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お菓子が上手に出来ると、いつも誰かに分けたくなってしまう。
勿論スーさんと一緒に作ったので、お隣さんの諾威さんにお裾分けしようとできたてを持って家を出ると、自宅の庭にあるテーブルに諾威さんがクロスを敷いているのが柵の手前からよく見えていた。

「諾威さーん。スーさんとJuustokakku作ったんですけど、よけ…」

丁度お茶にする所ならすごくいいタイミングと、最初柵の外から声をかけようとしたら諾威さんが一度その場から離れて垣根が高い庭の奥に向かってしまい、きっと裏口から食器とか出してきてるんだろうと思って軽い気持ちで柵を越えて後を追った先で…。

「あ…」
「お…?」

裏口の所で諾威さんと丁抹さんがキスしてて吃驚してしまった。
全身の細胞が一瞬にしてびしっ!と凍ってしまい、言葉と足がばっちり止まった。

「…?」

諾威さんは僕に背を向けてたから気付くのが遅れたようだが、丁抹さんには速攻で気付いてすぐにキスを止めると諾威さんの腰に添えてた片手を離してその手を軽く上げた。
遅れて諾威さんが肩越しに振り返って僕を一瞥し、すぐに目を反らして片手を腰に添えるとため息みたいな息を吐く。

「…」
「よお、フィン~!何だ、どし…うおっ!」

片手を上げ、近距離に立っていた丁抹さんをかなり勢い付けて突き飛ばしてから諾威さんは家の中へ入って行ってしまった。
少し蹌踉けたけど一歩後ろに足を出すだけで転ばなかった丁抹さんの真横で、ばたん!!と強くドアが閉まり、しかもその後に鍵がかかる音がした。
…何だか凄まじくお邪魔したので居たたまれず、残された丁抹さんにこそこそ数歩歩み寄ってはみるものの、何と声をかけてよいやら…。

「あ…えと…。これ、良ければなんですけど…」
「お。チーズケーキけ~!サンキュ。ちょうどっこ今から茶ぁにすっぺーっつっててよー。フィンも食ってぐべ?」
「い、いえ…!!…じゃ、じゃあ僕はこれで!」

丁抹さんの言葉から逃げるように、慌ててその場を後にした。



丁抹さんと諾威さんが親友関係であると同時に恋人関係なのはずっと昔から知ってるし、その中でも丁抹さんが諾威さんのこと好きだったことに関して言えば更にもっとずーっと昔から知ってる。
実際それでスーさんが酷い目にあったりしたし。
知ってる…けど。

「そ、そうだよね…うん。そうだよ、でも…。……うわあ」

帰り道。
ちょっと丸めた片手を口元に添えて、真っ赤になりながら急ぎ足で帰った。
付き合ってるのは知ってたけどその先の具体的な想像なんてしたことなかったから、キスシーンを目の当たりにして僕が感じたのは得体の知れない衝撃だった。
頭が勝手に色々考えちゃう。
お二人が恋仲なのは知ってるけど、それで恋人で…どこまで進んでるんだろう、とか…。

「う、うわ…」

自分で生んでるイメージが何か良くない想像をする前に、軽く首を振って霧散させた。
熱い顔の片方に片手を添えて、ばたばた帰路に着いた。







家に帰って自宅でも焼いたケーキでお茶をして、そのまま日常を続けて夜になっても、良くないもやもやが続いてた。
「そう言えば洗剤切れてたっけ」とか「花たまごのブラッシングしなくちゃ」とか、そういう何かしら考えることがある時はすっかり忘れているのに、ちょっと考えることがなくなって思考が手持ちぶさたになるとお昼のことを思い出してしまう。

「…はあ」

暖炉前にある二つのソファのうち自分の方へ座り、膝に花たまごをちょこんと載せる。
ソファとソファの間にある小さなサイドテーブルの上に湯気立つカップを二つ。
夕食後にここで食後のカフェオレ飲むのだっていつもの習慣。
全てがいつも通りで何一つ変わりない穏やかな日なのに、僕の頭の中だけが騒がしい。
深々とため息ついた僕を不思議に思ったのか、それとも単純に遊んで欲しかったのか、花たまごが僕のお腹に片足ぺしょんと乗せて、もう片方の前足をぐぐぐ…と僕の顎狙って伸ばしてみてるけど届かない。
伸ばされた片手を指先で軽く握って、ちょいちょいっと握手してみた。
…あまり考えたことがないけど、恋人でキスは普通ですよね。
普通ですよね、って思うのが異常なほど、普通ですよね…。
確かに僕らには一応の性別があるけど、別に生物として子供をつくって残せる訳じゃないからあっても大した意味をなさないし、驚くことなんて欠片もない。
勿論恋仲の何がいけないって訳ではないし、寧ろいいことだと思う。
思うけど…問題は。

