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長い長いカーニバルは終わった。
定められた永きに続く聖書を閉じて、眠れ子ら。
どのような聖人の言葉よりも、明日また日が昇ることを喜びなさい。
そして今日という日が神の下に召し上げられるその日でないというのなら、
汝にはまだすべき行いがあるのだろう――。

 

 

会場を包む爆発的な拍手喝采。
スタンディングオベーション。
まるで演劇のように感情と表情豊かなピアノの音から目覚め、観客は我に返る。
どんなに大きなホールであろうと小さな会場であろうと、アイズ・ラザフォードの態度は変わらない。
立ち上がり、一礼をし、アンコールに応えず振り返りもせずステージを立ち去ろうと袖へ進む。
光の中で輝く銀髪と喪服のように黒い礼服。
クールなその態度を傲慢と罵る者もあるが、若き黒衣の世界的ピアニストとして確かに箔をつけ、多少なりとも彼を知る者は、彼がアンコールに応えないピアニストであることを知っている。
「もう一曲」などと願えるレベルでもないと表する者もいる。
…ところが、今夜はそこにアイリスの花が一輪投げ込まれた。
袖へ去ろうとしたアイズの行く手を遮るように、ぽんと一輪。
目撃したスタッフや一部の観客がざわつく。
この天才ピアニストは気品があるが故に間に壁を感じさせ、その為気難しいと専らの噂で、皆彼の機嫌を損なわぬようどうしても気にする。
ところが、そんな彼の行く手を遮るように一輪。
しかも、風変わりにもアイリス。
無礼だ。

「…」

アイズは足下に投げられてきた花を一瞥し、それから投げ込んだ相手を見ようと客席の前方へ視線を向けた。
投げ込まれた弧の角度からおおよその見当はつく。
そうして視線の先にいた人物を見いだすと、彼は再び足下の花を見下ろした。
…そして、あろうことか、拾った。
ざわ…と会場が揺れる。
くるりと踵を返し、ピアノへ戻ると拾った花を譜面台に置く。
イスを引いて再びアイズがピアノの前に座ると、帰りつつあった観客たちは我先にと客席に戻ってきた。
そんな群れをお構いなしに、曲は始まる。
聞かせてやりたい相手は既に席にいるのだから、問題はない。
突然始まったアンコールでのリスト曲は思いの外長いもので、その日訪れた観客は口々に己は幸運だと気と心をよくして帰路へついた。

 

「俺を訪ねて同い年くらいの男が来たら、入れてやれ」

一輪のアイリス…アヤメを片手に舞台から控え室へ進む途中、狼狽しているスタッフに告げるとアイズは今度こそ振り返らず舞台裏を歩いて行った。
斯くして、熱狂的ファンも多く厳重警戒の中、彼を訪ねてやってきた一人の物腰柔らかい青年は、何の障害もなく彼に会えた。
一輪の花の他に、もっふもふのねこのぬいぐるみを笑顔で差し出してくる友人らしき青年に、周りのスタッフはそれはそれはひやひやした。
カノン・ヒルベルト。
二年ぶりだった。

 

 

 

 

 

 

「でも、本当に。前々から勿論上手だったけれど、キミのピアノは格段に美しくなったね。とても素晴らしかったよ」
「…」
「はい、これもう一つお土産!」

宿泊しているホテルに戻ると、カノンが手放しにアイズを褒めて、木彫りの猫の置物を手渡してくる。
軽く取った食事の最中もそのことについては触れたが、改めて繰り返されてはどう反応してよいか困り、結果アイズは無視することにした。
そんなことで気を悪くする間柄でもない。
アイズがどう反応していいか悩んだ内心の葛藤は、カノンには手に取るように分かるのだから。
二年経っても、カノンの雰囲気はあまり変わっていないように見えた。
背が少し伸び、肩幅がいくらか広くなったように思うが、それだけだ。
元々、美貌の天才ピアニストの隣に並んでも違和感のない容姿をしているカノンだ。
アイズと行動を共にすると目立つもので、直前にいたホテルラウンジでも注目の的だった。
部屋に戻り、紅茶を淹れようとティセットの方へ足を向けると、それに気づいたカノンが傍でにこりと微笑む。

「紅茶なら僕が淹れるよ。キミの指先は、今や世界の宝だからね」
「…大袈裟だな」
「そう? 僕はその通りだと思うけどな。…嬉しいな。イギリスの紅茶は久し振りだ」

そう言いながら楽しそうに紅茶を淹れるカノンに場を任せ、アイズはソファセットに腰掛けた。
一人がけのいつもの位置に座り、カノンの背中を見る。

「…珍しいな」
「二年ぶりだからね」
「それに急だ。どうかしたのか」
「キミへの愛が溢れてね。いよいよ我慢ができなくなったのさ…!」

ティポットを片手に持ったまま、右手を胸に添えて芝居がかってカノンが言う。
淡々とそれを見ていたが、やがてアイズは軽く息を吐いた。
非難の声が上がる。

「あっ、信じてない!」
「冗談はいい。本題は?」
「も~。アイズは冗談が通じないんだから」

紅茶を注いだティカップを両手に、カノンもソファセットへやってくる。
アイズの座る斜めの位置、長椅子の中央に腰掛けながらカップを手渡され、それを受け取る。
琥珀色の液体に口をつけようとしたアイズの耳へ、カノンの声が届いた。

「…最近、どうやら僕にも呪いが出てきてね」
「…」

カノンの言葉に、アイズが手を止める。
一口紅茶を飲んでから、やれやれという調子でカノンは脳天気な声を出し、軽くカップを持ち上げた。

「まだそんなに重くはないんだけれど、ね…。困ったことに、たまにぐらりと人を消したくて消したくて堪らない瞬間が出てきている。この世から少しでも無能で道徳心の無い人間を減らした方がいいんじゃないかななんて考えるんだ。そこまで直接に考えなくても、"本当にこれでいいのかな"と思う。"僕"という存在が、中からぶれていくんだね」
「…」
「今はまだ押さえ込めるつもりだし、屈するつもりはないよ。ただ、報告をしておこうと思って」
「冷静だな」
「まあ、予想はついていたからね」

呪われた血が露わになる。
「そんなことはない」と真っ向から否定するチルドレンと、「来るなら自己の人格でもって戦う」と決意している気構えのチルドレンではどちらが抵抗力が高いかは、数字に出ている。
今はかなり自由に動けているが、<ハンター>側は子供たちの中で当然の如くカノンの言動に注目している節があり、彼が血に屈することは、彼自身のみならず、盤上が大きく動く可能性も出てくる。
名が出ている子供たちは、屈するわけにはいかない。
…だが、それがどのような感覚なのか、どれほど強力な誘惑なのか、まだ発症していないアイズには正確に把握ができていない。
ただ、それで悲惨な末路を送った同胞を何人も見てきた。
軽く受け取れる話ではない。

