おや?」

一応すぐに動けるようにと身を起こしつつウロボロスたちを起動しようとしたが、大蛇たちは何故か無反応だった。
驚いて自分の影を見下ろす。
…何だ。どうした。
内心狼狽しているうちに、ガン…!と乱暴な音と振動が扉を叩いた。
強固な研究室のドアがこちら側に凹む。
おやおや、どうしましょう。
ウロボロスたちが起動しないことには、私の戦闘力などラグナ君相手には時間稼ぎ程度にもならない。
取り敢えずイスから下りようと、シャツのボタンを留めながら片足を床に着けたところで、今度こそ部屋が振動した。
ドアが今一度衝撃を受け、先程凹んだ場所が一層深みを増し、そして――。

「イグニス…!!」

金属の固いドアが打ち破られると同時に、博士が腕を振るった。
ご自慢のお人形さんが、研究室に飛び込んできた侵入者に対して強靱な腕を振るい――。
…と、ここまでは私が確かに自分の視覚で見ていたんですけれど。

「――!?」

どん、と背中を押されるような衝撃の後、ずぶりと不意に足下から他人に内部を犯される。
蛇が体内で絡み上がり心臓に達する感覚は慣れたもので、すぐに四肢が奪われる。
身体が奪われる直前、博士の人形が侵入者を横に吹き飛ばしていた。
ラグナ君かと予想した侵入者は、とんでもない。
何だか拍子抜けするくらい、その辺にうじゃうじゃ涌いているただの一般衛士のようだった。
吹っ飛んで…まあ確実に骨が折れたであろう嫌な音の後で身体が変な方向に曲がり、それこそ糸が切れた人形のように倒れた侵入者の代わりに、今度は私の足が床を蹴って、博士へと駆け出した。
それまで無反応だった私の影の中に潜むウロボロスたちが、本来の主の感情に共鳴し一挙に影から飛び出す。

「っの、糞マッドがぁああああああッ!!」
「…!」

唇からというよりは喉から溢れる地声はどうやら相当ご機嫌斜めのようで、私は内部でため息を吐いた。
…何だ。やはり検診はご存じなかったんじゃないですか。
素直に書き置きしておけばよかった。
などと後悔している間に、私の身体が足を上げ博士を蹴り飛ばそうとする…が、当然彼を守る人形が間に入り私の足を掴んだ。

「…ッ」

舌が舌打ちがして、更に怒りが膨れあがる。
掴まれた足をそのままに、もう片方の足で床を蹴り、人形の顔面を正面から踏みつけ、勢いよく奥へと蹴り飛ばした。
他の攻撃もできただろうに何故そうしたかと問えば、背後に佇んでいる博士を巻き込みたかったからだろう。

「…ッ、ラァッ!!」
「っ…!?」

後ろに吹き飛んだ人形はそのまま背後の博士の上に倒れ込んだ。
達磨になって仲良く床に倒れ込んだ一人と一体にウロボロスたちが追い打ちをかけるが、その追撃は人形が庇ったようで生憎と博士には届かなかったようだ。
落下する上半身から素早く腕を床へ伸ばし、片手を床に着いて一度バク転をすると距離を取り、私…というか、テルミさんは逆立った前髪を掻き上げて相手を睨んだまま顔を背け床に唾を吐いた。

「邪魔臭ェボロ人形程度で俺様に楯突いてんじゃねェよ…。分解すぞ?」

序でに近くにあった機材を思い切り蹴り付ける。
いくつかコードが外れ、エラー音がした。

《何も蹴り飛ばさなくても…。後が恐いですよ?》
「…あぁ?」

いつものように苦笑混じりに声をかけた途端、ざわりと体内が揺らいだ。
怒りの矛先が途端に自分に向かわれ、嫌な予感がすると同時に唐突に四肢の主導権が戻ってくる。
肉体の重さを再度取り戻したその代わりに、視線を上げれば目の前に私をベースにした彼の鏡像が立っていた。
振り上げられる腕を、ただ見上げた。

