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特別変わったことはなかった。
毎日の中でちょっと比較的よく眠れて、気持ち良く目覚めた朝みたいな。
そんな夜だった。

 

「おはよう」

布団の中で身動ぎしたから僕が起きたと気付いたのか、誰かが声をかけた。
声に聞き覚えがあった。
"何でこいつが…?"
一瞬そう思ったが、そう思った自分に違和感を持って、ぼうっとして散っている意識を、頭の真ん中に集め始める。
横向きだった身体を、ごろりと仰向けに返して目を擦った。
よく眠れたせいで、瞼が重い。
もぞもぞと身動ぎして気怠く小声で呻っていると、くすくすと笑う声がした。

「まだ眠いの?」

声はちゃんと聞こえているけど、眠すぎて、身体が重くて、無反応でいた。
やがて、ぽん…と頭の上に大きな掌が乗った。
猫を撫でるみたいにゆっくり頭を撫でてから、指先で髪を梳く。
…人に撫でられるの本当は嫌いだけど、まあいいやと思った。

「…朝になったら、ちゃんと起きるんだよ?」

額にキスが来る。
…他の奴にやられたら怒るけど、この手にだけは子供扱いが心地いい。
そのまままた眠り始め、太陽が丁度空の天辺に昇る頃――。

「……」

僕は起きた。


"Miegancioji grazuole" i siaures salyje



「…ねえ。リト」

広い大部屋。
天井のシャンデリアとか壁の絵画とか、絨毯とか、ソファセットとか…。
部屋の四分の一を占める本棚なんてちょっとしたものだ。
いくらでも退屈しのぎができる。
家一戸丸々入りそうな無駄に広い部屋の端にあるベッドにいた僕は、膝下に布団をかけたまま、読んでいた本から顔を上げずに立陶宛を呼んだ。
十数分前からこの部屋に来た彼は、掃除の前にまず窓際の花瓶の花を取り替えているところだった。
枯れたカモミールの代わりに、季節外れの大きなヒマワリの花束が新しく飾られた。
…どうせハウス栽培なんだろうけど。

「あ、はい…! 何、アイス君? お腹空いた?」
「…開口一番それ?」
「え? ご、ごめん…!食事じゃなくてそろそろお茶の時間かなと思って…」

僕の切り返しに、リトが慌てて両手を胸の前で左右に振って否定する。
…そこまで強く突っ込んだわけじゃないけど、ちょっと気分を害した。
別に食事を求めようとした訳じゃない。
それに、さっき朝食は食べたし。

「お茶請けに美味しいマフィンがあるから…」
「…。まあ、確かにもう少しでお茶の時間だけど…」

サイドテーブルにある時計を見ると十時近かった。
…でも、聞きたかったのはそんなことじゃない。
振っていた両手を胸の前で組んで、リトが申し訳なさそうに距離のあるベッドにいる僕の方を見た。

「あ、話折っちゃってごめんね…。それで、何?」
「…」

…リトが話折ったから今更言い出しづらい。
少し沈黙した後、僕はため息を吐いて再び本へ視線を戻した。

「別に…」
「…?」
「何でもない」
「そう…?」

諦めて会話に一区切りつけ、次のページを捲った直後、

「あ、そうだ。今日も露西亜さん早いんだって。だから、午後は庭を散歩できるかもよ?」

思わずして得たかった情報が勝手に向こうからやってきた。
…けど、反射的に口から勝手に言葉が飛び出す。

「あっそ…。別に聞いてないし」
「そ、そう…?」
「どうせ帰ってくるんだから。時間なんて関係ないよ」
「でも…アイス君一人じゃまだ辛いでしょ?」
「…」

気を遣うようにリトが眉を寄せる。
彼が言っているのは僕の足のことだろう。
あと貧血。
…何かいまいち実感ないけど、数日前に目が覚める以前、僕は軽く百年間くらい眠っていたらしい。
確か、家の火山が噴火して…のところは覚えているんだけど、その後どうなったかは曖昧でよく覚えてない。
その時はまだ無事で、起きていた気がするんだけど。
…っていうか、正直その前のこともよく覚えてない。
細かいところは僕の上司と露西亜と、露西亜の上司が勝手にやってるからいいんだけど、僕の体力はまだ完全には戻っていなくて、ずっと眠っていたせいか、両足の筋肉がまだしっかり起きてなくて脆くなってて、一人じゃ立てない。
何かに掴まって立てたとしても、すぐに貧血になって、誰かがいないと動けない状況が続いていた。
露西亜が明るいうちに帰ってくれば車椅子で庭に出たりできるけど…。
…て言うか、一人でも出られると言えば出られるんだけど、広い庭のど真ん中で倒れでもしたらどうしようもないから、それは止めなさいって上司にもこの間言われた。
露西亜の言うことをちゃんと聞くように、…って。
数日前が初対面の僕の上司は、妙に心配性に見えた。
…言われなくてもそれくらいするし。
馬鹿にしないで欲しい。

「それで、あの…。アイス君、これ…」
「…?」

花瓶にヒマワリを差し終わったりとが、ドア近くの棚からいくつかの便箋を持ってきた。
面白味もない白い封筒とかカラフルなのとか、数枚。
受け取って、ざっと宛名を見る。
諾威、丁抹、芬蘭、瑞典、英国…。