「少しでも人を減らそうと考える視点から見ると、方法はいろいろあるけれど、実際にはそれを妨害する大きな障害がいくつか見えてくる。例えばそれは、清隆とか、歩君とか…」
「俺とか…、か」
「そうだね。今のところ、ブレード・チルドレンにとっての要は歩君だと思うけど…。どうやら僕個人には、やっぱりキミがよくも悪くも最初で最後の砦らしい」
「…」
「これはいけないなぁと思って、キミに会いに来たんだ。僕自身を確立させるためにね。僕が狂うにも、正しく歩むにも、分岐点にはどのみちキミが要る」

そう言ってもう一口紅茶を飲む親友の姿を、アイズは見つめた。
やがて視線を下ろし、手元のティカップの中を見下ろし、物思いに耽る。
しん…と静寂が場を支配する。

「自惚れるわけじゃないけど、僕に呪いが出たら少々厄介だと思うんだ。色々考える。例えば、力の限り暗躍してテロを起こして…」

やがてカップを置き、カノンが真顔で拳を握る。

「人が粗方減ったら、猫王国をつくるというのはどうだろう…、とか!」
「…」
「そうしたら、僕が王様になるから、アイズは大臣になってね」
「なるか」

明らかな冗談に、アイズははあ…とため息を吐いた。
一気に空気が緩み、カノンは笑いながら席を立つ。
アイズが腰掛けている一人がけソファの横へ来ると、豪華なその肘掛けの一つへ寄りかかった。
それとなく、慈しむように、アイズの手を下からすくい上げるように取る。

「…手が熱いね」

握るアイズの手がじっとりと熱い。
ピアニストの指は、演奏後は燃えるように高温だ。
会場を離れても、アイズの指先はいつもの温度が嘘のように熱かった。
アイズが黙っていると、片手を離し、カノンはそれでアイズの片耳に彼の髪をするりと、撫でるようにかけた。

「髪を短くしたんだね」
「 …ああ。ピアノを弾くのに邪魔でな」
「昔はこれくらいだった。長い時も可愛かったけどね。一つに結んでた時もきれいだったなあ。でも、相変わらずさらさらだ。…うん。とても似合ってる」
「…」
「あと、眼鏡にしたんだね。…ふふ。さすがにステージではつけてなかったみたいだけど、視力が落ちたの? 目は大切にしないといけないよ?」

くすくす笑いながらも、ひょいと片手で眼鏡を取り上げられる。
何となく視線でそれを追い、近くのテーブルに置かれるまでをじっと見つめていたが、置き終わった直後、勢いよく片腕を引っ張り上げられた。

「――!」

引き抜かれるようにして、ソファから体が浮く。
咄嗟にバランスを取ったがよろけかけたところを、強い力で抱きしめられる。
突然のことで内心驚くアイズの耳元で、カノンが囁く。

「カノ――」
「…会いたかったよ」

それは恋の言葉というよりは、悲痛な嘆きのようだった。
実際、カノン酷く辛そうな顔をしていた。
アイズには肩越しで見えないが、密な付き合いだ。
声を聞けば分かる。

「…余裕がないな」
「あるわけないよ。何もかも壊したくなるんだ。アイズ、これが呪いなんだね。奥から湧き出てくる衝動。黒い息を吐いているみたいな毎日なんだ。町中で一人だけ、一段上に浮いて歩いているような気分になる時がある。…でもね、これでもまだ壊れきってはいない。あれからまだ誰も殺していないし。全てを壊すなら、やっぱり何よりも先にキミをやらなきゃって思うんだ」
「…。そうか」
「うん。――最近、毎日思うよ。アイズは元気かな?…って。…けど、離れ離れじゃ知らないうちにキミは世界からいなくなっているかもしれない。そう考えるとぞっとする。僕の知らないうちに誰かに殺されてしまっているかもしれない。キミの終わりを僕が知らないなんて、耐えられない」
「…」
「誰かだったら、いつか終わるのなら……僕がいいと思わない?」

抱きしめるのを止め、アイズの両頬を優しく包みながら、愛の言葉のようにカノンが告げる。
実際、それは彼なりの愛の言葉なのかもしれない。
優しげな微笑と甘い声は、好意で溢れている。
愛しい人を、最初から最期まで。
最初は無理だった。
けれど、叶うのなら最期は。
このところ思考の淵に沈んでいたカノンとしては、いっそそれこそが現実的な至上の夢のような気がしている。
自分にも世の中でできることをと考えた。
「鳴海歩」を信じて歩き出した者、歩き出さない者がいる中で、カノンは他の親しくしている仲間同様前者として動き出した。
だが、世に希望を、貢献をと動くには常に仲間と動くというわけにはいかず、長期的に離れてみて分かったが、仲間が……特にアイズと密に連絡が取れないという現実は、カノンを酷く揺るがせた。
これが選んだ道だと思っても、時折与えられた役目など放り出したくなる。
そして自分が役割を放り出すということは、希望を向いていたブレード・チルドレンが一つ消えるということだ。
…ということは、他者もそうなのではないか?
自分が揺らいで希望から外れれば、他の者もそうなる可能性が大きい。
実際、ケースは出ているのだ。
自分を信じ切れない者から、鳴海歩の論理が崩れていく。
もしもアイズが希望から外れていたらと思うとぞっとした。
知らない間に他者に殺されていたら。若しくは、殺していたら。
また絶望へ真っ逆さまだ。
その真っ逆さまに墜ちた自分を、アイズはきっと見たくはないだろう。
それは彼を深く哀しませる。
そう思うと、気が気では無い。
であれば、そうなる前に。
哀しみの淵に落とされる前に、救いの一矢を。
…頬を包むカノンの一方の手に片手を添え、アイズは諭すように口を開く。

「残念だが、俺にはまだやることがある。…お前にもあるはずだ」
「うーん…。まあ、そうなのかもしれないね」
「死の瞬間まで、前を向いて生きること。今の俺たちに死を選び取る暇などない」
「けどね、アイズ。今、僕といるこの瞬間が――」
「…!」

そこで、く…と腹部を何かで押される感覚に、アイズは気づいた。
それとなく頬から両手を離し、片腕で腰を引き寄せられたことは気づいていたが、空いているカノンの右手に握られた手のひらサイズの短銃が、腹部に押し当てられている。

「キミの"死の瞬間"――だったら、どうする?」

今一度、ゴリ…と銃口がシャツを通して皮膚を押し込む。
冷たい金属の感覚に、それでもアイズは冷静だった。
間を置いて、ふ…と気を抜き、カノンを見上げる。

「…ぬるいな、カノン。この程度では、"瞬間"とは言いがたい」
「僕に勝てると思うの?」
「難しいだろうな。だが、撃たれたところで、腹部では即死でないだろう。気が遠くなるその瞬間までだ。それまでは抗うさ。あるいは、気を失った後でもな」
「…キミは前例があるから笑い飛ばせないね」