「…フィン」
「はいいいいっ!!」

突然背後から声をかけられ、思わず上擦った声で返事をすると花たまごを抱えソファから飛び上がった。
慌てて振り返ると、僕が今座ってたソファの背のちょっと向こうに、スーさんが立ってた。
いつも通りの無表情だけど…たぶん僕の反応に驚いたんだと思う。
少しの間何も言わず佇んでた。
僕の方が先に我に返り、花たまごを抱き直して顔を上げる。

「あ、ご、ごめんなさい。…何ですか?」
「明日朝ま早ぐ行っがら…。めやぐだばって、いっつが部屋行ぐ」
「あ…はい。分かりました」

明日スーさんがちょっとした会議で会場の亜細亜に出て行くのは、結構前から決まっていたことだ。
すごく朝早いので、今日は早くお休みになるみたい。
その方がいい。疲れてしまう。
ソファセットをぐるりと回る形でスーさんが傍に来て背を屈めたので、顎をあげて左右の頬を合わせた。
顔を離して背筋を戻すと、僕の腕の中にいた花たまごの頭をくしゃりと一度撫でる。

「…やすみへ」
「はい。おやすみなさい」
「…ん」

サイドテーブルに用意してあった自分の分のカップ取り、部屋への往き道にリビングに置いてあったパソコンと小さなカバンを掴むと、スーさんはそのまま廊下へ出て行った。
…。

「…えーっと」

残された僕は少しの間そのまま佇み、少しの時間を置いてから、右手で自分の口元を覆った。
何かちょっと色々考えちゃって顔が熱い。
もうずっと前の話だから今もそう思っているのかどうかちょっと自信はないけど、スーさんが周囲に僕のことを女房宣言してからかなりの時間が流れてる…けど。
キス、とかは…。
…。

「したことない訳じゃないけど…」

記憶を相当遡ってようやく思い出せるようなずっとずーっと昔だ。
しかも偶然というかうっかりというか、頬を合わせるいつもの挨拶途中で僕が顔を不意に動かしたから当たっちゃったようなものだった。
その時はもうびっくりしちゃってとにかくわたわたしてしまいスーさんの反応は全く記憶にないが、以降お互い話にも出さなかったしそれっきり。
…別に、僕は現状維持で十分幸せだし、今となってはスーさんが恐い人ではないことも分かってる。
女房の肩書きも今はまあ…一緒に暮らしているし、ちょっとジョークを含んだ呼び名でいいかなとも思ってる。
特別したいって訳ではないけれど、何というか、ちょっとだけ悔しい部分があるみたいだ。
まるで、僕とスーさんよりも丁抹さんと諾威さんの方が親しさが強いと見せつけられているみたいで、少しだけ焦る。
過去結構ごたごたしていたあの二人より僕らの方が仲は良い……と、思う。
…。
…うん。
思う。

「…」

指先を口元に添えて少し考えてから、花たまごを床に下ろしてキッチンへ向かった。





忙しいから絶対邪魔だということを分かっている手前、ドアの前で暫く戸惑ったが、そんな僕の背中を押したのは持ってきたトレイの上にあるコーヒーだった。
あんまり迷ってるとぬるくなっちゃう。
三度目くらいの決意でやっと、さり気なさを装って軽くノックすることに成功した。
短く二回。

「スーさん、あの…。ちょっといいですか?」
『…ん』
「し、失礼します…」

ぎくしゃくしながら僕がドアを開けると同時に、スーさんが少しだけチェアを引いて回し、こっちを見上げた。
デスク上にはパソコンと書類が広げられていて、端っこにあるプリンターの排出口にも何枚か印刷されたものが押し出されている。
…忙しそうだ。

「…なした?」
「あ、あの。コーヒー如何ですか?」
「…。コーヒー…?」

トレイを少し持ち上げる僕の言葉に、スーさんは聞き返したあとちらりとデスク端へ視線を投げた。
そこには、さっきリビングを出る時に持って行ったカフェオレが置かれていて、しかもまだ湯気が立っている。
完全に忘れてたそれを見て、僕は内心悲鳴を上げた。
か、考えたら、さっきからあまり時間経ってないから当然と言えば当然だ…!
カフェオレ飲んでる所にコーヒー如何ですかって…明らかに口実くさい!
瞬間的にパニックに陥り、ぐるぐる頭でぱくぱく口を開く。