「…」

半眼で、ため息を吐く。
どれもこれも嫌な名前だ。
何のつもりか知らないけど、馬鹿みたいに毎日手紙送ってきて…。
資源の無駄。
最初の二日は一応読んだけど、"帰ってこい"とか"しっかりしろ"とか、言ってること意味分かんないし。
人に突然しっかりしろって…何?
馬鹿なんじゃない?
それとも馬鹿にしてんの?
僕が起きて久し振りに会いたいっていうのなら、向こうから来ればいいじゃん。
何で僕がわざわざ会いに行かなきゃならないわけ?
気分悪くてもう読む気もしない。
僕がいつ、何処にいようが関係無いじゃん。本当意味分かんない。
宛名のチェックだけして、そのままリトに返した。

「いらない。捨てといて」
「…」
「…? 何?」

差し出した封筒の束の向こうで、困惑というよりは何故か伏せ目がちに、リトが僕を見ていた。
…けど、受け取った後は弱々しい微笑に転じる。

「分かりました。…それじゃ、捨てておくね」
「ていうか、もう持ってこなくていいから。みんな何か意味不明だし、鬱陶しい」
「…」
「何か眠くなってきちゃった…」

ふぁあ…と欠伸をした口元を片手で覆う。
寝ることと本を読むこと以外、最近は特にすることもない。
眠る前は、僕何をして時間を潰していたんだろう…。
…何か、横に結構うるさくて口悪いのがいて、絶えず話してた気がするけど…それが何だったのか、誰だったのか、どんな奴だったのか、思い出せない。
少なくとも、露西亜とかリトじゃないのは分かるんだけど…。
大体、誰かとずっと一緒にいるなんてこと滅多になかったはずなんだ。
…もしかして人じゃなくて、ペットか何か飼ってたのかな。
…。
まあ、いいか…。
本に栞を挟んで、身体をシーツの上に落として横を向く。

「僕寝るから。おやすみ」
「はい。お休みなさい、アイス君。…露西亜さんが戻ってきたら起こしますね」

そんな一日中寝てるわけないじゃん…。
胸中で呟いてから、僕は目を伏せた。
まだ長く眠っていたことが身体に染みついているのか、夢の世界は常に僕を待ちかまえている気がした。
待っていたとばかりに頭の中に靄がかかり、あっという間に眠ることができた。

 

 

 

不意に時計の鳴る音がした。
壁に掛かっている大きな年代物の時計が、低い音で、間延びした間隔を開けて鳴る。
両目を伏せたままゆっくり胸を上下させると、誰かが近くで笑った気がした。
…間を置いて、目を開ける。

「ようやく起きたね。ふふ。…おはよう、お寝坊さん♪」
「…」

ベッドの端に腰掛けて、露西亜が帰ってきていた。
広いベッドの中央に寝ている僕の方まで、長いマフラーの端が尻尾のように伸びている。
…これ、昔から大切にしてるお姉さんからのプレゼントらしい。
何となく気に食わなくて、片手を布団の中から出して向こうへ払った。
目を擦りながら欠伸をする。
天井のシャンデリアに灯りは着いていて、カーテンは閉まっていて…。
だから今はもう夕方を通り越して夜なのだろう。
…寝過ぎた。
布団の中で寝返り打って、枕に片手添えたまま身体を露西亜の方へ向ける。

「…おかえり」
「うん。ただいま」
「何。…今帰ってきたの?」
「ううん。一時間くらい前だよ」
「…」

…起こしてくれればいいのに。
居たたまれなくなって、シーツに片手を着いて寝ている身を起こした。
身を起こして、一度ぐるりと部屋を見回す。
リトがいないことを確認してから、露西亜へ向いた。
リトが僕の部屋にいる時間はかなり多いけど、今は用事で離れているのかもしれない。
どう切り出そうか迷っている間に、彼の方から僕へ距離を詰めてくる。

「ただーいま」
「…。おかえり」

頬に音を立ててキスされ、遅れて僕からも挨拶を返す。
…何か、たまには僕からやってあげようと思うけど、切り出しかたがよく分からなくて結局後手に回る。
接近していた距離を戻し、露西亜が小首を傾げた。

「体調はどう? 大丈夫??」
「別に…。普通」
「そっか~。それなら良かったね」
「…まあね」
「どうする? 今日は庭に散歩に行く?」
「て言うか夜だし」
「ん~…。それじゃ、身体拭いてあげようか?」
「いらない。自分で拭ける。…タオル持ってきてくれれば十分だから」
「そう? じゃ、待っててね」

無邪気に笑ってから、露西亜がベッドから離れると、奥にあるシャワールームの方へ歩いていって見えなくなった。
シャツのボタンを外しながら待っていると、数分も経たないうちに戻ってくる。
手にはお湯の張った深めのボウルとタオルを持ってきてくれた。
サイドテーブルに読みかけの本が置いてあって邪魔だったから、身体と腕を伸ばして取り上げ、スペースをつくる。