くす…とカノンが柔らかく笑った。
アイズをナイフで刺した。
胸を一突き。
既に過去のできごとであるそれは、過去であるが故に何をどうやっても消すことはできない。

「次があるとしたら、勿論キミが息絶える瞬間まで傍で見届けてあげるつもりだけど…」

一歩後退して体を離し、カノンは降参とばかりに両手を挙げた。

「じょーだんだよ。今はね、本当にたまたま、ものすごーく倍率の高いキミのコンサートチケットが取れたから、急いで休暇を取って会いに来ただけ」
「そうか」
「ふふ。驚いた?」

急に悪戯っぽく笑うと、カノンは眼鏡を置いたその横に銃を置く。
小振りだが、ゴト…と置けば硬い音がした。
改めて、アイズの両手を取る。
両手の…特に指先は、氷のように冷たくなっていた。

「ごめん。本当に驚かせたね。さっきまで熱かった指が、もうこんなに冷たくなってる」
「…チケットくらい、言えば送る」
「そんなことを言ったら全演分ほしくなっちゃうよ。仕事しなくなっちゃうぞっ?」

ぱちんとウインクされ、何とも言えなくなる。
確かに、日々各国を回り、向こう一年のスケジュールがぎっしり詰まっているアイズだ。
きっかり一年先までしか予定を入れないので、彼へ依頼の電話は常にかかりっぱなし。
富裕層に熱烈なファンも多いので、彼自身の生活は一方的な彼らの好意で殆ど成り立つ為、個人的な収入は信頼できる組織を通して社会福祉に回している。
爆発物処理で地球上を飛び回っている理央と同じくらい忙しい身の上であり、それはカノンも同じだ。
才覚ある者は、祝福され試されし者は、墜ちる瞬間まで人々に求められるものだ。
やることなど、できることなど、有り余って仕方ない。
忙しい中時間を取ったというのは、嘘でも何でもないだろう。

「でもね、さっき言った半分は本当。僕が揺らいだ時にはキミが必要だし、キミが揺らいだ時、僕が傍にいてあげたいなって思ってる。遠距離恋愛はね、アイズ。一般的にはとても難しいものなんだよ?」
「そうなのか」
「そう!しかも、たまーに連絡はしていたけれど、実際は二年も会えてなかった…なんて、悲劇過ぎるねっ。普通なら人恋しさに耐えられなくてもおかしくないよ!」
「…」

カノンは目を伏せ、いかにも芝居がかった仕草でぴっと人差し指を立てた。
感情表現が不得意だが、情に厚いアイズからしてみれば、距離があるから信頼が崩れるという感覚はピンとこない。
少し考え、ごくごく当たり前の疑問のようにカノンに尋ねてみる。

「…難しいか?」
「普通はね」
「…。そうか」
「やだな。僕らの話じゃないよ。僕らはその点なら大丈夫さ。僕らの問題は、生じるとしたら、別れるか否かなんかじゃなくて、殺すか殺されるかだからね、きっと」

両手をぎゅっと握り、親しい友人に会った時のようにカノンがアイズをハグする。
それから、家族にそうするように頬を合わせてキスの真似事をした。
一度顔を離し、アイズの顎を柔らかく取る。

「あんなに痛くて辛い目、それにたくさんの犠牲の上に得た絆だもの。ここで手放すなんてナンセンス過ぎる。…ね、アイズ。今夜キミに逢えて嬉しい。前々から容姿は秀でていたけれど、この二年でとても綺麗になったね。背も伸びた」
「お前の方も伸びたようだがな」
「変わらずキスがしやすくて嬉しいな。短い髪も可愛いよ」
「髪の短い方が好みだったか」
「それだけじゃないけど。…そうだな。小さい頃を思い出すから、確かに僕はこのくらいの方が親しみ深く感じるかな。表情も随分柔らかくなってるけど、その調子じゃ、どうやら自分じゃ気づいてなさそうだね」
「あまり鏡は見ないからな」
「宝の持ち腐れだねえ。――けど、今は僕が固くしちゃったね。…ごめんね」

こしょこしょと猫にそうするように指先で顎下を撫でてから、にっこり笑って極自然な仕草でキスまで続く。
そういえばカノンにはこんな手癖があったかもしれないとアイズ自身が思い出すよりも、覚えの良い体が一気に記憶を引っ張り出して来た。
このまま主導権をぽんとカノンに渡して当然だと思っていたアイズだが、片腕だけをアイズの腰に回したままふとキスした体を離し、カノンが再びにこりと人差し指を立てる。

「さて、問題です。今、僕の体には銃器とナイフがいくつか隠れています」
「…」
「全部探し出せるかな?」

はあ…と息を吐き、カノンのポケットに手を入れてみると、まずは一本細身のナイフが触れた。
アウターを脱がせ、両サイドと内ポケットを探るともっと出てくる。
脱がせる時に違和感を感じた手首周辺には、仕掛けで飛び出る小型ハンドガンが入っていた。
それこそ身体チェックの両手を挙げて大人しくしている体にぺたぺた触り、その他諸々発見される。
終わってみると、眼鏡の隣に並べたそれらは、路地裏でちょっとしたお店が開けそうな数になった。
流石に少し呆れる。

「…重くないのか」
「もう慣れたかなあ。上着を脱がせてくれてありがとう。…でもね」
「…!」

トン…っと最後にカノンが右のつま先で床を蹴る。
すると、踵から細い隠しナイフが飛び出し、目にもとまらぬ速さで逆手に持つとそのまま、ビュッ…!とアイズの左首に突きつけた。
細い銀髪がいくつか踊り、鎮まる。

「あと一本あったよ。おしかったね」
「…」
「気を付けてね。キミに何かあったら、みんな哀しむ。もちろん、僕もね。…うん。これで本当に全部」

首筋にぴたりと添えていたナイフを棚に置き、直前までは何も無かったかのように、カノンは再び芝居がかって両腕を広げた。

「さあっ、もう遠慮はしなくていいよっ。久し振りに大好きな僕にどーんと甘えておいで!朝までキミを寝かせないよ!」
「…」

両腕を広げるカノンをアイズは冷ややかに見つめる。
正直、形はどうあれすぐにでもカノンに触れたい気もするが、ここまで冗談めかしてやられるとノってやるのも癪なものだ。
少し考え、カノンへ歩み寄る。
…が、そのまま横を素通りした。

「…あれ?」
「シャワーを浴びてくる」
「どうして。そのままでいいのに。よーし、じゃあ一緒に入――」

後をくっついてくるカノンの目の前で、バン!とドアがしまり、すかさずロックがかかる。
苦笑しながら何度かドアをノックしたが、応答は無い。
カノンは癖で、いつものように腕を組んで片手を顎に添えた。
困ったように微笑する。