「あ、あの、すすすみません…!僕あの、飲み終わっちゃったんで二杯目淹れたんで、ついでにスーさんも温かい方がいいかなと思って…!」
「…ん。…貰う」
「え? …あ、はい!どうぞ!!」

言い訳途中に片手を差し出され、慌ててトレイ上のカップを手渡した。

「あ…。じゃあカフェオレの方を…」
「…い」

もとあったカップの方を回収しようとしたけど、スーさんはコースターの上にあるそのカップの隣に、新しいコーヒーの入ったカップを並べて置いた。

「こいも飲ん」
「そ、そうですか…? 」

取り敢えず両方お飲みになるらしいので、持って帰る物はない。
何も乗せないトレイを両手で持って腿の前辺りに添えて下ろした。

「…」
「…」
「…?」
「あ、いえ。他に用事とかはこれといってないんですけど…」

無表情に疑問符浮かべるスーさんの瞳が見返せず、俯いて居たたまれなさから両肩を上げた。
…何て切り出していいのか分からない。
そのまま数秒間沈黙が続いたけど、あまり長い時間いたらスーさんのお仕事が止まってしまうことを思い出して、ちらりと顔を上げた。

「あ、あの…ですね。子供の頃とか…。僕の所おやすみのキスってあったんですけど、スーさんの所も…ありますよね?」
「そったもん…。めんずらしぐね」
「あ、あははは…。ですよねー。……それであの」

淡々とした切り返しに一度笑ってから、目線を泳がせてみる。

「お休みのキスとか…。何かちょっと…懐かしいかな、とか…。思ったりなんかして…」
「…」

全然さり気なくならない言葉を無関係な壁の方を眺めながら言ってみると…。
数秒後、カタン…とスーさんがチェアから立ち上がったので、驚いてびくりと身を震わせ、思わず片足を後ろに引いて一歩後退してしまった。
スーさんの機嫌は読みづらい。
言い出したのは自分なのに、歩み寄ってくるスーさんがやっぱりどこか不機嫌に見えて、仕事邪魔しちゃってることもあるし、思わずトレイを持ち上げて自分の顔半分をガードしてしまった。

「え、えと…。い、嫌なら別……ひえっ!」

顔が近づいてびくついた僕の額に、少し首を傾けてちょん…とスーさんの口が触れた。
すぐに顔が離れる。

「あ…」
「……やすみへ」

さっきまでキーボードを叩いていた手で軽く前髪を梳いて、その手が離れていく。
ちょっと待って、とか違うんです!という言葉が出てくれば良かったけど、片手を下ろすと同時にデスクの方へ向き直ろうとするスーさんを目の当たりにして真っ先に出てきたのが…。

「く、口…!」

哀しいくらい唐突な単語だった。
しかもそれと一緒に思わずぎゅっとその片腕のシャツを掴んでしまった。
掴んだシャツの上でスーさんが珍しく、傍目でもちょっと吃驚したんだなっていうのが分かる表情で机に向こうとしていた顔を振り返した。
澄んだ綺麗な瞳と一瞬目が合い、かーっとまた顔が熱くなる。

「や、あの…。あのですね……く」
「…」
「……。ぁ…えっと」

…駄目だ。
目が回ってきた…。
何を言いかけたのかとか思い出す以前に、何でここに立ってるんだっけ…?くらいの変な所へ意識が飛んでいってしまう。
次の言葉が続けられず、スーさんのシャツを握ったまま硬直した数秒後。

「…!」

握っていたシャツの手に、す…っとスーさんの片手が重なって指を解かれた。
「邪魔だからそろそろ離せ」という主旨なのかと思ったが、その離された手をゆっくり握られ、吃驚して思わず身が更に硬直した。
…無言のまま背中に片手が添えられる。
最初添えられるだけだったそれが本当に少しずつ少しずつ前へと僕の身体を押し出し、爪先がそれに負けてとん…と一歩前に出た。
前というのはつまり、近距離に立っていたスーさんの腕の中な訳で…。
まだ触れてないのに、その中に入った瞬間、正面に人がまとっている温かさを感じた。
遅れてずっと俯いてた僕の左頬にスーさんの右手が触れ、そのうち親指が顎下に添えられてまた本当に小さな力で上へ押された。
顎が上がる。
上がるけど…。
…この期に及んで目は合わせられなかったので、即座に目を瞑った。

「…」
「……」

口にキスが届く間、嫌じゃないのかな嫌じゃないのかなという心配ばかりがあって身体はがちがちだったけど…。
実際にキスしてみると、あまりの柔らかさと、それから遅れてやってきた妙な…安心感?みたいなものにふわりと力が抜けて眠くすらなった。