「ここ、置いとくね」
「ん…。ありがと…」

シャツを脱いで膝の上で畳む。
畳み終わったそれを邪魔にならないよう少し離れたシーツの上に両手で置いたところで、はた…とベッドサイドで立ったままでいる露西亜に気付いた。
…。
何か、気まずい…。
じっと見られてると気になるし…。
小さくため息を吐いた。

「…ねえ。向こう向いてて」
「…? なんで?」
「何でって…。気になるから」
「恥ずかしい?」

くすくす笑いながらからかうように言われ、ただでさえ熱い顔がもっと熱くなる。
…決まってんじゃん。
いくら一緒に住んでるからって、何でも許されるわけじゃないし。
そういうのってマナーでしょ。
むっとして、両手で掴んだ布団の端を高く上げて前を覆い、眉を寄せながらふんぞり返っることにする。

「そーだよ。悪い? …て言うか、当然でしょ」
「当然なんだ?」
「悪いけど、僕露出狂じゃないから。何処かの変態性癖丸出しな英国と違って」
「僕、夏は半裸になったりとか、よくするけどなあ」
「…いいから、向こう向いてて。僕がいいって言うまでこっち見ちゃ駄目だから」
「え~? 駄目なの??」
「ダメ。絶対ダメ。見ても何も面白いことないんだから、早くして」
「君の肌は白くてきれいだから、僕とっても好きなんだけどな」
「…」

さらりと続けられた言葉に、顔を背けたまま思わず硬直した。
…。
空耳…?
そう思う一方で、それまでとは比べものにならないくらい顔が…っていうか、身体全体が急激に熱くなる。
呼吸が熱くなったからか、少し開けた口から吸う空気が冷たくて気持ちいいくらいだった。
布団の中で軽く折っていた両足を胸に引き寄せ、体育座りのように縮こまり気味で萎縮する。

「……て言うか、急に何。…意味分かんないんだけど」
「あはは。君あんなに本読むのに、日常会話で使える語呂すっごく少ないんだね。いっつも同じことばっかり言ってるかも」
「…」

くすくすと笑顔で言われた言葉に、内心びっくりした。
ちょっと…言い方酷くない?
結構ぐさって来た。
目線を提げて、精一杯、ふいと横を向いて強がる。

「…悪かったね」
「…あ」

僕の反応を見て、何故か露西亜が瞬いた。
慌てて口の前に片手を添えて、失言だとばかりに数秒経ってから突然謝ってくる。

「んっとね…。ごめんね。癖になっちゃってるみたい?」
「…癖?」
「今のは無しにして。僕の言い方が悪かったかも。…あのね、そうじゃなくて、君のスリープ状態解除してから体温調節が元通りに機能するまで、僕何回か君の身体拭いたから。今更恥ずかしがらなくてもいいのに~って思って」
「…」

いつものようにのんびり話す露西亜を半眼で見詰める。
"…癖?" のくだりには答える気がないわけね…。
僕の気のせいなのかも知れないけど、どうも何か隠している気がする。
起きてすぐだから感覚が戻ってないだけなのかもしれないけど…。
癖とか、言ってる意味もよく分からないし。
けどまあ、謝ったのなら許してあげてもいい。
そして僕が眠っている間に身体を拭いてくれてたっていうのも…まあ、有難いと思うよ。
介抱の一環なら、別に嫌じゃないし。
でもそれとこれとは別。
僕は今起きてるんだから。

「…」
「ね♪」

じっと半眼で睨むように見てみるけど、露西亜はけろりとしていた。
昔からそうだけど、ほんと、何考えてるか全然分かんない。
…。
"昔…?"

「? どうしたの?」
「え…? ……あ、別に。何か、今変な…」

ざわりと背中を何かが上ってくるような嫌な感覚があった。
鳥肌みたいな。
でも、一回だけだったし、気にしなくてもいいか…。
それとも、ひょっとして風邪気味だったりするのかもしれない。
なら、尚更早く身体を拭いて服を替えなきゃ。

「大丈夫??」
「平気。…僕身体拭いてるから、替えの服持ってきて」
「後でじゃ駄目?」
「…て言うか、何で後? 風邪引いてほしいわけ?」

起きてからは妙に体調がいいから、寝る前みたいにぽこぽこ体調不良にはならない気がするけど、でもこのまま半裸でいたら絶対風邪引く。
呆れる僕に、ベッドに腰掛けていた露西亜が笑顔で両手を左右へ広げた。

「風邪はひいて欲しくないけど、洋服着る前にぎゅってしたいな~」
「だから、意味分かんない。何それ。今更そんなスキンシップいらないんだけど。それともセックスでもする気?」
「だって僕、今週お仕事すっごく頑張ってきたんだよ?」
「…」

褒めてよ、と言わんばかりに露西亜が小首を傾げる。
無駄に遠回りするのが嫌で真正面から聞くと、真正面から跳ね返ってきた。
人に服脱いだ状態で何もせずそのままいてほしいとか、いっそそっちの方が不自然で変態だ。
今週、ということは、今日はもしかして週末なのかもしれない。
ずっとこの部屋から動けない僕に曜日の感覚は薄くて、カレンダーもないから、そういえば今日が何日なのかとか全然気にしていない。
…いや。そんなことよりも、相手の発言が意外で内心狼狽えた。
冗談のつもりだったのに、まさか返されるとは思わなかった。
少しずつどきどき言い出す心臓を、きゅうっと縮めて無理矢理落ち着かせるイメージを持ちながら、シーツに片手を着いて少し身を乗り出した。
だって、そんな言葉初めて聞いた。