「う~ん…。からかいすぎちゃったかな?」

相手をそのまま腕の中で締め上げたくなる程の情欲を霧散させるのはなかなか難しく、場を和ませようとしたが、少々おふざけが過ぎたらしい。
結局開けてもらえず、そこから二十分近いお預けをくらう羽目になった。
まあ、冷静になるにはちょうどいいかもしれない。
カノンは平然とバスルームから離れて元いた場所へ戻ると、棚に並んだ銃器とナイフをじゃらじゃらと整理し始めた。
うち、一丁の銃を手に取り暫く見下ろしていたが、やがて息を吐くとそれも他と同じくバッグにまとめ、ベッドから遠い部屋の端へと置いた。

 

 

 

「う~ん…。まったく。キミは本当に可愛いね」
「…?」

この後のことを思えばバスローブでも構わないようなところ、しっかりいつもの黒いシルクの寝間着を身につけて出てきたアイズに、カノンは思わず笑みをこぼした。
よく分からないような顔でアイズは首をかしげたが、その様子には答えず手を引く。
乗り上げたベッドで後ろから抱きしめられ、ちゅ…と何度も絶えず背後から首や頬にキスを受け、アイズは萎縮してしまいそうな体を意図的に解放し、相手に委ねる。
黒い寝間着のボタンを途中から外され、侵入したカノンの手がするりと胸元を撫でた。

「…」

触られる場所が逐一じぃんと痺れたような感覚が走る。先端は尚更だ。
関係は久し振りというだけで当然初めてではないのだが、まるで慣れのない。
目を伏せて頬を染め、全権を投げ渡し、腕の中でじっと耐えているアイズが可愛らしく、カノンは優しく問いかけた。

「…全然してなかった?」

カノンの問いかけに、アイズがうっすら瞳を開いて肩越しのカノンへ視線をやる。

「…他に誰とやるっていうんだ」
「一人でも?」
「あまり」
「眠れないでしょう、それだと」
「そうでもない。それに、酷い時は睡眠薬がある。心配するな。たまにはしている。ただ、好きじゃない」
「それはそれは」
「お前がいないとよくはないし、虚しいだけだ」
「素敵な殺し文句だね。けど、なるほど。それであんなにフェロモンダダ漏れなわけだね…」

ふう…と困ったようにカノンがため息を吐く。
恋人が自分に貞淑なのはとても喜ばしいことだが、そこを歩くだけで目を奪われる容姿とカリスマ性、才能、加えて色香はどうにかしてもらいたい。
溢れる才能というのは多かれ少なかれ他者を魅了するもので、故にブレード・チルドレンは皆どちらかといえば人に好かれることの方が多いし、個性はあるが容姿も秀でた者が多い。
そうして懐深く忍び込むのだ。
遺伝子の入念な罠であり、皆持つものだが特にアイズはそれらが強い気がする。
そこに禁欲などされては、周りの嗅覚鋭い者たちは堪らないだろう。

「お誘いはたくさんあったんだろうにね」
「暇なだけだろう。女に気を持たせるのはお前の方が得意に思えるが」
「キミよりは近づきやすい性格のつもりだからね」

遺伝子の罠は先述の通り人を吸い寄せてくれる……が、お互い、不思議なくらい相手の浮気やら移り気の心配は微塵もなかった。
唇にキスをしてから、カノンが首をかしげる。

「明日はおやすみ?」
「ああ」
「じゃあ、アイズのここに溜まってる分を空にしちゃおうか。ゴムもたくさん持ってきたしね」

アイズの寝間着の下に両手をかけ、下ろしながら爽やかな笑顔でおそろしいことを言ってくる。
どちらが体力的にバテが早いは一目瞭然だ。
アイズは真顔で首を振る。

「いや…。そこま――」

否定する暇もなく、両脇にカノンの手が入る。
ぐっと捕まれたかと思うと、まるで子供をそうするように僅かに持ち上げ、あろうことか軽々とくるりと反転させた。
細身に見えるが、重さのある銃器も自在に扱えるエキスパートだ。
本人は「コツを押さえればそんなに力は必要ないよ」とはいうが、その腕力と体力、集中力や精神力はちょっとしたものである。
突然向かい合うようにカノンの胡座の上に下ろされたアイズは、まるで少し強引に膝に抱き下ろした猫のように、嫌ではなさそうだがどこか不本意そうに、所在なさげにそこにいる。
彼の両手を握り、カノンはにっこり微笑んだ。

「抱き合っている間、ちゃんと僕と僕の仕草を見ているんだよ、アイズ。寂しい夜、一人でも思い出して気持ちよくなれるようにね」

 

 

部屋に微かな甘い声が響く。
キスの合間から聞こえるか聞こえないか、零れる吐息に自然と声がつく。
そんなアイズの嬌声が嬉しくて、カノンはついつい少し苦しいくらいの頻度でキスを繰り返した。

「んっ、ん…。…ぅ」

自らは上は脱いだが、下はまた前を寛げた程度。アイズはその逆である。
剥き出しの白い脚は惚れ惚れする程美しい。
するりと腿を撫でると、それだけでびくりとこの沈着冷静なアイズが小さく震える。
互いの熱を合わせ、カノンがそれらを右手で擦っていた。
当然だが、お互い形を得るのも濡れるのも速かった。
二年も実際に逢えなかったのだから、愛おしさが溢れて止まらない。
キスを繰り返しながら熱を合わせ、先走りを広げるように先端を弄れば、その度にくちゅ、と音が響いた。
触れている場所が、火傷をするのではないかと思うほど熱い。
そんなことすら懐かしい。

「はぁ…。ふ……、ぁ」
「胸ももっと触ってほしい?」

不安定なカノンの片腿の上にいるので、アイズは後ろに右手を着いていた。
必然的に、僅かとはいえ体を反らしてさらすような形になる。
片腕では辛かろうに、左手はと思えば、さっきカノンが持ち上げた寝間着の上が下がらないようにそのまま押さえているらしかった。
布を握って快感に耐えている節もあるが、自ら上半身の裸体をさらしていることになる。
今更詰めたままの襟が苦しげなことに気づき、一番上のボタン外して寝間着を左右に開いてやる。
押さえる必要がなくなり、改めてアイズは両手を後ろに着いた。
カノンの問いかけに逆に不思議そうに、熱を含んだ唇を開く。

「…お前が好きかと思ったが」
「キミの体で嫌いなところなんて何もないよ。…じゃ、お言葉に甘えて頂こうかな」
「っ…」

ぐっと上半身を詰め、カノンがアイズの胸へ吸い付く。
舌で愛撫し、吸い、色鮮やかにしていく。
悪寒にも似た急激な上半身への開館に顎を引いて縮こまったアイズだが、間もなく後ろ腰に片手を添えられ、胸への刺激も相まってそれとなく後ろに倒れるよう押された。
両腕で体を支えるのを止めてカノンが示す通り後ろに横たわれば、いつの間にか頭の場所には枕があった。
眩しさに涙目をしかめる。
天井の照明をバックに、明るい茶の髪を輝かせてカノンがアイズの腿を開き直す。
殆ど日に当たることのないすらりと白い脚を、自身の体に密着させることで左右に開かせる。
ベッドの上に広がる銀糸や黒衣から覗ける白い肌は、もうそれだけでただただ官能的だ。
ベッドに横たわるアイズは、まるでクッション上のパールのようだと、カノンはいつだって思う。
大切な宝石だ。
あながち間違いではない。