人のベッドに寝ることなんてあまりない。
ベッドってある意味その人の本当のテリトリーで勝手に寝ちゃいけない気がするし、毎日惚れ惚れするくらい皺一つないのを知っていると尚更だ。
靴を脱いで、持ってたトレイはどこかに置いて…。
何か途中記憶が抜けていつのまに部屋の端のここに来たのかはっきりしてないけど、灯りを消した暗い中で仰向けに横たわったまま、いつもより少し深く呼吸した。
人のベッドって、持ち主の匂いがすごく着いていて…本人が傍にいても背中のシーツや枕の匂いの方が強く感じる。
…皺にならないかな。
なるに決まってるけど、目の前の現実が少し怖くて思考がそんな心配事に逃げていく。
カーテンはもう閉めてあったんで、電気を消すともう真っ暗。
不意に肩に上から手を添えられ、思わず小さく震えた。
うぅ…。早まったかも…。
けど、最初のキスから頭の中にある変な睡魔みたいなものがなかなか抜けないみたいで、顔は相変わらず熱いし内心わたわたする一方で、どこかぼんやりしてしまってる。

「…、っ」

首の、顔のラインに近い場所がキスで濡れて、思わず変な声が出そうになった。
何も見えない暗がりの中で無意識に自分の上にあるスーさんの両肩を押し返そうとしたけど、本当に自然に、やんわりと両手首をそれぞれ取られて、包むように胸の前で一つにして置かれてしまう。
困ったときにする癖みたいに僕の両手が胸元で組んでまとまった所で、やっぱり柔らかくスーさんの片手に握らる。
…で、空いた片手が。

「ぁ…。わ…」

シャツのボタンにかかって反射的に顔を竦めて顎を引いた。
風が通った鎖骨がすぐにキスで温められる。
ひとつひとつ外されていくボタンを追うようにキスが下がっていって、恥ずかしさに泣きそうになった。
絶対、絶対に見えてないはずだ。
この近距離だけど僕だってスーさんが見えないんだから、当然逆もそのはず。
なのにどうして視線を感じるのか、不思議でならない…。
的確に顔を見られているような気がして、枕の上で顔を横に背けた。
ぱさ…と髪が布の上を移動する音がやけに大きく響いた。
…シャツが全部開かれて、大きな手に触られるだけでも恥ずかしいのに、臍の窪みを舐められた気がして、またびくっと身が攣った。
何気なく口の中に溜まった唾液を呑み込むとこれもやけに大きく響いて、後悔した。

「ん…」

暫く大人しくしてくすぐったい刺激に耐えていると、不意に片手に頬を撫でられて、背けていた顔を正面に戻した。

「…?」

何か言われるのかと思って待とうとしたけど、その前にまた口にキス。
始め触るだけで、その後ちょっとだけ舌を合わせた。
気遣うような浅い重ね方が嬉しい。
また眠くなってくる…とか一瞬気が緩んだのも束の間。
パンツのボタンが外され、かなり慌てた。

「え、あ…ちょ…。待…っ」

慌てた。
慌てたけど…途中だったキスを続けられて言葉で主張はできなかった。
流石に両手を祈ったままにはできず、手探りでスーさんの肩を探してそこを掴む。
シャツの手触りに少しだけ安心するけど、下着の中で硬さを持ち出してたそれを握られ、ぼ…!と顔が更に熱くなった。

「や…。うわ…っ」

キスしてた顔が離れたので口は動くけど、何だかじんじんしていて熔けそうだった。
また鎖骨とか、首と肩の境界とかにスーさんの口が移るけど、そんなのは今は微々たる刺激だ。
掠めるくらい緩く握られ、その感覚に粟立ってシャツの向こうの腕に爪を立てて縮こまる。
あんまり時間を置かず手を動かされ、ゆるゆる撫で上げられて堪らない。

「ん…っ、ん」

ぎゅっと両目を瞑って唇を噛んだ。
自分なりに我慢したけど、先から雫が溢れたのが感覚で分かって、泣きかけた。
バレなきゃいいなと思ったけど、勿論そんな訳はない。
…触る音に水音が付いてきた辺りで今度は耳からも恥ずかしさが与えられて、頭が真っ白になってしまう。

「す、スーさ…。手…」

スーさんの肩に置いていた手のうち右手を離し、鼻を擦る振りをして顔と涙声を隠す。
…手が先走りで汚れてしまう。
こういう行為をしているんだから当たり前と言っては当たり前だけど、そんな…僕の先走りなんかで汚すのが申し訳ない。