「…ねえ。何。…どうかしたの?」
「? 何が??」
「だって…」

だって、"彼"が"僕"とそんな関係になれるわけがない。
それなのに、したいとか言い出すから…。

「…浮気するの?」

小さい声で尋ねてみる。
どんな心境の変化があってそうなったのか知らないけど、天地がひっくり返ったくらいの衝撃だった。
浮気して大丈夫なの?
殺されないの?
相手は僕で本当にいいの…?
恐る恐る尋ねた僕の言葉に、相手は瞬いた。

「浮気? 僕浮気なんかしないよ?」
「だって…。浮気になるじゃん、それ」
「どうして? 絶対そんなのしないのに」
「でも…。…。…あれ?」
「…」

ずきりとまた頭が痛んだ。
…何だろう。
本当に風邪なのかな。最悪。
ちまちまと痛くなるけど、でもどこが痛いのかよく分からない。
片手でこめかみを押さえた僕の肩に手が置かれ、相手が僕を引き寄せた。
ぎゅう…と両手で抱き締められるスペースは狭くて、苦しい。
でも、温かかった。

「アイス君、落ち着いて。…まず目を瞑ろうか」
「…」

言われたとおり、腕の中で目を伏せる。
それだけで、まるで深い海の奥底を漂っている感じがした。
息まで苦しくなってきて、相手の背中に指先を添えてみる。

「ゆっくり呼吸して。…浅瀬の方に行ってみよう。水の中を泳いできて…」

柔らかい声で指示されるまま、イメージの中の海を上へ向かって泳ぐ。
夏に近くの温泉とか湖とかで遊んだ時みたいな。
きらきら光る水面へ向けて浮かぶ事に、呼吸が楽になっていく。
耳元で水泡の音が聞こえた気がした。
頭から音を立てて水を出て、そして――。
――。

「はい。おか~えり♪」
「…」

目を開けると、近距離に露西亜の笑顔があった。
僕を抱いたまま与えられる無邪気な顔に頭痛と靄が吹っ切れる。
…浮気?
どうして今さっき浮気なんて単語が浮かんだのか、自分で意味が分からない。
寝惚けてたのかも。
だとしたら、ちょっと恥ずかしいとこ見られたことになる。
羞恥に固まっていた僕を、彼が再度ぎゅうと抱き締めた。
思わず腕の中で縮こまる。

「寝惚けちゃった? まだ起きたばっかりで、疲れてるんだよね」
「…かもね」
「あはは」
「…。怒った?」
「ん?」
「浮気とか言ったから…」

露西亜が浮気とか…そんな甲斐性あるわけないのに。
馬鹿なことを言った。
小さく尋ねる僕から右手を離し、指先を頬に添えていかにも迷った素振りを見せる。

「え~? …うーん。そうだなあ。ちょっとだけね」
「…」
「信用ないのかな~?って思うよね」

絶対本心じゃなくて敢えて言ってみたレベルの意地悪だとは思うけど、間の抜けた笑顔でそんなこと言われてちょっと焦る。
信用してないわけじゃない。
信用してない相手に抱き締められたりしない…っていうか部屋に入れないし、まず。
ただ、寝惚けてただけで。
…けど、それをぐだぐだと告げるような多弁性は僕にはない。
代わりに、露西亜の左右に投げ出していた両腕を彼の背に添えた。
指先にほんのちょっとの力を込めてきつく抱かれてる中で、こっちからも緩く抱き締める。

「……ごめんね」

勇気を出して甘えるつもりで顎を上げて、鼻先でマフラー押し退けて首のとこにキスしてこっそり謝ってみる。
許してくれたのか、その後で向こうから唇にキスしてくれた。

 

「ン……つ……ッ」

指は気持ち悪いだけで結構平気だったけど、押し当てられた熱量を上手く受け入れられずに、快感そっちのけで痛みが走った。
その痛みのままに顔を顰めて、ぐっと奥歯を噛んだ。
足首まで下がったパンツと、膝辺りまでずり落ちてる下着姿で仰向けにベッドに横たわったまま、左右の手でその辺のシーツの皺と頭の下の枕をそれぞれ力一杯握る。
だから逆の方がいいって言ったのに…!
僕が上で跨いで体重かけて入れた方が絶対楽。
あと自分のペースでできるし。
身体折るように抱え上げてる僕の両足の間にいた露西亜が、片手を僕の膝裏から外して腕を伸ばし、前髪を指先で撫でた。

「痛い?」
「…っ」

顔を顰めたまま、首を振る。
ぱさぱさと枕の上を髪が滑る音がした。
だって途中でじゃあ止めたとか言われたら嫌だ。
人が痛くないって言ってるんだから無視してくれていいのに、露西亜は少し腰を引いた。
全然深くは入ってなかったけど、それでも侵入部がず…と内臓が擦れて引かれるそれまでと違う感覚に、ぞっと背筋にちょっと快感が走る。
快感を散らそうと横たわったまま背を反らした。