「久し振りだと、少し痛いかもしれないね。ローションを多めにするけれど、痛かったら言って」
「…」
「顔は見せてくれないの?」

片腕で顔を隠したアイズに気づき、カノンが残念そうな声を出す。
腕の下で、アイズが首を振った。

「…眩しい」
「眩しい? …ああ。明かりか」

気づいたらしいカノンが腕を伸ばし、ベッドヘッドから照明のリモコンを操作する。
煌々と明るかった室内の照明が力を落としてぼんやりと薄暗くなると、アイズが腕を外す。
彼に額を合わせ、キスをし、カノンは優しく問いかける。

「これくらいならいい?」
「…ああ」
「ん~…。けど、いつもこうして暗いからアイズは僕が何をやってるか見られないんじゃない? マスターベーションの勉強に、たまには明るくてもいいかもよ?」
「…」

言いながら、カノンはせっかく消した照明を再びあげ始める。
カノンが本当にそれを望むのならばつきあってやるのは吝かではないが、どの程度の望みなのかを計るためにもアイズは彼の手からリモコンを奪うと、更に再び照明を暗くする。
そのまま、終わりとばかりに逆手にベッドヘッドに置いてみた。
ここでもう一度照明を上げられれば従うつもりだったが、カノンは小さく笑うだけでそれ以上は何もしない。
アイズの意見を尊重することにしたらしい。

「相変わらずシャイだね。今更、僕相手に恥ずかしがることないのに。…ま、久し振りだしね」
「…」
「けど、とっても可愛い。そういうところも好きだよ、アイズ。キミが綺麗なのを知っている人間は世界中にたくさんいるけれど、可愛いことを知っているのは僕だけかもしれないね」
「っ…」

言いながら、ローションに濡れた左の人差し指を双丘の蕾に添える。
つぷ…と少し強引に進めると、それだけで狭い。
一瞬、アイズがぴく…っと肩を揺らした。
痛いなら痛いと言えと伝えた。
けど、おそらく今夜はどんなに酷くしても、アイズがカノンを拒むことはないだろう。
それを分かっているから、いっそ手荒に激しくしてみたいような気持ちも生じてくるが、結局正規の愛しさが優先されていつだってカノンは丁寧にアイズを抱く。

「…初めての時みたいだね」

ふ…と笑って、きゅうと閉じようとする蕾を暴く指を緩めることなく、空いている右手で形を成した性器を握る。
は…、とアイズが首をすくめた。

「っ…、め…」
「だめ?」

咄嗟に出ただけであろうことは分かるが、敢えて意地悪く聞いてみる。
カノンの問いかけに、我に返ってアイズは熱い呼吸の中で切るように一度首を振った。
本気で否定するところが彼らしい。

「いや…。…悪い。続けてくれ」
「そう?」
「っ…。んっ…、…」
「声を我慢すると苦しいでしょう。出しても大丈夫だよ? …まあ、すぐ気にならなくさせてあげるけどね」

前で快感を与え、体に思い出させる。
はじめはきつかった蕾もやがて柔らかくなり、頃合いを見計らって出し入れする指を二本に増やす。
ぐぷぷ…っと何とか二本を根元まで呑み込ませ、熱せられていたカノンも焦りが出てくる。
本当なら、今すぐ繋がりたい。
事前の手順など軽やかに飛ばして、すぐにでも。
抜き差しするカノンの指に合わせ、アイズが身動ぐ。
耐えられなくて力なく伸ばしてきた片手が、前を擦るカノンの手首へ重なる。
自らの指が性器に触れているわけではないのだが、カノンの手が上下することでアイズも腕も動いていく。

「は…っ、ぁっ、ぃ…」
「自分でやってるみたいに見えるよ」
「っ、く…」
「ほら。先を触ってごらん。気持ちいいよ?」
「っ…!」

人差し指を取り、先端を爪で押すようにすると、ぎゅっと涙目を伏せアイズが身を小さくする。
とろりと先端から再び白い蜜が流れ落ちてきて手の動きを手伝う。
いつのまにか快感に取り付かれ、アイズはカノンの手首を掴んだまま上下させ、彼の手のひらの温度と感覚に夢中になっていく。
一人ではあんなに難しく、できたとしても虚しく惨めになるだけでよくはないのに、カノンがいるだけで快感が次から次へと溢れてくる。
体中が熱い。

「んっ、ぁ…。はぁ…っ」
「ね? 気持ちいいでしょう? アイズが感じてくれると、僕も嬉しいし後ろも解しやすくなるよ。ほら」
「っ…!」

コリ…と固い部分を指先で押し上げられ、露骨に体跳ね上がった。
浮いたような白い裸体を折り曲げ、細い腕を下肢に伸ばすアイズから視線が外れない。
いつもは冷静な恋人の乱れた姿に、じりじりと理性が焼けていくし息も熱くなってくる。

「段々…柔らかくなってきた…。前もすごいね。…体が、思い出してくれたかな?」
「……カノ、ン」
「ん?」

不意に名を呼ばれ、カノンは顔を上げる。
手元だけ見ていた彼が視線をあげれば、アイズがふわりと左手を伸ばしていた。
カノンの頬に触れようと伸びてきたそれを、右手でぎゅっと外から握る。
その手に唇を寄せてキスしてから、強請られたような気がして、カノンはぐっと上半身を前にすると横たわっているアイズと口づけた。
舌を絡め、熱い呼吸を奪い合う。

「は…」
「…」

唇をはなすと、おもむろにアイズがカノンの胸へ片手を添えた。
手のひらに、とくんとくんと心音が、鼓動が伝わる。
それがひどく心地よく、嬉しい。

「何?」
「……いや」
「ふふ」

にこにことアイズの髪を撫で、手首を取ると胸から彼の手を離す。
そのまま、カノンは片肘をシーツに着き、アイズの下にもう片方の腕を回した。
シーツとの間に手を滑り込み、ぐっと手のひらでアイズの背を持ち上げると、体勢を低くしていた自分の胸とアイズの胸を密着させた。

「…」
「…」

心臓。
心音と鼓動を素肌で感じる。
お互いこうして生きていることが喜ばしい。
目を伏せて心音を感じているカノンの肩に、ゆっくりアイズの両腕が回る。
首にすり寄られ、恋人が放つ薫りに刺激され、カノンはぱちりと目を開けた。
近距離で上から。
それでも覗き込むように問いかける。