「手、離してくだ…さ…っ。…じ、自分で」

やりますから、と続けかけたところで不意にドアの向こうで。

   __かりっ。

「っ…!!!」

物音がして、反射的にシーツに肘ついて半身を飛び起こした…途端。

「…!」
「あでっ…!」

がん…っ、と真っ暗な中顔面が上にいたスーさんとぶつかった。
スーさんのどこにぶつかったのかまでは分からなかったが、取り敢えず僕は顔面をぶつけ、それと同時にカシャン…と乾いた音が近くに落ちてきた。
眼鏡が落ちたんだと思う。
すぐにスーさんに謝りたかったけど、その時はそんなことすっかり思い至らず、とにかく反射的に片手で自分の口を押さえながら震えて勘でドアの方へ視線を投げる。
それまでとは別のもので頭が真っ白になって硬直した。
な、何…?
今絶対物音が…。
こんな所誰かに見られたらと思うと、血の気が勢いよく引いていく。
…恐怖に縛られて凍っていた僕だけど、その後に続く物音はとても聞き覚えのあるものだった。

   __かり…。
   __かりかり……かかかか。

物音はドアの向こうのとても低い位置から出されていて、音の主はあんまり伸びてない爪でリズミカルにドアを引っ掻く。

「あ…な、何だ…。花た……まっ」

僕が思い至ったタイミングでドアの向こうで物音の主が小さく鳴いたが、全身からへにゃりと力を緩ませて安堵してた途中で横から頬にキスがきて、また肩を持ち上げ身が強張った。

「え、あ、あの…。スーさ…」
「…」
「ちょ、ちょっと…っ」

シーツに肘付いて背中を浮かせた中途半端な体勢で、驚いてキスが触れた右肩を上げた。
ぶつかったせいで一瞬離れてた濡れた手がまた緩く動き出す。
ぞくっと躯が震えた。

「す、スーさん…っ。あ、あの…!」
「…」
「さっき眼鏡落とし…落と……や、ちょ…。き、聞い……んむっ」

正面から詰められる顔に押される形でまた枕に頭を落としてキスをした。
長いキスの間、下の方に与えられる愛撫に懸命に耐えながら、ばたばたと右手で周辺のシーツを手探りする。
ちょっと離れたところに落ちてた眼鏡に指先が触れ、慌てて握るとぐ…っと腕を伸ばし、ベッドの端の方へ置いた。
割れたら大変だ。
大変なのに…。
まるで、一切の音が聞こえてないみたいだった。
…。
一度ふっと…途中気配が遠のいたのでちょっと慌ててどうしようか迷った後、背を浮かせて暗闇の中手を伸ばし探ってみると、指先がまたスーさんの肩に触れたのでほっとしてまた寝転がった。
ちょっとだけ指先に力を込めて、ぎゅっとする。

「う…」

指先を濡らしてた雫と…きっとそれ専用の薬か何かを足したのかもしれない。
くっ…と指が重く、かつ滑らかに中に入った。
こっちの呼吸が落ち着くのを待って、ゆっくり…腸壁を撫でるみたいにして奥へ押し滑ってくる。
…ドアの向こうはまだ花たまごがいるみたいで、諦めずかりかりと爪でドアを引っ掻いている。
心音が乱されるその音も、スーさんには届いてないのかもしれない…。
一度逆撫でして指が抜けて、危うく変な声が出そうになったけど何とか耐えた…後に、また差し込まれる。
普通入れれば慣れるものだと思ったけど何だかさっきよりぐんと呼吸が重くなり、何故だろうと思っていたら途中内側で少し別々に動いたので、それは指の数が増えたからなんだと解ってまた泣きそうになった。
何かもう…もうどう反応していいかも分からなくて、とにかく両腕で正面から頭を抱えるみたいにして縮まって顔を覆った。

「っ…。ん…っ」
「…」
「わ…」

何とか慣れようと指の背で口を押さえながら必死に身を任せていると、不意に仰向けになっていた僕の身体の下…背中の下へ、スーさんの片手が滑り込み、そのままぐいと持ち上げられるようにして俯せに返された。
別に何をどうしろって言われた訳じゃないけど、自然とシーツに膝を立たせて背を反らし、枕に爪を引っかけて顔を思いっきり埋めた。
鼻の先で後ろ髪が分けられ、項にキスされて皮膚が熱くなる。

「…っ」

それと同時に先端が宛がわれ、さっきの指と同じ要領でず…っと薬の滑りを活かして想像より重いものが内臓に挿り込んできて、息が詰まった。

「あ…っ、うあ…!」
「…」
「は。……げほっ」

呼吸が上手くいかず、枕から顎を上げて何度か咳き込む。
浅くしか吸えないし、短くしか吐けなくなる。
苦しい。
苦しいけど、受け止めるのだけでいっぱいいっぱいだけど…足りなかった。
熱を持った場所と場所がぴったり填る感覚が快感だけど、だからこそ疼きも大きい。
指の時もそうだったけど、何かもっと…もっと奥でいいのにと思う。
痒いところが上手く伝わらないもどかしさに思わず小さく首を振った。