「うぁ…っ」
「ん~…。もうちょっと慣らした方がいい?」
「や…!指とかもういいから…!」

完全に抜かれそうになって、反射的に目を伏せて声を張った。
熱の塊入れられて、今更指に戻すとか有り得ない。
物足りなくて逆におかしくなりそうだ。
固く閉じていた目を少し開けて、シャンデリアからの照明塞いでいる露西亜へ顔を上げ、眉を寄せたまま見上げる。

「いいから…っ。直に慣らして…!」
「でも、苦しそうだよ?」
「苦しくない…っ」
「でも…」
「しつこい!」

軽く切れて怒鳴ってしまった。
言ってから自分で吃驚して、はっとする。
露西亜がちょっと驚いたように瞬くのが視界に入ったから、僕は慌ててシーツに後ろ肘を着いて少し頭部を浮かせた。
怒鳴るつもり無かった。
そういうんじゃなくて、折角抱き合えたのに、ただ抜いて欲しくなかっただけで…。

「ぁ…。ご、ごめん…」
「どうしたの? 慌てちゃった??」
「…」

間を置いて、露西亜が内緒話でもするような声量で、僕の頭を撫でながら聞いてきた。
素直に言うべきかどうか迷って、でも勘違いされたままとか嫌だし、恥を覚悟で目線を反らしたまま、ぎゅっと露西亜の背に指を立てた。

「…このままでいいから」
「そう?」
「…ん」

だって折角抱き合えた。
今までずっと誰かが信じられないくらい馬鹿みたいに邪魔してて(…誰だか忘れたけど)、僕の想いは絶対に一生伝わらないんだって思ってたし、こんな風に触れ合えるなんて有り得ないと思ってた。
"僕は彼を、やがては諦め切るくらい長い間、ずっと好きだった"…はずだ。

「じゃあ、ゆっくりやろうね。君は起きたばっかりだし、無理はダメだよ」
「ひゃ…」
「時間ならたくさんあるから、焦らなくていいんだよ」

僕の上に重なるように上半身密着させて、耳にキスされる。
行為そのものなんかよりも、その露骨なキスの音が恥ずかしくて、一気に顔に熱が集まり始めた。
髪を撫でられながら、右手の甲を口に添え、俯く。

「…って、言う、か」
「ん?」
「脱いでよ…。…僕だけ裸なの、嫌なんだけど」

元々シャツは脱いでいたし、パンツや下着はすっかり足から抜けてしまった。
自分が全裸なのに、露西亜はベルトと下半身緩めてるだけなんて不公平だ。
口元を覆っていた右腕をそのまま相手へ伸ばし、首の周辺に絡んでいるマフラーを引っ張る。
特にこれが嫌。
眠る前に聞いた話だからよく覚えてないけど、お姉ちゃんからもらったって言っていた気がする。
百年経ってもまだしてるなんて信じられない。
マフラーの寿命なんてせいぜい数年でしょ。
シスコンとか、軽く引く。
捨てればいいのに。

「電気消して服脱いで…。…大体、室内なんだからマフラーとかいらないでしょ」
「ええ~? …ふふ。どーしよっかなあ~」
「…っ!」

左右に投げ出していた僕の足を抱え直し、浅く入っていただけの楔が、またぐっと押しつけられる。
そのまま、深さのない緩いピストンをされ、ずっと眠っていて身体が漂白されたのか、たったそれだけで意識がちかちかした。
僕の髪から指先が離れ、硬く反り返っていた前を握られる。
親指の腹で先端を擦られ、びくびくと腰が震えた。
逃げるつもりはないけど、焦らすように腰を少し浮かせて捻る。

「ふ…ぁ……あっ、つ…」
「…可愛いね」
「や…めて…!そういうの…!」

前を後ろを弄られながら頬にキスされ、一瞬跳びそうになった。
…可愛いとか。
顔が熱すぎて熱が出そう。
本気でそう思ってくれているとしたら嬉しいけど、そんなこと有り得ない。
僕を可愛いと本気で思うのなら、単純に趣味が悪いと思う。

「…可愛くない」
「どうして?」
「…」

自虐的にぽつりと吐き捨てると、露西亜が真正面から僕を覗き込んだ。
マゼンタの強い瞳に覗かれ、たじろぐ。
黙っていたら、それまでの手付きとは違う動きで前を扱かれ、思わず熱い息を吐き出した。
肘着いて身を引こうとしたけど、腿を下から押さえられて動けない。
うっかり泣き出しそうになりながらシーツの上で身動ぎした。
どうしてとか言われても困る。
自分に可愛げがないのなんて重々承知してる。
そこ突っ込まれても、虚しさしか出てこない。
お世辞は言われるだけ辛い。
恋だとか愛だとか、期待しても仕方ないことは知ってる。

「…っ、だっ…て……」
「あ、ウソだと思ってる? ひどいなあ」
「…!」

言葉途中で、ずいっと露西亜が僕へ身を詰めた。
角度と深さが変わってびくりと肩を震わせた僕に詰め寄り、鼻が着くくらいに接近される。
相手の双眸に自分の顔が写ってて、その時になって初めて自分が泣きそうな顔しているのが分かった。