「さて、どうかな。そろそろ僕も我慢できないかも」
「ああ…。俺もだ。…好きにしてくれて構わない」
「言うと思った。久し振りだな、それを聞くのも。それじゃあ、お言葉に甘えて」

決まり事のような言葉を懐かしく感じて、カノンは微笑した。
カノンの愛し方が包容と排他であることに対して、アイズの愛し方は常に受け身だ。
例えばカノンがどんな無茶な愛し方を押しつけても、おそらく身が持つ範囲までは委ねてくれるだろう。
幸いなのは、カノンが包容と排他の人間で、味方や近しい者に対して慈しみを忘れないことだ。
カノンはアイズを気遣うし、アイズはカノンの好きにさせる。
この構図だと、どうしても先に痺れを切ったように見えるのはカノンの方になる。
何も欲情が無いわけではないだろうが、自らのそれを我慢してしまうアイズは忍耐強すぎる。
低く抱き上げていたアイズの背をベッドに下ろし、身を乗り出す。
彼の右膝を自身の左肩にかけると、カノンはそのままギ…とアイズの左に右手をついた。
どくどくと高鳴る心臓を感じながら、自分も何かやらなければという思いにかられ、組み敷かれたアイズがカノンを見上げる。

「……挿れる前に、触れてやろうか」
「今話題のピアニスト様の手で? それはとっても豪勢だね」

面白い話のように切り返され、アイズは少々むっとする。
アイズの指は今や世界の宝だ。
世界的音楽家というものは何処へ行ってもVIP待遇を受ける。
常に横に添い人があるのが普通で、日常生活一つ一つの動作でさえ指に何かあってはいけないからとさせてもらえない場合もある。
だが、だから何だと言うのだ。
カノンに触れることに対して、枷をつけられるいわれは無い。
その枷をつけるのがカノン本人だなんて馬鹿げている。
すぐに些細すぎる彼の不機嫌を察したカノンが、宥めるように雨あられとキスを降らせてきた。

「冗談。嬉しいよ。…けどね、僕は僕がキミに触れる方が好きなんだ。知ってるだろう?」
「…」
「アイズが僕の手で変わっていくのが好きだよ。久し振りだから、まずは堪能させて。それにね、そんなに時間もかからないよ。ほら」

下半身を密着させられ、アイズが黙り込む。
数回自ら片手を動かしただけで、カノンの熱を固くするには十分だったらしい。
解されたとはいえ狭い蕾に熱を宛がわれ、アイズの指先が自然とシーツを探って掴んだ。

「アイズ…」
「…」
「怖いね。こんな日がまた来るなんて、思わなかった。運命はどう転ぶか本当に分からない。…アイズ、好きだよ。世界中で誰よりもキミを大切に思ってる」

甘い囁きと同時に、ずっ…と熱が内部へ侵入してくる。
ローションで滑りはあるが狭い中を押し広げてやってくる熱の塊に、アイズはぐっと目を伏せ顎を引いた。
体が多少無理に開かれ、カノンの左右に開いた脚に力が入り、腿が固くなり爪先ががぴんと伸びる。

「――っ、んっ、ッ…」
「っ…。大丈夫だよ。そんなに緊張しないで」
「…ふ」

優しく腰を撫でてから前を弄ってやると、いくらかアイズの緊張が緩和された。
痛みと快感とに耐える最愛の親友は麗しい。
始めは気遣いながら引いては進めていた腰が、多少慣れて二度三度となってくると徐々に容赦がなくなってくる。
ギシギシとベッドが軋み、耳に残るローションの音が酷くなってくる。
じりじりと押し込まれ、抜かれ、激しさに気が遠くなり始めると、気づけば口を開け、生理的な涙が横から零れていった。
日頃静かなベッドの上で、カノンの動きに翻弄されて弓反りに背を浮かせる。
びくびくと反応する姿は美しい魚のようでもある。
アイズの感じる顔が刺激的なのを、カノンはよく知っていた。
涙を拭ってあげたくなる一方で、もっと泣かせたい気持ちも生じてくる。
アイズの表情を見ながら何度も腰を進め、とろとろとその度にアイズの先端から蜜が溢れ出す。
慣らしたとはいえ、狭い孔に腰を進めるのは支配欲を充たしてくれるし、挿れれば中が熱く絡みついて求められているのが分かった。
深く挿れた状態で、少し息を整える。

「熱…」
「はっ…あぁっ、カノ――…っうぁ、っ…」
「っ…。慣らしはしたけど、やっぱり随分狭いね。痛くない?」
「ぁ、ああ…」
「けど、違和感はあるよね?」
「…平、気……だ」

すぐには動かず、アイズの体に馴染むのを待っている間、カノンは彼のあちこちに何度も口付けた。
ぼう…とそれを受けて惚けていたかと思ったら、そっとアイズが右手を己の腹部に添えた。

「…」
「嬉しい?」

カノンが小首を傾げながら尋ねる。
たっぷりの間をあけ、やがてアイズは小さく頷いた。
アイズの言葉の引き出し方には少しコツがある。
胸の内を言い当ててやれば、同意という形で、誠実な彼は本当に、驚くほど素直なのだ。
カノンは堪らなくなり、体勢を低くしてあちこちキスを繰り返し、耳に甘く囁く。

「僕もキミとまた抱き合えて嬉しいよ。ずっとこうしたかったからね。もう二度とキミとこうすることはないだろうと思う夜は、少し泣いたよ。本当に嬉しい」
「…俺もだ」
「そう…。…よかった。アイズ」
「ん、っ…!」
「好きだよ…」

ずっずっ、と揺さぶられながら届いたカノンの言葉に、アイズが律動の最中で朦朧と薄い唇を開く。
傍にあるカノンの腕をぎゅっと握る。

「っ…、っあ、ああっ、カノ…ン…っ!」
「うん。…少しずつね」

名前を呼ばれただけで、何をしてほしいのかカノンにはすぐに分かった。
深く繋がりたいのはどちらも同じだ。
じっとりと滲んだ汗が首を滑り、ぱた…とカノンからアイズへ落ちる。