「……!?」

平手などでは勿論無い。
拳だった。
酷い音を立てて床に殴り飛ばされた私の顔や腹部を、テルミさんが何度も蹴り付ける。

「なぁにが、"蹴り飛ばさなくても~ぉ"…だ。ふざッけんじゃねェぞ!!テメェ何勝手にテイクアウトされてんだ。あ!? 待てもできねェのかよ!?子犬ちゃん以下かァテメェはよォ!!」
「っ…」
「聞ーてんだろ。オラッ!!」

最後にこめかみを強く踏みつけられた状態で、何とか彼の怒りが一段落する。
瞬く間にあちこちに痣ができた気がする。
痛覚遮断はしない。できない。
彼が私を嬲る時は。
そういう仕様になっている。
…身体を折って咳き込もうとする身体に鞭打って、まず唇を開いた。
何よりも謝罪が優先だ。

「す…みま……っ」
「はァ? 聞こえねェーよーォ!?」

尚も足に力が入る。
頭蓋骨が軋んだ気がした。
すっかり乱れた前髪の間から横目で覗くも、テルミさんの顔が逆光でよく見えない。
しかし言われたことに忠実に従う。
一度咳き込み、一時的に呼吸すら拒絶している喉を通って肺から声を出す。
他人には死んでもしたくないどのような行為であったとしても、この人相手ではプライドも起動しない。

「すみませんでした…っ!」
「スミマセンじゃねーのよ、ハザマちゃん。ほいほい俺様以外に懐くとかどーなの?あ? 何、テメェ自分のご主人サマも分かんねェ感じ?」
「あはは…。い、え…。そんな…まさか。ただ……ッグ!」

言い訳をしたいが、聞いてくれなそうだ。
こめかみを固い革靴の裏で躙られ、頭蓋骨の軋みに負けて耳鳴りがしてくる。
私がいつもの笑みを湛えて謝罪したのが気に入らなかったのか、じわじわと靴に体重がかかってくる。
さすがにこれ以上はマズイと判断した段階で、笑みを引いて乱れた前髪の間からテルミさんを見上げた。
此処から見る彼はとても高く、薄暗い照明であっても後光を背負っていた。

「…すみませんテルミさん。…どうか許してください。浅はかでした。二度とこの様なことは…」
「ハッ…!っの、クズ!!」
「…!」

ガッ…!と爪先で顎を蹴り飛ばされ、身体が床の上を滑る。
…今日は良く殴られたり蹴られたりする日だ。
顎に少し罅が入ったのか、すぐには喋れない。
皮膚と違い骨が痛んだのなら、先程肉を割かれた時よりも回復には少し時間を要する。
軋む身体を何とか起こして、触れはしないものの顎の前に片手を添える。
その間、テルミさんは両手を腰に添えて、下らないものを見るかのように未だ愛人形に押し潰されている博士を一瞥した。
衝撃からこの時間まで起きて攻撃に転じないのはおかしい。
もしかしたら、当たり所が悪くて数秒ダウンしているのかもしれない。
舌打ちしてから今一度手近にあった機械を蹴り飛ばし、テルミさんは鏡像を溶かして、弱々しい光の中に何とか輪郭を得ている私の影へと滑り込んだ。
いつもの悪寒に似た快感の末、胸中に他者の意識が入り込む。

《立て。帰んぞ》
「…っ」
《聞こえねえのかオイ。立て》

砕けた顎では答えることができなかったが、素直に立ち上がり、蹌踉ける両足で地面に生えた。
血で濡れた口元を袖で拭いて、よたよたと、まるで幼児のように壁に片手を着いて歩き出す。
体中の痛みよりも、胸の中の罪悪感が痛かった。
この人の気分を害させるつもりは一切無かった。
私のそんな感情は、内部にいるテルミさんには筒抜けなのだろう。
だからこそ、"私には貴方だけなのだ"と一際強く胸に思うことにする。

《…》
「…」

私の気分を彼が察せるように、彼ほどでは無いにしても、私にもテルミさんの気分が移る。
胸中を、不機嫌が渦巻いていた。
今にも私をぐちゃぐちゃに殺してやりたいと思っているのだろう。
…ああ。そんなつもりは毛頭無かったのに。
それでも…どんなに嫌われても不機嫌でも。
場違いにも、確かにこうして私の中に戻ってくれることが嬉しかった。