「僕は百年間君を待ったのに」
「…」
「色んな人に色んな意地悪されたり邪魔されたり、言われたりしたけど…。きっといつか起きてくれるだろうなって、頑張ったんだよ。…君が起きたら、一緒に散歩したりしたいなと思って、庭もいっぱい広げたんだから」

肩で呼吸している僕に、露西亜が場違いに微笑みかけた。
今がセックスの途中であることを忘れるくらいののんびりした無邪気な笑顔に驚いて、反応できず、感度の高まった身体から熱を持った息を吐き出すくらいしかできなかった。

「新しいお菓子もたくさん覚えたし。…後で作ってあげるね」
「っ…」

硬直する僕の脇下へ両手を入れ、子供を抱き上げるように横たわっていた僕を膝へ抱き上げて座った。
中途半端に止まっていたその場所に体重がかかり、ぐっと深く入る。
体制キツくて滑りそうになるのを、反射的に露西亜の首に両腕を回して支えた。
何処かの誰かからもらったマフラーなんて触りたくない。
うっかり掴みそうになったその布きれを手の甲で払い、その下に両腕を滑り込ませた。
後ろ腰に片腕が回ってちょっと楽になるけど、その一方で片足持ち上げられ、更に深く繋がる。
相手のどこか甘ったるい香りが鼻孔を擽り、今更になってその匂いが嫌いじゃないことに気付いた。
そのまま上下に揺らされ、大きい動作じゃないにしても出し入れされてどんどん登り詰めていく。

「あっ、はっ……ぁ…っ…!」

苦しさと熱さと、たぶん嬉しさか何か知らない感情でごちゃごちゃになって、必死に目の前にしがみついていた。
以前寝たことあったっけ? と思うくらい的確に奥を突かれて、無意識にぴんと伸びた爪先が痙りそうになる。
先端から溢れた雫が下に伝って、接部の水音が大きくなってきた。

「や…ぁ、ぁっ…、く…っるし…っ」
「…嫌?」

熱っぽく問われ、ぶんぶん首を振る。
追いつめられると自分が何を言いたいのか言っているのか、よく分からなくなってくる。
違う。嫌とか苦しいんじゃなくて。
溢れる快感と水音に耐えられなくなって、首筋に顔を押しつけ、臆面もなく泣き付いて嬌声を上げた。
誰かと触れるのは久し振りが過ぎて、単純な体温が既に気持ち良すぎてどうしていいか分からない。
ふわふわする。
だって僕のこと待ってたとか言うから。
…眠る前のことは殆ど覚えてないけど、うっかり鵜呑みにしたくなる。
本当に僕を待っていたのなら、思いっきり甘えたい気分だ。
本当に本当にそうであるのなら。
視線を奪いたい。
マフラーなんか捨てて欲しい。
次にやる時は絶対最初に脱がせてやる。
何で他人から貰った物身につけたままやろうとするかな。信じられない。
僕が好きなら、僕といる時は僕に集中して欲しい。
そうしたらもうちょっと素直になれる気がするのに。
だから全部露西亜が悪い。
早速頭を起こす傲慢な欲求をぐっと呑み込み、首の後ろに爪を立ててちょっと引っ掻いた。
苦しさに負けて深く息を吸うと、くわえ込んでいる後ろも締まったのが分かった。

「…っ。も、う…っやだ……」
「やだ?」
「ちが…。熱い…、から…。イきたい…!」

前後不覚で泣き付いていると、不意に正面からぶつかるような勢いでキスが来た。
言われるまでもなく唇を開けて迎え入れ、舌を絡める。
首に絡めていた両腕を一層強くする。

「ふ……っ、――ッ、ア!」

キスの途中で腰を掴まれて好きに落とされ、それが奥を突いて、我慢できずに達してしまった。
妙なプライドがあって相手より先にあんまり出したくないけど、一瞬遅れてだけど同じくらいに体内に熱が広がったから、まだ良かった。
…これくらいの差なら許容範囲かな。
僕だけが早いわけじゃないから、僕だけが相手を好きな訳じゃない。
これくらいの、同時が理想。
だってそうじゃないと、狡いし、悔しいし、一方的っぽくて寂しいから。

「…」

どっと疲労が来る。
気怠いこの感じが懐かしい。
久し振りのセックスは、やっぱり寝起きだからだろう、何かもうどうでもよくなるくらいに疲れた。
短い、犬みたいな息を吐きながら、前にもたれかかる。
生理的な涙ですっかり視界がぼやけて、よく見えない。
相手の首に腕を回したついでに、そのまま自分の目を軽く擦った。
鬱陶しかったのか優しさなのか、くっついていた僕の後ろ腰に手を添えて、抱き置くようにベッドへ僕を横たえた。
冷たいシーツの感触を、また背中へ感じる。
…けど、相変わらずしがみついたままでいた。
接する体温が心地良い。
僕の中にずっと残っている冷風が温められていく。
黙って大人しく息が整うのを待っていると、相手が小さく笑って僕を撫でた。
ふわふわが続いて、思わずうとうと目を伏せてしまう。

「…好き?」
「…」

広い肩に頬を寄せて目を伏せると、すぐ上から小さく柔らかく、謎の問いかけが来た。
特に疑問符を浮かべることなく、ぼんやりと濡れた唇を、目の前の白い肩に寄せながら開く。