「ん、っ、っ――」
「は…っ。気持ち、い…っ」
「――れ、も…っ、はぁ、ぁっ…」
「うん」
「っ、ン…っ」
「嬉しいな…」

苦しげに顰める顔には珍しく薄紅が入り、目尻に涙が滲んでいる。
生理的とはいえ、アイズ・ラザフォードが泣いている姿というのは本当に一部の人間しか見られていないだろうと思えば、カノンの体中に情欲が奔って溢れる。
いつだって独りで我慢して、いつだって独りで泣く子だから。
どんな悲劇が歩く道に用意されていたとしても、自分を囲む周りの人間たちの為に俯くことをしないから、だから自分くらいは彼に理由を与えて泣かせてあげたいと思ったのが、そういえばはじまりだった気もする。
動きが止まらない。
自分でも驚くくらい歯止めが利かず、カノンは思わず苦笑した。
泣けてくる。
優しいアイズ。
彼を自由にしてやりたい。
生の続く限り試され続ける日々なんて、過酷だ。
今、この瞬間に殺してあげれば、アイズはきっと幸せだろう。
だとしたら、どうやってあげるのが一番いいだろう。
苦しくないやり方がいい。
体力が尽きるまでイかせて朦朧としているうちに脳を撃ち抜いてあげるとか。
…いや、どうせならこの手に感触を残したい気もする。
だとしたら、やっぱりナイフか…あとは絞殺かもしれない。
絞殺はいい。
きっと、最期の瞬間まで自分をみてくれるだろう。
その苦しさと比べてもまだ自分が好きなのかと問いかけたい。
そしてやっぱり、アイズは自分を許すのだ。
真剣に穏やかにこんなことを思うのだから、ナイフやら銃やらをたった一つでも手元に残しておかなくてよかった…と、カノンは安堵した。
あとはこの両手が彼の首を締め出したりしないように、相手の白くて細い指に指を絡める。
目の前に横になり、惜しげもなく体を開いてくれているアイズを見ていると、とても穏やかな気持ちになる。

「……」
「…あれ?」

感じる表情を観察しているカノンに気づいたらしい。
アイズが、不意に枕の上で顔を背けた。
ぷいと横を向かれ、カノンが虚を突かれたようにぱちりと瞬いてから、くすくす笑ってアイズの顎を取って戻す。
熱っぽい瞳。
拍子に、つ…と口に溜まっていた唾液が横から垂れた。
拭おうと咄嗟に持ち上げたアイズの片手をカノンが掴んで止め、流れた唾液を下から唇まで舐め取って、ちゅっと子供っぽいキスする。

「いつもは綺麗なキミがぐちゃぐちゃだね」
「…」
「ピアス、光って綺麗だよ。とても魅力的。…ああ~もうっ。ダメだ。燃えてきちゃうな~」

ふにゃふにゃと楽しげに微笑むカノンの下で、アイズは肩で息を繰り返した。
ようやく止まってくれたという気持ちと、早く達したいという気持ちが鬩ぎ合う。
…わざと止められた気がした。
浮いてしまいそうな腰を、羞恥心が制する。
静かに息を整えているアイズの取っている顎下を、またカノンが撫でた。
恋人の感じている顔を観察するというのは悪趣味ではないのだろうが、アイズはあまり見られるのが好きでは無い。
平素、二人でいる時大体のことはカノンが提案しアイズに主導権があるものだが、セックスともなれば一方的にカノンの支配下だ。
アイズがそれを許しているし、敢えて委ねているということもあるが、とはいえあまり調子に乗られると嫌ではないが面白くない気持ちも出てくる。
やがてアイズは自分を組み敷くカノンへ両手を伸ばし。

「ん? な……ふぃ?」

ぐに…と両手で左右にカノンの頬を引っ張った。
そのまま、むにむにと動かす。
ふにゃりとカノンの顔から力が抜ける。

「いふぇふぇふぇっ」
「…早く動け」
「早く動いていいの?」

頬を引っ張るアイズの両手首を取って離しながら、楽しそうに確認として問いかける。

「キミがバテると思うけど?」
「…構わない」
「そう?」
「ああ…。…動いてくれ。もういい。…奥に、もっとお前を感じたい」

アイズの言葉に、カノンが驚きを示す。
希に見せる積極的な発言だ。
思わず首をかしげてしまった。

「珍しいことを言ったね」
「それくらい言わせろ。…お前は、随分落ち着いているな」

態度に示すことが下手であっても、アイズにしてみれば待ち望み続けた一夜だ。
カノンと共に夜を過ごせる日は、これ以上無い幸福のように思えた。
アイズとしては体を重ねる行為自体はあまり魅力を感じない。
感じないというと大袈裟だが、なくても構わない。
共に語らい、横で眠るだけで十分ではあった。
だが、カノンがそれを求めていて、それを自分が与えられるという事実が幸福を感じさせてくれる。
一分一秒も惜しい。
…と言葉にできる性分ではないから、このくらいの意思表示が精一杯なのだろう。
だが、相手は長年アイズを知っているカノンだ。
「このくらい」がアイズの中でどの程度の強さの催促なのか、ちゃんと熟知している。
「余裕があるな、自分はこんなにもお前を求めていたのに」…という言外の言葉は伝わった。
カノンの体に熱が奔る。
煽られて平然でいられる程、余裕があるわけがない。

「落ち着いて見える?」
「…? ああ」
「これでも頑張ってるんだよ。キミに乱暴をしたくないからね」
「…」

辛そうに苦笑するカノンの様子に、アイズは失言だと気づく。
謝ろうか。
それとも、そうは見えないと茶化すべきか。
…一瞬考えた末、淡々と尋ねてみることにした。
察することが癖になっているが、カノンにならば直接聞きやすい。
一種の甘えだ。

「…本当はどういう気分なんだ?」
「ん~…。キミを思いっきり泣かせたいかな。頭の中がぐちゃぐちゃでどろどろで、僕の名前しか分からなくなるくらい。キミの綺麗な泣き顔も好きだけど、抱き合ってる途中で着いてこれなくて、ちょっとぼぉっとしただらしない顔も同じくらい好きだからね」
「…。ハードだな…」
「男はみんな野蛮な狼なんだよ」
「…」
「アイズは狼っぽくはないね。羊さん? …あ~でも、やっぱり猫かな~」

カノンに取られた両手を自由にし、再びアイズは彼の両頬へ手を添えた。
そのまま引き寄せる。
うっとりするくらい優雅に、目の前でアイズが瞼を閉じた。

「今日は泣きたい気分なんだ。…お前と会えてよかった。お前の荒事くらい、受け入れてやる」
「…!」
「好きだ、カノン…。お前と同じ運命でよかった」

一言添えて、アイズからカノンへ唇を重ねた。
甘くて丁寧なキスの後、唇を離す。
…アイズからのキス。
ちょっと珍しい。
理性が無くなる頃にはべたべたに甘えてくれることもあるけれど、逆に言えば理性が働いているうちはそーでもない。
今夜も既に散々唇を重ねたり至る所にキスを繰り返しているが、殆どがカノンからだ。

「…何だその顔は」
「あ、アイズ…」

片手で口を押さえ、カノンが感動に打たれて肩を震わせている。

「…ねえ。ねえ、もう一回してくれる?」
「ああ」
「今度はディープでね」

滅多に自分からやらないくせに、そんなこと造作もないという様子で首に腕を回し、再度カノンへ唇を重ねる。
確かに舌を絡ませてくれたが、カノンが自分からするディープキスとは随分違い、やはり丁寧で甘く緩やかだ。
くらくらしてしまう。
理性がいい加減焼けてきて、キスをしながらもカノンは少し浮かせていたアイズの背を優しくシーツに戻した。
唇が離れると、そのままアイズの首筋にキスしたカノンの顔が離れる。