――使わなくなるまでは、貴様の所に戻ってくる。

博士の声が耳を突く。
…本当に、そうであればいい。
私が動けなくなるということは、死ぬということは…この人に"使ってもらえなくなる"ということだ。
この地上で最大の悲劇を上げるとすれば、私にとってそれ以上のものはない。
死や崩壊よりも、ずっと暗い。
想像するだけで泣けてくるから、予感はしているが想像すらしていない。

「…。すみません、テルミさん…」
《…》
「…申し訳ありません」

一歩一歩歩きながら、我ながら女々しく何度も謝罪する。
良く発音できたかどうかは分からない。
口を開く度に、ごぼごぼと血が喉を下ってくるし、揺らいでいる歯が抜けそうな気がした。
膝に意識を集中しないと、今にも崩れて動けなくなりそうだ。
彼に歩けと言われれば、足が折れても歩く。
…そう思って前に進んでいたが、途中、ガッ…!と、背後から不意打ちで膝の裏に一撃打ち込まれた。

「…!」

ぎりぎりで保っていたバランスは当然崩れ、前に倒れる。
転倒したまま背後を見上げると、テルミさんが死ぬほど詰まらなそうな顔で立っていた。
眉間に皺が寄っている。

「…」
「すみません…。今すぐ立……っ!」

荒い息を整えながらも何とか立ち上がろうと片手の平を瓦礫転がる床に着いたところで、突然、ぐん…!とシャツの後ろを猫の子のように持ち上げられた。
…素直に首が絞まる。

「あ、あの…。…テルミさん?」
「クソッたれ!使えねえ…ッ!」
「おや…。連れていっていただけるので?」
「一刻も早くこっから出てぇんだよ。気色悪ィマッド野郎の部屋なんざ、空気だけで反吐が出る」
「…あのぉー…すみませぇーん。連れ出してくださるのは嬉しいのですが、膝とかとっても痛いんですけどぉ…」

吐き捨てるように言うと、テルミさんは片手に私を持ったまま、いつも通り大股で歩き出した。
首は締まるし、引きずっている下半身は瓦礫にぶつかりっぱなしで、ガンガン膝を打つ。
後ろ首持たれているので上半身は浮いていて無事だが、恐らく下半身は青痣や打ち身が酷いだろう。
…。

「…。…ふふ」

我慢しようとも思ったが、数秒も経たないうちに、笑いがこみ上げてきた。
テルミさんが、ものっそ不機嫌に舌打ちする。

「おいおいおーい、ハザマちゃーん? 何笑ってんだァ…? ご主人様の手ぇ煩わせてンな楽しそーによォー」
「ああ…いえいえ、そんな…。すみません…」

相変わらず動かない身体を、ずるずるガンガンと引きずられながら、いつものように受け応える。
そうだろうなとは思いつつ、"それは嫉妬ですか?"とは、流石に聞けなかった。
機嫌がいい時なら口にしたら喜ばれそうではあるが、今は止めておいた方が賢明だろう。

「…。テルミさん…」

目の前を行きすぎていく床を見つめながら、絞まる首で嗄れた声を紡ぐ。
そこだけは勘違いして欲しくなくて。

「私の"主"は…。貴方だけです……」

製造主は博士であろうとも、創造主はこの方だ。
私には、テルミさんの道具以外に存在価値など有り得ない。
"もう少し慎みを持つようにします"…という一言は続けられないまま、ブツリと意識は途切れた――。

 

 

 

次に目を覚ますと、部屋のベッドに寝転がっていた。
服は寝間着に着替えてあって、身体の汚れも落ちていた。

「…」

細く息を吐ききって、瞼を閉じる。
当の本人は私を捨て置いてまた何処かへお出かけしてしまったようですが…。

――こういうところが、堪らなく好きなので、私は今日も彼に忠誠を誓います。


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久し振りのテルハザ小説。
彼らはあれでいいんですよね、うん。
性格はテルミさんの趣味として、肉体はレリウスさんの趣味とかだと萌えます(笑)
2013.9.24





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