「………好き」

殆ど無意識に近い朦朧とした意識の中でそう答えて、背中に腕回って抱き締められる頃にはすっかり気を飛ばしてしまった――。

 

 

 

「大丈夫?」

寝ている僕の隣に頬杖着いて、猫のブラッシング?くらいのしつこさで横から髪を撫でながら、露西亜が僕を見た。
一瞬寝て起きたら、一人だけいつの間にか着替えてシャツだし。
けど、着替えたせいか、首にあったマフラーは折り畳まれてベッドサイドのテーブルへ置いてある。
…仰向けで額に片手の甲を添え、カーテン閉め忘れの窓から斜めに邪魔くさく差し込んでくる朝日を遮っていた僕は、彼を一瞥して小さくため息を吐いた。

「…平気」
「そう?」
「でも疲れた」
「一回で?」
「…。いつもはもっとできる」

まるでスタミナが無いと言われているような気がして、半眼で反発しておいた。
言わせてもらえば、露西亜始め他の連中と比べると僕かなり若いから。
その辺心配されるのは余計なお世話。
僕の反論を聞いて、露西亜が擽ったそうに笑ってから顔を寄せてくる。

「でも、可愛かったよ」
「…。どうも」

そういうのいらない…。
半眼で精一杯いつも通り答えたつもりだけど、明らかに声が震えた。
絶対相手にも分かった。
容易く動揺する自分に腹が立つ。

「今日は天気がいいみたいだし、散歩しようか。僕午前中お休みもらったんだよ」
「へえ…」
「広くなったから、全部回るのちょっと大変なんだ。でも、ひとつひとつ案内してあげるね」
「…付き合ってあげてもいいけど」

そっと答えてそのまま、たぶん相手が望んだ通りにキスしてちょっと唇を吸ってあげると、数倍の回数でキスが返ってくる。
最中もそうだったけど、次々と顔とか首とか、肌を濡らされてキス魔は面倒くさい。
…まあ、それなりに可愛いかなとかは思うけど。

――コンコン。

ノックの音がして、ベッドヘッドにある飾り時計を見たらもういつもの時間だった。
…いつもノックもらっても応答しない僕が悪いのかもしれないけど、礼儀的なノックの後で、立陶宛がドアを開けた。

「アイス君―。おは……」
「…」
「……」

そこでベッドに横たわっていた僕らを見て、瞬間的に双眸見開いて数秒固まった。
僕は布団の中で頬杖着いていたので、まだ良かった。
裸を見られるのは流石にリト相手にも嫌だから。
彼のように身の回りを任せているバトラーやメイドに恋事とか裸見られるの嫌とか、遠慮するなんてナンセンスだけど、必要最低限、僕は裸とか無関係な奴には見られたくない。
ドアの所で硬直した立陶宛を見返していると、僕の真横で露西亜が同じく寝転がりながら気安く片手をあげる。

「あ、立陶宛おはよう~。いいお天気で嬉しいね。…でもダメだよ? ノックしたら、返事を待たなくちゃね♪」
「……………」

その後でぼきぼきとこれ見よがしに手を鳴らす大人げない露西亜の言動にさえ反応せず、無言のうちに彼はぱっと掌を開いてドアノブから離した。
結果、支えを失い、キィ…という音を残して、何事も無かったかのようにドアが閉まっていく。
パタン…と完全に閉まりきってから数秒待ってみたが、入ってくるつもりは無さそうだ。
小さく息を吐いて、露西亜を軽く押し退けて身を起こすと、ベッドから床へ足を下ろした。
脱がされた下着とシャツ、パンツを肌に通して適当にボタンを留め、ドアの方へ向かおうとした僕の手首を、露西亜が軽く掴んだ。

「え~? 放っておきなよ~」
「だって、フォローしないと壊れそうだし。…リト、キャパ無さそうだから」

絶対無いよ、あいつ。
するりと露西亜の手を抜けて、素足のままぺたぺたドアの方へ歩いていく。

「大丈夫?」
「…うん」

ずっと眠っていたせいで、足の感覚はまだ完全じゃない。
ふわふわするし、ちくちくする。
痺れるような感覚が抜けなかった。
…けど、歩かないと。感覚も戻らないと思う。
それに倒れても、そこの馬鹿が起こしてくれるだろうし。
ゆっくり歩く僕を眺めながら、露西亜がベッドの上に顎を添えて寝転がった。
くたりと潰れる大型猫のような素振りをして、間延びした声を上げる。
尾があったら、たぶん大きく一振りしている感じだろう。

「…立陶宛なんか放っておいて、もうちょっと僕といて欲しいのになあ」
「…。後でね」

項垂れて灯される直情的な言葉に内心たじろいだけど、何とかかわし、一時的に身につけた服を着崩したまま、ドアの方へ向かった。

 

 

今さっき閉まったドアのノブを掴み、ぐっと開ける。
広くてずっと奥まで続いている朝の白い廊下。
その中で、ドアと微妙に距離を取った位置の所に、リトがこっちに背を向けて立っていた。
肩が小さく震えて、思いっきり俯いているらしい。
どうやら両手の指を祈るように胸の前で組んでいるようだ。
…大袈裟。
自分の知ってる人の事後目撃して衝撃なのは分かるけど、そこまで驚くこともないでしょ。
半分呆れながら、僕も一歩廊下に出て名前を呼んでみる。