「ぁ…。ぁ…っ」
「…」
「…っ!」

言おうかどうしようか迷っている間に、ず…っと挿っていたものが退かれ、力一杯瞑っていた目を一度見開く。

「ふ、ふぇ…。や……うあっ」

完全に抜けるその前に止まって、またゆっくり、さっきよりちょっとだけ深く挿ってくる。
何度か時間をかけて繰り返すうちに、ゆっくりだったスピードは早いとまではいかずともゆっくりではなくなってきた。
だんだん奥まで届くようになった頃、ある場所にスーさんの先端が触った瞬間、自分でも驚くくらい大袈裟に躯が跳ねて悲鳴をあげ、そこからは早かった。
出たり入ったりの動きに揺らされ、脳が揺れる。
それに合わせてぎしぎし軋むベッドの音。
真っ暗な中の汗の匂い。
…余りの気持ちよさと恥ずかしさに、いつの間にか半べそかいて枕に縋っていた。
スーさんがやりやすいように大人しく静かにしていようと思っていた当初の考えはすっかり忘れ、今にも先っぽから飛び出しそうになり、それがとにかく嫌でぐしゃぐしゃになって押さえられている腰を捻って泣いたけど、結局は、もしかしたらもっと的確な場所を突いて欲しかっただけで、よく聞く“腰を振る”ってことになるのかもしれなかった。

「っ、ん…っや…」
「…っ」
「スーさ…やだ、や…。で、出るか…。ひ…――ッ!」

言ってる途中で一番深く突かれて、我慢の限界が来てしまった。
上擦った悲鳴を思い出すと、今でも家出したくなってしまう。

シーツの上に溢れ落ちてく熱と同時にお腹の中に熱いものが流れたのが解った直後。
荒い息の中で突然現実が戻ってきて、何だかよく分からないけど圧倒的な絶望感みたいなものに襲われ、もうとにかく堪らなかった。
一番醜い姿を見られた気がして…。
枕を抱き締めて声を殺し、少しの間だけど、静寂を崩さないように顔を伏したまま本格的に泣き出してしまった。



「……フィン」

ぐしゃぐしゃになって肩と喉で荒く息して咳き込んでたところで、低くてすごく静かな声が上から響いてきた。
闇の中で片手が伸びてきて俯せていた左頬を撫でて、ちょっと遅れてもう片方の手も伸ばされ、気付けば上げていた僕の顔を包むように両手が添えられていた。
それから親指の腹がそれぞれ涙を払った後で、更に遅れて…額が重なった。

「……Jag alskar…」
「ぁ…」
「dig…」

囁きに誘われてずっと閉じていた目を薄く開けた頃には…もう何度目かになるけど、今までのどれよりも優しいキスが口に触れた。
…触れたけど…せっかく開けた目だけど、心身共に疲れ切って、ついでに泣き疲れたせいですぐにまた閉じた。
涙で目がしぱしぱしていて、閉じていた方が楽だった。
真っ暗で目を閉じていても周りの状態とかはある程度分かる訳で、あんなにぴしっとしていたシーツは皺寄れて枕は歪、溢れた雫と僕の涙で所々が湿ってる。
それが本当に申し訳なくて、大人しく綺麗な子になれなくて…でも好きだと言ってくれて、嘘でもいいから嬉しくなった。
その辺に放っていた片掌に手が重なり、指が絡み合う。
その手がすごく熱くてほっとして、ちょっと握り替えしてみると引き寄せられて腕の中。

「…」
「…」

何分経っても静かだった。
もしかしたらスーさんも疲れて寝てるかもしれないから、邪魔したくなくてそのままずっと黙ってた。
幸せで目を閉じる。
…何だか、本当に夫婦みたい。
機会ある事に度々繰り返し思ってることだけど、名前を呼んで、ずーっと昔助けてくれたことが本当に嬉しかったと伝えて、僕はスーさんの相方になれて幸せです…って。
言ってみたかったけど、勇気がなくて止めた。
スーさんもそう思ってくれてたらいいなとぼんやり思いながら、最後にまたちょっとだけ髪を擦り寄せてから、そのまま意識を手放した__。










翌朝。
…と言うか、翌昼。

「ひ…。ひやぁあああああああああああああーっ!!」

微睡みの中ちらっと開けた片目に壁掛けの時計が入り、悲鳴を上げて布団を払い飛び起きた。
12時!!
起床予定より8時間も遅くて…って言うか遅いなんてもんじゃない!