「…ありがとう、アイズ。勿論僕もキミと同じ気持ちさ。嬉しいな。…でもね、」
「…」

カノンがアイズの上で半身を起こし、とても嬉しそうににっこりと笑う。
爽やかで綺麗な笑顔だが、アイズは何か嫌な予感がした。

「きっと明日は後悔するよ? 今のでもう完全にリミッター外れたから。暫くは筋肉痛かも」

言うが早く、カノンは勢いよくアイズの片脚を持ち上げた。


遠く鐘が鳴る



翌朝。
散々無茶をされても、翌朝は常に平和なものだった。

「…」

広いベッドで、隣にカノンが寝ている。
片腕がアイズの腰にかかっていた。
ぼんやりと目は覚めたが、アイズはそのまま暫く彼の寝顔を見つめていた。
正確に言うと、すぐに起きる体力がないのだ。
頭の中もまだぐらぐらする。
さすがに久し振りということもあり、昨晩は激しかった…が、やはりそれ以上に悦びだった。
カノンはそれこそ狼のようにアイズの体を食い尽くしたらしいが、決して手荒なわけではなく、寧ろ痛みよりも快感で途中から吹っ飛んでしまって記憶がない。
蜂蜜瓶の中に落とされたような身動きのできなさだった。
最中、窒息するかと思ったり、快感でホワイトアウトしもう自分に戻れないような恐怖もあった。
絶頂する度に、首を絞めるように自分がぶれていく。
快感も、与えられ続けると拷問に近い。
頭の中が溶かされ、酷く体力を使う。
しかし、カノンが求めているのであればどんなに苦しかろうとアイズの理性が「NO」ということはないのだから、止まりようがない。
かろうじて意識が戻った短い間はあちこちにティッシュやゴムや袋が散乱していた気もするが、それらの形跡も今はない。
どうやらカノンが片付けてから眠ったらしい。
そんなところも、二年前そのままだ。
だが、大体は彼が先に起きていることが多いので、アイズが先に目覚めるのは少し珍しい。

「…っ」

身じろぎするだけで下半身に違和感を感じた。
腿が酷い筋肉痛だ。
背中も膝の裏も性器を始め性感帯が全て痛む。何なら唇もまだ熱く腫れているような気がする。
…シャワールームへ行かないと。
どうやら軽く拭ってくれたらしいが、中にまだ少し感覚がある。
一人でシャワールームへ行くには随分時間がかかりそうだ。
身を起こそうと肘を着き、ふと改めて隣を見る。
すうすうと仰向けで眠っているカノンを見ていると、理由もなくそこで動きがいつまででも止まってしまう。

「…」

不意にキスがしたくなり、シーツに片手をつくと顔を近づけてみた。
…と、

「…『スリーピングビューティ』?」
「…」

目を伏せたまま、カノンの唇が動く。
あと数センチというところで、アイズは動きを止めた。
瞳を開かず、そのままカノンは続ける。

「キスで目覚めるなんてロマンチックだよね。…でも、あれは王子が強姦一歩手前だと思わない?」
「…起きてたのか」
「気配が動くからね。キミが起きはじめると、必然的に僕も起きるよ」
「…!」

突然、ぐっと片腕を引っ張られながらカノンが勢いよく起きる。
気づけば体勢は逆転して、ぼふっとアイズがベッドに倒れ込んでおり、上半身を起こしたカノンがそれを見下ろしていた。
にこりと、いつものように微笑する。

「いい朝だね、アイズ。目覚めのキスは、僕にさせてくれると嬉しいな」
「…」

少し考えたが、やはりここでもアイズは譲ることにする。
目を伏せて大人しく待つアイズの手を握り、カノンはゆっくりと彼にキスをした。
舌を絡めて口内を犯され、苦しくなってきた頃にカノンが離れる。
そのまま、彼は額と首へ優しくキスをした。

「昨晩、僕はキミを殺さなかったね。…うん。それじゃあ、やっぱりもう少し、頑張ろうかな」
「…そうしろ」
「キミこそが僕の希望だよ。辛くても前を向いていてくれるから、僕もキミを守りたくて一緒にいられる。…強いね、アイズ。キミは僕の誇りだ」

感慨深く頬を撫でるカノンに、挨拶程度のキスを返す。
お互い額を合わせて小さく微笑んでからカノンが身を起こし、アイズの腰へ白い枕のカバーをかけると、抱き上げようと腕を入れた。
自分はしっかり下着を身につけているあたり、流石に余裕がある。

「…というわけでっ、今日こそ一緒にシャワーを浴びようね!」
「一人で平気だ」
「またまた~。動けないくせに」
「お前が来るとまた始まりそうな気がする」
「察しがいいね。今日はいちゃいちゃする予定でいるんだ」
「勝手に妙な予定を作るな」
「そうかな? アイズの予定は"僕と一日いること"なんじゃない? 一緒だよ。腰が立たないアイズの代わりに、今日は僕が何でもやってあげる。責任は取らなきゃね」

全然違う…と思ったが、アイズは言葉にするのを止めた。
結局のところ、カノンが求めるうちはそれを与えてやりたいのも確かだ。
細腕に見合わない腕力で、軽々とアイズを抱き上げる。
背負うのでもなく、成人近い男性をお姫様だっこできるのだから、相当だ。
よろけることもなく、すたすたと部屋へ備え付けられているバスルームへ向かう。

「体は大丈夫? 無理を強いてごめんね。けど、嬉しかったよ」
「相変わらずの体力だな…」
「ん~。そんなに鍛えてるつもりはないんだけどね。…久し振りだというのなら熱が出るかもしれないから、辛かったら言ってね」
「言ったら、抱き合えないが?」
「それは仕方がないよ。そうしたら、看病という名のシチュエーションとセクハラを楽しむから、それはそれで楽しみ。心配しないで」
「…」

アイズを抱き上げたまま、顔を寄せてカノンが髪へキスしてくる。
…理想的な朝だ。
そんな気がした。
今までも絶望の中とはいえ平穏な朝はあったが、この男がいるだけでこんなにも満たされる。
希望の先行者として歩む身になった今では、これが強い力にもなるはずだ。
胸がいっぱいになる。
不意に感じた幸福に、自分を抱き上げるカノンの肩にそっと腕を回し、目を伏せてそこへ頭を寄せた。
笑う声が耳にくすぐったい。
カノンも幸福なのだと、何ら疑いなく感じることができる。

「…カノン」
「ん?」
「こういう朝は、悪くないんじゃないか?」
「そうだね。最高だよ」
「なら、次のこんな朝の為に、せいぜい足掻いて生きるんだな」

言うと、カノンは吹き出してアイズの耳へ唇を寄せた。

「そうする。…君が望むなら、ね」

 

窓の向こう。
日は既に高く、遠く鐘が鳴っていた。


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