「…リト」
「は、はひ…!!」

軽く名前を呼んだだけなのに、まるで雷でも直撃したみたいな勢いで、リトの背筋がびっと伸びた。
背を向けた直立不動のまま、怒濤の如く言葉が続く。

「す、すみませんすみませんすみません!!お邪魔するつもりも覗く気もなかったんです…!!ただ、ただ僕はいつもどおりいつもの時間に君を起こさないとと思ってでも確かにノックして待たなかったのは僕の落ち度ではありますけどどうかお願いしますから露西亜さんに首ちょんぱだけは止めるようお口添えお願いしま」
「落ち着いてよ」

リトの言葉を遮って、僕は今出てきたドアに背を預け、腕を組んでため息を吐いた。

「別にそこまで怒ってないよ。タイミング悪かったってだけでしょ」
「いや!でもあの…。本当にすみません…!!」
「…」

後ろから覗ける項とか耳まで真っ赤になって謝る姿がちょっと面白い。
まさか免疫無いなんてことないと思うけど…。
取り敢えず、この話はお仕舞いという意味を込めて、聞こえるように今一度ため息を吐いた。

「朝食持ってきてくれるんでしょ? …食べるから」
「ぁ…。た、食べるんだ、やっぱり…。……露西亜さんも此方で?」
「知らない。…でも午前中休みとか言ってたから、食べるんじゃない?」
「あ、アイス君…!待って、これ」
「…?」

室内へ戻ろうとノブに手を掛けた僕へ、リトが声を張った。
振り返っても、やっぱりこっちに背中を向けている。
どうやら今は僕と顔を合わせる予定は彼の中にないらしい。
けど、渡したいものはあるようだ。
後ろ手に、僕の方へ、細紐で束ねられた柄の違う手紙を数枚差し出した。
今朝の郵便物だ。
…いらないって、昨日言ったじゃん。
爪先をリトの方へ向けて歩を進める。

「捨ててって言わなかった?」
「え? …あ、そ、そうか。ごめん、忘れてた…」
「…」

何気なく紐で括られたその一枚上のものだけ手に取ってみる。
ベージュ色の封筒に、封として蝋で留められていた。
見覚えのある斧を持った黄金獅子と赤い盾。そして王冠。
差出人書いてなくても国章で一発で分かる。
諾威だ。
…ほんとしつこい。
思わず鼻で嗤って両手をかけた。
びり、と中央から縦に割く。

「…!」

その音で、あれだけ頑なに背中を向けていた立陶宛が弾かれたように僕を振り返った。
さっきまで彼を包んで撓らせていたいた感情は何処かへ逃げたらしい。
その代わりに、今は随分驚いた顔をして驚愕に目を開いていた。

「ぁ…」
「捨てといて」

眉を寄せてどこか項垂れる彼の顔を疑問視しなかった訳じゃないけど、昨日と同じことを告げて千切った手紙を足下へ落とし、僕は部屋に戻った。

 

 

「立陶宛、反省してた?」

部屋へ戻ると、ベッドに腰掛ける露西亜はすっかりいつもの服装だった。
僕も適当に留めただけのボタンを直しながらその傍へ歩いていく。

「マナーがなってないよねえ。後でちょっとお仕置きかな?」
「一回目は見逃してあげれば? あいつバトラーみたいなものだし」
「う~ん…。そーお?」

ちょっと納得していないようだったけど、その後で、「じゃあ、そうしようかな」と一人でこくこく頷いていた。
のんびり微笑する様子を暫く眺めていて、不意にそうしたくなり、僕もちょっと距離を開けて彼の隣へとんっと腰を下ろす。

「…」
「…ね。もしかして、挨拶のキスしようかどうか迷ってる?」

膝の上で何気なく爪を弾いて沈黙していると、横からずばりと指摘され、内心ぎくりとした。
…けど表に出さないようにしながら、ふいと顔を背ける。

「別に。迷ってない」
「なんだー。キスしてくれるの迷ってるかなって思っちゃった。なんか、いつもどうしようかな?って思ってるみたいだったから」
「…」
「じゃ、僕からしていい? 朝の挨拶、まだだもんね?」
「…さっき鬱陶しいくらいしたような気がするんだけど」
「あれはまた別だよ」
「ちょ…っと!」

横から伸ばされた腕に掴まり、引き寄せられる。
強引なやり方にげんなりして、思わず息を吐いた。
僕の反応を本気で気にしていないのかそれともスルーしたのか、露西亜が無邪気に首を傾げた。

「君からする?」
「…。しない」

そんな恥ずかしいことしない。今はまだ。
お休みのキスならまだいいけど。
答えた僕に笑いかけ、指を添えられた顎を持ち上げられる。
目を伏せると、冷たい唇が重なった。

 

 

 

 

確か、『眠り姫』という童話があった気がする。
好きな人に起こされて世界がまだ始まるなんて、そんな理想的なストーリーは所詮紙の中だけだと思っていたけど…。

事実は小説よりも奇なり、とか。
昔の人はよく言ったものだなと思った。


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