「う、うそ…!スーさん!!大変です、亜細亜会議に間に合っ……あ、あれ?」

ベッドから逃げるように片足下ろしながら着ているシャツを脱ごうとボタンに指をかけたところで、はた…っと違和感を覚え足を止めた。
じっと自分の格好を見下ろした後で、もう片方の足の膝から下をベッドに乗せたまま、後ろを振り返る。
僕が早朝に起きて見送る予定だった人の姿は、影も形もなかった。
デスクへ目を向けると、上に並んでたパソコンも書類もファイルも、全部なかった。
ぽかん…とした後、もう一度自分の格好を見下ろすと、見間違いとかじゃなくシャツを着ていた。
部屋のカーテンは閉じていたけど、その向こうからばっちりお日様。

「…」

数秒後。
思わず足下が蹌踉け、尻餅をつく要領でばふん…!とベッドに腰を落として、ものっすごくお尻が痛くて暫く一人で無言のうちに悶えていた。

少し経ってからリビングに行くと、コーヒーメイカーのスイッチが入ってる状態で置いてあって、郵便物がテーブルの上にあって、ソファの上では花たまごがぬいぐるみ相手に奮闘していた…けど、僕の姿を見つけると小さな尾を振ってぱたぱた駆けてきて足下でお座りした。

Ruusukimppu ja ensimmainen yo



二日後。
スーさんの帰国日。
薄情だけど、早く帰ってきて欲しい気持ちより、遅く帰ってきて欲しい気持ちの方が断然強かった。
そわそわしながら花たまごを抱っこして待っていて、でもどんな顔をして会えばいいか分からず、スーさんが帰ってくるまで何度もイメージトレーニングを繰り返していたけど…。

「よーフィン~!元気けー!?」
「え、あ…。で、丁抹さん……と」
「…」
「…ねえ。僕会議出てないし暇じゃないんだけど、何で僕までスヴィーん家でご飯? 意味分かんない」
「いーべなたまにゃーよ~。こーでもねえと集まんねっぺなー!」

イメージトレーニングなんて何の役にも立たなかった。
ドアを開けたのは丁抹さんで、その後ろに諾威さんと氷くんが面倒臭そうに立っていた。
…で、更にその後ろに。

「……」

ちょっと最近見たことないくらい不機嫌なスーさんが立っていた。
右手に薔薇の花束を持って。
…。

「…ぁ。…えっと」

かあ…と顔が熱くなってちょっと俯きかけたところ、先頭にいた丁抹さんと一瞬目が合い…。

「…♪」
「…!!」

意味深なウインクと同時にびっ…!と親指立てられ、青筋立てて総毛立ってしまった。
即座に諾威さんが背後から丁抹さんを横殴りにしたので、更に頭に血が上ってくらくらした。
…氷くんだけが首を傾げて倒れた丁抹さんを見据える。

「…何で今そいつ親指立てたの」
「気にせんでええべ。…阿呆のすっこた逐一気にしてらんねえわ」
「そ、そそそんなことよりどうぞ!!お茶にしますから入ってください…!」

せめて氷くんにバレるのは避けたい…!
必死になって話題をそらそうと奮闘すると、諾威さんが先に僕の横を通過して入ってくれた。
続けて入ろうとした氷くんが振り返る。

「スヴィー。立ち止まってないで早く入ってよ。鍵閉めるから」
「待て待て待てぇい!閉めんな閉めんな…!!」
「…何。あんたも入るの?」

少々のどたばたの後に、久し振りにみんなで夕食を取ることになった。
それぞれ役割分担して夕食の準備をした時に料理担当が僕と丁抹さんになり…。
スーさんが自分から言い出すはずはないし、恥を忍んでこっそり聞いてみると、何だかとっても嬉しそうに笑いながら答えてくれた。

「だってよー。あーんな幸せオーラ出してっスヴィーなんざ見たことなかっぺよー。一発で分がったってえ」
「し、幸せ…ですか?」
「だいじだいじ。しんぺえすんな。晩げよばれたらよ、すーぐ行っちみっから。その後でちゃんとおかえりのキスでもしてやれな。やろはおめえのこと好き過ぎてどーしょーもねんだからよ。…どーしょーもねーってのがあんだよなあ。しゃーねえしゃーねえ」
「…」
「…あ、そこのワイン開けねえで後でおめらで飲めよ。上物だぞ~!」

夕食はいつもより豪勢に、静かだけど愉しく取って、本当にすぐに三人は帰っていってしまった…。



スーさんが持ってきてくれた薔薇は恐らく僕宛だったのだと思うが、残念なことにそれらは何も知らない氷くんが花瓶に生けて食卓に飾ってしまった。
食後、暖炉の前にあるふたつのソファへそれぞれ腰掛けて、いつもと変わらず僕は膝に花たまごを抱いた。
ふたつのソファの間にある小さなテーブルには湯気立つカフェオレ。
…頬杖着いて小さいが深く息を吐くスーさん程、僕は残念がってない。

「…あの。スーさん」
「…」

タイミングを計り、勇気を振り絞って声をかけてみると、スーさんが頬杖を解いた。

「花束、ありがとうございます。その…。僕に持ってきてくださったんですよね…?」
「…」
「嬉しいです。とっても。…お出かけの日はお見送りできなくてすみません」
「…。…身体さ」
「あ、大丈夫…です」

初日はちょっとじんじんしたしお腹壊したけど…と心の中で続けてみて、また急に顔が熱くなる。
赤くなったり青くなったり、最近忙しい。
そういう意味では身体に悪そうだけど…。

「スーさんこそ、殆ど寝てないんじゃないですか? 飛行機の中で寝たって疲れなんて取れませんし、出た日だってどう考えても…」
「…」
「あ、いやその…っ。た、旅の疲れもあるでしょうし…!」
「…。…明日」

うっかり話が事があった日のことになりそうだったので、急カーブして無理にまとめる。
それまで両肩上げて縮こまりつつ膝にいる花たまごを撫でた僕の視線と同じく、スーさんも僅かに俯くと自分の膝あたりを見詰めてぽつりと口を開いた。
思わず顔を上げてそっちを見る。

「もいっか…。買ってぐっがら…」
「へ…?」
「…ん」

確かに一緒にいる時間は長いかも知れないけど、強面で、僕にはまだスーさんの機嫌とかが他の昔馴染みの方々程分からない…けど。
今は、とてもよく分かった。
…そんなのいいんですよ、て。
口から出かけたところで丁抹さんの言葉を思い出して、花たまごを抱き上げて横に残すと、ソファから立ち上がった。
さり気なさも何もあったものじゃないけど、スーさんが座ってるソファの背に片手を乗せて、傍に立つ。

「…?」
「し、失礼します…!!」

顎を上げて不思議そうに見上げたその顔に、断ってから背を屈め、頬にキスしてみた。
いつもは左右に頬を合わせるだけのおかえりなさいが、突然意味深な行為になる。
眼鏡のフレームにちょっと額が当たって少しずれたのは申し訳なかったけど…。
考えたら今まで僕からキスしたことはなくて、少しでも気持ちを伝えたかった。
薄く開いて当てた口の中で舌先を、短い間だけど頬の皮膚に押し当てる。
長い間すればするほど伝わるものなのかもしれないけど、恥ずかしくてすぐに顔を離し、どうしていいか分からずろくな言葉も反応もできず、その場で俯いた。
…少しして。

「…」
「…。はい…」

スーさんが身を捻って左右の肘置きから両腕を伸ばしたのを見て、僕は呼ばれてもないのに小さく返事をして背を屈め、その中に入ってみた。







丁抹さんと諾威さんがキスするのを見て少しの悔しさがあったけど…。
経験の深さとか、一緒にいる時間の長さとか、そういうのって実はあまり関係ないのかなって思った。
まして比べるものでもない。
おろおろする逃げ腰で踏ん切りつかない僕は僕のペースでいいし、のんびりしてる僕たちは僕たちのペースでいいんだ。
そうするとたぶん誰よりもローペースになっちゃうんだろうけど…。
だからって不安になるほど僕はスーさんのこと知らない訳じゃないから、きっとスーさんもそうなんじゃないかな…って、一方的に思ってる。

その晩は特に何もしなかったけど、同じベッドで花たまごと三人で眠った。
翌日、本当にスーさんが薔薇と、それから昨日の詫びということでもう一束百合の花束をくれたから、リビングに飾ってみた。
勿論いずれは萎れちゃうけど少しでも長く持たせたくて、水を換えるのと同じく、茎の切り口を切るのが日課になっている。
ふたつとも、今日もとても綺麗だ。
花たまごが花で遊びたくて、花瓶の置いてある棚の下で上を向いてずっとお座りしていたので、花たまご用に新しい薔薇を一輪買ってきた。

「ごめんね。それは僕のだから、こっちで我慢してね」

謝りながら買ってきた薔薇の花を猫じゃらしみたいに目の前で振ると、花たまごがぴょんと小さな前足で赤い花弁を可愛く突っついた。


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